『日本周遊紀行』

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山口県

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『東日本大震災』に遭われた被災者の皆さんに、心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。 微少微力ながら援助は惜しみませんので、一日も早い安らぎと回復をお祈りいたします。
周辺の温泉地において、被災者に温かい温泉を提供してやって下さい。 所謂弱者・・?、高齢者所帯、乳幼児のいる所帯には短期間でもいいから極力空部屋(特に公共宿泊施設)を貸してやって下さい。 政府、官公庁、地方の公の機関はこれらを調整、斡旋、資金等のバックアップしてやって下さい。  
東北の温泉愛好者、東北出身(いわき)の小生





 日本周遊紀行(101)防府 「周防国衙」   、




周防国分寺「山門」、奥が本堂



防府は、古代・「周防国衙跡」を中心とした町の区割りが、今も残る・・、

国道2号線のすぐ横を山陽道が走っていて、そこの徳山東I・Cから高速道へ乗っかる。 
走り始まって間もなく昨夜の寝不足の影響が早速現れた。
防府の北側を通っいる佐波川が見渡せるところ、佐波川S・Aにて朝の軽食を摂りながらチョッと仮眠をする。

一級河川の佐波川に沿って高速道、主要国道が走っていて、その南側に防府の市街が広がっている。 
佐波川(さばがわ)は、昔、河口で大漁に「」が獲れたことから佐波川という名前になったという。
名残として佐波川の北、山口市との境峠に「鯖山峠」があり、やや上流地域の徳地町に「鯖河内」などという地名もある。
一級河川佐波川は、下流に県内最大の扇状地・防府平野を形成し、防府の町の基礎・土台を形造っている。


奈良時代になると律令国家としての機能が整備され、国境が決まり、一国一郡一里(郷)の行政区分が出来上がる。
それにともなって、各国を治める行政機関として置かれたのが国府であり、この防府にも周防地方の中心として「周防国衙」が置かれてる。
同時に都と地方を結ぶ道が整備され、山陽道が造られ、行政の中心となる国府(国衙・こくが、ともいう)が完成する。
合わせて官寺・周防国分寺が建立されている。


佐波川とJR防府駅との間には、各所で国衙の史跡(史跡公園)、周防・国分寺といった永い歴史の足跡が残る。 
国分寺とは、奈良期、聖武天皇が国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺(こくぶんにじ、)とともに建立を命じた寺院である。
各国には国分寺と国分尼寺が一つずつ国府のそばに置かれたとされ。
多くの場合、国庁とともにその国の最大の建築物であった。
その頂点にあったのが大和国の東大寺法華寺で総国分寺、総国分尼寺とされ、全国の国分寺、国分尼寺の総本山と位置づけられた。

現在、多くの官寺としての国分寺は史跡として残っていても、往時の建造物として現存するのは少ないが、「周防国分寺」は創建当初の様子で境内には今も往時の伽藍を残すきわめて珍しい例として知られている。 
山門(仁王門)をはじめ、二重構造の大屋根・本堂大伽藍は、総本山・奈良東大寺に類似すると言われる。


現存する国分寺としては、創建当時の伽藍にかなり同一又は、類似した位置や建物に近いものとされている。
仁王門は400年以上も経過したもので、1596(文禄5)年に毛利輝元が再建したものとされ、両脇には、室町時代の仁王像が安置されており、ともに県の文化財に指定されている。 
本堂である金堂は、二層入母屋造りになっており、1779(安永8)年に毛利重就(しげたか:周防八代藩主、後の長州八代藩主)によって再建されたもので、これも国の重要文化財に指定されている。

平成の大修理を終えた金堂には、重要文化財となる本尊薬師如来をはじめ、50余体の仏像が安置されていて、さながら「曼陀羅」の世界観を形作っているともいう。
又、国分寺と周防総社(佐波神社)の南、東西を貫く古山陽道に接して建物こそ現存しないが国衙跡が残り、この地が古代の都の中心であったことが観えてくる。
証拠に、防府の町並みが国府跡を中心に、碁盤の目のような条里制の区画であることも伺える。 
他の国府跡が多くは不明となっている中で、ほぼ往時の姿で残っている理由としては、周防国は奈良・東大寺の知行国となったために、東大寺から役人(目代僧)が派遣され政治を執り、近世になっても東大寺領として治外法権的地位を維持できたからともいう。 

今、平成9年から平成16年までの8年間に及んだ金堂の「平成大修理」を終え、周防国分寺の歴史が再び歩み始めたという。
この近辺には、毛利庭園や防府天満宮といった歴史的名所が点在する。

次は「山口」です




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東北の温泉愛好者、東北出身(いわき)の小生





日本周遊紀行(100)岩国 「錦帯橋」   、  




イメージ 1
新装成った名橋・「錦帯橋」



有名な「錦帯橋」は近年の平成年間、橋体部分の架け替え工事で新調された・・、

窓の下、ガラス戸越に、ひっきりなしに車の騒音、特に大型トラックの騒音は地響きを発して部屋を揺らしながら通り過ぎる、まんじりとも出来ない。 
ここは宮島口、桟橋から、ほんの僅か、「宮島Y・H」(ユースホステル)の宿舎である、天下の国道2号線が真下を通っていた。

昨夜は「養老の滝」で一杯やりながら食事をしたが、些か飲み過ぎたせいと旅の疲れも手伝ってか、宿に戻ってからは直に就寝してしまった。 
騒音で気がついたのは午前2時を回っていた頃で、それ以来騒音に悩まされた。おまけに、蚊のブーンという羽音が時折顔をかすめて、マンジリとも出来ずに眼が覚めてしまったようだ。 午前5時であった、車の騒音は益々激しくなり、遂に、我慢がならず起き上がって、目覚まし代わりに近くへ散歩に出かけた。

昨日、世話になった宮島口の桟橋へ出かけてみた。
宮島への一番船は6時頃であるから未だ閑散としている。 
昨日は慌しくて気が付かなかったが、すぐ隣に広島電鉄宮島線の「宮島駅」が在った。
その奥、海岸沿いには大きめの駐車場も在り、岸壁では早釣り人が糸を垂れている。

少しスッキリしたところで宿へ戻り、身支度をし裏口よりソッと出達した、むろん宿賃は昨日の内、清算済みである。 
やはり国道2号線は、阪神地方、広島方面へのトラックが多く目立つ。
これから向かう逆方向の下関方面はさほどでもなく助かる。大竹市内の街道へ来たとき「吉野屋」が目に付いたので、早速、朝食にあり付いた。小生お馴染みで好物の「朝定」である。
ご飯に味噌汁、納豆、卵、海苔、漬物に薬味と合わせて370円は有り難く、大満足で吉野家様々であった。


大竹の市街を抜け小瀬川を渡ると、ここは既に本州最西端の長州・山口県である。
本州の果てだというのに江戸幕府を転覆させ、近代明治以降、初代の伊藤博文以来7人の総理大臣を輩出している。
更に遡れば、中世(戦国期)には毛利元就を輩出し、そして、この山口県を形造ったといってもよいだろう。

この毛利家の大元は、小生の住む相模の国「厚木・毛利の庄」から転封・移住していった事は余り知られていない。 
又、小生の故郷、出身県の福島(会津)とは大変な因縁で、いまだに確執が続いているという。
このことは後に記すとして、いずれにしても「山口」とは只ならぬ県であることは事実のようである。


先ず、その歴史と名勝の「岩国」へ向かう。 

岩国の埠頭を左に見ながら国道2号線は市の郊外を行くと間もなく自然豊かな錦川の袂へ出る、川岸を少し戻るとあの「錦帯橋」であった。 
川向こうには、新緑に包まれた急峻な「横山」が居座って、山頂に岩国城(要害山・横山城)の華麗な姿が白く光る。
この要害山・横山をグルッと巻くように錦川の清流が勢いよくキラメキ流れてる。 
この要害山城内の大手門筋と錦川を挟んでの城下町とを結んで掛かる橋が、日本三名橋・三奇橋と言われる「錦帯橋」である。

山頂に遠く鮮明に光る要害山・岩国城は、1601年(慶長6年・江戸開府時)より7年がかりで吉川広家(きっかわひろいえ)が築いたお城である。 
岩国藩主・広家は、毛利元就・「三本の矢」で知られる長男隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景の内の元春の三男で、元就の孫に当る。 
広家は、勇将で知られた父や兄と違って知将であり、秀吉もその手腕を高く評価していた。
秀吉亡き後の関ケ原の戦いの時、広家は豊臣方に勝ち目がないと見て、密かに手をまわし取引をした。
戦わない(西軍には付かない)ことを条件に毛利氏の中国八ヵ国の領土安泰を保証するという約束を家康にしたのである。

結果は、広家は戦わず西軍が勝利を収めたが、毛利氏の当主であった毛利輝元が西軍の総大将に担ぎ出されていたため家康の怒りをかい、本領安堵を反故(ほご)にし改易を命じた。 
広家はこれを不服とし抗議、直訴し、どうにかこれが認められて領国・岩国三万石の所領が安堵された。 

しかし、毛利家中では裏切り者扱いをされ、その扱いは幕末まで解消されることはなく、岩国藩も藩ではなく、あくまでも吉川家は長州藩主・毛利家の陪臣として扱われた。 
この直訴によって三万石の所領を持ちながら、広家は諸侯として扱われず、これに対して不平不満を一切言わず、父・元春や毛利家のために忠節を尽くす。 

二代広正、三代広嘉のときから本藩復帰を切望し、強く本家の萩藩に「昇格」を願い出たが聞き届けられず、それが実現したのは幕府が倒れた後の明治元年(1868年)であったという。
錦帯橋」は、こんなお家の事情の最中に二代目広正、三代目広嘉によって建造が始まるのである。 


江戸期、長州(周防・長門、毛利氏の藩領)にかけられた主な橋は本藩・萩の橋本大橋、松本橋、そして岩国の錦帯橋だという。 
この三つをくらべると、橋本橋、松本橋の長さがいずれも80メートル前後であるのに対し、錦帯橋は当時200メートルという桁はずれに長い橋であった。

岩国川(錦川)に最初に橋をかけたのは吉川家二代の広正である。
数次、数回にもおよぶ架橋であったが、その都度大水によって流されてしまい、三代の広嘉によって何とかして流れない橋をと自から工夫して遂に成功させたという。
これには甲州(山梨県)大月にある「猿橋」(日本三奇橋)と中国の西湖にかかる橋(その名も錦帯橋)を参考にしたと言われ、石組みをした橋脚にゆるやかな五連のアーチを描く名橋・錦帯橋が誕生した。 
全長 200m、幅 5m、橋台の高さは 6.6m 、一本の釘も使われず、巻金とカスガイで組み上げられている。 

二半世紀にわたる吉川家の大名昇格運動の情熱が、そのままこの橋の建造架橋にも注がれ、天下に誇る名橋と同時に、吉川家の名声を世に示したものと言える。美しい五つの弧を描く錦帯橋は「大名への夢の橋」、「 虹の架け橋」だったのかもしれない。



現、平成期、五連の中央アーチ部分が、50年に一度の「平成の架け替え」の大工事がおこなわれた。
平成13年11月に着手、総事業費は、架け替え工事が見学できる迂回路の仮設道路の設置費を含め、約26億円の費用が嵩んだという。
渇水期の冬季11月〜3月に現地での作業が行われ、中央部、横山側部、岩国側部を経て平成16年3月に新しい「錦帯橋」が誕生している。 
真新しい木肌が光る錦帯橋は、周りの景色に溶け込んで調和と優雅な姿を余すことなく表している。
因みに、材料、使用箇所、産地は次のようである。
マツは橋桁、梁で新潟、山形、福島産。 
ヒノキは敷板、段板、高欄で長野(木曽)産。 ケヤキは橋桁、敷梁で岐阜、島根、山口産。 ヒバは橋杭、貫で青森(下北)産。 クリは桁、梁の雨覆いで新潟、山口産。
カシは太柄で山口産。


橋の端に「名勝 錦帯橋 内務省」と石碑が在った。
橋の袂に近づいて見るとさすがに、デカイ・・!、大波の様なアップダウンがあるから、向こう側から来る人は橋板の上にまず頭から見えてきて、「谷」に入ると下半身から見えなくなって、やがて全身が消えてしまうほどである。 
静かに歩を進め、弧の天辺に立つと、これまた絶景で、川面を眺めると静かな水面でカモが羽をつくろっていた。


色々と説はあるが・・、
『日本三名橋』:お江戸・「日本橋」、岩国・「錦帯橋」、長崎・「めがね橋」
『日本三奇矯』:岩国・「錦帯橋」、甲斐大月・「猿橋」、四国・祖谷地方の「かずら橋」とも言われる。


名橋・「錦帯橋」を堪能して次の行程へと進行しよう。
国道188の海岸線を行く、しかし、この通路は間違いであった。
丁度、今時分は通勤、通学の時間帯であり、周辺に側要路が無いことから上下線とも大渋滞であった。
ノロノロ進みながら、岩国市の南端に当る山陽本線「通津駅」辺りから内陸へ向かった、県道149号線から大原のR437を横切って更に県68号を行く。 
今までの渋滞が嘘のように、立派な舗装道路を快適に飛ばす。 緑濃い田舎の道で、「目に青葉・・・」を満喫しながら、やがて山陽道を真近に見ながら徳山の郊外に達したようである。

尤も徳山といっても、今は地域名で、行政名は「周南市」と称しているようである。一昨年、2003年(平成15年)徳山市、新南陽市、熊毛町及び鹿野町が合併して誕生している。

戦国期の元就の時代、中国地方全域に覇権をほこった毛利氏も、関が原以降の江戸期になると周防・長門の2つの国に封じられている。 今のの山口県である。 
この県の東南部地域を指すとき「周防の国の南」、一般に周南地域、「周南」と呼ばれていたようである。 昨今の合併で、平仮名文字や意味不明の地域名が新しく誕生している中、新市名で「周南市」としたのは、さすがに歴史を重んじる地柄であると納得であった。


戦前は、旧徳山市沿岸地区には海軍燃料廠があり、その縁で石油精製関係の産業の呼び水になった。 
戦後、周南地域では徳山曹達、出光興産をはじめとする、石油化学コンビナートが発達し、関西地区でも有数の一大工業地帯となった。

又、ふぐの水揚げ量は、全国の80%が下関であるが、ふぐの延縄(はえなわ)漁法発祥地は旧徳山市の粭島(すくもじま)であると言うわれる。
島という地名ながら、大華山(362m)のある半島(大島半島・・?)であった。
大島の先端につながったその最南端部は、笠戸島を含む大小の島々の域で、この周南海域は隠れた「ふぐ」の本場としても知られる。 河豚は、ここでも「福」につながるようにと濁音を使わず、「ふく」と発音しているのは周知である。

次回は、昔の首都・「防府



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「来て見れば 聞くより低し 富士の山 
釈迦や孔子も かくやあるらん」 清風

萩城・毛利藩は1604年(慶長9年)萩城建造に着手して以来、幕末の1863年(文久3年)、時の藩主・毛利敬親が幕府に無許可で藩庁を山口政事堂(山口市)に移すまで、萩城は260年間の藩庁としての役目を果たした。
その幕末、700万石とされた徳川宗家(幕府)の石高は別格としても、長州藩の経済規模である石高・37万石は、300諸侯と呼ばれた諸藩の中では10傑のどんじりあたりである。 これは、将軍を出す資格のある御三家の水戸藩(35万石)や外様の広島藩(42.6万石)、佐賀藩(35.7万石)などと同規模となる。 因みに、薩摩藩(77.1万石)は長州藩の二倍、佐幕派の雄・会津藩は28万石、大老・井伊直弼が藩主を勤めた彦根藩は35万石だった。
尤も、これらの数字は「表高」であり、18世紀後半、長州藩の実際の収入である「内高」は既に90万石に達していたとも言う。 しかし、藩内情は、借金まみれの大赤字財政であったといい、藩の表高の数倍に当たる150万両の借金まみれの大藩であった。 この借金財政の建て直しを行ったのが「村田清風」、この人であった。
清風は幼少時から優秀で、藩校・明倫館に入学し、ここで優秀な成績を修め、学費免除のうえ、明倫館書物方となった。 以後、藩主・斉房から五代の毛利敬親の代まで要職を歴任し、さらに、江戸に上って兵法や海防策を学び知識を広げた。
彼は、江戸に上るときの秀句を詠んでいる、

『 来て見れば 聞くより低し 富士の山 
釈迦や孔子も かくやあるらん 』

その後、彼が55歳の時、表番頭と江戸仕組掛を兼任して藩政の実権を掌握する。そして、藩主・毛利敬親の下で長州版・天保の改革に取り組んだ。
この敬親は政治的にはやや暗愚で消極的であったらしく、事に及んで何事も「そうせい」といい、「そうせい侯」とまで呼ばれたが、それが逆に幸いして清風は何一つ遠慮すること無く、藩政改革に手腕を振るうことになるのである。 財政の再建、軍制改革と、贅沢に慣れた士風の建て直しに着手する。 「倹約」、「勤勉」そして「能力主義」などを全面に押し出し抜本的改革を、やや強引に思えるほど断行する。 こうなると当然、藩士から反感をかうことになり、暗殺を企てる者も一人や二人ではなかったという。

しかし清風は、改革の途中で中風に倒れ、家老職は後継に譲って隠退した。 その後、病から回復した彼は子弟教育に力を注ぐ。
彼という先人によって、「吉田松陰」のような藩士としては身分は高くはないが、有能で志のある後進・後輩が台頭する道が大きく開けることも繋がった。 後に一時、長州藩を絶望のふちに追いやるが、倒幕、維新を成し遂げる原動力ともなるのである。 
この時期、松蔭と清風は47年の歳の開きがある。 藩の軍政をになう俊才であった松蔭は、少年の頃から清風とは面識があったようだが、この祖父と孫ほどの二人が手を携えて行ったのが、藩校・明倫館の改革、拡張でもあった。
明倫館(めいりんかん)は、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つと称される。 1718年(享保3年)、萩藩6代藩主(毛利吉元)が萩城・三の丸追廻し筋に創建、後に、14代藩主毛利敬親が藩政改革に伴い萩城下に移している。
萩明倫館は、現在、萩市立明倫小学校の敷地内となっており、有備館、水練池、聖賢堂などの遺構が残っている。1919年、国指定史跡を受けている


城址からの海沿いの道を行くと菊ヶ浜という松緑、白い砂浜が現れ、遠くに城址のこんもりした指月山の姿と相まって実に秀美である。 気が付けば「萩」の町には至る所に松ノ木が有り、これが古跡の町の風情に良く似合っているのである。
町外れの国道沿いに、萩・反射炉の遺構がある。 1858年(安政5)に萩藩が鋼鉄製の大砲製作のために建設した西洋式金属溶解炉(史跡)である。 薩摩藩や水戸藩などがあいついで建設したが、現存するのは、ここと静岡県伊豆韮山の2基のみという。
2005年3月6日、旧萩市が阿武郡川上村、田万川町、むつみ村、須佐町、旭村、福栄村と対等合併し、新市制による「萩市」となっている。

次回は、益田 



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『 一年の計は元旦にあり、 一月の計は朔(ついたち)にあり、 一日の計は鶏鳴にあり』・・、

萩の歴史の本山・「萩城址」へ向かう・・、町の西の端から今度は、東の端の位置にある。
10分も経たず着いてしまったが、城下町や松蔭ゆかり地と違って、静寂たる所で全く人の気配は無かった。 微風に揺らぐ壕池の小波と、通用路入り口に立つ「萩城址」と彫られた石柱が一本、物悲しく存在している。 しかし、壕池に浮かぶ、そう高くはないが横幅一杯に広がっている城石垣は豪快で、往時の姿が想像できる。 壕池は日本海の海に通じていて、元々は指月島といって砂洲で繋がっていた島であり、日本海の波が直接洗う城だった。 指月島の東側の場所は、石垣の下まで波が来ているという。
右方に、こんもりした丸山・指月山(標高143m)が、天然林緑に覆われている。 嘗て城は、詰の丸(本丸の中に別の区画として構築したもの)を指月山に築き、山麓に本の丸・二の丸を設け、五層の大天守があったという。 明治維新の主役・長州藩が山陰の萩から山口へ政庁を移すまで、毛利氏14代の居城であった。

「関が原の合戦」において長州藩は、東軍に内通していた一族の「吉川広家」の取り成しで粛清や改易こそ免れたが、周防・長門の2国36万石に減封された。 又、この萩城築城に当たっても、三方を山に囲まれ一方は日本海に面していて当時、交通の便が比較的悪い萩に築城する事を徳川幕府に命じられている。 これらの経緯から、徳川氏への恨みは深く、毎年正月には幕府への恨みを確認する儀式を行うのが慣わしであった・。

毛利氏に関しては、処々方々で記載してきたが、最後に長州・毛利氏について、おさらいをして見よう・・、  
毛利氏は、鎌倉幕府の名臣・大江広元(おおえひろもと:学問の大家・京で朝廷に仕えた冷静で明哲な実務官僚)の四男・大江季光(おおえすえみつ)を祖とする一族である。 名字の「毛利」の起こりは、四男・季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の小生の居住地・神奈川県厚木市周辺)に由来する。 「毛利」の元来の読みは「もり」だが、後に「もうり」と読まれるようになった。
毛利家は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、安芸国高田郡吉田(現在の安芸高田市)へ移った後に国人領主として成長し、戦国時代には国人領主から戦国大名への脱皮を遂げ、中国地方最大の勢力となった。  しかし1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将に祭り上げられ、西軍敗戦の結果で周防国・長門国の二ヶ国に減封されるも、江戸時代を通じて安泰であった。 そして、江戸時代末期には数々の優秀な志士を輩出し、明治維新を成就させる原動力となる。  

戦国時代、安芸国の国人として土着した毛利氏は一族庶家を輩出し、中でも毛利元就が当主となると、元就はその知略を尽くし一族の反乱や横暴な家臣を粛清、安芸国の吉川氏と備後国の小早川氏を乗っ取り、次第に勢力を拡大してゆく。 尼子氏に対しては策略を以って誅殺させ、そして大内義隆に謀反した陶晴賢を1555年の「厳島の戦い」で破り、大内氏の旧領をほぼ手中にする。
その後は北九州に侵入し、筑前国や豊前国の秋月氏や高橋氏を味方に付け、豊後・大友氏とも争った。 1566年、仇敵の尼子氏を滅ぼして、中国地方(安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見)を領有した。 毛利元就の子である長男の毛利隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景らは皆優秀であり、有名な「三本の矢」に喩えられる。
又、元就が毎年元旦に、家臣に伝えた言葉として・・、

『 一年の計は元旦にあり、 一月の計は朔(ついたち)にあり、 一日の計は鶏鳴にあり 』
と訓示している。

戦国期、毛利元就の孫の毛利輝元は、豊臣秀吉に属し、安芸、周防、長門、備中半国、備後、伯耆半国、出雲、隠岐、石見を領し、吉田・郡山城から地の利の良い瀬戸内海に面した広島城を築城し本拠を移している。 輝元は、後に秀吉政権下、五大老に就任し、秀吉亡き後、関ヶ原の戦いでは西軍の名目上の総大将に担ぎ上げられる。 西軍は結局敗れるが、吉川広家の内通により毛利家の所領は安泰のはずであったが、徳川家康は約束を反故にし、輝元は責任を問われて周防国・長門国(長州藩)の二カ国に減封させられた。 領土が120万石から37万石に減封され、新規に藩庁を「萩」に置き、萩城を築城して移住したのである。
偉大なる叔父と祖父に囲まれ、やや甘やかされて育てられた輝元は、器量と覇気に欠けたお坊ちゃまであったとも言われている。 決断力に欠け、ここぞという時に判断が下せない場合が多く、結果として毛利氏は「中国地方の太守の座」を転がり落ちることとなる。

後年の江戸期毛利藩は、新年の会において家臣より・・、
『 本年は、倒幕の機は如何に・・?  』    
と藩主に伺いを立て、それに対し・・、
『 時期尚早・・ 』
と藩主が答えるのが毎年の習わしだったという。

江戸末期の毛利敬親(もうりたかちか)の時、長州征伐等により幕府から圧迫を受けたが、吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)等の有能な人材を輩出し、明治維新を成就させている。

次回、長州・藩政改革


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吉田松陰の基本思想と松下村塾の関わり・・、

吉田松陰は、幕末に生きた非常に情熱的な人で、30年という短い生涯ながらも、自身の情熱で多くの人たちの心を揺り動かし影響を与えた。その松蔭の教えの中に、基本思想、「尊皇・・」の至誠が非常に強かったのは言うでもない。
江戸期幕末、明治維新の先駆けになったのがの尊皇の志士達であり、彼等の筆頭にいたのが吉田松陰であった。 松蔭の実家である杉家は、仏教を捨てて「神道」を信仰していた。 合わせて長州藩・毛利家の始祖は、(相模の国の厚木の庄の出身で、おおもとは都の大江広元である)古代期より濃い天皇家の血が混じっているとされ(平城天皇以来・・?、)、歴代藩主は勤皇に励んできていた。

松蔭は武士である・・、
従って、藩主や幕府に対する忠誠心は当然であったし、だが、それ以上に皇室への忠誠心があった。 松蔭や杉家は歴代毛利家に倣ったのは当然であり、「尊皇」は松蔭にとって、既に皮膚に染み付いているのである。 自書の中に、「天下は天朝(朝廷)の天下にして即ち、天下の天下なり、幕府の私有にあらず・・」、として「神々が大八洲(日本列島)や山川草木、人民と天下の主なる皇祖・天照大神(アマテラスオオミカミ)をお生みになった。それ以来天皇が国土、自然、人民を保護してきたのである」としている。 天皇と国民の絆(きずな)の「真の性質」は、1に「神話的血縁関係」、2に「道徳的紐帯(ちゅうたい)」それに「法的義務」としている。 維新の推進役となった彼等尊皇の志士達には、松蔭の影響も有り、このような基本思想が有ったのである。 やがてその中から明治維新で、尊王の志士達が活躍する人物が多く輩出するのである。

因みに、松蔭をめぐる主な人たちは・・、
【松下村塾の弟子】 高杉晋作、久坂玄瑞(くさか げんずい、妻は吉田松陰の妹、尊皇攘夷派の中心人物)、吉田稔麿(よしだ としまろ、長州藩の活動家、久坂玄瑞、高杉晋作、そしてこの吉田稔麿を称して松陰門下の三秀という)入江杉蔵、金子重之助等など(以上、維新前活躍)・・、伊藤博文、品川弥二郎、野村和作、前原一誠等など(以上、維新後活躍)。

【明倫館の弟子】 桂小五郎(木戸 孝允:きど たかよし、長州閥の巨頭、尊王攘夷派の中心人物で、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑といわれる)、毛利敬親(もうりたかちか・長州藩・第14代藩主)、益田弾正(藩家老)。

【松蔭の師】 玉木文之進(長州藩士・教育者・山鹿流の兵学者、松下村塾の創立者、吉田松陰の叔父に当たる)、佐久間象山(しょうざん・兵学者・思想家、松代三山の一人)、村田清風(後述)、

松蔭は、愛弟子の高杉晋作に・・、
『 人間というものは、生死を度外視して、何かを成し遂げる心構えこそ大切なのだ 』
と説いている。

「松下村塾」の南に位置して「伊藤博文旧宅」が建つ、木造茅葺き平屋建の小さなものである。 彼は7歳の時に、既に松下村塾に入門していた。

松陰は伊藤を・・
『 利助(博文)亦(又、また)進む、中々周旋家(仲介・口入れを業とする者、きもいり)になりそうな 』
と評していた。
彼・伊藤博文は尊皇攘夷の志士として活躍し、英国に留学して西洋列強の実力を体感し、開国・富国強兵論に転じ、武力倒幕運動に積極的に参加する。 明治新政府においては、明治18年(1885)12月に初代内閣総理大臣の地位につき、大日本帝国憲法制定(明治憲法)に際し主導的役割を果たした。 明治42年10月26日、極東問題で赴いた満州ハルビン駅にて暗殺された。 隣に東京より移築した「伊藤博文別邸」がある。

山裾北側に「護国山・東光寺」がある。
全国屈指の黄檗宗(おうばくしゅう)の寺院で、黄檗宗に帰依した三代藩主毛利吉就による創建で総門、三門、鐘楼、大雄宝殿はいずれも国の重要文化財に指定されており、名刹の面影を残している。 
黄檗宗は、日本における仏教の宗派であり、臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つである。 現在、臨済宗、曹洞宗が日本風に姿を変えた現在でも、黄檗宗は中国・明朝風様式を伝えている。 有名なのが「隠元」の開いた、総本山・京都府宇治市の黄檗山・萬福寺(おうばくさん まんぷくじ)である。
この寺院の圧巻は藩士が寄進した500余基の石灯籠が立ち並び、このほか殉難十一烈士墓、維新志士慰霊墓八基などが並ぶ。


以上、吉田松陰に関する著述は、過日の産経新聞連載・関 厚夫氏著筆の「吉田松陰・ひとすじの蛍火」を参照にしてあります。 

吉田松陰に関する「関 厚夫」氏の著書
http://www.bk1.jp/product/02912250 
http://www.bunshun.co.jp/book_db/6/60/58/9784166605859.shtml 
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4569704409.html 

次回は、長州・毛利氏


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