『日本周遊紀行』

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『東日本大震災』に遭われた被災者の皆さんに、心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。 微少微力ながら援助は惜しみませんので、一日も早い安らぎと回復をお祈りいたします。
被災者避難の皆さん、原発避難の皆さんへ全国(北海道から沖縄)の公営住宅、又、全国(北海道から沖縄)の公共住宅,UR機構(昔の公団),都道県市公社、官舎など、その他の公共的空住宅を行政、省庁、自治体が中心となって提供してやって下さい。
避難者近隣の銭湯、公共浴場、温泉施設など暖かい入浴を提供してやって下さい。
東北出身(いわき)の小生





日本周遊紀行(106)福岡 「海の中道」    、



 
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海の中道;遊びの宝庫ともいえるワンダーワールドと大観覧車



海の中道で発見された「漢委奴国王印」とは・・・?、

これから、その「大宰府」へ向かおう、 待てよ・・!、その前に「海の中道」に寄る事にしよう。
九州道を、福岡市方面へ暫く走る。古賀I・Cから一旦国道3号線へ下りて、「海の中道」の標識に従って進むことになる。 
「和白」という交差点を左折すると、中道半島へ進むはずであるが一向にそれらしい気配は無い、普通の住居地域なのである。 
JR香椎線がすぐ横を走っていて、雁の巣という所を過ぎたあたりから漸く、それらしい雰囲気になってきたようだ。
右手に大きく砂丘が広がり玄界灘の波頭が洗っていて、なかなかの風景である。左側は防砂林の松の青が目に心地よい。

間もなく緑の絨毯が敷き詰めた様な巨大な公園が出現した、「海ノ中道海浜公園」である。 約200万平方mと言われる広い公園には、四季折々綺麗な花が楽しめるフラワー園やチョッとした動物園、観覧車、ジェットコースター、サイクリング等、なんでも有りのようである。
マリンワールドやサンシャインプールは夏の時期は楽しみだろう。 

また、大芝生広場をはじめ、園内には様々なスポーツを楽しめる場所も一杯である。
家族で1日中遊んでも、まだまだ遊びきれないほどの広大で多種な施設が揃っている。
近辺の人々が羨ましいほどである。ここは国営の公園であり、「海ノ中道海浜公園」は九州で唯一の多機能公園で、かって米軍が占領していた地域を解放して、その後、国営公園として整備したところであるらしい。



この10kmにも及ぶ細い半島の先端は、「志賀島」という有人、生活のある島である。島までは砂州により本土とは陸続きになっている。 この現象を陸繋島(りくけいとう)といい全国的にも珍しい現況だという。 

陸繋島とは、沿海流が砂を運んできて長い砂浜の岬ができた状態をいう。
干潮時に海の中に陸を作ってしまうのを「砂嘴(さし)」ともいい、天橋立のように砂嘴が発達して、対岸まで到達したのを「砂州(さす)」という。 
これら「砂州」や「砂嘴」が、元々島だった所にくっついてしまって陸続きに成ったのを「陸繋島」と言うわけである。 
この砂州部分、つまり「海ノ中道」は「「陸繋砂州」と言いい大変珍しい地形で、志賀島のほかには和歌山の潮岬、秋田県の男鹿半島、北海道の函館山などがそうらしい。

志賀島には三つの集落がある。 
海の中道から志賀島に入る道のある南東部にあるのが「志賀地区」、西部にあるのが「弘地区」、北部にあるのが「勝馬地区」であり、志賀と弘には小さな漁港もある。


この志賀島で江戸期、福岡藩領内の志賀の農民によって、「漢委奴国王印」という刻印のある金印(きんいん=実印)が発見され、極めて珍しいものとして藩庁に届けられたという。

金印とは、金でつくられた印章のことで、発見された「金印」は日本の弥生期(西暦57年頃)に中国・後漢で製作されたものといわれる。 
この印章、「漢委奴国王印」(かんのわのなのこくおうのいん:23mm×23mm×厚さ8mm 〔注〕23mmは後漢尺で1寸で、現在の約3.33cmに当たる)は「国主の印章」とも位置ずけられ、後漢の光武帝が、当時の日本にあった小国家の君主に与えたものと見られている。 
かって私印説・偽造説もあったようだが、中国の他の地域からも同様の物が見つかったために、この説は覆されたという。

当時の日本は未だ国家としての体制が無く、九州北部に「筑紫の国」、九州南部は「日向の国」、中国地方に「出雲の国」、「吉備の国」といった地域組織体であった。 

九州地方では、圧倒的に日向の国が最大で、勢力も有ったといわれ、ここに、ある種の「王」とか「統治者」が存在していて、その王(君主)に授けたものと言われる説が有力ある。 「漢委奴国王」は、「漢ノ委ノ奴ノ国王(かんのわのなのこくおう)」と読むことができる。


因みに、現在の日本の国璽(こくじ)、御璽(ぎょじ・天皇の印章:方3寸)は金印で、京都の印章職人によって作成されたという。 
国璽とは、国家の印章として押す官印で、日本では1868年(明治元年)初めて使用されたという。 
現行のものは、1974年に改刻された「方3寸」の金印で、「大日本国璽」の5字を刻す。 
克っては国書・親書・勲記(叙勲者に勲章とともに与えられる証書)などに用い、御璽とともに内大臣が保管していたが、今は勲記にのみ用い、侍従職が保管しているという。
 
次回は、「黒田武士



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『東日本大震災』に遭われた被災者の皆さんに、心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。 微少微力ながら援助は惜しみませんので、一日も早い安らぎと回復をお祈りいたします。
被災者避難の皆さん、原発避難の皆さんへ全国(北海道から沖縄)の公営住宅、又、全国(北海道から沖縄)の公共住宅,UR機構(昔の公団),都道県市公社、官舎など、その他の公共的空住宅を行政、省庁、自治体が中心となって提供してやって下さい。
避難者近隣の銭湯、公共浴場、温泉施設など暖かい入浴を提供してやって下さい。
東北出身(いわき)の小生




 日本周遊紀行(105)北九州 「筑豊の小倉」   、



「小倉生まれで 玄海育ち・・」・・、

北九州の小倉、人力車夫の「富島松五郎」が、思いを胸に祇園太鼓を打つのが小倉城下である。
関門海峡に面した歴史の街・小倉は、陸・海の交通の要衝であり、その中心に小倉城がある。 

お城は関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興(戦国武将、信長、秀吉に仕える。後に肥後熊本藩に移封ず、細川家の祖。妻は光秀の娘・ガラシャ夫人)によって、1602年に本格的に築城が始まり約7年の歳月を要して築城された。 
忠興は、城下町繁栄策として、諸国の商人や職人を集めて商工を盛んにし、外国貿易も行い、同時に京風・祇園祭も誕生させている。 

現在でも福岡の各地に特色を持った「祇園祭」が存在するが、中でも、博多の「祇園山笠」は代表的祭りであろう。
小倉祇園祭は城下町としての繁栄のために城内に祇園社(八坂神社)を創設し、領内の総鎮守として豪華で華やかな祭りが始まったとされる。はじめ博多と同様の“山笠”の祭りだったが、明治期に現在に繋がる太鼓を打ち鳴らす祭りへと変化している。

小説の富島松五郎伝が映画・無法松の一生として作品発表されると知名度が更に上がった。
因みに、「無法松の一生」の歌詞では「玄界灘」が登場するものの、実際は小倉を始め北九州は響灘及び周防灘に面しており、玄界灘には面していない。



現在の「北九州市」の中心が小倉であるが、北九州市は九州北部の隣り合った五つの都市・門司、八幡、若松、戸畑、小倉が合併して1963年2月に誕生している。
北九州地区に最初の町ができたのが小倉で、その後は小倉城を中心に城下町として発展し、明治期以降は小倉は軍と商業の中心、門司は国際貿易港、八幡、若松、戸畑は所謂、筑豊の石炭産業と八幡製鉄所(日本初の製鉄所として明治30年に創業した、現在の新日本製鐵(株)の 前身)を中心として、重工業と化学工業が発展し、日本の四大工業地帯の一つ、「北九州工業地帯」として急速に発展する。


筑豊」という呼び名が生まれたのは明治になってからで、この地域の筑前と豊前の頭文字をとって「筑豊」と呼ばれるようになった。 
日本の近代化を支えてきた石炭産業の歴史は、そのまま日本の産業史であり、世界の中の日本であるために明治政府の工業立国の政策と需要の拡大や中央の三井・住友・三菱・ 古河などの大手も進出したことによって、良質で我国最大の炭田を抱える筑豊が時代を推進するのである。

筑豊の地底には今も全体埋蔵量の70%の石炭が眠っているという。
北九州市制誕生直後に、三大都市圏(東京、名古屋、大阪の各圏)外で最初に政令指定都市となった。

五市合併の際、新市名を住民公募した結果、「北九州市」という名称は2位だったという。
1位は「西京市」だったが、「西京」の異名を持つ山口市が反発したというエピソードがある。


無法一代の一生』 歌 村田秀雄 作 吉野夫二郎 曲 古賀政男 
小倉生まれで 玄海育ち
口も荒いが 気も荒い
無法一代 涙を捨てて
度胸千両で 生きる身の
男一代 無法松

「度胸千両入り」
空にひびいた あの音は
たたく太鼓の 勇み駒
山車の竹笹 提灯は
赤い灯(あかし)に ゆれて行く
今日は祇園の夏祭り
揃いの浴衣の 若い衆は
綱を引き出し 音頭とる
玄海灘の 風うけて
ばちがはげしく 右左
小倉名代は 無法松
度胸千両の あばれうち


次回は、「海の中道

 
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『東日本大震災』に遭われた被災者の皆さんに、心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。 微少微力ながら援助は惜しみませんので、一日も早い安らぎと回復をお祈りいたします。
周辺の温泉地において、被災者に温かい温泉を提供してやって下さい。 所謂弱者・・?、高齢者所帯、乳幼児のいる所帯には短期間でもいいから極力空部屋(特に公共宿泊施設)を貸してやって下さい。 政府、官公庁、地方の公の機関はこれらを調整、斡旋、資金等のバックアップしてやって下さい。  
東北の温泉愛好者、東北出身(いわき)の小生





 日本周遊紀行(104)九州 「九つの国」   、




九州はその昔、九ヶ国に分かれていた、それは・

国道2号線で本来「下関」を目指し、周遊観光するつもりであったが時間的に余裕が有ったので一気に九州を目指すことにした。 下関は帰路に立ち寄ることにしよう。

中国道の小月I・C から関門橋を渡るが、その前に関門橋の展望地らしい「塩の浦P・A」にて小休止してみた。 

関門鉄橋のすぐ下に広い展望ゾーンが広がって、関門海峡、巨大な関門橋を一望出来る。 
かなりの迫力と圧巻であるが、本州・四国の架橋を見つめてきたせいか意外と短小に感じたのは小生の偏見か・・!。

橋は今から30年前(昭和48年)に開通した全長1068mの吊り橋である。海峡は、かの有名な「壇ノ浦」や「決闘・巌流島」更に、江戸末期の馬関戦争など歴史的にも特筆される地であるが、これらに関しては後日記載することにする。

橋の右手に門司港が鮮明であり、それにしても関門海峡は、大小船舶の往来が盛んなようである。  

さて、関門海峡を渡る・・、
思えば小生六十有余年、物心就いて脚の行くまま、気のゆくまま各地を巡ってきたが、この地「九州」、九州七県は始めての地であった。 

期待を込めて九州へ向かう。



ところで、四国は「身一つにして面四つ」と言われたが、同じく数字の付く「九州」は、名の如く九つの国の成立によって九州の呼称が生まれた。 

即ち筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩の九ヶ国に分かれていたことから。
そして、日本列島で、いち早く国々が成立したのは「九州」であり、その後、国々の名が付けられたのは律令国家が成立した時期(7世紀後半から8世紀前半頃)と言われる。 
その間の平安時代から明治初期になって廃藩置県が決行せれるまでの凡そ1000年の長期にわたって変更がなかった。


律令制(奈良期後半に定められた政令)において、諸国をまず「五畿七道」(ごきひちどう)に分け、九州は「西海道」と称し、個々の国についての総称を九国、中国(大陸、当時は唐)の地方単位である「」になぞらえて九州と呼んだ。 
これはあくまでも慣用表現であるという。

因みに、「五畿七道」の「五畿」とは、大和、山城、河内、和泉、摂津のことで、都・大和を中心とした畿内(近畿地方)の五つの国の事である。 

「七道」とは、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海(四国)そして西海(九州)の七つの官道と、これにつらなる国の領域を表している。 

特に、都より山陽道、西海道を経て太宰府までつながる道を大路(主官道)と称し、他に東海道、東山道等を中路、その他の道として太宰府より九州各地へと向かう西海道を小路と呼んでいた。
当時は道を軸として国名が付されていったのである。


律令制(りつりょう)とは、大宝律令、その後の養老律令のことで、東アジア(中国の隋、唐の時代)でみられる法体系のことであり、「」は刑罰法令、「」は律以外の法令、主に行政法に相当するもので奈良末期の西暦701年に制定され、この時、合わせて倭国から「日本」へと国号も定めている。

尚、古代、大和朝廷の時代には、九州は「筑紫(ちくし)の国」、「豊(とよ)の国」、「日向(ひゅうが)の国」と称していた。
それが律令によって細分化されて、「筑紫の国」が「筑前:ちくぜん」「筑後:ちくご」に、「豊の国」が「豊前:ぶぜん」「豊後:ぶんご」に、「肥の国」が[肥前:ひぜん」「肥後:ひご」に、「日向の国」が「日向:ひゅうが」「薩摩:さつま」「大隅:おおすみ」の九つに分けられて、筑前にあった「太宰府」が九州全域を統括する場所として九州が完成している。

大君の遠の朝廷」と讃えられた「大宰府」が、大和朝廷期に「筑紫大宰・筑紫の国」として置かれた。
府の庁舎が置かれたところを大宰府政庁といい、「太宰」とは、オオミコトモチと称して最高長官を表す。

当時、中国(唐)、朝鮮半島(百済、新羅、高句麗)との交易があり、当初は外交府としてあったが、白村江での敗戦(はくすきのえ:倭国=日本、百済の連合と唐、新羅連合との戦い)の後、外敵の上陸・南進を防ぐための対外防衛拠点としても存在した。 

同時に大宰府は西海道(九州)諸国を統括する内政の府でもあり、八世紀頃には西国の政治・経済・文化・宗教の中心として都市的な繁栄を見るようになる。


ところで、律令制により「筑紫(ちくし)の国」が分割されて、筑前、筑後の国になったが、この「筑紫」は「つくし」と読むのか「ちくし」と読むのか、という論点があるようだ。
我々、外野の者、関東人は近くに「筑波(つくば)」もあり、筑紫は「つくし」と呼ぶのが一般的のようだが、地元では「ちくし」と呼ぶようである。近現代の福岡県の地名としての「筑紫」は、「ちくし」と読むのが普通であるし、公式の読み方としても多く採用されているようである。
しかし古代、この地域を指していた“歴史的”な地名としての「筑紫」は、「つくし」と読む習慣もあるとか・・?。

次回は、その「筑紫の国」へ向う



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日元決戦の「文永の役」と「弘安の役」、結果は・・?、

太宰府を後にして、福岡の外環道である高速2号線・立花寺JCTより5号線に乗り移り、一旦下りて国道202号線から再び、高速福岡前原道に乗り上げ佐賀・唐津方面へ向かう。 遠くに博多湾の今津浜と市街が望め、福岡湾の湾口に位置するところ、洋上にやや霞んだ「能古島」が浮かんでいた。 能古島は、人口800人ほどの島で、周りは海水浴場やリゾート施設などがある行楽地の島である。
往時は、島の北面は玄界灘、「那の津」(博多の湊)から大陸に向かう船舶交通の要衝であった。言い換えれば、逆に外敵の侵攻に晒されやすい。
刀伊(とい:平安時代の後期頃、対馬・壱岐・筑前を襲った朝鮮族で、大宰府の官人に撃退された。日本でこれを「刀伊の賊」と呼んだ)の侵攻や元寇などでしばしば島は蹂躙され、7世紀には白村江(はくすきのえ:朝鮮半島南西部を流れる錦江の河口にあった地名。現在の群山付近とされる)において、日本軍が唐・新羅の連合軍に敗れると、海防の必要に迫られ、対馬や壱岐とともに防人が置かれたところである。
又、今宿から北へ延びる糸島半島の東岸、今津、長浜海岸そして名勝・生の松原あたりは「元寇」のあった地点で著名ある。この辺りの松原は、海に向かって上り勾配になっているという。
元寇の頃、この松原の線いっぱいに、鎌倉武士達が築いた防塁が有ったところである、否、有ったのではなく、今でも有る。 防塁は、石で築かれ、高さが2m位であったが、その後、土砂に埋まり4, 5mの丘状をなしているという。そのため石塁は風化されずに、今でも当時のままの真新しい状態で発掘され、掘れば松原のどこにでも有るという。

さて、時は鎌倉期、執権・北条時宗の時代である。
そのころ、元(げん・中国)のフビライは、日本を征服する意図でたびたび使者をよこしたが、時宗は強い態度でこれを拒絶した。 広大な領土を支配した元のフビライ−ハンは、高麗を征服したのち、日本を従属しようとして使者を送ったが、執権・時宗はこれを拒否し九州の防備を固めた。
1274年、元・高麗の連合軍が対馬・壱岐を襲った後、博多湾の沿岸に上陸した。元軍は火薬を使い、戦闘具や戦闘力は彼らが圧倒的に優れていて、しかも、集団戦法で日本軍を苦しめた。 浜辺は、たちまちにして元軍による鎌倉武士たちの死者塁々とした惨状を呈した。死者の数は元軍2万人、九州の武士団はせいぜい1万足らずとも云われるが、日本軍の敗戦は明らかで、遂には後方の大宰府の水城近くまで退却した。幸い、日没前後に元軍は艦船に引揚げ、その夜半、一大暴風によって艦船の殆どが転覆、元軍は大打撃をうけ、侵攻は頓挫したのである。これを「文永の役」という。
この経験をもとに主要な沿岸各地に武士はもとより、老若男女総動員で2m足らずの石塁を延々と築いた。 この今津の浜は主に南九州の大隈、薩摩の武士が受けもったという。
そして予想通り7年後に、再び彼らはやって来た。1281年、元軍は新たに江南軍(中国の南宋の軍)も加え、朝鮮と中国本土の二方面から北九州へ攻め寄せた。 元は14万の大軍を二手に分けて、再び対馬・壱岐・博多湾を襲った。
一っ飛びすれば飛び越せそうな2m足らずの石塁で、世界最強の帝国・侵略軍を防ごうというのであった・・が、この防塁は実によく役立ったのである。 元の上陸軍は悉くこれに引っかかり、内陸侵攻を阻まれたのである。 その日の戦闘が終わると、船に戻らざるをえなかったし、夜は日本軍の小船によるゲリラ戦に悩まされた。 2度、3度と上陸侵攻を試みたが、日本軍は先の経験を生かし、善戦し、又々、防塁に阻まれた。 遂には、再び大暴風雨の神風が襲い、自然の猛威によって蒙古軍を殲滅するのである。これを「弘安の役」と称した。

『元寇』 作詩・作曲  永井建子 (明治25年)
四百余州を挙る 十万余騎の敵
国難ここに見る 弘安四年夏の頃
なんぞ怖れんわれに 鎌倉男子あり
正義武断の名 一喝して世に示す

こころ筑紫の海に 浪おし分けて行く
ますら猛夫(たけお)の身 仇を討ち還らずば
死して護国の鬼と 誓し箱崎の
神ぞ知ろし召す 大和魂いさぎよし


今宿辺りより「西九州道」、唐津街道を経て、「虹の松原」へ向かう、今日の泊まり地である。
糸島半島の付け根部を横断して、二丈町あたりから唐津湾の沿岸を行くようになる。 低い山並みが海岸に迫り、過ぎ去ると再び唐津湾、否、松浦湾の紺碧の海原が光る、この地域は既に、筑前・佐賀に入っていた。そして海岸線の渚には、鮮やかな緑の絨毯が弧を描いて延びている、「虹の松原」である。 この湾の東端を走るR202(唐津街道)は海面からかなり高く、ここから遠望すると松の密林が如何に長大かがパノラマのように判る、もとは「二里の松原」と称していたらしい。
秀吉の時代に、唐津城主となった寺沢氏が防風林として築いたものであり、その当時は二里の松原と呼んでいたらしい。 この松原は夕刻になると海面に映る夕景色の赤味を帯びた色合いと、松原の緑が相俟って、これが適度に弧を描いたいるので、まるで、虹のように映った。これが何時しか、語呂合いも良い「虹の松原」になったのだろう。

この「虹の松原」の、ど真ん中に今夜の宿・国民宿舎「虹の松原ホテル」が在った。
寛ぐ前に宿の主人が「近くに、いい温泉が有りますよ・・!、通常600円のところ、当館と提携しているので僅か100円で入れます」と案内してくれた。願ったり、叶ったりとはこの事で早速出向く。筑肥線の「虹の松原駅」前の踏み切りを渡り、国道202号線沿いに温泉は在った。「鏡山温泉茶屋 美人の湯」といい、開業して間もないらしくピカピカの温泉場である、これが100円とは嬉しい限りである・・ビバ・・!。
広々とした室内浴槽の他に、和風の半屋根に大石を設え、石灯籠を配した風流な露天風呂、樽風呂や打たせ湯もありで、何とも極楽である。やや茶色味をおびた人肌湯の温泉で、泉質は天然ラジウム温泉、 糖尿病、リューマチ、痛風、動脈硬化などにきき目があるという。 戻った後のお待たせ料理も七色、虹色で配色され、いやはや・・、夕刻以降は虹一色であった。  実に満足、満足・・!!。

次回は、唐津・「唐津城」

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            写真:道真公祭神の「天満宮本殿と飛梅」


心字池に架かる三つの赤い橋は、一つ目が過去で、二つ目が今、 そして三つ目の橋は・・、

さて、である・・、
「さだ まさし」の「飛梅」という歌は、太宰府天満宮を唄った詩である。
飛梅というのも実際に存在し、天満宮本殿の正面右側に木の柵に囲まれ、小枝を大きく広げて価値充分の「御神木」である。 大宰府に左遷された「菅原道真」のことを想って、「京の都の梅が一夜にして大宰府まで飛んできたと・・」、という逸話のある年期の入った梅の大木である。

『飛梅』 詞・曲・歌・さだ まさし
心字池にかかる 三つの赤い橋は
一つ目が過去で 二つ目が現在
三つ目の橋で君が 転びそうになった時
初めて君の手に触れた 僕の指
手を合わせた後で 君は神籤を引いて
大吉が出る迄と も一度引き直したね
登り詰めたらあとは 下るしかないと
下るしかないと 気づかなかった
天神様の細道

『 東風吹か ば匂い遺せよ 梅の花 
         主なしとて 春な忘れそ 』 菅原道真
(春になり東風が吹いたら、その風に乗せて、花の春を私が流されてゆく西の太宰府まで 送ってほしい。梅の花よ、主がいないからと言って春を忘れてはならぬぞ)

道真が九州の大宰府に流され、その悲しみを庭の梅に寄せて詠んだ歌である。
菅原道真、道真といえば天神様、天神様といえば「梅の木」である。 江戸・東京、「湯島の白梅」で知られる「湯島天神」は太田道灌が、ここ大宰府より勧進し、天正18年(1595)徳川家康公が江戸城に入るに及んで、特に当社を崇敬すること厚かったという。 祭祀によって泰平永き世が続き、文教大いに賑わい、学者・文人の参拝も絶えることなく「菅公」の遺風を仰ぎ奉ったという。
「梅」は、その生命力の強さから昔より霊性を持って人を守る花として、大宮人(宮中に仕える都人)に好まれた花であり、中国から伝えられた頃は「白梅」で、奈良期にあっては花と言えば梅を指したようである。
菅原道真は天神様と呼ばれて学問、受験合格の神さまとして親しまれている神であることは周知であり、受験シーズンにもなると天神様は大忙しになる。若い世代にまで深く浸透している神さまといったらこの神を於いて他にはない。

道真は、代々学者の家系に生まれ、長じて学者、文人、それに政治家として卓越した能力を発揮した人物であった。 幼少の頃から文才に優れていたといい、18歳で律令制度の国家公務員試験の科目のひとつ「進士」の試験に合格、23歳でさらに上級の「秀才」に合格して文書(モンジョ)博士となる。 以後、その才を遺憾なく発揮して順調に出世し、醍醐天皇の時に55歳で、最高官位である「右大臣」にまで上り詰めた。 ところが、そこで政治的な暗闘、学閥の抗争の黒い渦に巻き込まれてしまったのである。
道真の異例の出世が、権力者・藤原氏の鼻につき、延喜元年(901)藤原時平の讒言(ざんげん:人をおとしいれるため、事実をまげ、目上の人に、その人を悪く言うこと)によって失脚し、北九州の太宰府へと転勤(左遷)されてしまったのである。 都を去るとき、道真が詠ったのが、「東風吹かば・・」である。道真の愛した梅と一緒に、門弟によってその墓所として建てられたのが「太宰府天満宮」なのである。
学者、文人という平和的なイメージを持つ菅原道真であるが、一方、政治家でもあったことから死後の魂が怨念に支配されることになる。 知られているように“神としてのデビュー”してからは、日本でも最強レベルの恐ろしいパワーを発揮する怨霊神でもあった。
道真が太宰府で死んだ頃から、都では天変地異が続くようになり、まず道真を讒言した張本人の藤原時平が39歳で急死。 京の周辺は疫病や日照りが続き、数年後には醍醐天皇の皇太子が死亡、次の皇太子もすぐに亡くなり、人々はすべて「菅公」の怨霊の祟りとして恐れた。極めつけは、延長8年(930)に宮廷の紫宸殿に落雷があり、死傷者が多数出たことであった。
これにより、道真の怨霊は雷神と結びつけられることになる。元々京都の北野の地には、農作物に雨の恵みをもたらす火雷天神という地主神(じしゅじん)が祀られていたことから、それが道真の怨霊と合体したものと云われる。 そこで怨霊の怒りを鎮めるため天暦元年(947)、京の地に「北野天満宮」が創祀されたのであった。
元より日本の農耕信仰では、古くから北野の火雷天神のような天から降ってきた神を祀る天神社(古くから農耕民族にみられた天神信仰)が各地にあったという。 道真の御霊が火雷天神と合体したことによって、やがて各地の天神社の祭神も道真=天神様とされるように成ったといわれる。
海の神とか山の神などとは違って天神様にはなんとなく親しみがある。 やはり人が神になったという事実が一番の要因であろうが、特定の人間が神になった例は、たとえば豊臣秀吉や徳川家康(東照権現)などの政治的実力者をはじめ数多いが、ドラマ性や霊的パワーにおいて道真が代表格でこれに勝るものは無い。道真の怨霊は、生前の業績がプラスされて更に強力な霊的パワーを発揮し、都の人々が認めたことによって神、天神となったのであった。

社殿、境内は一見豪華といえる楼門と本殿と、それを繋ぐ回廊のみで極めてシンプルである。 楼門の手前に「心字池」があり、この池に三つの赤い橋が架かり、それぞれ過去、現在、未来を表しているという。己の心を三つの橋で確かめ、心字池の鏡に映し、清真なる気持ちで御参りすれば天神様の霊力を多いに授かることが出来るかもしれない。
参拝前、個人宅の駐車場に車を預けたが、帰路、運転席の窓ガラスにガムが2個貼り付け置かれてあり、「気を付けて、お帰りを・・」とメモがシタタメてあった。
清々しい気持ちで、天満宮を後にした。

次回は、「元寇」・・、

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