『日本周遊紀行』

「goo」で、「yahoo」な国柄・・、日本万歳・・!! http://www.geocities.jp/orimasa2001

長崎県

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

写真:見るからにノペッとした「島原城」


^島原は、トリプルの悲劇に見舞われた「大変」な地であった・・、

島原F・Tから、比較的静かな市街地を2kmほど行くと島原鉄道の島原駅があり、駅前からは既に島原城の天守閣が目前に迫る。 駅前から左に向かって、そのまま車を進めると、いきなり本丸真下の駐車場へたどり着いてしまった。 本丸直下に車止めが在るのも珍しい、こちらにしては幸いであるが・・?。
石垣の上にどっかりと載った主城・本丸は、五層の天守をもち、さすがに壮大であった。ただ、主城・本丸のみが地上から屹立していて、城としての曲輪、郭などの外敵の侵攻から守るために施した防御施設、一定の区域の周囲に築いた土や石の砦、囲いなどは無い孤高の城だった。 それに、この島原城を見ると全体に形が単純で「ノペッ・・としていて、なんか変だな!」という印象をもった。 
この島原城は一見して、どうも日本のお城のイメージとはちょっと違う。五層の天守閣があるのだが、この五層は単に五枚重ね合わせたような形をしており、日本建築の造形美を演出している重要な構造物である破風(はふ)が無いのである。 破風とは屋根の切妻部分についている合掌形の装飾のことをいう。 これらの破風が日本の神社仏閣、それにお城の美しさを際立たせているというが・・。 ところが島原城にはこの破風がないのである。 歴史作家の司馬遼太郎氏はこの特異な城を、「松倉重政は領民との戦いを築城時から想定していて、天守閣から閣内に侵入してきた敵を射抜くためにこういう構造にしたのだろう。破風があっては射てない角度が出来てしまい邪魔なのである。島原の領民がキリシタンであり、家康から暗にキリシタン弾圧の役割を期待されていたのではないか」と推定している。
果たして後に我が国最大の内乱、一揆が城下で発生するのである。この豪壮な島原城には島原の領民の怨念が込められているという事も出来る。 
1616(元和2)年、大和(奈良県)五条から島原に移封した松倉豊後守重政は、1618(元和4)年から7年余の歳月を費やして島原城を築く。城は、昔「四壁山」、「森岳」などと呼ばれた小高い丘を利用して築かれたので、別名を森岳城とも言ったらしい。南北に連なる連郭式平城で、外郭は周囲約4kmの長方形で塀をめぐらし、城門が7か所、平櫓が33か所もあったという。内郭は堀にかこまれた本丸・二の丸を設け、その北に藩主の居館である三の丸が続いていた。
本丸には安土桃山式建築の粋を集めた総塗り込めの五層の天守閣をはじめ、3か所に三層櫓がそびえ立つ豪壮堅固な城構えであった。 城は松倉氏の後、高力氏、松平氏、戸田氏、再び松平氏と4氏19代253年間の居城であった。 再び松平氏というのは、以前に島原領主を勤めていた松平忠恕(ただひろ)が旧地に戻ってきたのである。
安永3年(1774)に幕府から戸田氏・松平氏の交代転封が命ぜられ、その時の移転費用は莫大なもので、しかも、忠恕が 戻って以来、天災、大火事、飢饉が続き、藩財政は困窮を極めていたという。このような大変な時期、忠恕が苦心をしながら藩財政の立て直しに取りかかろうとした矢先の寛政4年(1792)「島原大変」は起こったのである。

平成の噴火による火砕流、土石流という言葉を一躍有名にしたのが、今回の普賢岳噴火災害であったが、しかし島原はこれに上回る大災害を過去に被っていた。 今から約200年前の寛政年間の「島原大変」がこれで、我が国火山災害史上最大の稀にみる悲劇であったという。
この時は先ず体に感じる地震が続き、更に普賢岳からの噴煙が上がり、溶岩流や火山ガスの噴出も見られた。激しい地震の連続に、城下の人たちは不安な日々であったが、それも次第に収まりかけていたように観えたが・・、
寛政4年旧暦4月1日(1,792年5月21日)、大音響とともに襲った大地震によって城下町の背後にそびえる「眉山」(まゆやま:818m)が突如として大崩壊、三億立方メートル(東京ドーム120杯分)を超える巨大な土砂が島原城下の過半部の人家や田畑を埋め尽くすとともに、その土砂は有明海へ向かって崩れ落た。この衝撃によって巨大な津波が発生、対岸の肥後の熊本城下、天草(熊本県)へ襲いかかった。その波高は凡そ25mとも推定され、更に、津波の反復、返し波がは3回にも及び島原半島の沿岸18か町村へ来襲し広域災害の様相を呈した。津波による被害を含む死者約15000人は、未だに記録に残る最大の火山災害だといわれる。この時の島原城下の住民は7000余人で、その内生存者はわずかに1000人だったと言う。
この出来事を「島原大変、肥後迷惑」と呼ばれ、細川氏の支配する熊本藩の公的な記録として大災害の全容が、詳しく残っているという。

悲運の領主・忠恕・・、
さて、島原の地に戻って以来、苦労の連続であった忠恕は又しても悲劇に見舞われた。大惨事の翌日から守山村に避難していたが、10日以上過ぎて島原城内外を巡視した。城下の惨憺たる状況に忠恕は涙を流し、その衝撃からか翌日から病に侵され間もなく逝去した。被害の甚大さに心を痛め自刃したとも言われている。
悲運としか言いようのない享年51歳の生涯で、島原の地に戻って17年目のことであった。
その跡は忠恕の子・忠馮(ただのり)が継ぎ、当代26年間全てを「大変」後の復興に投じたという。

島原には江戸期以降、三つの大事件が起こったことになる。
一つは、1637年(寛永14年)に発生した「島原の乱」という事件、二つ目は1792年(寛政4年)、雲仙岳が大噴火し、眉山の南側半分が裂けて有明海に崩れ落ち、島原城下の三分の二が埋没、大津波が起こり対岸の肥後地方に押し寄せた「島原大変 肥後迷惑」と呼ばれた地変。 三つ目は1990年(平成2年)、普賢岳の噴火よる災害で40数名の死者を出し「火砕流」の恐ろしさが世界に認識された地変である。

熊本行きのカーフェリーは定刻、島原埠頭を離れた。
波を蹴ってゆく船が次第に岸壁から離れるに従って、正面に見えている「眉山」の男性的な勇姿が次第に遠くなる。雲仙の山並みや普賢岳は、この眉山に隠れて一時、姿を消していた。船が離れるに従って、右手に美しい大小の島々が見渡せた、九十九島(つくもじま)という。 島原外港に点在する九十九島の奇観は島原大変の時、海に流れ込んだ土砂の跡である。

『島原地方の子守唄』 長崎民謡
おどみゃ島原の おどみゃ島原の
ナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気なしばよ しょうかいな
早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ
鬼(おん)の池ン久助(きゅうすけ)どんの連れんこらるバイ

次回は肥後・「熊本」

「島原の人間はよく生きている」と周囲で囁かれていた、それは・・、

帰路、島原F・T(フェリーターミナル)へ立ち寄り、熊本渡航の確認と乗船券を確保した。1時間以上の時間余裕があるので島原城へ向かってみた。
先ず、島原について・・、
城下町としての島原の歴史は有馬氏(戦国時代に有馬晴純が現われて島原半島を根拠に肥前一帯に一大勢力を広げる)などの群雄割拠の時代を経て、徳川時代の元和4年(1618)から7年の歳月をかけ松倉重政が島原城を築城したときに始まる。松倉氏は越中(富山県)の出身で、豊臣秀吉の家臣・筒井順慶の家老職だった。
江戸初期の島原築城以後は、島原藩の城下町として栄えるが、しかし、松倉家はキリシタン弾圧をはじめとする悪政を続け、1637年(寛永14年)に「島原の乱」が起こる。 これにより住民はほとんど死亡し、代わって藩を統治したのは高力忠房(こうりき ただふさ:徳川家の譜代中の譜代で、家康三河時代の三奉行の家系)であった。
忠房は、三代将軍・徳川家光から島原の乱後の肥前国島原藩4万石へ移封された。このとき家光は忠房を厚く信任していたため、あえて乱後で荒廃している島原へ移封させて復興に努めさせ、更に長崎の警備や九州における外様大名の監視も任せたと言われている。 忠房は家光の期待に応え、乱後で混乱していた島原の農民に対して1年間の年貢免除、浪人らの移民奨励などの良策を重ねて島原を見事に復興させている。

天草・島原の乱・・、  
元和2年(1616)、大和・五条から松倉重政が4万石の大名として日之江城に入城した。
重政は元和4年(1618)有馬氏の家臣・島原氏の居城であった森岳城跡に新たな城の築城にかかる。着工人員延べ100万人といわれる人夫を動員し、4万石の小身分でありながら分不相応な大城を築く。当然、築城、各種土木工事で費用が必要となり、重政は住民に重税を課した。又、彼は入国当初は切支丹に対して寛大であったが、幕府が切支丹禁制の意の強いことを知って、方針を一変して弾圧を強行するようになる。その結果、領民は更にに苦境に陥った。
重政の病死の後はその子勝家が継いだ。 この勝家は遊楽にふけって政治に不熱心だったため租税は重い上にも重くなっていった。 更に、この年は寛永11年以来の4年も続く大凶作で領民は過酷を極め、絶望するに至った農民たちは領主を深く恨むようになり、不穏の空気が充満して一発触発の状態となっていた。 その過酷さは近隣の人々からも「島原の人間はよく生きている」と囁かれるほどであり、巷間(こうかん:ちまた)では島原の領民が蜂起したのは当然であるとも言われる。
寛永14年(1637)限界を悟った領民は、遂に一揆を起こした。これが世に言う「島原の乱」である。乱は数ヶ月で終結したが、これによって島原半島の様相は一変してしまったという。
この一揆に応呼したのが天草の益田四郎であった。島原・天草の合同一揆民は益田四郎(天草四郎)を総大将とし、その下に鉄砲大将・侍大将・普請奉行などといった幹部を置いて組織をしっかりと固める。その勢力は3万7千人。一揆に参加した農民が全て原城(別名・日暮城、島原城の築城によって廃城したものの、その当時起こった島原の乱で天草四郎以下の一揆軍がたてこもった城として有名)に入ったため、島原南部と天草は人っ子一人いない廃村のようになったという。
九州の近隣雄藩である細川・鍋島両藩や幕府の懐刀と言われる板倉重昌など、幕府軍の再三の攻めにも落ちなかった一揆軍であるが遂に、将軍・家光が自ら決断を下し、腹心中の腹心である老中・松平伊豆守信綱(通称・知恵伊豆)を援軍として派遣する。 動員する兵力は一揆軍の3倍以上の12万人の大軍になった。 幕府軍にはたとえ女、子供でも全員殺害せよとの厳命が下っていた。 そして大乱戦の末、一揆軍は全滅する。
乱後、島原南部と天草にはほとんど農民がいなくなってしまい、周辺各藩には強制的に人数選抜をして農民を移住させ、藩によっては籤引きで移住者を決めたところもあったという。
その後、この土地の農民は非常に優遇されたため、近隣の諸藩から逆に非合法に流入してくる者も多く、それをまた黙認したため50年後には再び豊かな農村が復興したという。 しかもこの土地の年貢は軽減されていた上に、古いしがらみのない新しい村が構築されることになったため、日本国内では最も近代的な村が生まれたという。
明治時代、廃藩置県によって一時的に島原県が設立され県庁所在地となったが、島原県はすぐに長崎県に編入された。その後、島原城も廃城となり破却された(1964年に復元)。

半島の中央部にある雲仙岳は大噴火を繰り返す活火山として有名であるが、1792年(寛政4年)には「島原大変、肥後迷惑」と呼ばれる日本史上最悪の噴火災害が起こり現在の島原市域に大打撃を与え、1万5千人以上の死者が発生している。

「島原大変、肥後迷惑」は次回へ

イメージ 1

                  写真:ドーム内の原型のままの被災保存家屋


国道脇の「道の駅」に、火砕流で埋まった生々しい家々の痕跡が保存されている・・、

普賢岳と大火砕流跡を観察して深江町の道の駅で一服した。水無川(火砕流痕)の袂、国道に沿って「道の駅;みずなし本陣ふかえ」があり、平成新山を一望できる比較的新しい「道の駅」で日本最大級の敷地を誇るという。(その理由は・・?) 
島原市から口之津に向かう国道251号線そばにある道の駅で、最近海岸側にバイパスができているが、旧道のそばにあり普賢岳の噴火で多大な被害を出した水無川に隣接してある。ここからはその普賢岳が正面に見え、道の駅展望台には望遠鏡も備わっていた。
この道の駅は通常の施設の他に特徴的なのが、被災家屋を現状保存する「土石流被災家屋保存公園」という一角(施設としては、こちらの方が遥かに広大)が在ることである。園内にはドーム状の建物があり、これは風化しないための処置だろうが大きなテントを設けてその中で保存展示しているのである。そこには、被災家屋が3軒そのままの形で保存されている。その他にも屋外に8棟、合計11棟の被災家屋が保存されている。
それは、見るからにゾッとする光景で、全ての保存家屋が一階の屋根付近まで部屋の内外を問わず土砂にうもれている。 屋根だけ残して土に埋もれた家々は余りに奇怪で・・、ある家は瓦葺の広めの日本式家屋で、渡り廊下の上まで大小の土砂、火山灰が流れ込んでいる。一方では家の一階部分の台所は完全に土砂に埋まり、窓からなだれ込んだ土砂が玄関、居間、子供部屋、寝室と土砂で一杯なのである。 これら土石流のものすごさを物語っていて、真に痛々しい限りである。ここにはリアルに訴えて来るものがあり、その凄まじい光景にただ唖然・・!、火山の威力をこれほど雄弁に語るものはないだろう。
この保存家屋群は主に土石流によって起こった災害であり、云わば二次的災害とも言えるだろう。 土石流とは谷に積もった石や土砂などが長雨などが大量に流出することいい、流れは数十トンもある大きな岩でさえ石ころのように押し流してしまうほど大きな破壊力をもち、日本各地でさまざまな被害をもたらしていることは知られている。
普賢岳では、火砕流で山腹に大量に積もった火山灰などが、梅雨の長雨や台風などが続き、何回も土石流が発生した結果、火砕流が届かなかった下流地域にまで及び民家や橋、道路、鉄道などを飲み込み押し流し、耕作地を土砂で埋めつくしたのである。 普賢岳の山麓地域は元々、酪農や葉たばこの産地として知られていたが、土石流や火砕流で大きな被害をもたらしたのである。
保存家屋の前に大きな説明版があった。 今回の被害の状況が詳しく写真付きで(上空写真)説明してあり、これを見る限り火砕流、土石流の被害範囲は太い幾筋もの線ではなく、広大な面となって被害が及んでいることが判る。
「道の駅・みずなし本陣ふかえ」は雲仙・普賢岳噴火災害後に、島原地域再生計画の基ずき平成11年4月に開業したもので、普賢岳の噴火災害のすさまじさを後世に伝えるために、土石流によって被災した家屋が、そのまま保存されているこの地に造られたものであった。

道の駅を島原方面に少し行った右手に、広大な公園が在り、この一角に「雲仙岳災害記念館・がまだすドーム」というのが在った。ゆるやかにドーム状をなした、広―い建敷きの近代的建物である。 「がまだすドーム」という奇妙な名は、「がんばる」ドームという意味らしい!。地元の言葉で「精を出せ」、「がんばろう」という意味だそうで、普賢岳の噴火で大災害を被ったところから復興に向けた合言葉だったそうである。内部は、「大噴火シアター」の臨場感ある巨大なスクリーンや 被災した文物を集めて当時の町並みを再現した部屋、折れ曲がったバス停や自転車、最後まで陣取っていたマスコミのカメラや車両等々の災害遺品の展示。 
又、「島原大変シアター」は、江戸時代に起きた噴火の際に、島原が壊滅状態になったことに加え、山が崩れて海に流れ込みんだことから対岸の肥後(熊本)に大津波が押し寄せたことを「島原大変、肥後迷惑」(後述します)と言い、その時の様子、エピソードも紹介している。
隣の敷地には、当時の大火砕流で殉職した消防団員の顕彰碑文の立派な石碑が建っている。刻文の内容は・・
 
『 碑文 1990年(平成2年)11月17日、雲仙・普賢岳が山頂から白煙を上げ、198年ぶりに噴火活動を開始した。始めの頃は、穏やかであった活動が、徐々に活発になり土石流や火砕流が発生したため、避難勧告が発令され、消防団員が昼夜を問わず、監視活動や住民の避難誘導に当っていた。 翌年6月3日、午後4時8分発生した、予想もしなかった大火砕流に飲み込まれ、監視活動に当っていた消防団員12名を含む43名の尊い人命が奪われるという大惨事となった。 我々消防団員は、同胞の団員が殉職したことに対し、悲痛な衝撃を受け、残された遺族のことを思うと心痛めるばかりである。 我々は殉職した消防団員の崇高な郷土愛と不屈の消防精神を消防人の鑑として受け継いでいかねばならないと改めて決意した。 殉職した団員に対しては、二階級特進がされ、国からは著しい功績が認められ死亡叙勲が授与された。 1996年(平成8年)6月、雲仙・普賢岳の噴火活動の終息を迎え、この功績を末永く顕彰し、安らかなご冥福をお祈りするとともに、後に続ずく消防人の心を奮い立たせるため、この慰霊碑を建立する。 なお、この慰霊碑は全国の消防関係等の皆様から寄せられた心温まる義捐金を浄財にさせて頂いた。 1999年(平成11年)11月17日 島原消防団長 下田信夫 』 とあった・・合掌礼拝・・!!。

碑石の直前には、当時救急、救助に活躍した装甲車とヘリコプターが保存展示されている。又、被災した消防車やパトカー、半鐘などが「農業研修所跡」に保存されているという。
大火砕流で被災死亡した人々は、消防団12人、警察官2人、住民6人、タクシー運転手4人、火山学者3人、報道関係者16人の43名が死亡・行方不明となった。
尚、深江町での被害は死者・行方不明者・44名、建物の損壊・2,511棟、被害額・2,299億円

深江町(ふかえちょう)2006年3月31日、南高来郡加津佐町、口之津町、南有馬町、北有馬町、西有家町、有家町、布津町の八町と対等合併して市制を施行し、「南島原市」となった。従って、島原半島は、雲仙市、島原市、そして南島原市の三市のみになった。(一部諫早市が含まれる)。

次回は、「島原」
尚、『日本周遊紀行』について御感想をお待ちしてます。
又、誤解や誤文が有りましたら御一報ください。
メール orimasa2001@yahoo.co.jp

イメージ 1

                写真:普賢岳と火砕流跡


雲仙・普賢岳の噴火で山様が一変し、新たに「平成新山」と名付けられた・・、

雲仙の新湯温泉に浸かり、身も心もさっぱりして雲仙高原を後にした。
下る途中、直に仁田峠へ向かう「仁田峠循環有料道路」というのがあり、厳(いかめしい)しい通用ゲートがあって聞くところ700円が通行料として必要らしい。二度と来る機会が無いかもしれないので大枚を叩いて訪ねることにした。さすがに良く整備された道路で、まさしく観光地の峠である。雲仙の真っ只中にあり、標高は1080mと半島の中にある峠にしては思ったより高い。展望地は深江町と小浜町の境にあり、どうやら、急速に天候も回復したようで、島原半島から九州阿蘇方面までを一望できる。正面に大迫力の普賢岳、反対側には島原湾方面の雄大な景色が堪能できる。仁田峠の展望所にはロープウェイもあり、更に絶景を楽しむことができるようだが、さすがこちらは遠慮した。
有料道路を一回りして国道57から深江町方面へ下ってゆく、その後、島原から熊本へ向かう予定である。
ヘアーピンカーブが連続する急坂を慎重に下る。途中、小さな園地があって「新観光100選の地」と記した石碑が建っていた。 下界は島原の沿岸から、熊本、阿蘇の山並みが遠望できる。下る合間にあの普賢岳の荒々しい姿が樹木の間から確認できるようになった。 
下るに従って雲仙山麓の東側の深江町からは、普賢岳(ふげんだけ)の全容が一望できるようになった、道路を選びながら当山と火砕流の跡が克明に見通せる場所を辿った。R57のやや上部、文字通り水の無い「水無川」沿いに車を止めた。

この「水無川」こそ、火砕流の本源・本拠地であった。
普賢岳の山頂付近は、溶岩ドームと言われるどす黒い岩肌が折り重なり、白い噴煙が今も吐き続けている。その下の所謂、富士山型の錐形には流れ皺(しわ)を造って赤茶けた山肌が異様であり、威容である。 その麓から火砕流、土石流、泥流、地すべり等の様相で眉山、その他の山裾を削りながら流れ落ちている鮮やかな痕跡が今もハッキリ見て取れる。 直下の小山で二方向に分かれた流れは、下部で再び合体して本来の水無川を乗り越え、大幅な流域を広げながら下部に達している。 流域幅は、数百米もあろうか・・?、今も延々とした堰堤、土留め工事が進行中のようである。 流跡は上部では赤茶けた土砂に大石がゴロゴロ浮き出ているような荒涼たる風景で草木の緑は全く見受けられない。ただ下部堰堤付近では所々、短い草の青が確かめられ、多少の年月は感じられる。 
普賢岳は1990年11月に噴火、91年6月3日に大火砕流が発生、大災害となったのは記憶に残る。 地質学上の調査では推測される現象でしかなかったと云われる火砕流が、現実のものになったのである。当初発生した小規模であるが、現実の火砕流が発生したということ事態、衝撃的だったことから取材競争が過熱し、ここで世界で初めて鮮明な映像として記録された火山としても有名になった。 そして、その後に発生した大規模な「大火砕流」に、取材陣や警備担当者が巻き込まれた関係者も多く、本当の衝撃的事故が発生したのである。

火砕流とは・・・。
一言で云うと、「高温のマグマの細かい破片が、気体と混合しながら流れ下る現象」。
普賢岳の溶岩は粘度が高く、溶岩流となって流れ落ちるかわりに火口付近に大きな溶岩ドームを形成する。この巨大溶岩ドームが堪えきれずに崩壊する現象が火砕流である。 火砕流は高熱の火山岩塊、火山灰、軽石などが高温の火山ガス、そして周囲の空気を取り込み反応爆発を繰り返しながら山の斜面を流れ下る現象で、流下速度は時速100kmを越えることもあるという。また、極めて高温なため火山の噴火現象の中でももっとも危険なものの一つだという。
雲仙・普賢岳の最初の火砕流は、溶岩ドームが現れた平成3年5月20日から4日後に発生している。 次の平成3年6月3日に発生した大火砕流は、巨大な黒煙を上げながら水無川に沿って猛スピードで流れ落ち、北上木場地区を飲み込んだ。避難勧告地区内で警戒中の消防団員、警察官、取材中の報道関係者などが巻き込まれ、死者40人、行方不明3人という犠牲者を出した。また、人家や農地、山林などを広範囲に焼き尽くした。火砕流が非常な高温だったため、火砕流の本流に飲み込まれた人々は骨までも溶かされてしまったらしく、行方不明者は大半が遺体さえ見つけられないという珍しいケースとなった。
火砕流はその後も続き、6月8日には更に大規模な火砕流が発生、人的な被害はなかったものの火口から6km下流の国道57号付近まで到達し、207棟の家屋が焼失、倒壊した。9月15日には普賢岳北東斜面で最大規模の火砕流が発生、「おしが谷」を下り先端は上木場地区に到り、白谷町まで達したという。又、火砕流に伴う広範囲な熱風によって、深江町大野木場地区、島原市上木場地区で住宅・山林火災が発生し218棟が焼失、倒壊した。その後も火砕流は頻繁に発生し、噴火活動が終息するまで実に9432回の火砕流が発生したという。一日最多の記録では平成6年8月25日の68回が数えられるという。
溶岩の総噴出量は2億4千万立方メートル、福岡ドームの135杯分、東京ドームの190杯分。島原市民は何時果てるともしれない火砕流の恐怖とともに生活が続けられた。

雲仙山系の主峰・普賢岳(1359m)が、山域上部から噴火活動を開始したのは平成2年11月17日頃であった。 その後、断続的に噴火が起こり溶岩ドームを盛り上げ、新山を形成していった。後に「平成新山」と命名、こちらの方は旧山のそれより高く1489mもある。
現在、噴火活動はようやく収まり溶岩ドームも雄大な景観を持つ雲仙岳の一部となった。
今はまだ両者は別々の山体のように見えるが、やがて新山の方も雑木で覆われて、見る角度によっては双耳峰の様相を呈するようになるのではといわれる。
島原市は小浜町とともに、最初の溶岩ドームが出現して5年目を迎えた平成8年の5月20日に、このドーム部分を「平成新山」と名付け、長く続いた災害と新たな復興の記念としている。 平成新山の標高は、平成7年6月の1488mをピークに、現在はやや縮小して1482.7m(国土地理院火山基本図より)であり、それでも普賢岳の1359mを抜いて雲仙山系の最高峰になっている。 平成新山は火口から吹き出した溶岩が冷えて固まったもので、その容積は約1億立方メートル、実に東京ドーム84杯分と言われる熱い岩の固まりが出現したことになる。噴火活動は終息したが、平成新山の内部はいまだに高温を保っているという。

次回は、火砕流の赤裸々な被害痕跡が保存されてる、深江町「道の駅」

イメージ 1

イメージ 2

写真:雲仙地獄と新湯・共同湯



雲仙には、雲仙地獄を挟んで古湯と新湯がある・・、

昨夜、雨の音を聞いたようだ・・!、 目覚めて気がつくと、やはり小雨が降っている。 自宅をスタートしてから10日以上になるが、雨の日を迎えたのは初めてであった。 何となく水不足、雨を期待している四国、特に瀬戸内拠りのことを思い出した。 久方ぶりのお湿りで結構なことなんだが、今日の行程は実は雲仙の山地へ向かうため余り有難くはなかった。 雨模様なので慌てず、ゆっくり出かけることにした。

先ずは、いつものように朝湯、浴衣姿でのんびり朝食そしてテレビニュース。 来年のサッカー・ワールドカップ・ドイツ大会に向けて、数日後に迫った日本チームの最終予選の情報等盛んに報じていた。 いやはや実にのんびりで9時少々前の出発であり、体調も充分休んだせいか良好のようである。
宿舎のすぐ手前に、山上の雲仙から反対側山麓の島原方面へ抜ける国道51号線を走る。 雨に濡れて一段と濃さを増した緑の壁を気持ち良く車は進む。 フルタイムの四輪駆動車なので山道や濡れた路面、チョットの悪路は平気である。 ヘアーピンカーブが連続する難路も快調に走りぬく、頼りがいのあるマイカーも出発して既に3500kmを越えていた。 気が付くと空模様も何時しか山中の雲が切れ掛かって明るさを取り戻しているようだ、このまま晴れてくれ・・!。
山歩きを長年経験してきた小生であり、山の天気にかけては敏感である・・、と自認しているが。 一般に天気が下る時は高い方(山上の方)より、回復する時も高所より・・と山の頂上付近を観察する事により或る程度の予報が叶うと思っている。 端的に言うと富士山の山頂の天気は、近畿地方の天気と同質であるといわれる。 自宅でも窓から見える丹沢山系の東端・大山の様子を見てて或る程度の予測できる。  
ここは標高700m前後の雲仙山系で、既に山腹から山上尾根に達しようとしていた。 灰色の雲の動きも急がしそうで、その上に白雲がたなびいている、回復の兆しである。 
どうやら人家が見え始め別荘風の瀟洒な建物も見える。 既に火山性の硫黄臭が漂う国道をそのまま進むと雲仙のメインタウン・温泉街へ来たようである。 華やかさ、派手さはないが、土産屋や旅館が雰囲気よく並んでいる。 インフォメイション・センターで様子を伺いながら観光案内書を頂く、雨は上がったようであるがこの様子だと雲仙岳や標高1359m、あの普賢岳、妙見岳一帯の景観は残念ながら望めないだろう。

雲仙温泉には、古湯ゾーンと新湯ゾーンがあるらしい。 又、温泉街を取り巻くように火山性噴煙の上がる地獄が有り、「地獄めぐり」が楽しめるという、その地獄を覗にいこう。 新湯方面の最奥部、新湯ホテルの近くの駐車場に車を置く。朝早いせいか、広い置き場も小生の車のみであった。
この駐車場の奥が、地獄巡りの入り口でもあるようだ。雨に濡れたドウダンツツジや、蓮華ツツジの林の間に石畳が敷かれて、歩き易く良く整備されている。 進むと火山性のガスが燻って(くすぶって)荒涼とした岩肌が現れた、先ずは「邪見地獄」と銘打ってある。 見学路以外のところは進入防止、危険防止のため柵が施してある。 続いて「大叫喚地獄」という大層な名前の地獄に来た、鋭い噴気音と共に高々と白煙をたちのぼらせ、風によって左右になびき、こちらに向かってくるときは咽(むせ)そうになる。 灰色の熱湯地極池はゴボゴボと間歇的に吹き上がる、ここは雲仙で最も噴気活動が活発な地獄であろう。他にも数箇所の地獄があるが、展望地より周囲を眺めながら一旦戻ることにする。
次に古湯側から巡ってみよう・・、 
この辺りは国道を挟んで両サイドが地獄の様相を呈していた。 すぐ横の「湯けむり橋」からは岩の間からシューシューと噴煙が立ち上る。 その先には「清七地獄」というのが在った。江戸時代初期のキリシタン弾圧によって、キリシタン信仰の厚かった「清七」が、この雲仙の地において拷問されたときに噴出したといわれる地獄だという。 この地は江戸期にキリスト教が禁止されていた時代、大叫喚地獄と合わせて異教徒の刑場として使われたところであり、キリシタン殉教の地でもあるという。 
「真知子岩」というのもあった・・、昭和29年、この年は雲仙が国立公園に指定されてから20年の記念の年であった。当時、最大の話題でもあった映画「君の名は」のロケが雲仙であり、佐田啓二、岸恵子という美男美女が来雲して、この地で撮影があったらしく、これらを記念して命名されたらしい。 菊田一夫の小説・「君の名は」で大ヒットした映画で、我々往年の世代は昭和初期のラジオドラマで、放送が始まると銭湯が空になったという曰く付きの物語であった。岩には記念の石版が埋め込まれている。 「お糸地獄」は江戸時代、お糸という女性が不義密通をし、更に亭主殺したという事件が起こった。このドロドロした状態をなぞらえて命名したのだろう・・?、罰として、亭主殺しの「お糸は」こんな地獄に落されたのかも・・?。 
遊歩道の山肌には、品形良く「ミヤマキリシマ(雲仙ツツジ)」が枝を伸ばしていた。 本来なら今が花の見頃であるはずだが、噴気地獄で気温が高いせいか、既に赤紫の小振りな花は終わっていた。 

温泉街の北の外れ、左に向けると、「鴛鴦の池」(おしどりのいけ)とも呼ばれる静観の地があった。人っ子一人いない静寂の地、池は鏡面のように光っていて、周囲は靄(もや)が漂っている。 鴛鴦の池と書いて何て読むのか、薄学の小生が疑問に思ったが「おしどり」の池と称するらしい。さすがに“おしどり”こそ見受けられないが、この湖畔に立ち静かに瞑想をするとき、先ほどまで地球の胎動、地獄の噴出しを真近に接したので、この「寂」とした自然の好対照さに驚きながらも安堵を覚えるのである。 まもなくやって来るだろうと思われる、湖水に浮かぶ「おしどり」に思いを馳せる。
この後は、初めに訪れた「新湯」の共同浴場で噴煙の垢を落そう。 
雲仙にある3か所の共同浴場の一つでもある。一見したところ民家のような建物で、湯番は常駐しているが、あらかじめ近くの小店で入浴券を買うシステムになっている、入浴料は100円で激安。 素朴な石張りの浴室に長方形の湯船があり、白濁したお湯が満たされている。地獄から引き湯したものだそうで、強い硫化水素臭が心地良い。源泉は噴気泉を直接利用しているらしく、ろ過して使用しているので肌ざわりが柔らかい。主に、地元の人々が利用しているらしいが、我々観光客も気軽に利用できる。

雲仙の歴史について・・、
雲仙山系は古くは「肥前国風土記」で「高来峰」(古来より現在まで、この地方を高来郡と称し、島原半島を南高来郡、諫早・大村地方は北高来郡である)と呼ばれていた山であり、温泉についての記述もある。雲仙は、元々はただ「温泉」と表記され「うんぜん」と読ませていたらしいが、国立公園指定の際に現在の表記に改められたという。 
奈良期(701年)に行基(奈良時代の高僧)が大乗院満明寺を開いたことが伝えられている。この満明寺の号が「温泉(うんぜん)山」であることからも、以後、温泉(うんぜん)つまり雲仙は、霊山として山岳信仰(修験道)でも多いに栄えたところでもある。
又、行基は同時に四面宮(現、温泉の主神・雲仙神社)を開いたといわれている。 祭神は、「古事記」によれば筑紫島(九州)の神をあらわす「一身四面」の神だという。この神社は上古(大和朝廷から奈良期)には温泉神社、中古(平安期)には四面宮と称されていたが、1869年(明治2年)の神社改正により筑紫国魂神社と改称され、1915年(大正4年)の県社昇格に際して温泉神社に戻したという。
四面宮(しめんぐう)とは、 地元民より「お四面様、お四面さん」と呼ばれて親しまれている。 四面宮と称したのは、日別命(ヒワケノミコト)と言われる一つの神体に、其々四つの神の面をもつことから言われる。
古事記には、島々の生成説話に伊耶那岐命、伊耶那美命の国生み譚があり、これによると淡路島、四国、隠岐の島の次に「九州島」を生んだとある。つまり「面四つ」あるとし、筑紫を白日別、豊の国を豐日別、肥の国を建日向日豊土比泥別、熊曾の国を建日別と言うとある。日別命は、筑紫の国魂であるとされる由縁である。 又、日別命というのは出雲系の神々であり、大国主に関係が有ると言われる。大国主の誕生地は有明海に臨む島原半島、雲仙岳の麓であると言う説もあるらしい・・?。
菩薩と言われる「行基」が満明寺を開いた後、同地に出雲の神に遭遇したことから、畏れながら「四面宮」を造営したともいわれる。 島原半島の中には出雲系の大国主神を祀る「諫早神社」(四面宮の勧請といわれる)をはじめ、10数の分社があるという。 邪推であるが、雲仙より出し大国主が、「出雲」と命名して国を拓いたというのは、何か共通性を感ずるが・・?、尤も、出雲を開いたのは大国主の父神であるスサノウであるが・・!。
 
その温泉神社は雲仙温泉郷のまっただ中、隣は噴気の沸き出している地獄巡りの散歩道があるところに鎮座してる。 此れより少し離れたところに摂社・木花開耶姫神社( コノハナサクヤヒメ:天孫・ニニギの妻)が座している。 当社には男女の巨大なシンボルが鎮座しているといい。この社は元禄の頃より祀られたもので向かって右に女陰、左に男根があって思わずギョッとさせられるという。 男は挙(こぞ)って自分の持ち物が大きく、太く、逞しくあるように祈り、また女性は「あなオソロシ」とため息をつきながら祈る、そうするとご利益が有るとされる。 この男根女陰崇拝の風習は長く伝えらてきて、参拝者は家内安全、男女和合、子宝また良縁の神として拝むべしと記されている。
国道を隔てた向かい側に古刹「満明寺」がある。
勅許を受けて僧・行基は「大乗院満明寺」を開基し、四面宮(温泉神社)をあわせて祀り山号を「温泉山」としたとされている。高僧・行基は宝平元年(749年)、雲仙の地で入寂(寂滅に入ること、僧の死をいう)したと伝えられている。 満明寺は一時、比叡山、高野山とともに天下の三山と云われ、千人の僧を集め、雲仙一帯を霊場として世の崇敬を集めていたともいわれる。 寛永14年(1637) 島原の乱では、僧の中にも一揆に加わるものが出たため、島原藩主・松倉重政によって滅ぼされたという。「地獄」はキリシタンの弾圧の舞台にもなり、多くの命が失われたのもこの地、この頃だと云われてる。

実際、雲仙温泉の事始は1653年(承応2年)に加藤善右衛門が開湯したとされ、民衆の共同湯として初めて「延暦の湯」を起こしたと石碑にはある。 
雲仙は水蒸気が噴出して硫黄の臭いがたちこめる光景が地獄と形容され、昭和2年頃、日本新八景山岳の部で1位になり、昭和9年には我が国で最初の国立公園に指定された。 天然記念物の群落である地獄一帯のシロドウダン群落、池の原のミヤマキリシマ群落(ウンゼンツツジ)や野岳のイヌツゲ群落と活火山特有の植物など、まるで自然の大図鑑である。
又、明治以降、ヨーロッパや上海の長崎に住む外国人の避暑地としても賑わった歴史も有る。 春の雲仙はピンク色のミヤマキリシマに埋め尽くされ、夏は当たり一面緑の息吹、秋は燃えるような鮮やかな紅葉が山肌を染め、冬は真っ白の世界に輝き、太陽に映えまる。
雲仙は、四季それそれの日本の自然の美しさを楽しませてくれる パノラマスクリーンであり、 又、どの季節も心地好い温泉に浸りながら、存分にリラックスできる世界でもある。

次回は平成の新山「雲仙・普賢岳」

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
orimasa
orimasa
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事