『日本周遊紀行』

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長崎県

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                   写真:小浜温泉街



海岸に沿った街中から、100度の源泉が湧く肥前・小浜温泉・・、

千々石町は国見町、瑞穂町、吾妻町、愛野町、小浜町、南串山町の同程度の7町域が大同合体の構成組織となり、平成17年10月11日に「雲仙市」となった。
一走りで小浜の温泉地へ着いたようである、珍しく海岸に湧く温泉地である。海岸沿いに国道がほぼ直線に走り、海辺に良く整備された公園が細長く道路と平行している、その右はもう波打ち際の海岸線である。 
小浜温泉は、街のいたるところに白煙(水蒸気)が上がっている。 近付いて視ると民家の(小規模な旅館・・?)すぐ前に、コンクリートとブロックを二階の窓くらいの高さまで造り上げた四角いタワーが在り、そこからモウモウと蒸気が漏れて吹き上がっている。(タワーは温泉水と蒸気を分離する施設)上部から耐熱用の赤い塩ビ管が数本、取り出し用に設置してあり、地中に潜っている。下には湯溜りが有って、そこには「タマゴ、湯とおしはご自由に、どうぞ・・」とある。
この小浜には源泉が20数ヵ所確認されているといい、ここはその中の一つであろう。 商店街の通りから一つ入った小さな路地であるが、水蒸気をあげた源泉のすさまじさに圧倒される。 小浜温泉街は「源泉巡り」の散歩も楽しみの一つかもしれない。

この温泉町には、所謂、高級・大規模のホテルや旅館はあまり見当たらず、観光地化されてない比較的庶民的な温泉、湯治場風の面影を残しているようである。 源泉温度100度、一日の湧出量15,000トン、泉質はナトリウム含有泉。神経系疾患、婦人病、リウマチ、胃腸病、呼吸器病などに効果があるという。
昭和37年には既に国民保養温泉地に指定されていて、雲仙温泉の指定範囲拡大の際に小浜温泉の範囲も国民保養温泉地に指定されたという。 尤も、島原半島そのものが、雲仙火山群(昨今では普賢岳の大爆発が記憶に新らしい・・、後記)で形成されたもので、大活火山の島なのであるから。
町中をゆっくり周遊して、お目当ての共同浴場へ向かう。 海岸沿いの町営「浜の湯」を訪ねてみた。 自動販売機で150円の入湯券を購入広い浴室内へ、夕刻で適当な時間帯のせいか結構な人数が湯浴みを楽しんでいる。 浴室はかなり広く、浴槽は二つがつながっている。左側が「ぬるめの湯」、右側が「あつめの湯」と表示され、源泉の流入口の脇にそれぞれ水道の蛇口があって、水で薄めて浴槽の温度調節をしているようである。何しろ源泉温度が100度では水で薄めざるをえない。 小生は、ぬるめの湯のほうが常に適温である、舐めるとやや塩っぱいのは海に近いせいかもしれない、無色透明で無臭のようである。

雲仙岳山麓の橘湾に面した海岸に湧出する小浜海浜温泉の歴史は「肥前風土記」(713年)にも記されているほど古く、既に、江戸時代には湯治場として利用されるようになったと言われている。 大正12年から昭和13年までは鉄道が開通(小浜鉄道は、1932年に廃線)、多くの観光客がこの地を訪れ、山上の雲仙温泉街までの道路(現、国道57号線)が整備されてきたのもこの時代。
全国の温泉の中でも湧き出す温度が高く源泉も数多い。 昔は海辺の砂浜を掘ると温泉が湧き出たというが・・。 かの長崎居留のシーボルトは、著書「ニッポン」の中で、「温泉嶽の麓、島原の西海岸に接して病を癒す効力ありとして名なる温泉あり。その近くなる漁村の名を取りて小浜という。ここは満潮時には海水来り、被うを特異とす。ひびきも立てず沸き立つこともなく、岩の底より湧くを浴場に導き来るなり。温度はおよそ華氏の90度にして色は清く泉水の如く透明なり・・」と記している。
長崎大学医学部にいた歌人・斉藤茂吉は、この地で湯楽・愉楽しながら橘湾に沈む夕日の美しい風景を詠んでいる。
   
『 ここに来て 落日を見るを 常とせり 
海の落日も 忘れざるべし 』

海岸国道を更に行った小浜の中心街から、やや外れの海沿いに今夜の目的地・国民宿舎「望洋荘」があった。 部屋から眺める夕日が素晴らしい! 風呂は、大浴場、穴風呂(単なるトンネル?)、ジェットバス、うたせ湯、露天風呂等があり賑やかである。 一通りの湯浴みをし、食事は勿論海鮮料理を主体とした「御造り」で、お酒と一緒に美味しく頂きました。
気が付かなかったが温泉街中の海辺に、「波の湯・茜」という新しく出来た町営の温泉場があり、海上露天風呂も在って料金300円で入れるらしい。

次回、今度は雲上の温泉・「雲仙」

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            写真:諫早干拓の潮受堤防と水門



諫早干拓の堤防はやはり巨大だった。しかし、・・、

眼鏡橋から一旦出島まで戻って、付近の市立病院横に入口がある「出島長崎道」で一路諫早に向かう。 
諫早は県の中央部というか・・?、市域は逆T形の中心に位置し、西側に長崎半島、南側は島原半島それに北側は大村半島・・?のそれぞれ三半島の付け根にあたる。又、西側に大村湾、東側に有明海(諫早湾)そして南側には橘湾の・・、何と海域も三つの海に囲まれている。これはもう、地形的には相当珍しい部類に入るだろう。
そして諫早と言ったら、やはり有明・諫早湾の干拓で、この事業で物議を提供している所でもある。
「あの水門が、ギロチンの様に端から閉じられる映像は衝撃的だった・・!」
諫早湾の状態やギロチン水門を見ようと思い、地図を見ながら行ったがなかなか海岸線にはたどり着けない。国道から海岸線までは遠く、勿論、過去に干拓された広大な農地が広がっているためで、それに海岸・・?へ行くための道は余り整備されていないようだ、場所が違ったかな・・?。 近所の人に伺うと「この先、車じゃ行けないし、行っても、それからかなりあり堤防は見えないよ・・、堤防見るにゃ湾の向こう側、国道251を行くだよ・・」と言う。
言われるままその国道を行く。半島先端の島原へ通じている島原鉄道が並行して走っている。吾妻町の平江地区まで来て、コンビニで堰堤の様子を聞くと・・、
「踏み切り渡って、真直ぐ行くと直ぐだよ」
「車で行けますか・・?」
「車でって、堰堤には立派な道路が付いていて、向こう岸の高来町まで行けるようになりますよ」
言われた踏み切りを渡ると真ッ直線に延びた堤防があった。上部には立派な道路も取り付けられている。入口部には工事用のバリケードが置いてあったが、何とか通れそうなので進めてみた、途中水門近くに大きな駐車場があり、ここまでは進入できたが、水門から先は未だ工事中なのか、完全に通行止めであった。(2007年12月に全面開通)
この堰堤道路は全長7km、この道路は農産物輸送の合理化、新たな観光ルートの開発、地域間交流の促進を目的に潮受堤防を一般交通として利用するもので、島原半島一帯と多良岳山麓一帯を連絡するものであるという。

しかし、ここでは道路の話ではなく、堤防と干拓のことである・・、
両海面を見ると明らかにその差異が判る、外洋は普通の青く澄んだ海であるが、閉ざされた内海は灰色に澱んでいた。これらの海水はやがて干拓され広大な新規の土地が出現するのだろう・・?。
堰堤工事は1989年より「国営諫早湾干拓事業」として行われ、1997年に潮受け堤防が完全に閉じられた、例のギロチン閉門である。 干拓計画では、農用地面積は約816ha(東京ドーム200個分)、作農種は露地野菜、施設野菜、花木、酪農、肉用牛など(やはり米は含まれないようだ)、他に調整池が約2,600ha で事業費は凡そ2,500億円といわれる。
水門が閉鎖されたその後、かつては「宝の海」と言われた有明海は海底への泥の沈殿、水質汚染が生じて有明海全体が死の海と化し、二枚貝タイラギが死滅、奇形魚の増加、海苔の色落ちなど重大な漁業被害が発生したとして、自然保護団体のみならず沿岸の各漁協の猛反対にあっている。しかし魚類の漁獲減少や水質汚濁には、海苔養殖業者が消毒目的に散布した酸や化学肥料による影響との主張もあり、海苔養殖業者と他の漁業者との紛争も発生しているという。
克っての海だったところで干上がった地面には、海の生物の腐った匂い、白いフジツボの死骸、放置されて漁船、養殖用の朽ちた立杭、地面は干からびて、ひびが走っていた。 

有明湾干拓について・・、
干拓の目的は防災と優良農地の造成なのだそうだが、防災は高潮などに伴う低地の浸水を防ぐこと、農地については長崎県は三方を海に囲まれ、まとまった平野がないため水田・畑作のための農地不足の解消が長年の課題であった。
諫早の干拓事業の歴史古く、江戸時代や明治〜昭和期には既に行われていて今は農業用地、住宅等に既に利用されている。 最も古い干拓は、推古天皇の頃(593〜629年)に開かれたともいわれている。 
平成の干拓は国の公共事業の一つで非常に大規模なものであり、「潮受け堤防」は全長が約7キロもあるという。 同湾の堤防が閉め切られてから9年(1997年)となるが、閉め切り当初は沿岸から堤防までの海域は6 ,7kmあったが、現時点では1km前後と干潟が発達してきているという。
有明海・諫早湾の潮の干満変動差は日本でも有数で、最大約6m(我が国最大といわれる)もあるという。因みに、東京湾では2m程度しかない。 このため、諫早湾は日本においても独特な海域であり美しい自然と海の幸を提供してきた反面、この干満の大きさと遠浅な地形のために湾奥部では有明海から運ばれる土・粒子が堆積しやすく、干潟が発達しやすい。 干潮時には海岸線から5〜7kmの沖合にまで干潟となって露出し、干潟は多いところでは年に約5cm、平均でも数cm成長するという。
因みに、「干拓」と「埋め立て」の違いは新たに土を持ってくるか、来ないかにあるとされる。干拓は字の如く新たな土壌を持ってくるのではなく、海底土を乾かして耕土にする、そのため海水の塩分を多く含んでおり除塩の為の土壌改良が必要になる。 一時騒がれた海苔の不作、有明海の環境変化など、この干拓事業との因果関係については様々な説が飛び交い、一時期、工事停止の司法判断でも「関係がないとは言い切れない」ということで、誰も、はっきりとした事は判らないといわれる。
平成の諫早干拓は、まだまだ物議が出そうである・・!。

諫早干拓の地、堤防を後にして国道57号(国道251と一部併用)まで戻り、今夜の泊まり小浜温泉へ向かう。国道57号は、長崎市から大分県大分市へ至る一般国道で、島原半島の雲仙山域から島原市へ到り、熊本県宇城市三角町までは有明・島原湾の海上ルートを通っている。 小生が辿る予定の小浜から、明日の熊本方面への予定のコースでもある。
愛野町の橘湾の海岸近くから251号線がY字路になって合流し、このまま小浜方面へ向かう。気が付くとこの辺りは霧島半島(島原半島)の付け根にあたり、この国道(R251・島原街道)は半島をグルッと一周りして、又この地へ戻っているのである、久しぶりに、奇麗な砂浜の千々石海岸を見た。今朝から、激しい入り江や出島の入り組んだ海辺や高低差のある断崖の所謂、リアス形の海岸を見慣れてきただけに、小波が寄せる、輝く白砂の海岸は気持ちが広やかになる。
千々石と書いて「チチイシ」と読むと思ったが実は「チジワ」と読むらしい、難解である。 海岸から一時、内陸、山間へ向かうようである。ここから望む霧島山系の高峰が美しい。 気がつくと霧島の火山岩であろうか石を積み上げ、垣を造り上げ、きれいに整備された棚田群である。 田圃の畦や段差は今ではすぐにコンクリートで固めてしまうのが普通であろうが、こちらではほぼ同じ大きさの石を積み上げることで土地を上手に使っているのが分かる。 一望すると民家の周りはほとんど棚田の田圃で、かなり高方まで山の端をかけあがているのが判る。 棚田の田圃は緑の稲波が風にそよいでいる、一部畑もあるようだが。
清流にも恵まれた「棚田」では、山あいの昼夜の気温差が大きく、美味な米が収穫されるという、特に千々石町の「棚田米」は県内でも高い評価を得ているという。 また、「じゃが芋」は北海道に次いで全国第2位の生産量を誇る。長崎県では「ばれいしょ」と称しているらしいが、ここ千々石町においても春と秋の二期作を基本として育成に取り組み、ほぼ一年中おいしい「ばれいしょ」を提供できるという。
千々石の棚田は水田枚数約6500枚、傾斜度は20度から40度、大体180年の歴史が有るという。「日本の棚田百選」に認定され、岳地区の棚田、清水の棚田とある。
棚田は食料を生産する場としてだけではなく、山から流れ込む水を蓄え、ダムの代わりをなし土砂崩壊防止も果たしている。 同時に山の斜面や丘陵地に段々と折り重なり、側溝からは、せせらぎを見聞きすること出来、四季折々の風物を見せてくれる。 棚田の美しさは、心にやすらぎを与えてくれる日本人の原風景でもあろう。

次回は、「小浜温泉」

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写真:長崎名所「眼鏡橋」(下部「袋橋」から望む)と磁器版の案内図



眼鏡橋をはじめ各石橋は、寺町各寺院に直結していた・・、

先ず、長崎中華街・・、
出島の直ぐ隣に新地・長崎中華街がある。横浜中華街、神戸南京町とともに日本三大中華街と称される。
江戸時代の鎖国下でも長崎はオランダの他、対中貿易港としても認められていて、最盛時には約1万人の福建省出身者を中心とした中国人が長崎市中に住居していた。当時の長崎の人口は7万人であったから、いかに華僑(かきょう・外地に住みながら、中国の国籍を持つ漢民族)が多かったかが判る。中国人の住居は丘陵地の唐人屋敷に限定されたが、1698年の大火のため焼失、唐人屋敷前面の海を埋め立てて倉庫区域を造成した。そして在住中国人は海岸に近い新地に移り住むようになった、これが長崎新地中華街の起源という。
近代になって福建省福州市の協力によって石畳が敷かれ、中華料理店や中国雑貨店など約40軒が軒を連ねる中華街となり、四方には中華門も立てられた。長崎は中国色が濃いのは中華街だけに限らず、長崎の町には長崎くんち、精霊流し、ペーロンなど中国色の強い祭りが行われ、孔子廟や崇福寺(寺町にある長崎唐風三福寺の一つ)のような唐寺も多いのである。

出島が面する「中島川」の、その上流に長崎名物「眼鏡橋」が在る。出島から、長崎軌道(市電)に沿って中島川を上流方向へ、「賑橋」まで車を進めてみた。
その前に・・、
中島川の東側の風頭山山麓に寺町通りと称して、十幾つの立派な寺院がほぼ横一列に並んで建っている。中でも中国唐風の黄檗宗(臨済宗、曹洞宗に次ぐ禅宗の一つで明朝風様式を伝えている。大本山は、京都府宇治市の黄檗山・萬福寺)の寺院で興福寺、崇福寺、福済寺という異色あふれる壮大な寺院は「長崎三福寺」ともいわている。
寺院建設には訳が有って、幕府によるキリシタン弾圧のための策略があったといわれる。鎖国令が発布される少し前、キリスト教禁止令を出した幕府は、それまであった11のキリスト教の教会・寺院をことごとく取り壊し、変わりに仏教寺院を建てまくったといわれる。
(明治期における廃仏毀釈に類似する・・?)長崎の仏教は、幕府から手厚い保護を受けてきたようで日蓮宗をはじめ浄土宗の寺など、それぞれに堂々とした門構えで建っている。
序ながら、この寺院群の奥まったところ、深崇寺という寺の横の斜面(「竜馬通り」の名が付く)に沿った場所に、坂本龍馬の「亀山社中」の跡にたどり着く。慶応元年、龍馬は浪士たちを集めて船舶貿易の社中(結社、会社)を結成する。これは日本最初の商社、兼、私設海軍で、後の海援隊である。亀山というのは、その山の一角の名前なのだろう・・。(竜馬については、土佐の高知に詳細あり・・、)
又、長崎の寺町通りの入り口辺りが歌でも有名になった「思案橋」があり、路面電車に思案橋という駅もある。 江戸の吉原、京の島原とともに、日本三大遊郭(三場所)の一つとして知られている長崎の「丸山」はこの辺りである。 丸山には主に長崎の町民や上方の商人が多く出入りしていたらしいが、特に丸山の遊女は唐人屋敷やオランダ出島への出入りが許され、異国人との交流があったともいう。 「思案橋」の名は、“行こうか戻ろか”と思案しながら思案橋を渡り、男達は遊郭の入口「二重門」が見える場所にあった「思切橋」で立ち止まり、この橋の欄干に刻まれてある“思切”の文字で迷いを打ち消し、決意を固めこの橋を渡り二重門を潜ったという。 思案橋と思切橋がバランスをとって架かっているのがまた洒落ていて、酔い・・?。

さて、長崎の主な町人の街は今の賑町、栄町、魚町、桜町といった辺りであろうが、寺町の各寺院へ参詣に行くには真ん中に中島川が流れ、通行を遮断していたのである。 その為、江戸初期には克って架かっていた木橋、木廊橋(屋根付きの橋)が次々と石橋に架け替えられたという。この長崎の石橋は中国人が多く関わっているといわれる。先ず「高一覧」(日本・中国語の通詞、通訳)が独力で1650年に大手橋を架けて以来、中国人同士の競争意識が働き石橋群が生まれたという。これらの唐風石橋群は長崎町人たちの生活の道であり、寺町の仏寺院に参詣に行く参道としての重要な役割を果たしてきた。
中島川の上流から下流まで石橋群は18橋ほどあるが5キロほどの短い川に架けられた数としては他に例を見ないという。 過剰気味のこれらの橋は僧侶、通詞(外交官、通訳)、商人などの個人の財力で造られたといい、長崎が鎖国時代唯一の外国貿易港であり、天領であった豊さを物語っているともいえる。

その眼鏡橋であるが・・、
長崎市電(長崎電軌線)の賑橋駅(にぎわいはし)から直に、その「眼鏡橋」が架かっている。中島川に架かる第10橋で、眼鏡橋の名称は川面に映った影が双円を描き、眼鏡のように見えることから、その名の由来といわれている。 昔より「錦帯橋(山口県岩国)」、「日本橋(東京)」とともに日本三名橋の一つとして名高い。
眼鏡橋は1634年(寛永11)、興福寺二代住持、唐僧の黙子如定(もくす にょじょう:江西省出身)の技術指導で架設されたともいわれ、日本最初のアーチ式石橋でその石橋建造技術は全国の規範となったといわれる。昭和35年に眼鏡橋は国指定重要文化財となっている。
その他の石橋も昭和46年には阿弥陀橋、高麗橋、桃渓橋など、10の橋が市指定文化財に指定されている。 だが元々、橋銘は今のような名前はなく、阿弥陀橋を「第一橋」として上流から順に「第二橋」、「第三橋」と番号で呼んでいたらしい。現在の橋銘は明治15年頃に長崎の儒学者(漢学)の西道仙(にし どうせん:明治時代のジャーナリスト・政治家・教育家・医者)が付けたものが大部分と言われる。
眼鏡橋の傍には磁器焼き物で設えた「石橋群案内図」があり、これを見ると各石橋は寺町の其々の寺院に直結しているのが判る。
因みに、この国宝・眼鏡橋を真直ぐ寺町方向へ進むと多くの寺が建ち並んでいる一角である「晧大寺」( こうだいじ)に突き当たる。 長崎でも名の知れた寺らしく、晧大寺のすぐ右が大音寺(だいおんじ)であり、それに、長崎駅近辺(筑後町)の「本蓮寺」(勝海舟が長崎海軍伝習所時代にここに住んでいた)の三寺院を合わせて長崎の三大寺院とも言われているようである。
そして晧大寺を特に有名にしているのは先の大浦天主堂の項でも記したが、イエズス会宣教師・クリストヴァン・フェレイラ教父が、時の政権に改宗するように「穴吊り」の拷問をうけ、棄教して仏門に入ったとされ。 仏教徒に無理矢理に転宗させられた後の彼の檀那寺(自分の家が帰依して檀家となっている寺)が「晧大寺」であったという。


長崎市内見物を終えて・・?、と言いたいところだが表面的な周遊観光したに過ぎない。
長崎という街は、実際はまだまだ歴史的見所が多く奥が深いのである。 何せ、原爆被爆という、とてつもない体験をしている事に加え、顕著なのが長崎は日本で唯一、開国の天領だったところでもある。江戸期のわが国は鎖国時代で、外部外国の情報やら物資は一切見聞きすることは無かった。ところがここ長崎は、アジアに代表される中国、ヨーロッパに代表されるオランダとの交流交易が堂々たる認可の下で行われていたのである。そして、それらに関する歴史的遺構、現存施設や建物が町中に集積、又は拡散しているのである。
これらに興味があって長崎市内を隈なく観光、観察するには、とても3、4日では巡りきれないのではないか・・?とも思われ、実感した次第である。

次回は「諫早」
尚、『日本周遊紀行』について御感想をお待ちしてます。
又、誤解や誤文が有りましたら御一報ください。
メール orimasa2001@yahoo.co.jp

長崎は、チャンポン文化の先駆けであった・・?、

長崎・チャンポン・・、というと「リンガーハット」でもあり、この事は先にも触れた。
我が家の近くにも「リンガーハット」という中華風の食事屋さんがある。 実はこの会社・食事屋さんの株を少々持っているので、食事の株主優待券が定期的に送られてくる。この券を利用して家族・身内と会食するのだが、注文する定番が、チャンポンや皿ウドンといったものである。 
チャンポンとは、元々「長崎チャンポン」で銘打って、全国に展開している長崎名物の中華風料理のことである。 大元の元祖は大浦地区にある「四海樓」であると言われている。 長崎チャンポンとは明治32年、長崎の中国料理店にて生まれた国民食で、初代・陳平順氏が長崎にやってくる中国人留学生のために、「うまくてボリュームがあり、栄養価が高く安価なメニューを」と始めたのがルーツだという。

長崎は江戸期、鎖国制を敷く中、日本で唯一の国際貿易港であった。 従って、諸外国より多様な生活文化が長崎を通して、日本に移入、伝播、定着していった。 例で言うと、いかにも純日本風の「天婦羅」は、蘭語(オランダ語)で獣肉、魚類、卵を加工したものあり、似た様な物で、長崎で作られ後に江戸に伝わった「すきやき」も長崎である。  日本人は昔は牛肉を食べなかったことはよく聞く話だが、外国人(欧州、中国等・・)の多かった長崎では日本人も一緒になって食していたという。 そして、現在、全国で名の通った長崎名物「チャンポン」や「皿ウドン」は中国の料理を元に明治期に作られたオリジナルであるという。 
「チャンポン」という名称は、中国語説、ポルトガル語説、日本語説と未だ定説ではなく、所謂、チャンポン説である。 チャンポンは肉類、魚介類、野菜を混ぜ合わして調理する、つまりチャンポン状態にする・・混ぜ合わせるという意味で、今では、“お酒をチャンポンで飲んだ・・”という、形容詞的日本語にもなっている。
尚、この「ちゃんぽん」なる単語は朝鮮語にもあり、同じく「混ぜる」、「混ぜたもの(料理)」という意味を持つという。また沖縄県で同じ意味の「チャンプルー」はインドネシア語やマレー語にも存在するが、「チャンポン」と「チャンプルー」は同語源と考えられ、由来としては諸説ある。また、沖縄では「チャンプルー」をご飯の上に盛った料理を「ちゃんぽん」と呼ぶこともあるという。
この他に、長崎を通じて全国に広まった外来語はペンキ(先に述べた)、ボウリング、ビリヤード、ソロバン、ボタン・・と、お馴染みの品々で多種にわたる。
方言・長崎弁の代表格である「ばってん」(しかしながら・・、だがしかし・・)は「But、Then」からきているし、「くらすける」(殴る・・)は「Crush」からきているというが・・?
長崎は、外国文化と日本文化が入り混じった、云わば、「チャンポン文化」の先駆けであった。

「長崎ぶらぶら節」・・、
長崎・「出島」に隣接して、長崎チャンポンの中華街が在り、丸山、思案橋のタウンがある。  「長崎に丸山といふ処なくば 上方の金銀無事に帰宅すべし」(長崎に丸山という場所さえ無ければおエライさん方も 金を使わないで無事家に帰れただろうに・・)と、かつて井原西鶴が言ったというくらい当時、大変な賑わいぶりだったらしい。 幕末の志士(坂本竜馬、高杉晋作…)や長崎にやってきた外国人(シーボルト…)など歴史上の多くの有名人がここで遊んだという。(次回にも述べます)
その跡地を見て回ろうというのが、「長崎丸山ぶらぶら散策」である。  
はじめは「思案橋」から・・、当時、丸山の入り口には橋が掛かっており、色欲に駆られた男どもは、「行こうか?、行くまいか?・・」と橋の手前でさんざん迷ったため、付いた名前が「思案橋」という。この丸山界隈を描いた作家(作詞家)・なかにし礼が「長崎ぶらぶら節」を著し、直木賞を受賞している。2000年(平成12年)、オランダとの交流400周年という記念すべき年を迎える長崎でのロケを経て、東映で映画化もされた。 
「長崎ぶらぶら節」とは、江戸・嘉永年間に流行したといわれる長崎の歌の名前のことで、(長崎民謡)大正というデモクラシーの時代において、この失われつつある長崎の歌を発掘し、後の世に語り伝えようとした一人の学者と一人の芸者が登場している。
「愛八(あげはち:本名・松尾サダ)は、明治から昭和初期にかけて実在した女性である。 小さい頃から男まさりで、器量もけっして良いとは言えない女性であったが、それを補って余りある歌唱力と三味線の腕によって、五十歳を目前にしながら今もなお丸山のなかで五指に入るほどの名妓として、その名をはせていた。
愛八が人生で初めて本当の恋を見出した相手は、長崎の歴史研究に全てをかけた学者・古賀十二郎(渡哲也)であった。 古賀は、遊び人でありながら、同時に長崎の対外交渉史の研究に関する第一人者であり、芸者の総揚げなどという馬鹿をやって家の財産を浪費するかと思えば、学問に対する情熱を熱く語ったりする無邪気さ、高尚さがあった。
古賀と愛八が二人きりで、長崎に眠る数々の名もなき歌を探す旅・・、世の中から忘れ去られた名曲「長崎ぶらぶら節」との出会い・・、そして両親のいない貧しい少女・お雪をはじめ、全ての人々に捧げた無償の愛・・。
なかにし礼氏が描いた数奇な女の一生を「吉永小百合」が演じている。
「歌というのは、詩と音楽によって生み出される芸術であり、詩だけでも、また音楽だけでもけっして成り立たない・・、」という、古賀十二郎と原作のなかにし氏とが重なる。       

『長崎ぶらぶら節』  長崎県民謡
長崎名物 凧(はた)あげ盆まつり
秋はお諏訪(すわ)の シャギリで
氏子が ぶうらぶら
ぶらり ぶらりと
言うたもんだいちゅう

遊びに行くなら 花月(かげつ)か仲の茶屋
梅園(うめぞの)裏門 たたいて
丸山 ぶうらぶら
ぶらり ぶらりと
言うたもんだいちゅう

引き続き、長崎名物「眼鏡橋」・・、

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写真:出島の概要図(資料より)



鎖国時代の江戸期、長崎・出島は日本で唯一の貿易の拠点だった・・、

長崎市街の中心部、深く入り組んだ長崎港の最奥部に中島川が流れ込む。その湾口部の中島川に沿って再建中で新装成りつつある「出島」があった。
この一角だけフェンスに囲まれて一種異様な雰囲気を出している。出入り口は2箇所あって小生は海側から入門することにした。車の駐車に難儀したが電車道の向こうにローソンが在ったので、こっそり置いてもらいことにした。
洒落た石畳が施された通路の両側の建物群は古いようで新しく、奇妙な感じでもある。出島資料館、一番蔵、二番蔵、一番船船頭部屋建物群などは殆どが復元、再現されていて当時の西欧人(オランダ人)たちの生活が少しでも垣間見ることが出来る。一番の注目は、やはり出島の長として君臨したオランダ商館長の「カピタンの屋敷」であろう、日本の大名や役人を接待した部屋など、さすがに最大規模を誇る。
順次見て回った左奥に日本人好みの庭園が設えてあった。その一角に「ミニ出島」といって縮尺15分の1で当時の出島の様子を再現した模型であった。 復元された表門は、出島への出入りがいかに厳しいものであったかを窺わせる立派な構えである。
出島の規模、広さは資料によると幅・約70メートル、長さ190メートル、周囲約563メートルの扇形で、総面積は約15,000平方メートルで東京ドームの3分の1、日本武道館とほぼ同じ大きさだという。意外と小さく狭い区域であった、この狭い地に半ば拘束されながら住んでいた欧人達に、同情の念をも感じてしまうが・・?。

周知のごとく江戸期は鎖国の時代であり、日本は他の外国との外交、通商は一切行っていなかった。しかし、長崎だけは例外であった。 
日本は秀吉の安土桃山時代にはポルトガルとの間の南蛮貿易(ポルトガル、スペイン)が行われ、引き続き江戸時代に入り鎖国が成立した後もポルトガル、オランダなどとは貿易が行われていた。貿易拠点は平戸と長崎の「出島」であった。 出島はオランダ商館と幕府の共同の貿易拠点であり、貿易に従事するオランダ商館員の居住空間でもあった。
寛永13年(1636)、幕府はポルトガル人によるキリスト教の布教を禁止するために、長崎の有力町人に命じて人工の島を築き、そこにポルトガル人を住まわせた、この島が「出島」である。幕府の出島築造の目的は、キリシタンの取り締まりを行うと同時に、貿易が掌握できるという二つの利点もあった。

一方、出島の完成の翌年に、キリシタンによる「島原の乱」(後に記載・・、)が勃発する。その為、キリシタンに苦慮した幕府は鎖国を強固に進め、そして、商売と宗教が一致して政策を進めようとするポルトガルとは縁を切り、商教分離した策をとるオランダに乗り換えたのである。この間、出島は一旦、無人の島になったが、その後、平戸のオランダ商館が出島に移転してきたのであった。
出島は鎖国時代にあって唯一、日本が様々な海外文化や技術を取り入れるカルチャーセンターとしての機能を持っていた。それはオランダにとっても同様であり、ここを窓口に日本の文物・情報を集め、広く西欧に伝えた。出島はまさに日本と西欧の国際交流の場として大きな役割を担っていたのである。
因みに、オランダ商館長は大名の参勤交代と同様、江戸の将軍に出向いて正式に挨拶を交わす習わしがあった、貿易が許されていることのお礼と珍品の献上をするためであった。道中は出島を出発し、小倉から船で瀬戸内海を渡り、大阪を経て京都、江戸へ向かったという。オランダ人や通訳、長崎奉行所の役人など数百人を超える行列であった。
芭蕉の句に・・、
『かぴたんも つくばいにけり 江戸の春』 とある。

だが、明治の半ば、長崎の出島は忽然とその姿を消してしまった。長崎港の港湾工事によって出島はその原型を無くしてしまったのである。
出島は元々、長崎湾に突き出た扇形の出っ張った人工の島であった。その扇の形は貿易の発展を願う末広がりの意味をもち、その坪数は3,924坪で、これも三千世界二十四節季九星人(気学に基づく:人間一生の運気の学問)として、人の世の運勢、世の吉凶を占ったものという。出入り口には検問所も設けられオランダ人との交渉や監視を行い、又、原則、日本人も公用以外の出入りが禁止され、オランダ人も例外(医師・学者としての信頼が厚かったシーボルトなど)を除いて狭い出島に押し込められた。
それが、近代になって出島周辺は完全に埋め立てられ、その姿も埋没してしまった。今では、かつての出島の範囲を示すため、道路上に出島の縁を示す鋲が打たれているという。
そして今、その歴史的価値が見直され、一世紀の時を超えて出島の姿が長崎市によって復元され出現しつつあり、見学も可能になっている。
現在、出島資料館(本館、分館)、出島シアターに一番蔵(輸入品倉庫)、二番蔵(貿易館)、一番船船頭部屋(オランダ商船船長や商館員の部屋)、へトル部屋(商館長次席の部屋)、料理部屋などが完成したという。そして2010年までに中央、東部分の計15棟を復元した後、周囲に堀を巡らして扇形の輪郭を復元する予定だという。

次回は、長崎名物「チャンポン」

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