『日本周遊紀行』

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長崎県

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写真:「グラバー邸」から長崎港を見下ろす



邸内に、竜馬のための隠し部屋と称する特殊な部屋が存在した・・、

大浦天主堂の隣には「グラバー園(邸)」が在る・・、
一般に長崎の有名どころ「グラバー邸」と言われるが、長崎港が一望できる高台にある園内には他の施設や建物(洋館群)があり、周囲は洒落た庭園が広がる。グラバー邸は一戸の邸宅であり、広義にはグラバー園と呼ぶほうが適切かもしれない。
園内は山の斜面を利用して拓かれた施設で、見学するには先ず最上部へ上がってその後、順繰り見て回りながら下へ降りていくようになっている。その頂上へは便利なエスカレーターが整っていた。尤も、入口はもう一箇所あり、市電の5番系統の電車に乗って終点の石橋で下車し、ここから細い路地を入ったところに「グラバースカイロード」と呼ばれる斜行エレベーターがある。
最上部に到ると既に長崎の細長く入り組んだ港が一望である。特に、「旧三菱第2ドックハウス」(三菱の洋館、昭和47年にグラバー園に移築)という建物のベランダから見る景観は絶景そのもの。前面は、洋式庭園が品よく配されている。子供達は池の鯉に大はしゃぎ・・!。
下るにしたがって、旧オルト住宅、旧リンガー住宅、伝統芸能館、旧自由館(日本初の西洋料理店として造られた)といった洋館が次々と現れる。 又、長崎を題材にしたプッチーニ作曲のオペラ「蝶々夫人」で、生涯を通し主役を演じつづけた「三浦環」の銅像もある。三浦環という女性は当時世界的に有名なオペラ歌手で、ここグラバー園はマダム・バタフライのモデルになった土地柄ともいう。
そして、更に下部の方に一段と大きなL形に配した旧グラバー住宅が据わっていた。
これらの貴重な建築物は全て明治期の洋館であり、園内に移築、復元したものだという。この三旧宅はいずれも国指定重要文化財であり、そして園内一帯、建物を取り巻くように、四季を通じて様々な花が咲き誇る、緑に囲まれた園地に成っている。尤も、この辺り一帯の南山手、隣接の東山手一帯は、日本でも最も古い洋館が多く残る貴重な場所で、国の重要伝統的建造物保存地区になっているという。

さて、グラバー邸の住人・「トーマス・ブレイク・グラバー氏」のことであるが・・、
英・スコットランド人の彼が21才の時、天保9年(1838)に長崎へ来航し、三年後の1862年には「グラバー商会」を設立している。
グラバーは坂本龍馬をはじめとする、長州や薩摩などの藩士達と交流を深め、幕府や各藩に武器や船舶、機械類などを大量に販売し、莫大な富を得た。そして、近代的ドック建設、高島炭鉱の開発、大浦海岸でわが国初の蒸気機関車を走らせたり、海底ケーブルを長崎と高島間に敷設して電話の使用ができるようにしたりと、 様々な最新技術を日本に伝えた偉大な功労者であった。又、「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」(後のキリン麦酒株式会社)が横浜に設立される際にも指導的に活躍したという。
グラバー自身は岩崎弥太郎経営の三菱の顧問となって、明治30年(1897)には東京に移転し、裕福な余生を送ったという。 明治41年(1908)外国人として初めての勲二等旭日重光章を受ける。 東京の自宅で明治44年(1911)、73歳の生涯を閉じたグラバーは、家族と共に坂本国際墓地(爆心地の近く、長崎大に隣接)に埋葬されている。

グラバー邸内に一対の「狛犬」が飾ってある。
キリンビールの前身となる会社を作った人はグラバーであるが、お馴染みのキリンビールのマークの麒麟のモデルになったのはこの狛犬だそうで、グラバーの提案でデザインされたと言われている。何、キリンじゃなくて狛犬?と思うが、想像上の動物だから良しとしよう。 尚、狛犬やモデルの麒麟に髭が生えているのは、グラバー自身の口髭からきているという。
同じく、グラバー邸内の屋根裏には隠れ部屋と称する特殊な部屋が存在する。邸を訪ねてきた志士達を幕府の取締りから逃れさせるため、逃げ道を作っていたらしい。
グラバーは坂本竜馬と友好を持ち、「亀山社中」との貿易相手でもあった。長州が、薩長同盟後亀山社中を通し最新式の西洋銃を購入したのもこのグラバーからで、竜馬亡き後も、高杉晋作自身がグラバー邸に出向き交渉を行ったという。
かっての幕末、長州藩は幕府から睨まれており武器を購入することができなかった。 坂本竜馬は自分のつくった日本最初の株式会社と言われている「亀山社中」を通して最新銃4300丁と旧式銃3000丁を薩摩藩名義で購入し、長州藩に横流しする方法を思いついた。グラバー商会から購入した銃が、第二次長州征伐で大活躍し長州藩を勝利に導き、明治維新を成し遂げる大きな原動力となったのである。 このグラバー邸は坂本龍馬や伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)などが出入りした記念すべき建物でもある。

ところで、前項で記したが、「長崎チャンポン」で銘打って「リンガーハット」という飲食店が全国に展開している、長崎名物の中華風料理のことである。社名は長崎で幕末から明治初期の頃に活躍したイギリス人実業家で、旧リンガー邸の住人・フレデリック・リンガー(1840年-1908年)の氏名から取っており、それに明るく・響きのいい小さな家(ハット・HUT)を絡ませて「リンガーハット」としたという。思えば、リンガーハットの店舗の形が、何か洒落た洋風を感じる。
リンガーは若くして中国に渡り、茶の検査官として働いている時にグラバーと出会い、乞われてグラバー商会に入社し製茶事業技術顧問として活躍したという。

次回は、こちらも長崎といえば「出島」

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写真:階段参道の上に毅然と建つ「大浦天主堂」



長崎はキリシタン受難の地であった・・!、

長崎市の地域は山、坂の街であることは、小生の知識の中である程度は心得ていた。
改めて、長崎市を上部鳥瞰的に観ると町は変形Y字を逆さまにしたようにも見える。Yの字の右側の線は、先端が長崎造船をはじめとする工業地、そして稲佐山斜面に沿って町並みが覗える。Yの字の左側は、先端にグラバー亭のある大浦地区から県、市庁舎の在る市内で最も賑やかな長崎タウン、そしてY字形の下部がJR長崎駅から、浦上川に沿って先ほど訪れた原爆記念碑・平和公園のあるタウンであろう。 無論、Y字の凹みは長崎港である。 長崎の街の周囲は、ほぼ南北に並ぶ山並みに囲まれ、市の形状は全国的に見ても数少ない「すり鉢」状となっている。つまり市の中心部は三方を山に囲まれており、特に、住宅地の多くは山の斜面を利用しているようである。そのため「階段の街」、「坂の街」として有名である。この辺りは広島の「尾道」に共通しているようだ・・。

さて、次にY字下部の平和公園から、Yの字の左側先端の大浦地区へ向かった。
市営の松ヶ枝という立派な駐車場に車を預ける。それにしても駐車勧誘のおじさん、おばさんがチョッとしつこいくらいである。平和公園でタクシーの運ちゃんが、小生の車のナンバーPを見て先ず驚き(相模・・・)、「市内を観光するには駐車場が無くて大変だよ・・!」と仰っていたが、どうもそうでもないらしい・・?。
例によって、石畳の品のいい坂道をおもむろに上ってゆく、両脇に長崎カステラをはじめよく飾りつけた土産屋さんが並んでいる。そして、その正面に白で配し、ステンドグラスが綺麗な教会が階段の上部に悠然と立っていた。 そう、長崎には有名な天主堂がもう一つあった、長崎湾を見下ろす「大浦天主堂」である。女子学生が入館料・・?を何がしか払って堂内見学をするようである。
カトリックの教会堂で、日本最古の現存するキリスト教建築物(1952年に修理が完成)で、1945年の原爆投下で破損したが爆心地から比較的離れていたため焼失は免れたという。国宝に指定された唯一の洋風建築でもある。

江戸期、封建制と鎖国とキリシタン禁制とは、幕藩体制の三本柱であった。
幕末と言えるだろう・・、250 年間つづいたキリシタン禁制もどうやら終末が近づいたのである。 それは、1857年(安政4年)、長崎での絵踏が廃止され、翌年の通商条約で外人のための聖堂(キリスト教会)の建立が認められた。 こうして幕末の開国機運が高まる中、1865年(元治2年)大浦天主堂が建立され、異国風の建物に長崎の市民たちは目を見張ったという。 
天主堂という名はカトリックの聖堂を中国風に呼んだものであり当時は、俗に「フランス寺」と呼ばれ連日見物人でにぎわったという。 フランス人によって設計され、天草出身の棟梁・小山秀之進という日本人の職人の手によって作られた。 建築当初は三本の塔を持つゴシック風のつくりながら、先ほどの浦上天主堂のレンガ色に対して、こちらは外壁が白色のナマコ壁という特殊なスタイルで、欧風建築でありながら日本建築の技術や材料が巧みに使われているという。
完成当初、先ず、長崎の浦上の一団のキリスト教徒が大浦天主堂にやってきた。 彼らは大浦天主堂がカトリック教会であると判断すると、さらに、浦上や大浦だけでなく長崎地方全域に数万人のキリスト教徒(隠れキリシタン)がいることが判明、この「信徒発見」のニュースは「東洋の奇蹟」と言われたそうである。 
天主堂の「天主」とはキリスト教の神の意味であり、大浦天主堂は国宝に指定された唯一の洋風建築でもあった。 人々にフランス寺と呼ばれたこの天主堂は、豊臣秀吉の弾圧以来250年間の禁教の時代を生き延びて奇跡と呼ばれたキリシタンと広島とともに原爆投下を投下された長崎の波乱に富んだ歴史を見つめてきたのである。

秀吉や徳川幕府は、何故強引なまでにキリスト教布教を禁止し、キリシタンを弾圧したか・・?。一つの理由に藩や武士にとっては家門を保つことこそ至上命題であった。正室との間に子が無ければもちろん、若い側室を迎えて一人でも多く子供を作って置くことは当然であり義務であった。徳川家が巨大なハーレム(大奥)を築き上げるのも、武士の本能であり、ある意味必然であった。
キリシタンは一夫一婦制度が基本である。キリスト教宣教師の眼には、日本の一夫多妻制度が「野蛮な畜生制度」にしか映らなかったはずで、実際に外国商人達が大勢の妾を囲っていることを激しく非難しているのである。
秀吉が黒田官兵衛に向かって「おぬしらキリシタンは側室を持たんそうじゃな。わしにはとても耐えられんわ。わっはっは!」と笑うシーンがあるが、武士の存続にも関わる重大問題だったともいえるのである。
キリシタン厳禁は、日本独特の「お家の事情」が絶対的に絡んでいたのである。

序ながら、JR長崎駅の直ぐ東側の西坂公園の一角に「聖ヒリッポ教会」というのがあり、
この地は、二十六聖人殉教の地ともいわれる。
遠藤周作の小説「沈黙」の書き出しに・・、『ローマ教会に一つの報告がもたらされた。ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していた宣教師・クリストヴァン・フェレイラ教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ、棄教を誓ったというのである』・・と。
司祭や信徒を棄教させようとして数々の拷問が行われたが、「穴吊り」は深い穴の中に人をグルグルに縛って逆さ吊りにする。そのままでは頭に充血してすぐに死んでしまうので耳の後ろに穴を開けてそこから血がポタポタ落ちるようにして苦しみが長引くようにしたという。強い信念を持った司祭や信徒達はこの苦しみに1週間前後も耐えた上、絶命したという。「二十六聖人殉教の地」は、 このキリスト教弾圧の最初の犠牲者達を追悼した場所である。
1597年、豊臣秀吉の命令により6名の外国人宣教師と20名の日本人信徒が耳と鼻を削ぎ落とされ京都・大阪から歩かされ長崎に到着。「西坂の丘」で彼らは十字架にかけられ、槍で突かれて処刑されたところである。教会の側壁には彼ら26人のレリーフが彫刻され、展示されている。
1865年大浦天主堂が建てられた。それを見て250年以上潜伏していた隠れキリシタンがようやく表に出てくることが出来た。こんなに長い迫害に耐えて宗教を守り通した例は世界の奇跡とも言われる。
そして1981年、あのヨハネパウロ2世が、日本でのキリスト教迫害の歴史を聞き、この地を訪れた。これはキリスト教信者の方々にとっては最大の喜びだったらしい。その日、浦上天主堂で「司祭叙階ミサ」が司式された。 これを記念したパウロ2世の胸像が、教会正面に安置されている。

次回は、お待たせ「グラバー亭(園)」

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写真:長崎の象徴・御馴染みの「平和の像」



鎮魂の長崎、昭和20年8月9日午前11時2分・・、

この大村湾沿いを長崎市に向かって進む。 
大村湾は閉鎖性海域という内海であり、更に、入り江、島々が浮かぶリアス海岸は静かな紺碧の海面と緑のコントラストが一段と風光を成している。 尤も、長崎県というのは面積(都道府県で下から11番目)それ自体はそんなに広くはないが、海岸線は日本一だという。県域が複雑な形をしているのもさることながら、島々の数は 971 と圧倒的に全国一なのである。実は、海岸線は北海道に次いで全国第2位であるが、北方領土を除いた場合の北海道の海岸線は大差で長崎県が第一位となるらしい。 面積が、北海道の約20分の1である長崎県の海岸線がこれほど長大なのは島々が非常に多いことに加え、リアス式海岸で海岸線が複雑に入り組んでいる為でもある。 因みに、長崎県内で、海から15km以上離れた地域・地点はないそうである。  
ところで、「日本にはいくつの島があるのだろうか・・?」、面積1平方km以上の島の数なら全国で340あるというのが一つの答えだという。 日本沿岸における外周0.1km以上の島の数はというと6,852島というのが二つ目の答えである。その時、日本で一番島の数が多い県は長崎県の971島、次いで鹿児島県が605島、北海道が508島となっている(海上保安庁海洋情報部調べ)。 更に、人が住んでいる島の数となると、少々古いデータであるが「日本島嶼一覧(昭和57年)」によれば425島だとか。 更に、狭い海域にたくさんの島があることで有名なのは長崎県佐世保近辺の九十九島であろう、実際にはいくつの島があるのか・・?、こんな疑問に答える「九十九島の数調査研究会」なるものが地元にあり、そこが調べたところ、ここだけで208の島が確認されたという。名称の「九十九」より遥かに多い島数があることになる。

さて、長崎である・・、 
時津の港を過ぎると長崎の町へ入ったようである。 左右山肌の斜面を切り刻んで造成した住宅団地が八方に見られる。 長崎は「階段の街」、「坂の街」として有名であるが、この辺りにも傾向が見られるようだ。 余談だが、長崎は坂が多いため自転車に乗る人は少なく、他都市でしばしば問題になる放置自転車などの問題は少ないといい、年齢層を問わず自転車に乗れない人の割合も他の都市に比べて高いらしい。
市街地へ入ってきた、長崎市電であろうか路面電車が同路上を行く。電車と言えども、やはり坂道はつらそうである。大きな敷地の長崎大学を過ぎると間もなく「平和記念公園」のガイド版が現れ、案内にそって訪ねてみることにする。
国道のすぐ横にその公園はあった。 いきなり、あの天を指す「平和記念像」の前に出た、像は天を指す右手が原爆の怖さ、左手が平和、閉じた目が犠牲者の冥福を祈ってるそうである。すぐ横に白い荘厳な建物で「長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂」と、チョット長いお題目のお堂が在った。ここは原爆によって亡くなった身元や氏名不詳の遺骨、氏名がわかっていても一家全滅などで引き取り手がない原爆無縁死没者の遺骨を安置しているという、小さく黙礼をする。玄関付近に黒の御影石に白字で刻した石碑が、当時の生々しさを物語っている。
刻文は次のように記されてあった・・、

『原爆殉難無縁者慰霊の記』
「昭和20年8月9日午前11時2分米軍が原子爆弾を長崎に投下した。 この時、即死者70040余名および避難の途中或いは収容加療中に死亡した者のうち、一家全滅または身元不明のため無縁となった遺骨は市町村役場や寺院町内会その他一般篤志家の手で埋葬供養されていた。 長崎市民生児童委協議員会は、この不幸な方方のみをお慰めするため長崎市に協力して昭和30年7月から一年余にわたり内外の各地に散在していたこれら無縁遺骨を収集した。後、昭和34年3月市民の浄財をもってこの地が購入されたが、その寄贈を受けた長崎市はここに納骨堂を建立し、管理を長崎市民生児童委員会に委託した。よって本会はさきに収集した原爆殉難無縁遺骨7000余柱をここに安置し観音像を本尊として年々祭祀を行ないその冥福を祈ってきた。
その後、遺骨の氏名や近親者が判明して引き取られたものもあったが追加合祀された数もまた多く昭和50年8月現在8927柱が安置されている。 祭祀は長崎市仏教連盟のご奉仕を願い、長崎市原爆殉難者無縁仏慰霊奉賛会がこれに当たり、経費は長崎市民を始め広く全国各地から寄せられた浄財により賄われている。 ここに原爆被爆30周年を迎えるに当たり殉難者の冥福を祈念し、世界平和実現へ邁進する決意を新たにしつつ、謹んで以上の経過を記す。
長崎市民生児童委員協議会、長崎市原爆殉難者無縁仏慰霊奉賛会
昭和五十年八月一日」

原爆落下地点に建てられている公園内の各種施設、石碑群はこの上空500メートルの地点で爆発したのである。 中央に「平和の泉」の噴水池があり、石碑には「のどが乾いてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくてとうとう油の浮いたまま飲みました。」と刻文字が書かれている。 木々の間に、各国からを贈られたという彫像が置かれている。ソビエト連邦、チェコスロバキア等、母子の像が多い。 

長崎の鐘、平和の鐘・・、そして、その鐘の象徴でもあろうか、すぐ近くの小高い丘の上に赤レンガ造りの双塔の天主堂が天を指している、「浦上天主堂」である。
天主堂は明治6年(1873年)にキリシタン禁制が解かれ、信教の自由を得ると浦上のキリシタンたちは明治13年に庄屋屋敷を改修して教会とした。この東洋一を誇るロマネスク様式大聖堂も爆心地に近かったため一瞬のうちに破壊されたという。 しかし、昭和34年に見事に復元され、赤レンガ造りの美しい天主堂として長崎カトリック界の中心となっている。その破壊された天主堂の鐘堂の一部が、丘の下の河原の路地際に放置され、無残(無念・・)な姿を晒している。 否、放置ではない・・、当時は石垣で囲い台座の上に展示されていたはずが今は石垣も台座も草生して、まるで放置してある様に見えるのである。しかし、見様によっては近い過去に惨劇と破壊があったことを示し、その影響で野地に崩れて落ちて来たような迫真さを物語っているのである。

長崎に原爆を落としたB29は「ボックス・カー」と呼ばれ、小島テニアンの基地から飛び立った。 広島に原爆を落としたB29は、「エノラ・ゲイ」と呼ばれ、同じくテニアンの基地から飛び立っているが・・。当初は福岡、小倉、長崎、佐世保が目標地であったとしているが天候、その他の事情で雲の隙間から見えた長崎市が最終目標になったという。
昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、遂に長崎上空に一発の原子爆弾が炸裂した、投下地点は長崎市北部に位置する松山町171番地(現松山町5番地)。 当時、長崎市の人口は24万人と推定されており、即死は推定3万5千名、負傷6万名、結局7万名以上が死亡し、街は一瞬のうちに壊滅的被害を受けた。
熱線は爆心地付近で4000度、1キロ離れていても1800度、ガラスが溶けてしまうほどである・・!!、猛烈な爆風は爆心地付近の建物が無くなるほど吹っ飛ばした。そして放射能は身体を通過し、内部の細胞を破壊する。 また数年経ってからも白血病やガンでなくなるなどの後遺症をも引き起こした。
本年、平成17年8月9日、60年前のあの夏の日を忘れないよう長崎市民は、「被爆60周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」を開催している。

『長崎の鐘』 詞 サトウ・ハチロー  曲 古関裕而
こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

次回は、大浦地区・「グラバー園」

佐世保軍港で米軍兵士の“黒ちゃん”に捕まった・・!、

間もなく佐世保市へ入った模様である。 
佐世保は、2005年4月、吉井町、世知原町を編入し、新「佐世保市」になっているが、更に、来年、2006年3月31日を以って小佐々町、宇久町を佐世保市に編入する予定らしい。 宇久町を地図上で佐世保周辺を見回したが、見つからず、はて、何処にあるもんか・・?と更に探し出すと在りまして、平戸島の西方の島(宇久島)の領域であった。
佐世保市街に到り、著名な軍港でもあるので港へ出て軍艦の一隻でも見物しようと車を進めると、突然、米軍基地の正門へ達してしまった。 「シマッタ・・!」と思ったが遅かった、米軍の“黒ちゃん”に捕まってしまったのである。 直ちに二人の日本人守衛に引き渡されて、免許証の提示や車内検査をやられ、軽い身体検査までさせられた。 事情を丁寧に話すと、どうやら納得したようで、終いには「此れからどちらへ・・」とか「厚木の基地はどうですか・・」とか世間話にまで及んでしまった。 相手は、中年相当の人で、盛んに“ばってん”とか・・“よかばって”・・と地方訛、長崎弁をまくし立てられたが、最後に気持ち良く見送ってくれた。どうやら軍艦は、一般の人は市中からは望めないらしい、それもそうだな・・、と変に納得した。 いやはやとんだ目に合いました、出発初日、横須賀軍港で同じ事をやらかしたのを思い出した。

佐世保港は三方を高い山に囲まれ、水深が概ね10m以上あるため、天然の良港といわれ、ここに目をつけた旧帝国海軍は明治22年頃から軍港とし、第三海軍区佐世保鎮守府として戦事一色の港になった。 昭和20年に終戦を迎え、一端は、軍港としての幕を閉じ、昭和23年には貿易港の指定を受けたが、同年6月に勃発した朝鮮戦争により、港湾施設の大半を米軍に接収され、再び軍港としての色合を濃くした。 他の港にない特徴としては、港内の水域の約83%が「日米地位協定」に基づく、米軍への「提供水域」として米軍により管理され、日本の船が航行する場合にはいろんな規制や制限が課せられているという。
太平洋戦争末期、米軍は佐世保の市街地だけを爆撃し、広大な軍港の施設、巨大な弾薬庫や貯油施設をほぼ無傷で残した。このことは通常の常識では考えられない全く逆の軍事攻撃を行ったのであり、そして、まんまと思惑通り軍事施設をそっくりそのまま手に入れたのである。 戦後はそのまま米海軍第七艦隊の基地となり、朝鮮、ベトナム、湾岸、アフガンに出撃、現在はイラク戦争の最大の補給基地になっている。 沖縄と佐世保の米軍基地がなければ、イラク戦争は遂行できなかったともいわれる。
軍港のイメージが強い佐世保であるが、もともとは西海国立公園の九十九島を始め、市街地北部に連なる弓張岳、烏帽子岳など景勝地も多く、これに西海橋や、昨今では「ハウステンボス」などのテーマタウンも加わわって、観光都市としての色彩も十分である。

さて、先へ進もう・・、直に国道と港に面した佐世保駅前で暫し港を見物して(軍港ではない)一部、西九州道を乗り継いで、例のハウステンボスへ向かってみた。 
佐世保の南側の海域、陸域は,これまた複雑な地形になっている。 琵琶湖よりも小ぶりな「大村湾」だが、この海域は細い二つの瀬戸(幅の狭い海峡になっていて、潮汐の干満によって激しい潮流を生ずるところ)で外洋に繋がっている。 西側の西海町を隔てている「針尾の瀬戸」と東側の「早岐瀬戸」(はいきのせと)である。 早岐瀬戸は、佐世保市早岐町付近を南北に通じているが、一見、川の様でもあるし、陸地を切り削って造った運河のようでもあるが、しかし、れっきとした海峡で海である。長さ12キロ、平均幅50mで、日本でも最も狭い海峡と言われ、現に東側の陸地は針尾島という島であることから。
最狭部は早岐町の国道202号線に架かる、その名も「観潮橋」といい、僅かに10m足らずの幅で轟音を立てながら海水が流れているという。 おまけに、川べり、でなく海べりに「潮音荘」という旅館が在り、潮を観るのではなく、潮の音を聞く旅館というのが味噌(醤油、味の素)である。実は世界で最も狭い海峡として、小豆島の土淵海峡(どぶちかいきょう)がギネスに登録されているという。
因みに、針尾の瀬戸は、日本三大潮流(阿波の水門:鳴門海峡、早靹ノ瀬戸:関門海峡)の一つである。 又、この大村湾の最奥部が諫早で、この地域は東側には例の干拓で物議のある有明湾に接してもいる。尚、諫早の干拓については後の記載いたします。
この「早岐の瀬戸」の大村湾寄りの針尾島側に、オランダの街並みを再現した「ハウステンボス」が所在する。
このヨーロピアン・タウンは、東京ドームの33個分という広大な敷地に17世紀のオランダの街並みが再現されたウォーターフロントリゾートである。 ハウステンボスとは、オランダ語で「森の家」という意味で、街には船が行き交う全長6kmの運河が走り、ホテルを主体に様々なアミューズメント・ミュージアム施設をはじめ、ショッピングやレストランも充実している。郵便局や銀行等生活する街としての機能も備えているという。
変わったところでは高貴な「迎賓館」というオランダ王室等のVIP宿泊用に設けられたホテルもある。過去に宿泊した主なVIP は天皇・皇后両陛下(2002年11月、「全国豊かな海づくり大会臨席時」)ベアトリクス女王(オランダ女王)、秋篠宮文仁親王・紀子妃夫妻、有名人にはマイケル・ジャクソンなどもいる。

西九州道よりR205へ、早岐瀬戸大橋を渡り(当日は、正直、この地が早岐瀬戸とは全く気ずかず、普通の川でと思って通過している)、案内板に従ってハウステンボス方面へ向かと、間もなく、緑の中に煌びやかな建物群が現れた。様子を伺いながら奥のほうのガラガラの駐車場へ車を置いて全貌を眺める。手前の水辺に回遊船であろうか、十数隻の船が、暇そうに係留されている、尤も、今日あたりはウィークデイの平日である。
その向こう遠方にシンボルタワーの『ドムトールン』とかいう十字架が天を指す高層の建物が聳えている。 高さ105mのタワーは、敷地内のどこからでも見える“道しるべ”的存在であろうか。 それにしても平日のせいとはいえ、人の姿は殆ど見受けられない。
この「ハウステンボス」は1992年3月25日にオープンし、建設などにかかった費用は総額2千数百億円といわれる。巨額の投資でオープンした、さしものテーマパークも、時勢というか不況の煽りで、2003年2月26日、遂に会社更生法を適用し事実上倒産した。負債総額は2289億円といわれる・・が、更生法適用後はスポンサー企業の申し出も殺到しているそうである。 総合保養地域整備法(リゾート法)の適用も受けているらしいが、ガンバレ・・!!「ハウステンボス」。

西海パールライン、眺めのいい針尾の瀬戸の西海橋をわたり、国道202から更に国道206南下する。大村湾の西部、西彼半島の北部に位置する西彼町(せいひちょう)にやって来たところで、今度は赤レンガの洒落た洋風の建物群が現れた、こちらは「オランダ村」である。 ところが、ハウステンボスとは違って、ここは人気は全く感じられず静まり返っている。それもそのはず、当地は2001年に閉鎖していたのである。
長崎オランダ村は、町役場職員の神近義邦氏によってバブル(泡、気泡、泡沫、転じて実体のない見せかけだけのものという意味)景気絶頂の時期の1983年に開園している。 彼は「長崎県にゆかりの深いオランダの街並みを、路面に敷かれたレンガ一つまで忠実にそっくりそのまま大村湾の入江に再現する」という大胆な意気込みで、国内旅行需要増加も手伝い長崎観光の新しい目玉にした。佐世保市のテーマーパークのハウステンボスのルーツとなった施設でもある。 だが、バブルの波が去った2001年には閉園し、現在も跡地利用のめどは立っていないといわれる。
最終日の10月21日には、新聞報道によると6500人という入場者があったそうである。 乗り物や釣などもみんな無料で、土産屋は安売りなどもされていたが、ちょっと寂し気であった・・、と来場者は語っていた。その日は生憎の雨となり、オランダ村がなくなるのを惜しんでいるようでもあったという。

西彼町は大瀬戸町、西海町、大島町(島部)、崎戸町(島部)の計5町は2005年4月に合併して、新しく西海市(さいかいし)が誕生している。

次回から、いよいよ「長崎」に入ります。
尚、『日本周遊紀行』について御感想をお待ちしてます。
又、誤解や誤文が有りましたら御一報ください。
メール orimasa2001@yahoo.co.jp 

 

「李承晩ライン」・・・!!、若い人はご存知であろうか・・?、

しかし、李承晩は「対馬、竹島は韓国のもの」と、更に主張を通すため実力行使に出た。
李承晩ライン(りしょうばんライン)は、昭和27年(1952年)1月18日、韓国初代大統領の李承晩の海洋主権宣言に基づき設定した漁船立入禁止線で、韓国では「平和線」と呼んでいる。 海洋資源の保護のため、韓国付近の公海での漁業を韓国籍以外の漁船で 行うことを禁止したものである。これに違反した漁船(主として日本国籍)は 韓国側による拿捕・臨検の対象となり、実際に銃撃される事件まで起こった。 国際法上の慣例を無視した措置として日本側は強く抗議したが、このラインの廃止は昭和40年(1965年)の「日韓漁業協定」の成立まで待たなくてはならなかった。
協定が成立するまでの13年間に、韓国による日本人抑留者は3929人、拿捕された船舶数は328隻、死傷者は44人を数えたという。

今現在、韓国は李承晩ラインによって「竹島」を実効支配しているが・・?、
壱岐、対馬の歴史的価値は、日本の稲作文明、鉄器文明の海上経由の地であり、中国、朝鮮の中継基地であった。 日本が開いた根源の地であったが、「通商多くして、尚、人民馴染めず」で過去から現在まで大方そのようで、昨今も中国、韓国とは領土的にもお互い一線をかし、政治的にも相容れないものがある。
近隣の国同士とは、このようなものであろうか・・?、ここには国威意識があるようだが、日本は果たして・・??。


再び、朱色の平戸大橋を渡り返して国道204を南下する。
山間部を少々走ると道の駅「昆虫の里・たびら」(田平町)があった、こちらで小服をとる。 それにしても、敷地内入口にカブトムシの大きなモニュメントが、目立つように建っている。 季節になると多種な昆虫が生息し、あるいわ採取できるのであろうか・・?。確かに、周辺は低山地帯に囲まれた田園、里山の風情があり、日本の田舎原風景を呈している。豊かな緑に囲まれた環境には、多くの甲殻昆虫が生息し、淡水の魚類も多そうではある。 赤い屋根のログハウス風の建物の情報によると、この近くにはやはりというか・・「たびら昆虫館」とやらがあって、館といっても自然のままの畑や小川、池、雑木林、草原を再現し、そこに集まる昆虫などの生物を観察する施設であるという。 子供達に人気のカブト虫やクワガタ、蝶やトンボなどの昆虫が沢山生息しており、案内の係員が丁寧に説明してくれるので楽しく学べるという。
今、休憩しながら、今夜の宿を確保するために地図を広げている。 長崎県というのは複雑な地形をしているのに、今更ながら驚いた。中心に大村湾という大きな海域を有していて、沿岸にそって一筆書きのような行程を進めると、どうも具合が悪いようである。 沿岸地方の地域を周回気味に進行して小生ではあるが、ここ長崎に到っては要地、要所を選択しながら行くしかないようである。 ともあれ、今夜の宿は雲仙の温泉地・小浜温泉にどうやら決められたので一安心である、そこを目標に進むとする。

国道204は相変わらず山中をひた走る、同じように鉄道が並んでいる。 江迎町、佐々町と丘陵地に囲まれた田園地帯を行く、田舎とはいえ道は良く整備され、山中ではあるが上下動、左右の屈曲は殆ど無く、目に優しい青葉の緑を満喫しながらの快適なドライブである。
丘陵地の山肌には、濃い緑色の葉をもつ「枇杷」の木が目立つ、 西九州は枇杷の産地か・・?、果実に害虫除けであろう白い袋が被せてあるのも有る。今が成熟期であろうか、細長い葉の間に橙色の枇杷の実が点々と繁っていて、山肌全体に濃い緑と橙色と白色の配色が実に奇麗である。
枇杷の木は中国が原産で、江戸期に長崎に入ってきたらしい。樹木は 10メートルぐらいになるそうだが、栽培用としては、他の果物と同様に、収穫しやすい高さに手入れをされている。 国内の主な生産地は長崎の「茂木枇杷」(長崎市の南地区)だそうで、やはりこの辺りが移入原産になるのかもしれない・・?。 他に、千葉県以南の「富浦町の枇杷」、四国「伊予市の唐川」などが主要産地らしい。
枇杷の実は種が大きいのが、やや難点だが、熟したものは皮がスルスルと剥け、実はチュルチュルと甘く美味しい、小生の好みの果実の一品である。 又、枇杷の葉は「茶」として「枇杷葉湯」と呼ばれ、サポニン、アミグダリン、ビタミンB17、タンニン等を含み、美容、健康によいと言われている。

次回は、佐世保です・・、

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