『日本周遊紀行』

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 日本周遊紀行(125)熊本 「西南の役」   、



西郷は、「わしは官軍に負けたのではない《清正公》に負けたのだ・・!!」と独白したと
いう・
・、

明治10年(1877年)2月15日、50年ぶりの大雪の中、13000名の薩摩軍が北上を開始した。 かねてより「薩摩不穏」との情勢を掴んでいた熊本鎮台は籠城を決意する。 国内最後の戦と言われる「西南戦争」である。


熊本鎮台は「射界の開放」(射撃の見通しを良くする)のために市中に火を放ち、開戦前に城下は焼土と化したという。
ところが、市中放火とほぼ同時刻に天守閣付近から出火し、天守と本丸御殿一帯が焼失してしまう。 
原因は、台所からの「失火説」、薩軍の「放火説」、鎮台が自ら火を付けたとする「自焼説」があるが、時代遅れの天守閣を焼き、兵に籠城を覚悟させるため司令長官の谷干城(たにたてき)が命じ、参謀の児玉源太郎が火を付けたという説が現在では有力だといわれるが、いまだに真偽は特定はできてないという。


天守閣焼失にも関わらず三日間の激戦の末、薩軍は一兵も城内に入ることができず、3,000の攻囲軍を残し北の田原坂(たばるざか)へと兵を退去させるが、翌日には田原坂は陥落する。 

52日間に及ぶ籠城戦は終了し、熊本城は不落の名城を、名実ともに実証したという。
西郷隆盛は終焉の地・城山(鹿児島)で、「わしは官軍に負けたのではない《清正公》に負けたのだ・・!!」と独白したと伝えられている。



西南戦争」の主要起因・・、
明治政府は廃藩置県や税金の新制度(地租改正)、それに一般公募の徴兵制を進め、封建から近代国家への歩みを進めていった。
しかし、新政府の政策により特権や経済基盤を失った旧士族の不満が徐々に高まっていった時期でもある。 

そんな中、明治6年に参議の職にあった陸軍大将・西郷隆盛が所謂、征韓論争で大久保利通や岩倉具視に破れ下野する。
西郷の後を追うように桐野利秋など西郷を慕う政府の中枢にいた鹿児島県出身の官僚・軍人約600人も大挙して辞職し帰郷した。 

これを境に、維新の原動力となった薩摩の藩閥は、西郷隆盛派と新政府に残った大久保利通派に大きく分裂することとなる。 

薩摩では私学校を興し、その生徒が西郷を擁して挙兵する。 そして、薩摩軍は新政府打倒をめざして北上する。
一方、明治政府は新規に徴兵した軍隊で、最新兵器を元に迎え撃つことになる。 
この内戦は、云わば旧勢力の武士団と新時代の徴兵軍隊との旧新制度の争いでもあった。


西南戦争最大の激戦地となった田原坂(たばるざか)・・、
熊本の北隣・植木町の西部地区、国道208号線の近くにあり、坂は北から一の坂、二の坂、三の坂と続き、標高100メートル余の三の坂の頂上部にクスの大木が茂っている。 

薩摩軍は、南下する官軍に対抗するため主力を高瀬(現、玉名市高瀬)まで引上げたが押し戻され「田原坂」で決戦となった。 
戦闘は3月3日から17日間の昼夜に及んび、雨が降りしきる同月20日、官軍は総攻撃をかけ田原坂を突破する。 

破れた薩摩軍は一旦解散し、熊本城の包囲を解いて九州山地を敗走、郷土・薩摩へ引き返すことになる。 
西南の役・田原坂の戦いは壮絶なもので、一日の弾丸使用量は32万発にも及んだという。
現在、付近は公園化され、戦死者の慰霊塔や征討総督士・熾仁親王(たるひとしんのう)の崇烈碑、弾痕のついた家などが残されているという。


田原坂』  熊本民謡

雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ 田原坂

右手(めて)に血刀(ちがたな) 左手(ゆんで)に手綱(たづな)
馬上ゆたかな 美少年




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水前寺公園・成趣園



熊本城からの岐路、市内の名勝・水前寺公園に寄ってみた。
熊本城より広い県道28号線を東南方向、豊肥本線を越えて暫くしたところ、市中でチョット判りにくい処であったが何とか辿り着いた。 

観光地らしく御土産が並ぶ出水神社の大きな鳥居を潜って間もなく別世界が広がっていた。 
広大な池に築山が印象的で、そこに荘厳な神社を配してあるのも良い。

池は豊富な阿蘇伏流水が湧出して作ったらしく、池を中心にした桃山式回遊庭園で、築山や浮石、芝生、松などの植木で東海道五十三次の景勝を模したといわれる。

この庭園は、熊本藩の初代藩主の細川忠利が1636年頃から築いた水前寺(地名)御茶屋が始まりとされ、細川綱利が藩主の時に現在の名称となったという。
一般的には水前寺公園、正確には「水前寺・成趣園」と呼ばれていて、1929年(昭和4年)、国の名勝および国の史跡に指定された。 

ただ、今日では熊本の市街地でもあり、利便や環境の良さも手伝って周囲にマンションが建ち並び、景観を損ねているのはチョット残念なことである。
それと、中国人のグループが処構わず大声を上げて叫びあっているのも、帳消しもいいとこであった・・、残念・・!!。

さて次回は、「阿蘇



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 日本周遊紀行(125)熊本 「加藤氏と細川氏」   、



熊本では善政の事柄は全て「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」となると、更に細川家も・・、

加藤清正は永禄5年(1562年)6月24日、尾張国生まれで豊臣秀吉とは血縁関係にあり、双方の母親が従姉妹同士だったという説もある。 加藤虎之助清正(かとうとらのすけきよまさ)を名乗り、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは「七本槍」の1人に数えられ、その後も数々の武功を立てている。

天正16年(1588年)清正はそれまでの侍大将から、一気に肥後北半国19万5千石の領主を任命される清正27歳の時である。 
入国当時の肥後は、国人衆(こくじんしゅう)と呼ばれる土豪がひしめく難治の国で、しかも長引く戦乱で国内は荒れ果てていたという。
当時、肥後を訪れた宣教師が「これほど貧しい国を見たことがない」と書き残していくらいである。 

清正入国後は治山治水、新田開発などに力を入れ、又、南蛮貿易に乗り出すなど積極的に領地経営を進め、国はどんどん豊かになり、結果領民からは神様のように慕われるようになった。今でも熊本では善政の事柄は全て「せいしょこさんのさしたこつ(清正公のなさったこと)」となるという。


文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では主力として7年間戦い続け、秀吉の死後起きた関ヶ原の合戦では石田三成、小西行長らとの確執から東軍に付き、その功績によって肥後国大半を領して実質ともに54万石の大大名となる。 

関ヶ原で東軍についたとはいえ豊臣家に対する清正の想いは並大抵のものではなく、慶長16年(1611年)二条城にて秀吉の遺児・秀頼と徳川家康を会見させることに成功する。
これで豊臣家も安泰と思われたが、清正は二条城の会見から熊本に帰る船中で発病し、熊本城で亡くなっている。
享年50歳であったが、奇しくも生まれた日と同じ6月24日であったという。

豊臣家も清正の没後僅か4年で大坂夏の陣に破れ滅亡する。
清正亡き後、加藤家は家督争いが高じて寛永9年(1632年)5月、突然幕府から21か条の罪状を突きつけられ、「諸事無作法」であるとして出羽・庄内に一万石だけを与えられて配流となる。
これが豊臣譜代の名門大名加藤家の没落の始まりであった。


熊本の礎を築いた「清正公」(せいしょうこう)、幼少の頃は虎退治でも名を馳せた加藤清正であり、当時は六尺(180cm)の大男だったらしい。 
武勇の将、築城の名手、治水・土木の天才であった事はよく知られ、清正独特の治水技法を生みだした。

又、敬虔な日蓮宗の篤信者でもあったという。
その死後、権化(ごんげ)、権現の人であるとされ、次第に所願成就の「」としてお祀りされ全国各地にお堂、神社、碑、像、日蓮宗派の寺院などで清正公信仰が広まった。 
特に、土建業者の信仰が厚いといわれる。


なお、一般には「セイショウコウ」と称しているようであるが、熊本では「セイショコ」と言うらしい。 
肥後・熊本、入国以来県内各地の河川、田畑、新田開発に大きな実績を残し、しかも自ら陣頭指揮で工事に当ったといわれ、清正公の偉大さを偲んで市民会館・国際交流会館には往時の治水工事指揮姿の清正公座像が、熊本城をバックに建っている。



熊本・細川氏について・・、
細川氏は、源氏創家・清和源氏(清和天皇)の一派で河内源氏の流れを汲む足利氏の支族であり、室町時代には有力守護大名および管領家の一つとなる(三管領・室町幕府の主要な職制、交代で将軍を補任した細川・畠山・斯波氏をいう)。 

室町中期の管領・細川家は、細川勝元と山名宗全(持豊)との将軍家(足利家)の跡目相続の争乱である「応仁の乱」は有名である。 

戦国期、傍流の細川藤孝(幽斎)は、織田信長と羽柴(豊臣)秀吉に従い家運を回復する。
関が原の戦いでは藤孝の息子忠興(妻ガラシャ:明智光秀の長女)は東軍に属し、江戸期に細川氏は小倉藩主と成る。 
そして忠利(忠興嫡男・三代目)の時代に加藤氏に代って54万石の熊本藩主となる。 

江戸中期の細川重賢は、「宝暦の改革」と呼ばれる藩政改革や藩校・時習館での人材育成を行った事で知られる。 
明治維新後に細川韶邦(よしくに)が版籍奉還に応じ侯爵となる。 
近衛文麿の首相秘書官である細川護貞は政治的活動も行い、護貞の子で1993年(平成5年)に日本新党代表として非自民党連立政権を成立させた細川護熙(もりひろ)は、第79代・内閣総理大臣となる。 
護熙氏は、細川藤孝直系の18代目の子孫に当るという。


宮本武蔵」が細川家と縁が有ったことはよく知られる。
武蔵は、足利将軍家の剣の師範である吉岡一門を倒し、奈良・宝蔵院流槍術の達人に完勝。又、徳川家指南役・柳生新陰流の弟子達を破り、兵法家としての名を高めていった。 

1612年、藩主・細川忠興の小倉に移り、そこで細川家に武芸の指南役としていた佐々木小次郎との勝負を希望する。
これを忠興は認め下関と小倉の間に浮かぶ舟島「巌流島」で勝負し勝利した。 
所謂、「小次郎敗れたり」の巌流島の決闘である。

小次郎の剣法を「巌流」と言われたので、この舟島を巌流島と称してしたとある。(この決闘は真偽不明説もある)

剣豪・宮本武蔵は寛永17年(1640年)57歳のとき、藩主細川忠利公に招かれて晩年を過ごしたという。 
武蔵が熊本に来たのは終焉の地を求める他に、武蔵が剣の道から得た真理を治国経世に役立つよう願ったともいわれる。 

武蔵はこの地で自ら創始した「二天一流兵法」を大成して、「兵法三十五ヶ条の覚書」、「五輪書」などを著し、また茶、禅、書画製作の日々を送ったという。 
城内で62歳の生涯を閉じ、生前の希望どおり大津街道の林の中に甲冑姿で葬られたという。
この地が選ばれたのは、恩顧を受けた細川藩主の江戸参勤交代を、草葉の陰から拝し、守りたいという武蔵の願いだったといわれる。

次回は、熊本・「西南の役





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 日本周遊紀行(125)熊本 「熊本城」  
 
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熊本城;見学通用口

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青空に映える「熊本城大天守閣」、向うの小天主は「飯田丸」

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熊本城の「武者返し」と言われる城壁




熊本城は「武者返し」(石組み)で見れる防衛の為の城であった・・、

お城へ向かう・・、
肥後・熊本について、熊本県人の気質は「肥後もっこす」として知られる。 
頑固でへそ曲がり、反骨精神に溢れ、気性は荒いと言われる。 

海を隔てたお隣「肥前・長崎」は「ばってん」と一時、間をおくが、「肥後・熊本」は「そうに決まっちょる」と一刀両断、単刀直入であり好対照であるという。
よく言えば純粋で正義感があって意地を貫く。

意地は熊本気は薩摩」といい「武士の意地は、筑前、豊前を合わせたるより上と知るべし」・・と江戸期のガイドブックにも記されているという。
反面、荒っぽいのは表面だけで、実は気が小さく強がりが多いというが・・?。


その肥後・熊本人の象徴、熊本城の天守が既に見えている。
案内に従って二の丸駐車場まで車を運んだ。 

正面に位置する「頬当御門」(ほほあてごもん)という箇所から然るべき入場料・入城料を払って歩を進める。入城門には厳しい(いかめしい)・・?武者姿の門番が大槍を持って直立不動で見張っている、「肥後もっこす」である。 
近ずくと中年のオジサンで、「ご苦労さん、(鎧を着けてるので)格好いいですね、でも暑いでしょう・・?」、
「はあ・・仕事ですたい・・」とニコニコ顔。 

正面に、既に石垣の上部に大天守の城郭が見えている。 
外周を囲う大石垣を通って、すぐに大天守、小天守の正面に出た。 
石垣上に聳える圧倒的な威容を誇る城郭で思わず息を呑む。

それにしても大規模な石垣の立ち上がりの曲線が美事である、「武者返し」という手法の石積みであるとか。 
天下一流と名を馳せたこの熊本城の石垣は、「清正流石組」と呼ばれ、独特の弧を描く扇の勾配をもつ。 

清正が近江の国から卒いてきた石工「穴太衆」が持つ特殊技能を駆使して造られたといわれ、下部は30度近い勾配が上に向かうに従って角度を高め天端では、ほぼ垂直にちかい絶壁になる。

城攻めにおいて攻め手は石垣からも攀じ登るが、この時始めは登りやすいが次第に勾配が急になってきて、終いには垂直になり落ちてしまうというわけである。これが“武者返し”と言われる由縁である。

本丸主城へ入城し、各種展示物を見物しながら天守閣へ昇る。
展示品は主に650年の歴史を誇る細川家伝来の所蔵品が多く、特に参勤交代用の御座船(藩主、貴人が乗る船)の船絵図は豪華である。 
天守閣の展望の間は城下熊本市街をはじめ遠く阿蘇の山並みが鮮明である。 
山の合間に風力発電機であろうか、一列縦隊になって山裾から上部へ延びている。すぐ眼前には本丸に並んで建つ小天主がまた良い。


日本三名城(姫路城、大阪城)の一つに数えられる熊本城は、天正16年(1588)、肥後半国の領主として熊本に本拠を置いた加藤清正によって築かれた。

築城は慶長6年(1601)に始まり、同12年(1607)に完成したといわれている。 
落成に際して、この地を隈元から「熊本」に改め、合わせて隈元城を「熊本城」とした。
城郭は周囲9km(築城当時)、広さ約98万平方メートルで、その中に天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えである。 

この石垣にも観られるように、この城の特徴は「堅実な守り」に重点をおいた造りと言われ、このことは明治期の西南戦争でも証明された。 熊本城は城を甘く見ていた西郷軍の攻撃によく耐え、誰一人として城内に侵入することができなかったという。この戦いでは「武者返し」が大いに役立ったという。

ただ、西南戦争での50余日の籠城に耐え、不落の名城として真価を発揮したが、総攻撃の3日前に原因不明の火事により天守閣や本丸御殿など主要な建物を焼失したという。

往時の「本丸御殿」は藩主の居間、対面所と見られるが、特筆すべきは華美な障壁画や「昭君之間(しょうくんのま)、若松之間(わかまつのま)」など特別の間が在り、それに全国的にも類例の無い地下通路である「闇り通路(くらがりつうろ)」と呼ばれる特別な設えもあるという。
この本丸御殿や昭君の間は、城主の清正にも不釣り合いな程の相当な貴人を招き入れる格式の高い様式であり、清正よりも高貴な人・つまり豊臣秀頼のために造られたのではないかとも云われる。

関が原戦後、再び豊臣方と徳川方が戦った場合、豊臣家に絶対の忠誠を尽くす加藤清正は、豊臣秀頼をこの城に迎え入れ、徳川方と一戦交える覚悟だったとも言われている。
この本丸御殿は、現在数10億円をかけて修復中であり平成20年度あたりには、華美な障壁画や「昭君之間」などが一般公開されるという。


この城は清正亡き後、加藤家2代(44年)、細川家11代(239年)の居城となった。
明治10年(1877)の西南の役に際しては、薩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮した。 

しかし薩軍総攻撃の2日前、原因不明の出火により天守閣など主要な建物を焼失。現在の天守閣は昭和35年(1960)、熊本市によって再建されたもの。 
中でも本丸南西に位置する飯田丸・五階櫓は、平成13年に復元が始まり、本年(平成17年)2月に完成、お披露目したばかりのピカピカの城郭である。

尚、熊本城は築城以来2007年で400年の節目を迎えるという。

次回は、善政の雄・「加藤氏と細川氏




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 日本周遊紀行(125)熊本 「肥の国・火の国」   、




「熊本駅中央口」


熊本とは、古代「火の国」または「肥の国」と呼ばれていた・・、

島原のもう一つの象徴であるこの新緑に覆うわれ「眉山」(まゆやま)が次第に遠ざかってゆく。

フェリーは熊本フェリー(九商フェリー)で島原湾を定刻55分で結んでいて、料金は2290円、平日昼時とあって乗船車数は少ないようである。 
久しぶりの船旅であり、甲板に出て爽やかな初夏の海洋風を全身に浴びる。 

船室内ではテレビの放映中でNHKが国会審議を映していて、小泉首相が靖国参拝について盛んに自論を展開していたのが印象的であった。 

右手に天草へ通ずる半島が近付いている、航路は熊本に入ったようである。 
遠く熊本市街であろう、海岸埠頭からは大部離れているようだがビル群の凹凸が見えている。 船は長い桟橋に着岸したようで、すぐ横に緑色の尖がった屋根を頂いた洒落た建物が目に付いた、旅客船ターミナルの施設かもしれない。


熊本港は、有明海(島原湾・・?)に流入する白川と熊本市南部を流れる緑川に挟まれた三角州に浮かぶ人工島の港であり、熊本港大橋が結んでいる。 
港は旅客は元より物流港湾として今も開発が進んでいる。中国や韓国(釜山港)の船も入港し、コンテナ定期船路も開設されているという。

大橋を渡り、このまま立派な道路が熊本市郊外まで繋がっていた。 
九州の大幹線・3号国道から市・中心部の熊本城へ向かうが、途中に鹿児島本線の熊本駅へ立ち寄った。 

駅舎は白い瀟洒な建物でリゾートホテルのような印象であった。

2010年度に全線開業予定である九州新幹線の駅が併設されることになっているらしく、新幹線は高架駅となる予定。

駅前をピンクの市電がゴウゴウと走り抜けていった。
熊本市街のビルの谷間を行き交い、熊本城や古い家並みのある風景の中を、ゴトゴトと走る路面電車は風情的にも良く、熊本の大事な交通機関であるという。


主要都市でよく見られた路面電車も、高度成長期には都市交通(主に車)の円滑化の障害物とされ大部分の都市から路面電車が消えた。 
しかし、いま無公害で環境にやさしい路面電車が見直されているともいう。 
熊本市電の創業は大正14年、最盛期には7系統もあり、延長25キロメートルの営業距離があったという。
今は2系統12キロメートルに縮小されたが健在のようである。この2系統についても一旦は廃止されることになっていたらしいが、市民の存続運動によって命脈を保っているという。 



古代、熊本県の領域は概ねかつての肥後国とほぼ重なるが、肥後国は古代においては「火の国」または「肥の国」と呼ばれていた。

火の国は熊本の象徴である阿蘇地方の主神が火の神であることから呼ばれたようで、阿蘇山が噴火して火を噴き火山弾が降ることで阿蘇山に対する霊異から「火の神」とも言われ、この地方を広く「火の国」とも称したという。

又、「肥の国」は7世紀終わり頃、現在の佐賀県・長崎県の地域である肥前国と肥後国に分けられた。
肥後国は生産力が高い豊かな土地で地理的にも重要と判断されたため、律令体制下では大国の一つとされた。
中世には名和長年(出実は伯耆大山の麓の名和の庄)の子孫である名和氏などが領地を有するが、戦国時代に至っても肥後の国では有力な戦国大名が現れず、国人・豪族同士の争いが暫くのあいだ続いた。


豊臣秀吉の時代に九州制覇の後、秀吉の第一の子飼いである「加藤清正」(幼少・加藤虎之助)に肥後を分け与えている。
清正が主城に入城し統治を開始すると、治山治水や有明湾の干拓による土地開発などを積極的に行い、荒廃していた土地を改良し、生産力を向上させたという。 
現在の熊本の礎は主に清正に拠るところが多い。 

清正は1607年(慶長12年)に新たな隈本城を築き、その後、当地の呼称を隈本から「熊本」へと改名し、お城も熊本城とした。 
これ以降、熊本は城下町として発展していくことになる。しかし清正の死後江戸幕府は加藤家を改易し、代わって細川氏を入国させ、以降、明治の廃藩置県まで続く。 

昭和から平成の宗相になった細川護煕(もりひろ)は、その子孫にあたる。


現在の熊本市は九州全体としては福岡市、北九州市に次いで3番目の人口を擁する大都市である。
尚、水道水の大部分を地下水だけでまかなっている稀有な都市でもある。

次回は、「熊本城



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序(ついで)ながら、「西南の役」で敗れて、敗残の薩摩軍が辿ったといわれる、所謂、九州脊梁山地の町村について述べてみよう。 北は阿蘇山系、南は霧島山系に挟まれ、宮崎と熊本の県境の九州の屋根と言われる山峡の地に、郷愁と伝説を秘めた村々や部落が点在する。
先ず、肥後・熊本に属する「五家荘」(ごかのしょう)と「五木村」について・・、

「五家荘」について・・、
1300〜1700m級の九州山地の奥深い位置に点在する五家荘は現在、八代市泉町(旧:泉村)の中の旧村であった椎原、仁田尾、樅木、葉木、久連子の五つの集落の総称であって、特に五家荘という行政地名としては地図には載っていない。
五家荘地方は、平家落人伝説の残る九州中央山地の奥深い山間に点在する集落のことで、九州の秘境中の秘境と言われている地域である。 管原道実の子孫や平家の落武者と源氏の追討など追われる者と追う者達が山奥深く入り込み、そのまま住みついてしまったという興味ある伝承の地でもある。
菅原道真は、藤原氏の策略によって太宰府に左遷されるが、道真の死後、長男と次男にも追討の手が延び、それを逃れるためこの地に入り、左座(ぞうざ)という氏名を名乗って、仁田尾(にたお)、樅木(もみき)辺りに住みついたという。
又、平家一門の平清経(平重盛の三男)は、源義仲が上洛したことにより豊後竹田の緒方氏を頼って四国から豊後鶴崎を経て竹田に入ったとされている。 緒方氏の娘を妻として緒方姓を名乗ったが、緒方維義が叛旗を翻し源氏方へ寝返ったため、清経は太宰府から山賀の城、柳が浦へと落ち、世をはかなんでそこで入水したとされる。 だが、五家荘の地へ逃げ込んだという伝承もあり、その後、三人の息子たちが其々の里に住み着き、庄屋として領地を開拓したという。 
五家荘にある「平家の里」は、都を偲ぶ隠れ里の雰囲気が漂い、朱色が鮮やかな神殿造りの「平家伝説館」(資料館)には平家落人伝説の資料などが展示してある。又、能舞台や当時を偲ばせる古民家が点在し往時を偲ばせている。 他に、最奥部の樅木(もみき)地区には、現在は観光名所となっている「ロープの吊橋」が多数見られる。 
「五家荘」は川辺川の上流域にあり、深い渓谷に架かる藤の蔓を使用した吊橋が、地域住民の日常生活に重要な役割を果してきた。だが現在は、大部分がワイヤーロープの吊橋に架け替えられ、五家荘の名所となっている。
「五家荘」は、豊かな自然とロマンが今も残っている地域である。


次に、五木村について・・、
「おどま盆ぎり盆ぎり・・」と、どことなく哀愁をおびた子守唄である。
「五木の子守唄」で有名な五木村は、川辺川上流に沿って集落が点在している。 現在、この五木の近辺はダム工事のために狭い道をダンプカーが行き来しており、道路工事などの最中であるらしく、いづれは、子守唄の里でもある五木の中心地は、ダムの底に沈むことになるようである。
壇の浦の戦に破れた平家の一族である武将17人、そして従者135人が五木、五家荘の山中にひそみ、さらに世人の目をくらますため、源氏の武将の姓である土肥、椎葉、那須、黒木らを名のり、居着いた(いつき=五木)であろうという伝承(平家伝説)がある。
五木村から肥後・八代へ抜けるのに「大通峠」というのがあり、かつて貧しい五木の名子(なご・中世から近世、一般農民より下位に置かれ、主家に隷属して賦役を提供した農民)達は、娘たちが七つ八つになると、ロベらし(クチ減らし・家計が苦しいので、家族の者を他へ奉公にやるなどして、養うべき人数を減らすこと)のため、町(八代)に女中奉公に出したもので、そのための親子は、必ずこの峠で別れなければならなかった。 「マチさ行けば毎日マンマ(御販)が食べられるとバイ」・・と、母親の声を後に泣きながら山を下って行く光景がしばしば見られたという。 五木の子守唄の一節に、「おどま親なし七つの年に、よその子守で苦労する、つらいもんばい他人の飯は、煮えちゅおれども のどこさぐ・・」
と、当時の悲しい様子が見て取れる。
子守唄公園には温泉センターや歌碑、ユニークな子守唄像が立っており、かやぶき茶屋や子守茶屋の店もあり、お茶や椎茸などの地元名産品などが販売されている。

『五木の子守唄』  熊本県民謡
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと
盆が早よくりゃ 早よもどる

辛いもんだな 他人の飯は
煮えちゃおれども のどにたつ

おどま勧進勧進 あん人たちゃよか衆
よか衆ゃよか帯 よか着物

歌詞にある「おどま勧進勧進」の勧進とは、「もの乞い、乞食」のことで、「私は乞食(こじき)」という意味である。
哀愁を帯びたメロディーと切ない思いが伝わる日本でも代表的な子守歌であるが、レコード等で全国的に有名になった「五木の子守唄」とは別に、五木村で古くから唄い次がれてきた「正調五木の子守唄」もある。

『正調五木の子守唄』 伝承者 吉松 保
おどまいやいや 泣く子の守にや
泣くと言われてにくまれる
泣くと言われてにくまれる

ねんねこした子の可愛さむぞさ
おきて泣く子のつらにくさ
おきて泣く子のつらにくさ

全国的にも有名な「五木の子守唄」であるが、歌詞は様々なものが伝えられているという。 特に、正調五木の子守唄は歌詞で1番、2番というもはなく、どれが元唄で、何番まであるかなど全然判っていいないという。 専門家によると、多分、即興的に歌われ、そして消えていったものも多数有るともいわれている。
又、歌詞やメロディの発生時期・時代についての記録も伝承もなく、自然発生的に歌われだしたものが、今日まで伝承されてきたと解釈されている。伝承者によって似たようなものもあれば、ひらがな、漢字などを含め、記述した人によっても微妙な違いがあるともいわれる。

次回は、椎葉村


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