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写真:水前寺・成趣園
西郷は、「わしは官軍に負けたのではない《清正公》に負けたのだ・・!!」と独白したと
いう・・、
明治10年(1877年)2月15日、50年ぶりの大雪の中、13000名の薩摩軍が北上を開始した。 かねてより「薩摩不穏」との情勢を掴んでいた熊本鎮台は籠城を決意する。
国内最後の戦と言われる「西南戦争」である。
熊本鎮台は「射界の開放」(射撃の見通しを良くする)のために市中に火を放ち、開戦前に城下は焼土と化したという。ところが、市中放火とほぼ同時刻に天守閣付近から出火し、天守と本丸御殿一帯が焼失してしまう。 原因は、台所からの「失火説」、薩軍の「放火説」、鎮台が自ら火を付けたとする「自焼説」があるが、時代遅れの天守閣を焼き、兵に籠城を覚悟させるため司令長官の谷干城(たにたてき)が命じ、参謀の児玉源太郎が火を付けたという説が現在では有力だといわれるが、いまだに真偽は特定はできてないという。
天守閣焼失にも関わらず三日間の激戦の末、薩軍は一兵も城内に入ることができず、3,000の攻囲軍を残し北の田原坂(たばるざか)へと兵を退去させるが、翌日には田原坂は陥落する。
52日間に及ぶ籠城戦は終了し、熊本城は不落の名城を、名実ともに実証したという。
西郷隆盛は終焉の地・城山(鹿児島)で、「わしは官軍に負けたのではない《清正公》に負けたのだ・・!!」と独白したと伝えられている。
「西南戦争」の主要起因・・、
明治政府は廃藩置県や税金の新制度(地租改正)、それに一般公募の徴兵制を進め、封建から近代国家への歩みを進めていった。しかし、新政府の政策により特権や経済基盤を失った旧士族の不満が徐々に高まっていった時期でもある。 そんな中、明治6年に参議の職にあった陸軍大将・西郷隆盛が所謂、征韓論争で大久保利通や岩倉具視に破れ下野する。西郷の後を追うように桐野利秋など西郷を慕う政府の中枢にいた鹿児島県出身の官僚・軍人約600人も大挙して辞職し帰郷した。 これを境に、維新の原動力となった薩摩の藩閥は、西郷隆盛派と新政府に残った大久保利通派に大きく分裂することとなる。
薩摩では私学校を興し、その生徒が西郷を擁して挙兵する。薩摩軍は新政府打倒をめざして北上する。一方、明治政府は新規に徴兵した軍隊で、最新兵器を元に迎え撃つことになる。
この内戦は、云わば旧勢力の武士団と新時代の徴兵軍隊との旧新制度の争いでもあった。
西南戦争最大の激戦地となった田原坂(たばるざか)・・、
熊本の北隣・植木町の西部地区、国道208号線の近くにあり、坂は北から一の坂、二の坂、三の坂と続き、標高100メートル余の三の坂の頂上部にクスの大木が茂っている。
薩摩軍は、南下する官軍に対抗するため主力を高瀬(現、玉名市高瀬)まで引上げたが押し戻され「田原坂」で決戦となった。 戦闘は3月3日から17日間の昼夜に及んび、雨が降りしきる同月20日、官軍は総攻撃をかけ田原坂を突破する。 破れた薩摩軍は一旦解散し、熊本城の包囲を解いて九州山地を敗走、郷土・薩摩へ引き返すことになる。
西南の役・田原坂の戦いは壮絶なもので、一日の弾丸使用量は32万発にも及んだという。
現在、付近は公園化され、戦死者の慰霊塔や征討総督士・熾仁親王(たるひとしんのう)の崇烈碑、弾痕のついた家などが残されているという。
『田原坂』 熊本民謡
雨は降る降る 人馬は濡れる
越すに越されぬ 田原坂
右手(めて)に血刀(ちがたな)左手(ゆんで)に手綱(たづな)
馬上ゆたかな 美少年
熊本城からの岐路、市内の名勝・水前寺公園に寄ってみた。
熊本城より広い県道28号線を東南方向、豊肥本線を越えて暫くしたところ、市中でチョット判りにくい処であったが何とか辿り着いた。 観光地らしく御土産が並ぶ出水神社の大きな鳥居を潜って間もなく別世界が広がっていた。
広大な池に築山が印象的で、そこに荘厳な神社を配してあるのも良い。
池は豊富な阿蘇伏流水が湧出して作ったらしく、池を中心にした桃山式回遊庭園で、築山や浮石、芝生、松などの植木で東海道五十三次の景勝を模したといわれる。この庭園は、熊本藩の初代藩主の細川忠利が1636年頃から築いた水前寺(地名)御茶屋が始まりとされ、細川綱利が藩主の時に現在の名称となったという。一般的には水前寺公園、正確には「水前寺・成趣園」と呼ばれていて、1929年(昭和4年)、国の名勝および国の史跡に指定された。 ただ、今日では熊本の市街地でもあり、利便や環境の良さも手伝って周囲にマンションが建ち並び、景観を損ねているのはチョット残念なことである。それと、中国人のグループが処構わず大声を上げて叫びあっているのも、帳消しもいいとこであった・・、残念・・!!。
さて次回は、「阿蘇」に向かおう
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