『日本周遊紀行』

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猿園の入園料は、当時「子供10円、大人は子供なみ」という不思議な文言であったとか・・、

今朝はいつもより早起きして、「双葉荘」滞在中としては最後の入浴も済ませた。 
目覚めてサッパリした後はすぐに出発である。 カッチラかしていた身の回りのものは、昨日のうちに片付けていて直ぐにでも出かけられる体勢にはしてあったし、素敵な宿の女将さんにも事情を話して昨夕の内に清算を済ませておいた。
勿論、旅荘で四日も滞在したのは小生にとっては初めてであったが、せっかくの湯治場滞在だったのでゆっくり、ゆったり手足を伸ばして、もっと長期間のんびり湯治生活を満喫したかったのだが、やはり、周辺観光地に気を取られ、あたふたと巡り巡ってあっという間に過ぎてしまった。 今度は是非、内の上さんと同行のうえ、ゆっくりしたいものだとつくずく思った。 今日、出発するには若干の内的の理由(鹿児島で家内と娘家族と合流する)もあった。
まだ、周辺ご近所さん達が活動する以前の、静寂の内に「双葉荘」を後にした。
今日の行動予定は、再び熊本へ戻り九州の西岸地域を訪ねるつもりである。
大分自動車道の別府I・Cより先ず大分を目指す、眼下に見えてる別府の町並みからホンノリ白煙がたちのぼっていた。 別府の市外を抜けると同時に高崎山の要害が競立っている・・、あの、野生の・・?猿の生息地で有名な。

「高崎山」は既に古文書に書かれていて・・、
「高崎は多加佐岐とよむべし、名の義は高き山の出埼有るによれり」とあり、本来「高き山の崎」という意味で、高い山が御崎(岬)に突き出ているという意味でもある。 中世には高崎山山頂に大友氏の城が築かれ、併せて、麓に万寿寺別院も建立されている。
高崎山のサル(猿)については、400年ほど昔にはニホンザルが棲んでいたと「豊府紀文」にも記されている。
1952年(昭和27年)、当時の市長・上田 保氏は、地元住民による高崎山周辺農家へ農作物被害を及ぼしていた猿を狩猟しようと試みたが失敗したことを聞き、逆に猿を集めて観光資源として活用することを発案した。 アイデアは、「池の鯉」で手を叩くと集まる鯉の姿を見て、猿を寄せることを思いついたと云われている。
その当時の大分市は、戦災により商人のほとんどが疎開していたため税収が無い時代であり、高崎山の猿たちは厄介者から一転し貴重な観光資源、収入源となったのである。 発想の転換、「災い転じて福と成す」を地で行ったのである。 猿園は、高崎山自然動物園として発足、入園料は当時「子供10円、大人は子供なみ」などと不思議な料金設定であり、そして当の上田元市長はホラ貝を吹いて猿を呼んだという。
高崎山の自然サル園は宮崎県の幸島(宮崎の最南端である都井岬の近く、日向灘に面する小さな島で、この島には昔からサルが住んでいた)と並んで「日本のサル学発祥の地」とされ、「群れの中で最も序列が高い個体を指す呼称を『ボスザル』から『α(アルファ)オス』に改める」と発表した際にはテレビニュースや新聞で報道され、現在でも群れの動向については地域ニュースや話題になることが多いという。
2004年(平成16年)、高崎山の入り口から猿寄せ場までを4分で結ぶ定員40名で2両編成の小型モノレールが運行を開始し、山を登る手間が省けたという。

次回は、大分 「豊の国」

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写真:鄙びた石畳の坂道・「湯平温泉通り」(木造の四階建てに注目)と最上部の「金の湯」



石畳の、鄙びた、歴史ある、温泉・・、

湯布院町(由布市)の三番目の温泉場・「湯平温泉」へ向かう。
駅前から11号線、更に南由布院駅辺りから国道210号線(大分・湯布院道)を行く。 山峡の地に久大本線が並行して走り、谷底に大分川の清流が光る。 辺鄙な山間地なのに意外と車の数は多い、やはり別府市、大分市という大都市に近いせいもある。 
「湯平」の文字が出てくる案内に従って、右折すると間もなく温泉地らしい町並みに来た。 湯平地区は、昨日訪れた九重方面への“まなみハイウェイ”へ通じるのルートでもある。湯平温泉は山間の川沿いの狭いエリアに開けた温泉地らしく、一寸、車の置き場に困るようなところでもある。 車を下りて今度は“ツッカケサンダル”で歩くことにした、草履サンダルより下駄が似合う町並み、否、路地である。
温泉街は石畳の坂道通り沿いを中心に約30軒程の温泉宿が並ぶ、小ぢんまりとした湯街である。 シンボルともいえる石畳をゆっくり歩を進める、歩くうち意外と坂が急なのに驚く、“湯平温泉”ならぬ“湯坂温泉”であろうと皮肉りたくもなる。 道脇に、石を刳り貫いて造作したと思われる石灯篭が石畳の道筋に等間隔に設置してある。ボンヤリ灯りで、夜の温泉情緒を盛り上げようというのだろう。

「石畳の坂道」、この石畳には約300年の歴史があるという。 
江戸後期に湯町の篤志家(工藤三助)が現在の石畳を作ったのがきっかけで、凡そ500メートルも続く石畳の急な坂道である。 尤もであるが何故、階段にしなかったのかかなと素人的疑問も生じるが・・?、雪の日は大変だろうな、足腰の弱い人は階段に腰掛けて休みながら上れるのに、だが階段にすると施工が大変か、などと感じながらも個人の「志」で行ったとすれば納得でもある。
石畳は300年の経過があるが、湯平温泉そのものは由布院同様、鎌倉時代より開けたといわれ古い歴史のある温泉場である。 江戸期に温泉地としての骨格が出来上がり、それ以来、湯治場としての発展をつづける。貴重で豪華な木造四階建ての旅館が建ったのもこの頃で、今もその建物が一部残っている。
大正から昭和初期にかけて一時代を築き上げた湯平は文人・墨人も多く訪れている。
   
『わたしゃ湯の平 湯治のかえり 肌にほんのり 湯のかほり 』
と詩人の野口雨情が詠っている。
また、山頭火は地元の人情に触れた様子やその思いを

『 しぐるるや 人の情けに 涙ぐむ 』
という句に残し、真新しい石碑が石畳に入り口に建つ。
最近では、1982年(昭和57年)に湯平で『男はつらいよ 第30作 花も嵐も寅次郎』がロケ撮影されてもいる。

温泉といえば観光地としてのイメージが強いが、湯平では昔から熟年層を主とした湯治場としての伝統をかたくなに守っているようで、客層も「癒し」や保養を目的とした利用者が多いという。 周囲を大自然にひっそりと抱かれて湧きつずける湯の里・湯平は、昨今では由布院の奥座敷としても知られ、訪ねる愛湯人が次第に増えているという。 温泉は薬効も充分あり、飲めば胃腸に良いともいわれて湯平の旅館ではお茶のかわりに温泉のお湯が客に出されるという珍しさである。
石畳通りに入ったすぐ右側に「銀の湯」があった、格子戸の引き戸が感じいい。他にも湯平には五つも共同湯があり、下から「橋本湯」、「銀の湯」、「中央温泉」、「中の湯」、「金の湯」とある。 中でも中央温泉はごうごうと勇ましい音を立てて流れる花合野川(かごのがわ)沿いの川原にあり、渓谷の美景が堪能できるという。 川沿いにあるため度々建物が流されたともいうが、今でも川が増水すると川水が溢れて浴槽に入ってくることがあり、時には湯船の中に魚が入り込むこともあるという。 魚と混浴・・、これ以上の風流はないが地区の人はその度に掃除をして大切に温泉を使っていると。

坂の一番上にある「金の湯」を訪ねてみた・・、
急坂を上りきってやっとこ辿り着き、最上部に架かる明治橋を渡り、階段を少し川沿いに下りるとコンクリートの白壁のガッシリした建物が「金の湯」であった。 100円の入湯料を受け箱に入れて入室する、他に客はいなかった。 浴室は大して広くはないがスペースの半分くらいが湯舟になっていて、長方形のタイル張りに蛇口から少しづつ湯が注がれている。 湯の色は薄い赤茶色というか、如何にも効能が有りそうな湯で、少々熱い加減であるが何とか浸かれる。 奥に湯揉み用であろうか、木の板が立て掛けられているのが面白い。 板に寝っころがってお湯を腹に掛ける、「掛け湯」といわれる温泉療法もあり胃腸病に効くともいう。 源泉はすぐこの上にあり、直接こちらへ引き湯しているという。 
ここの温泉は胃酸過多、慢性胃炎や腸炎などに効用があるという弱食塩泉で、飲めば胃酸の分泌を促し胃腸の働きを良くすることから「胃腸の湯」と古来から言われている。 
湯平温泉は、医療温泉の西の横綱ともいわれる天下の名湯ともいわれ、フランスのヴィシー鉱泉と並ぶとも称されているようだ。 「ヴィシー」とはフランスの温泉療養の町で、国中からこの温泉療法を求めに方々からやって来るという。

湯平温泉を満喫して、家路(双葉荘)を辿った。 それにしても今日は朝から色んな温泉に浸かったが、これぞ温泉三昧とも云うんであろうか・・、鉄輪温泉に戻ってからも勿論一風呂浸かるつもりである。

次回は、「大分」方面へ

 

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写真:由布院の瀟洒な「湯の坪通り」と「ゆのつぼ温泉」
写真:金鱗湖と由布岳(右の茅葺屋根が共同湯・「下ん湯」)



鎌倉期より開けていた由布院は、江戸期には閑散としていた・・?、

金鱗湖から流れ出る小川に沿って行くと、堂々たる屋敷の門があった、昔は家老の御屋敷だったそうで、その門構えに「由布院民芸村」とあった。 湯布院の人気スポットで、幕末から明治期の民芸品を収蔵した民芸民具館でいわば資料館のようなものらしい。
帰路、お目当ての「ゆのつぼ温泉」の共同湯へ向かう。 瓦屋根が二重構造の民家風の小さな木造で、引き戸の玄関上に木板で大きく「ゆのつぼ温泉」と書かれてあり、粋な雰囲気を出している。 料金箱に入湯料を入れ扉を開くと右が女湯で、左が男湯になっている、竹を編みこんだ天井など細かいところに工夫がしてあり、木目が鮮やかな木の壁や床が明るく清楚なイメージがもてる。 本日開場したばかりと見えて、洗面具等はキチンと整理されている。 浴槽は中にも藍色の石ダタミを敷くなど、見た目にもその木材と調和していてかなり落ち着いた雰囲気を出している。 湯舟の縁からは惜しげもなく湯が溢れていて、無色透明、無味無臭の単純泉だけれども、触ると温度はかなり熱い、分析表によると泉温は64度とあった。湯舟の湯はさすがにそこまでは熱くはないものの、かなりの高温ではあった。熱いので湯船に長く浸かることなく、縁で「掛け湯」を楽しみながら湯舎を出た。
因みに、金鱗湖の湖畔にも「下ん湯」(したんゆ)という妙な名前の半露天の混浴施設がある。

陽光が燦々として眩しいくらいだが、路地の樹木の緑が補ってくれる。 人の群れも一時より増えてきたようで、ツアーの団体客も目に入る。やはり御婦人方、若い女性、カップルが目立つ。 今日は6月6日の月曜日の平日である、にも拘らずこれだけの人出である、週末の休日などは相当な人出であることが想像できる。  
ところで、ここの温泉地の本来の名称は、由布院地区にある「由布院温泉」である。
昨今、観光案内で「湯布院温泉」などと表示される場合があるが、「湯布院」という名称は先にも記したが旧湯平村と旧由布院町が合併した際に作られた町名である。 湯布院温泉とすると由布院温泉と湯平温泉のことで、更に塚原温泉も加わることになる。従って本来は湯布院町の三つの湯で湯布院三湯が正しい。現在は、由布市三湯(由布院温泉、湯平温泉、塚原温泉)であるが・・。 
尚、現在では知名度の向上に伴い「由布院」と「湯布院」の使い分けについての理解もある程度進んでいるが、その一方で状況は一段と複雑になっているともいい、その為、「ゆふいん温泉」、「ゆふいん」という平仮名表記が用いられることも多くなっているともいう。この表記は「由布院」なのか「湯布院」なのかという区別を一層曖昧にする結果を生んでいるともいえる。
ともあれこれら三つの温泉群からの湧出量は、別府温泉に次いで全国第二位であるとか。 中でも由布院が湧出量・孔数とも断然多く、なんと740を超える源泉孔からは毎分40KLの温泉が湧出しているという。 江戸時代から使われていたと言う共同浴場は金鱗湖畔に佇む茅葺屋屋根の小さな湯小屋「下ん湯」をはじめ14ヶ所があり、外来観光客は勿論、地元の人たちの憩いの場として利用されている。泉質は主に単純泉で効能は神経痛、筋肉痛、関節痛など。

奈良期には既に開かれ、鎌倉期から効用のある温泉として広く知られていた由布院であるが、江戸時代になって突如としてただの村人だけの行水(ぎょうずい))の湯になってしまったと言うのである・・?。
16世紀頃までは由布院はキリシタンの里であった、しかし、江戸期になって、この平和な村にキリシタンの弾圧が襲ってきたのである。 全村民がキリシタンだったような由布院は、やむなく一部の信者を除いて殆どが改宗してしまったともいう。(今でもその隠れキリシタンの痕跡が墓石などに残っている)。 由布院に対する監視の目は厳しく、キリシタンの疑いを避けるためにも、村人が行水する以外、外部の人は誰も湯治に来なくなっていた。ここに由布院温泉の陰の歴史が秘められてたのである。
由布院が湯治場として再び活気を帯びるのは明治維新後のことで明治中期、近隣に陸軍の演習場ができ、陸軍のお偉方や兵士たちが旅館や民家に宿泊し、温泉気分を満喫するようになってからである。 湯布院には今も自衛隊の駐屯地があり、日出生台(ひじゅうだい)演習場(湯布院町、玖珠町、九重町にまたがる西日本最大の演習場)からは時折、砲撃音が聞こえるという。
由布院には、更に大分−佐賀を結ぶ佐賀県道が開通し、大分−由布院間に鉄道も走るようになった。そして何処も同じようにこの町も歓楽温泉地と化していこうとしていたのである。 これを憂いたのが油屋熊八をはじめ、江戸時代からの庄屋たちや医者、外部から訪れた学者たちであった。 油屋は由布院の名勝宣伝文として「朝かすみ・四季蛍・山のみどり・木々の紅葉・杉の大木・興禅院・八山地獄・蕨狩り・若宮八幡・六所宮・石松公園・倒映湖・人と魚の混浴・下の湯」を挙げている。
熊八に案内されてやって来た客人たちは、仙郷・由布院盆地の美しさに感動し、その後も度々自らこの自然の素朴な温泉地を訪れたという。 客人は、由布院で遊んできたと言うより、由布院で癒してきたと言ったといい、勇壮な姿で由布院盆地を包み込むように聳える由布岳や美しい金鱗湖、そして変わらない純朴な農村風景、町の人々の生活がそのまま由布院の歴史を伝えている。

次回は、湯平温泉

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写真:平仮名の「ゆふいん駅」、由布岳と駅前通り



湯布院・・?、由布院・・?、ゆふいん・・?

一風変わった造りの「ゆふいん駅」へ来た。
「ゆふいん」と平かな文字の駅名が気になったが、思えば「道の駅」も「ゆふいん」であった。 大分道のI・C名は「湯布院」であり、この地方を「由布院」とも言う。「ゆふいん」は両者の中間を取った「当て字」のようであるが種々あって紛らわしい・・?。
ところで先般、久住か九重かで物議なる内容を記したが・・、
こちらは「ゆふいん」という呼称で「湯布院」と「由布院」があった。この表記の違いについては昭和30年、由布院町と湯平村が合併した際に起因するという。 新しい町名、行政上の名称は由布院の「布」と湯平の「湯」を合作し、「湯布院町」が誕生したという訳である。 読みが同じなので、どんなものかと思ったが意外と内容は単純であった。
湯布院町の北部地区は旧来の地名のまま由布院温泉、由布高原、由布岳といった名が残り、南部地区には湯平温泉、湯平高原といった固有地名詞が存在する。 
ところが、平成の大合併に併せて本年(2005年)10月1日、大分郡挾間町・庄内町・湯布院町が対等合併して新規に「由布市」(ゆふし)が誕生している。 挾間町、庄内町、湯布院町という地域名は残していて本庁舎は庄内町に置いている。 観光の中心地(由布院、湯布院・・?)と行政機関の中心の本庁(庄内町)を分離した珍しい例でもあろう・・?。 尚、JR久大本線の正式駅名は、「ゆふいん駅」ではなく「由布院」として登録されているらしい。

ところで「由布院」という地名には古い歴史があった・・、 
「ゆふ」の名が文献に現れるのは奈良時代に編纂された「豊後国風土記」に柚富郷(ゆふのごう)として記されていて、「常に栲(たく・タク:コウゾの古名)の皮を取りて木綿(ゆふ)を造る」とある。 この地方にはタクの木が群生していたらしく、タクの木は和紙の原料になるコウゾのことで、その樹皮の繊維をほぐして木綿がつくられた。 木綿は「ゆふ」 (紙布地のこと)と呼ばれ、それが由布郷(ゆふのごう)という郷名になったという。 「ゆふ」の名が柚富、木綿、由布、油布などの豊かな農産物、ないしは加工品の名で表され、「院」という名はいろんな意味合いがあるが、主に貴人などが住む別荘などの大きな家のことを指すようで、木綿(ゆふ)が採れ、温泉が湧き出すところに貴人が住まわれていたということになる・・?。
「ゆふいん」は平安の昔から連綿と続いてきた由緒ある呼称で、呼び名は変わる事なく今日まで続いているのである。 出来れば「由布院市」でも良かったとおもわれるが・・?、これはお節介である。

駅の観光案内でパンフレットを戴き、温泉、見所、名所などの箇所を親切に説明してもらった。 一寸賑やかな駅前通りを抜けた適当な箇所に車を置いて、湯布院のメインストリートといわれる「湯の坪通り」を散策する。 所々に緑を配した洒落た木造和風の家、アンテーク建物などにカフェ、装飾品、土産店などが並び、賑やかな通りになっている。
湯の坪通りの中ほどに湯の坪横丁もあり、ここは湯布院の特産品や食べ物のお店が連なっている一画で、中々雰囲気のある横丁である。何処も土産物を探す観光客、茶店で一服する人達で賑わっていた。
この街はパチンコ屋、カラオケスナック、大衆劇場など風俗店などは一切無く俗化してない。その割に鄙びた田舎臭さ感が無いのもいい。 散策する面々はカップルや2〜3人の女性グループが多く、やはり女性向き(若い女性・・?)にターゲットを絞って町造りされているのが判る。しかも、人力車や「辻馬車」といった「見世物」まである。 いやどうも詰る所、熟年男の一人歩きなどは全く様(さま)にならない通りである。 出掛け際に宿の女将に、些か冷やかされたのを思い出した。
中間地の横道沿いに「湯の坪温泉」という共同湯があったので、帰路に寄ることにしよう。 通りに面して猫屋敷や犬屋敷があって、店内は猫、猫、猫、猫の猫グッズ、よくもマアここまで集めたと感心しきり、猫好きの娘に是非見せてやりたいと思った。
金鱗湖へ出た・・、新緑に囲まれた神秘的な美しさの小さな湖だった。 この湖には、それぞれ冷泉と温泉が湧き朝霧の名所としても知られる。晩秋から冬にかけて湯布院は毎朝のように美しい朝霧に包まれるらしいが、水温の高いこの湖が朝霧発生の主要因となっているという。

ところで「風のハルカ」というタイトルでNHKの朝の連続テレビ小説が本年(2005年)10月から放送されている。舞台はこの「湯布院」であることは既に書いたが、タイトルバックに由布岳やこの金鱗湖が映される。そして、物語の始めの頃、倉田旅館のオーナー宗吉(藤竜也) が若い嫁の百江(木村佳乃)を娶り、花嫁行列が通るシーンでこの湖畔が描かれていた。
倉田旅館は金鱗湖のすぐ横の「亀の井別荘」がモデルになっているという。物語では倉田旅館の主、倉田宗吉が湯布院の街の活性化、町興しの中心人物として描かれているが、事実、亀の井別荘の主人・中谷健太郎氏(現オーナー)は湯布院にとって神様のような人物と言われる。
昭和30年、由布院町と湯平村が合併して湯布院町が誕生したが、その「街興し」、「町つくり」の中心的役割を果たし、成功して全国に知名度を上げた話は有名である。
中谷氏の著書・「湯布院発、にっぽん村へ」の中で「別府、熱海、北陸など有名な先進温泉地が五階建てや八階建てのビルを建てて、巨大な宴席やダンスホールを造って、お客様わんわんという時に、私どもの湯布院は閑古鳥が啼いていました。それでも、地域の振興を常に考え、活性化されても自然を守るということは大切である」と。
「亀の井別荘」は湖畔の緑の中に隠れるように佇んでいるが、その広大な敷地の中に、暖かさと凛とした気品が漂っていて、超一流旅館といえる高趣な人々には絶大な人気があるという。 国際観光都市別府の生みの親とも言われた「油屋熊八」が、由布院盆地の金鱗湖の美しさに注目し、別府・亀の井ホテルの別荘として建てたもので、(中谷巳次郎との共同建築ともいわれる)油屋氏は別府本館に宿泊した皇族、政治家、文人、アメリカの観光団などを由布院の「亀の井別荘」に次々と案内してきたという。
2002年、東京・東銀座の新橋演舞場で『別府温泉狂騒曲「喜劇 地獄めぐり:生きてるだけで丸もうけ―」』という長ったらしい題材を、中村勘九郎主演(他、有名俳優出演多数)で公演された。 油屋熊八という「別府観光生みの親」をモデルにした喜劇であるが、亀の井別荘に滞在していた中村勘九郎が、中谷健太郎氏(創業者・中谷巳次郎の孫)から「面白い縁の人物」として油屋熊八の話を聞いたことが公演のきっかけになったそうである。

引き続き「由布院」です

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写真:双葉荘と愛車、 小生の貸間
写真:薬師仏が見守る内湯、地獄の調理場と利用案内


 
鉄輪温泉の「双葉荘」は人のいい女将さんでもっていると言っても過言ではない・・、

目覚めて・・、否、実際には完全には目覚めてはいない、半覚半眠の状態で這うように浴室に向かった。 湯船の際に腰をドッカと下ろして湯を浴びようとすると、これが又例によって「熱い」・・!、蛇口を捻って冷水をガンガン入れる。熱い温泉水と冷水を程よく混ざり合った適温水を頭からぶっ掛ける、湯加減が塩梅よくなったところで身体を漬け沈め、ジャブジャブと湯船の湯で顔を洗う頃になって、やっと目が覚めてくるのどである。

この辺りの湯(鉄輪温泉)は、概ね一番湯とはこんなもんであろう、一番方が湯温を調整しなくてはならない高温泉の宿命であろう。 適度に浸かりながら身体の全細胞が目覚めたところで、棚の「お薬師さん」に一礼して部屋に戻る。
次は地獄釜で朝食を作る、朝食は温泉卵とジャガイモ。ジャガイモは既に蒸してあったので温めるだけで、お出掛分をも含めてチョット多めに。 玉子は全熟だったら約10分位で出来上がる。バターならぬマヨネーズを付けて、生キュウリと一緒に食す。これが非常に美味かった、地獄釜のお陰である。
軽い朝食の後、早、向かいの共同湯から女性の話し声や洗い場の音が気になったし、お向かいさんに挨拶代わりに、もう一浴びすることにした。年増のズウズウしさでステテコと肌着姿で出向いた、幸い通りに人影は無かったが・・。
瓦屋根の和風平屋造りで、外観もなかなかの感じである。 入り口横に石碑がありその横に待合の長椅子が置かれてあったのも良い。 玄関奥にお地蔵さん(一遍上人・・?)が祀ってあり賽銭箱がある、そこに100円玉を一個ソロリと入れて入室する。 無人なので入浴料は賽銭箱に入れるという小さいながらも、きちんと管理されていて素朴な外湯である。 ここは「地獄原温泉」というが、この平穏な温泉街に相応しくない恐ろしそうな名称で、その由来については先に記したが、昨日訪れた「長者原」(ちょうじゃばる)同様、「じごくばる」と仰しゃるらしい。男女別の内湯の入り口は右が男性、左が女性で入るとすぐ脱衣所があり、広くはないがサッパリ小奇麗な浴室にほぼ正方形の浴槽がある、石作りの床がいい。
普通の銭湯のイメージは湯船の縁が床から高く、足を上げて跨ぐ感じで浸かるというのが多いが、鉄輪周辺では、(宿、渋の湯・・とも)このように床に湯船が埋まってる感じがお風呂の造り特徴の様である、バリアフリー浴槽とでも申そうか。 湯は微かに白濁しているようにも見えるが、やはり透明かな・・?、湯加減の都合で、投入量はそんなに多くはないが、熱めの湯は肌がスベるようだ。長湯は遠慮しながら、湯ったりと雰囲気を味わった後、退出した。泉質は含ホウ酸食塩泉(暖和性低張高温泉)

さて、今日も天気が良さそうである。 本日は特に女性に人気のあると言われる「湯布院」を訪れることにした。これまた湯ったりと「湯布院」を散策することにしよう。
湯布院は朝霧に包まれた風景が桃源郷にたとえられる湯の里で、旅行したい場所のナンバー1にもあげられ、特に、黒川温泉と並んで女性に人気のある温泉地だと言われる。
宿の主人(女将さん)に「今日は湯布院へチョット行ってきます」と言うと、「お天気もいいし結構だね・・男一人じゃもったいないね」と冗談を返す。「何なら、お女将さん一緒に行くかい・・?」、「ハハハハ・・・暇ならね・・」 
「双葉荘」は独特の温泉施設もさることながら、この女将さんでもっているといっても言い過ぎではない。 小生がこの旅荘を知ったのも、ある単独旅行者の青年が10日余り滞在し、宿のことは勿論であるが人の世話を進んでするこの女将さんの事を御袋さんの様に慕い、その人柄に惚れ込んでいる様子を知ったからである。
ある滞在者の感想文の中に「貸間の女将さんはとても優しく、短期、長期、分け隔てなく滞在の一人一人を丁寧に気遣っている感じでした。そして、いつもニコニコ穏やかに帳場周辺を漂っています。ダラダラとお世話になってしまった双葉荘ですが、帰る頃には自分の家のような気になってしまい本当に『去りがたし』でした。女将さんにはお土産に浴衣をいただき、おじいちゃんには『電車で食べなさい』と茹でタマゴやミカン、おやつを沢山持たされました。やっぱり双葉荘はいいなぁー、館内に漂う独特の優しい臭いがたまりません。気兼ねなく利用出来る気さくな貸間、長期、短期にかかわらず絶対におすすめです。 また行こう!」・・とあった。 
宿のパンフレットにも「長いお付き合いのお客様が多いので毎年同じ時期に同じ方々がお越しになり、炊事場で、地獄釜で、お風呂で、お友達になられています。 湯治客は皆友達ですし、又、来年会いましょうと1年後の再会を楽しみにお別れします。 私達も同じ気持ちです。また、親子、兄弟姉妹等の集まり、お里に帰られるように泊まられる方もいらっしゃいます。荷物を預けて帰られる方もいらっしゃいます。」・・と、宣伝文句とは承知しているが、これを100%地で行っているのが、ここの旅荘の女将さんなのであり、女将さんを頼ってくる常連客も多いのである。

鉄輪温泉「双葉荘」HP  http://www.coara.or.jp/kannawa/futabaso/ 

今日は再び、鶴見岳、由布岳の南側を走る九州横断道路(県道11号)を行く、いやー、それにしても大曲小曲の急坂が多い、漸く峡霧台の展望地まできた。 湯布院の街が眼下に一望でき、山々に囲まれた盆地に沈む湯の町が望める場所として人気スポットでる。今の時期は初夏で薄い霞がかかったように見受けられるが、秋冬の早朝の頃には、湯布院名物の朝霧が町全体を覆う幻想的な様を眺められるという場所でもある。
一服してヘヤ―ピン状の坂を下ると、既に観光地らしい洒落た造りの旅館やホテルが見受けられる。 案内標識に従って観光案内のポイントにもなる駅へ向かった。

次回、人気の「湯布院」へ・・、

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