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日本周遊紀行(136)竹田 「広瀬武夫」    、



明治の軍神といわれら「広瀬中佐」は・・ 、

NHKで21世紀スペシャルドラマとして『坂の上の雲』が放送途中である。
年末の限定で、2009年から2011年での足掛け3年に渡って放送されていて、今年が最終年を迎えるはずである。

日本が近代国家へと歩み始めた明治時代、伊予国・松山に3人の男、後に日本海軍参謀としてのロシア軍を勝利に貢献する秋山真之、その兄で日本騎兵の父となる好古、俳句・短歌の中興の祖となった正岡子規等を主人公に、明治と言う時代を精悍に生きて行く物語である。

そして、秋山真之の海軍時代の友人に海軍中佐・「広瀬武夫」(役:藤本隆宏)が登場するが、第2部(2,010年)の放送で行われたロシア極東艦隊の基地・旅順を攻撃するシーンで、広瀬武夫は華々しい戦死を遂げる。




蛇足だが、小生60歳を過ぎるまで医者要らずの身体、きわめて健康体で過ごしてきたつもりであった。
或る年、成人病検診で血便が出ていて、精密検査が必要であると判定された。 
近くの病院で検査した結果「大腸ガン」であることが分かり、早速、入院、手術、治療で約1ヶ月の病院生活であったが無事治癒し、現在はこうして普通に旅行にも出掛けられる健常者に戻った。 
1ヶ月の病院生活で兼ねてより読みたかった司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読破した、たまたま、2004年は日露戦争開戦100周年に当る年でもあったので・・!。
この小説の中の「旅順港」の項で、広瀬中佐の事が詳しく描かれている。


「 とどろく砲音(つつおと) とびくる弾丸(ひだま) 荒波(あらなみ)洗(あろ)うデッキの上に・・・・杉野はいずこ、杉野は居(い)ずや・・!! 」

文部省唱歌「広瀬中佐」の唄である。
この歌を知っている人はがかなり年配のはずだが・・、


時は明治37年(1904)2月、日露開戦と同時に日本海軍は旅順港(りょじゅんこう)のロシア艦隊を奇襲する。
併せて、ロシア艦隊を旅順港内に封じ込めるため「旅順港閉塞作戦」という、古舟を旅順港口に沈める作戦を三回にわたって実施された。
その第2回目に参加した4隻の中の1隻が福井丸であり、その艦長が広瀬中佐であった。

ところが爆沈用の福井丸が旅順港口に近づいた時、敵船の魚雷が命中して福井丸は間もなく沈没する運命にあった。
即刻、艦長の広瀬中佐は船から撤退命令を出し、全員ボートに乗り移ったかに見えたが、部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)が行方不明になっていることを知り、助けるため船内を三度も捜索中、広瀬は敵軍砲弾の直撃を受け戦死したのである。 享年36歳であった。

このことが後に評判となり、広瀬は海軍のかがみであり、尚且つ、部下思いの広瀬は「軍神」とされて、軍国主義教育の好材料とされた。



広瀬武夫は岡藩士・広瀬友之允(重武)の次男として豊後国竹田(現在の大分県竹田市)に生まれている。 
飛騨高山の小学校を卒業後に小学校教師を務め、後に海軍兵学校へ入学する。 日清戦争に従軍し、ロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友する。この時、旅順港などの軍事施設も見学しているし、後にロシア駐在武官となっている。

1904年(明治37)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事し、第2回の閉塞作戦においては閉塞船福井丸を指揮しすることになる。 
広瀬は、戦死の際に首を飛ばされ、流れ着いた胴体はロシア軍により埋葬されたという。 戦死後中佐に昇進し、日本初の「軍神」となり、大分県竹田市の「広瀬神社」では祭神となっている。
「広瀬中佐」の歌は文部省唱歌の題材にもなった。


これには後日談が有った・・! 、
日露戦争当時から、戦死したはずの杉野兵曹長の「生存説」が世間の噂として囁かれていた。 広瀬が探した杉野兵曹は公式には戦死とされているが、実際には存命していたという。 

知らせを受けた実家でも「そんな馬鹿げたことが・・、信じられません」と・・、既に仏壇には「護国院釈忠誠勇義居士」の法名が掲げてあった。 

新聞記者の会見によると、彼は旅順港口で人事不省に陥っていたが、ロシア人に助けられ近くの島で暮らしていたとされる。 
戦後一時、帰国を決意したが内地で自分が広瀬中佐と併せて軍神にされていることを伝え聞き、帰還を断念したという。 

広瀬武夫」はロシア公館付武官であるから、かれはロシア語の会話はもちろんトルストイをはじめロシア作家の作品を読破している。 
おまけに身長175の偉丈夫で美男子ときているからロシアの娘たちが騒がないわけがない、中でもとくに熱心だった女性が二人いたという。


広瀬が日本へ帰ってから二年後に日露戦争が勃発する。
恋人同士を無残に引き裂いた戦争は間もなく広瀬を死に至らしめる。
彼の戦死を知った女性は広瀬の生家へお悔やみ状を送ってきたのが残されているが、それはまるで恋文だという。 それほどまでに外国人女性に慕われていた広瀬は、死後「軍神」になったが、生前は生身の人間であり誇り高き日本男子だったのである。


竹田といい、高山といい山国育ちの広瀬がなぜ海軍軍人なのか・・?
その鍵は実は「坂本龍馬」にあるのではないかという有力な説がある。 

京都国立博物館の坂本龍馬関係資料のうち「有魂姓名録」の冒頭に勤王の志士達の名簿がある。 そのなかに中川藩・家中の「広瀬友之允」の名が載っていて、彼は広瀬武夫の父広瀬重武のことである。 
重武は天保7年生まれなので龍馬より一つ下で同世代であり、文久2年に脱藩したのも龍馬と共通している。

幕末騒乱期、京都・寺田屋に竜馬と共に倒幕謀議に参加するはずだったが、出発が遅れ参加できず、難を逃れたと言う説もある。 
「 維新は、寺田屋の一室から生まれたり 」と言われるように、寺田屋は明治維新のメインステージとなったところであり、文久2年(1862)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名である。
また、ここは坂本龍馬の定宿で、お龍(おりょう・後に竜馬と結婚)との恋の宿としても知られている。

文久3年頃、亀山社中(海運・貿易業を中心とした会社組織、結社でメンバーは龍馬と行動をともにした若者たちを中心に20数人)を興し、神戸海軍塾の創設に走り回っていた坂本龍馬が、広瀬重武を含む岡藩の志士らに、“これからの日本は海軍を起こすこと が急務である”ことを力説した。 
それに感化された広瀬重武は、山国育ちの息子・武夫を明治海軍に入隊させたのではとも言われている。


龍馬が暗殺されたのは1867年(慶応3年)、武夫が生まれたのは翌・1868年(明治元年)。
広瀬武夫は父親と龍馬の海軍精神を受け継ぎ、旅順港で戦死する運命もまた龍馬が与えたものと想像でき、共に国の為に殉じた」は共通する。

尚、武夫の兄の勝比古も海軍軍人で少将、勝比古の養子になった末人(すえと)は海軍中将までなっている。 
豊後竹田駅から岡城に向かうトンネルの手前に「広瀬神社」がある。


広瀬中佐』 尋常小学唱歌(大正元年12月)

轟く砲音(つつおと) 飛び来る弾丸
荒波洗う デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び
「杉野は何処 杉野は居(い)ずや」

今はとボートに 移れる中佐
飛来る弾丸に 忽ち失(う)せて
旅順港外 恨みぞ深き
軍神広瀬と その名残れど

次回は、「坂梨


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日本周遊紀行(136)竹田 「竹田・岡城」  ,




岡城と名曲・「荒城の月」とは・・

豊後国風土記」によれば豊後には八つの郡があり、それらの郡名は基本的に現代まで引き継がれて使用されている。 
その中の直入郡には「郷4、里10、駅1」、大野郡には「郷4、里11、駅2、烽1」があると述べられている。 

このことは八世紀の奈良期の頃の地方の行政単位や軍事施設が確認することができ、大野川流域・地域もしっかり中央政府の支配下にくみこまれていることが判る。


その大野川流域が注目されるのは、平安時代の終盤からであるという。 
平家滅亡後、頼朝と対立した義経をこの奥豊後の地・「竹田」に迎えるための城を用意したといい、それが竹田市の「岡城」の始まりであるといわれている、しかし、義経の豊後下向は失敗した。 

頼朝に敵し得ないことを知った義経は、西国へ逃れることを模索して京都を発ち、摂津(大阪)の大物浜から乗船して九州を目ざしたが、船が難破して渡海をあきらめた。
鎌倉幕府の九州支配が開始されると、豊後国は頼朝の知行国として直接掌握され、頼朝の支配が大野川流域にまで及んだ。 
それは頼朝直系の家臣・「大友氏」を守護として豊後に赴任させた時期でもあった。


16世紀末、大友氏の滅亡した後の江戸期の豊後は小藩に分けられ、その結果、大野川の流域は概ね岡藩(中川氏)の領となった。 
内陸部を領地とした岡藩は、参勤交代や諸物資交易のため大野川の水運を利用すようになり、克つ、瀬戸内海運への重要拠点として中流域に犬飼町と河口の三佐町鶴崎(大分市)の整備に力をいれ、犬飼は岡藩主の中継、休憩基地として繁栄している。 
また河口の鶴崎は熊本藩の豊後拠点であり瀬戸内への窓口、参勤交代の中継地として繁栄した。
その後、大野川の船運は江戸時代から明治時代に入ると、竹田まで通じるようになり更に発展することになる。


竹田の「岡城址」は市街の東方、標高325mの天神山台地に築かれている。 

大野川と稲葉川のほぼ合流地点にあって天然の要害をなし、険しい地形を作り出している。 岡城石垣は苔生し草茂るも堂々とした造りで、曲線を多用しているところは熊本城の「武者返し」に似ている。 
世に岡城は、難攻不落の日本三険城の最上の城ともいわれている。

中世・平安末期の1185年頃の岡城は、平家が壇ノ浦で滅亡した際、豊後の豪族である緒方惟栄(これよし)が「源義経」を迎えるために築城したのが始まりと伝えられている。 

緒方惟栄は平安時代末期から鎌倉時代初期の武士で、豊後国大野郡緒方庄(現在の豊後大野市緒方町)を中心に活躍し、平家物語にも登場したほどの人物である。 
元々、荘園・緒方庄は宇佐神宮の所領で、緒方氏はその領主をつとめ平氏側の一族であった。 
平家一族の都落ちを知ると一族を率いて源氏方に寝返り、平氏の九州上陸を阻止するなどの働きを見せた。 こうした緒方一族の寝返りによって鎌倉幕府の九州統治が進んだともいわれる。

源義経が源頼朝に背反した際には義経方に荷担したとされ、このとき彼を匿うために築城したのが岡城とされている。

しかしこれが仇となって、後に処罰(流罪)されることになるが、ただし処罰の対象になったのは惟栄とその直接の親子兄弟のみであったため緒方一族の大勢には影響がなく、その系流にある各家は後々まで豊後南部を拠点として活躍し続けたという。

鎌倉末期に大友氏の一族・志賀貞朝がその砦を修築、拡大させ「岡城」と名付け、代々の居城とした。



戦国末期には中川氏が入国、 以降、近代城郭として一応の完成をみた。
岡藩は、中川秀成が初代藩主となり、以降中川家は明治維新まで存続している、父はあの戦国の勇将・中川清秀である。 

清秀は当初は池田勝正に属し、後、荒木村重(戦国時代の武将、明智光秀より4年前に織田信長に反逆した武将として有名)の配下となる。 
摂津・茨木城主時代に荒木村重の謀反が起きると信長に従っているが本能寺の変後、羽柴勢に加わり山崎の合戦で活躍する。
後の賤ヶ岳の合戦では奮闘するも戦死している。

父・清秀が賤ヶ岳の戦いで戦死した後、家督は兄の秀政が継いでいた。 
しかし、その秀政も早世してしまったため、その弟である秀成が跡取りとなり播磨国六万六千石を継いで豊臣秀吉に仕えることとなった。 
その後に秀吉から豊後・岡に七万四千石の所領を与えられている。


尚「岡藩」は、豊後国内で存在した藩の中では最大の藩であり、しばし竹田藩と呼ばれることがあるが、岡城と城下町の竹田とは離れていたため「岡藩」が正しいとされている。

明治7年(1874)の廃城令によって「岡城」は大分県に入札、払い下げされ、城郭・建造物は全て取り壊されている。 現在は雄大な石垣のみが残り、城趾は「国指定史跡」に指定されている。 



荒城の月」という愛唱歌がある・・、
作曲家の滝 廉太郎は東京で生まれているが、父・吉弘は役人で大久保利通の秘書をしていたといい、大久保の没後、地方官として大分県竹田市に移り住んでいる。 

父の赴任に伴い幼少の頃の廉太郎少年は、4年間を大分県竹田市で過ごしている。 
15歳の頃、東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学し、作曲とピアノ演奏で才能を伸ばしていった。

一方、奥州・仙台出身の土井晩翠が「荒城の月」の作詞をモデルにしたのは故郷仙台市の「青葉城」や福島県会津若松市の「鶴ヶ城」と言われている。 

東京音楽学校(東京芸大)の教科書唱歌、歌詞コンクールに晩翠は「荒城の月」を応募、そして入選している。

これを当時音楽講師だった滝廉太郎に作曲を依頼する。 
廉太郎は幼少時代を過ごした竹田に、21才の頃帰省して「岡城跡」に想いを込めながら、この曲を完成させたといわれている。 

晩翠は『 滝 廉太郎は歌詞を抱いて故郷大分の竹田町に帰り、その郊外に位置する岡城趾で「荒城の月」を完成した 』と言っている。 

「荒城の月」は、廉太郎の岡城趾の原風景と晩翠の「青葉城」、「鶴ヶ城」の詩的情感を加えた名城合作と言えなくはない。 


岡城の本丸跡には瀧廉太郎の銅像が建てられている。 
不朽の名曲「荒城の月」は日本歌曲の原点として、また日本人の心のよりどころとして永遠に歌い継がれている楽曲でもある。
 

荒城の月』 詞・土井晩翠  曲・滝廉太郎

春高楼の 花の宴
めぐる盃 かげさして
千代の松が枝(エ) わけいでし
昔の光 いまいずこ

天井影は かわらねど
栄枯は移る 世の姿
写さんとてか 今もなお
ああ荒城の 夜半の月
 

次回は、軍神・「広瀬中佐




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日本周遊紀行(136)竹田 「名水の里」   、



イメージ 1
久住の国道442号線から少し奥に入った場所にある妙見神社下の岩盤から湧き出る「老野の湧水」。 「豊の国名水15選」にも選ばれている。




竹田の町は名水の里として、環境省選定「名水百選」にも選ばれている・・、

大分から竹田、熊本へ通ずる道の主要路は、国道10号線から国道57号線を行くのが一般的であるが、小生はあえて野津原町の国道442を選択して竹田方面を目指してみた。
さすがに車の数は少なく、ゆったりした走行が出来る。 

山間とはいえ人家は途切れることなく点在していて、いかにも長閑な風景日和である。 
内陸へ進むにしたがって道路は未改良区間も多くなり、しかも曲線区間が連続して見通しが悪く幅員も狭小なる。 

車がやっと通れるような狭さの道が暫く続くが、これが昔ながらの住人の生活道路でもあろうか。 

所々、高速道路の誘致看板が目に付くが、この界隈を予定されている、それにしてもこの一般道路の改良整備することが先決であろう・・?。


町境を過ぎ朝地町に入って道路もだいぶ良くなり、間もなく国道57号へ合流した。
この辺り朝地町のこじんまりとした町並みで、近くは豊肥本線の朝地駅もある。
やがて、竹田の町へ入る、この後、国道442号は先刻通った久住高原、南小国、日田市へ向かう、所謂、日田往還道路である。 


すぐ近くを稲葉川、玉木川といった清流が勢いよく流れてる。 
水源は無論西方の久住高原、阿蘇外輪といった豊陵な山地・大草原であるが他に、竹田は緒方川、白滝川など阿蘇の山々の水を集めた川が蛇行しながら幾筋も市内を流れている。
これらは一部が伏流水となって涵養された地下水が市内のあちこちに豊かに湧出している。

奥豊後の竹田は名水の里としても有名で、環境省選定「名水百選」に選ばれ、その湧水数は50ヶ所を超え、湧水量は一日6トンを超えるとも云われている。 

阿蘇山系の数ある湧水の中でも水質は軟水で常温は16℃と安定した透明さを誇り、美味しさの点では群を抜いているととわれる。 
これらの水流はやがて大河の大野川となって、流域を肥沃にしながら大分平野を形造っている。 

大野川は今も流域の竹田市、直入郡、大野郡の穀倉地を潤し、大分平野の豊養な土地を育み潤している母なる川であるが、流域には多くの歴史遺産も多数あり、縄文時代の遺跡も出土しているという。


江戸期、中流域の犬飼河港は岡藩中川公の参勤交代で犬飼までは陸路、犬飼から大分までは大野川を下るのが常であったという。
その影響を受けて一帯は、川筋の物資の集散地としても大いににぎわったという。 

古来、大野川の河川流通を通じて、竹田へ文化の波も寄せているという。

次回は、竹田・「岡城



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日本周遊紀行(135)大分 「豊後・大友氏」    、



大友氏は、我が相模の国(神奈川・小田原)の出身であった・・?

さて、「大友氏」の時代である。 
大友氏は中世・鎌倉初期に東国より豊後に入国して以来、戦国時代の終わり頃までの約320年余り豊後地方の守護職(領主:鎌倉期は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職・しゅごしき・といった)を務めた。 

鎌倉時代は源頼朝が相模の国・鎌倉に幕府を置き、武士階級が天皇・貴族階級と分離して新たな支配体制を創った時代で、開府は1192年のことであった。 
この時期、平安期までの荘園に変わって全国に領主となる守護・地頭を設置し、守護は一国に一人ずつ配置された。 

西国においては、東国から有力御家人衆を派遣、入国させ領地を安堵させた大名としては肥前国の千葉氏、九州探題となった渋川氏、中国地方最大の勢力となる毛利氏、安芸守護の安芸武田氏、日向・薩摩の島津氏、そして豊後国守護に任命された大友氏等であろう。


中国を治めた毛利氏については小生の在住地、神奈川県厚木市より移遷されていったことは中国・山口の項で述べた。 

島津氏については頼朝が幼少時流人の身であった頃、世話をしたのが比企家(埼玉、武蔵の荘)の禅尼であり、その娘(丹後の局)と頼朝の間に産まれたのが島津忠久だという。 御落胤である。 
一時、畠山重忠に預けられ、後に九州日向の国、島津の荘を賜る。これが九州の覇者、島津藩の開祖である。(更に、宮崎の項で述べます・・、)


そして豊後・大友氏も相模国の小田原大友郷が出実であると言われる。 
現在の神奈川県小田原市に西大友、東大友という地名が、酒匂川と曽我梅林に挟まれた静観の地域に今も残る。 

大友郷の初代の祖は源頼朝の庶子(しょし:妾腹の子、嫡子以外の実子)か或は、頼朝の側近であった中原親能(鎌倉初期の文官御家人、公家)の猶子(ゆうし・兄弟の子、甥)と言われているが、その中原氏はその土地の名をとって大友氏を名乗っていた。 

豊後はかっては平家の基盤であり、平家没落後も平家武将が多く残存していた。
その九州に対する抑えの役割が必要であり、その監視と抑えに大友氏が派遣されたといわれる。


豊後地方は、室町期から戦国初期までは大友、大内(周防・山口県の守護大名で、豊前の守護職も兼ねる)、少弐(しょうに:筑後の守護大名)の三国抗争が続くが、戦国期、大友義鎮(大友宗麟)が勢力を伸ばし、一時期は豊後を直轄支配地とし更に豊前・筑前・筑後・肥前・肥後を勢力下にして九州北部を領有するまでになる。



「大友宗麟」について・・ 、

大分・豊後といえば大友義鎮(よししげ=宗麟、鎌倉の初代から21代領主)で、キリシタンを保護し自らも改宗して歴史に名高いキリシタン大名となっている。 

フランシスコ・ザビエルをはじめとするポルトガル人宣教師やポルトガル商人が宗麟のもとに、当時、府内と呼ばれていた現在の大分市に頻繁にやって来た。
又、自らも当時世界の最富強国であったイスパニア・ポルトガルなど日本人として初めてヨーロッパに渡り、世界の指導者らと会見している。 

宗麟の外交使節の役割は文化、宗教史上に留まらず交易を含む多方面にわたったとされ、当時としては画期的であったという。
戦国時代の国際都市であった豊後は、日本初の西洋式病院を設けられるなど南蛮文化が花開き、大分の全盛時代を築き上げた。

反面、キリシタンであったがため、元来より八幡信仰や仏教信仰の篤い家臣団との軋轢を生じることにもなる。 
宗麟はキリスト教の理想国を建国するという計画に没頭しはじめるが、しかし、このことが遠因となって、やがて没落の道を辿ることになる。
この頃、隆盛著しい「島津氏」が勢力を伸ばし、九州制覇へ向けて動きだす事になり、豊後を侵攻するようになる。 
後に、宗麟は圧倒的勢力の島津氏との正面対決により大敗北を喫し(耳川の戦い・詳細は後報・・)、豊後から退却する結果となる。 
あと一歩で大友氏の息の根を止めるところまで追い込んだ島津だが、豊臣秀吉による九州征伐で九州は平定され、大友氏は縮小されながらも豊後一国を安堵される。 
この時期の1587年、宗麟は58歳で生涯を終えている。 


その後の大友氏は秀吉の朝鮮出兵の際、失態により改易、更に、江戸期には一旦、旗本取り立てられるが、その子の義親の代になって無嗣(家督を相続する子がいない)のため事実上大友家は滅亡する。

改易とは、所領や家禄・屋敷を没収せれることで、特に江戸時代の刑では蟄居(チツキヨ)より重く、切腹より軽いといわれる。 


大分市顕徳町三丁目周辺に、豊後国府といわれる大友氏館跡や大友氏の菩提寺である万寿寺跡の遺跡が在り、現在も発掘調査が行われているという。 
館跡は北部九州六カ国の守護職を務めた大友宗麟の館跡で、京都の室町将軍邸をモデルに造られた守護館の典型的な姿であるという。 
その歴史的価値の高さから、「大友氏遺跡」として国の史跡に指定されている。



大分市は、2005年1月に北海部郡佐賀関町、大分郡野津原町は大分市に編入され、新「大分市」発足している。

佐賀関町は大分市の東方、豊後水道に突き出した三角形の町で、対岸の愛媛県佐田岬半島へは豊予海峡を挟んでわずか14kmの距離である。 
東九州の玄関口であり九州でもっとも四国に近い町であり古代よりの要港であった。 
そして、握り寿司などでもお馴染みの 「関あじ・関さば」の産地でもある。 
豊予海峡は急流うずまく「速吸瀬戸」(はやすいのせと)とも呼ばれる好漁場で、ここで育った魚類は身がしまって絶品であるという。

又、野津原町は大分の南部に位置し山間の静かな町で、町域の中心を竹田に向かって国道442号が走る。 
更に、矢の原から県道412号が国道と並行して走る。 

この道は豊後街道といって、江戸期は肥後熊本城主・細川氏や豊後岡藩主(竹田藩)・中川氏の参勤交代道路として利用されていたことは先に述べた。 

南部に位置する「今市」はこの豊後街道にあり、中川氏が岡藩の宿場として設けた宿場町でもある。
今も、当時の名残の石畳が道路の真ん中に続いている。

その豊後街道から竹田を目指した。

次回は、「竹田


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日本周遊紀行(135)大分 「豊の国」  ,



豊の国、豊後の国、そして古豪・大分氏が元祖であった・・、

大分の市街北部の大分光吉I・Cまで向かう。
大分市は大分県の中部海岸に位置する市で、勿論、県の県庁所在地である。 
古くは「豊後の国」の国府が置かれた都市で府内(ふない)とも呼ばれた。

古代、大和朝廷の時代には九州は「筑紫(ちくし)の国」、「豊(とよ)の国」、「日向(ひゅうが)の国」と称していた。 
それが律令によって細分化されて、[筑紫の国]が[筑前:ちくぜん][筑後:ちくご]に、[豊の国]が[豊前:ぶぜん][豊後:ぶんご]に、[肥の国]が[肥前:ひぜん][肥後:ひご]に、[日向の国]が[日向:ひゅうが][薩摩:さつま][大隅:おおすみ]の九つに分けら九州の名が付いた。 

九州は日本国発祥の地といわれ、無理やり解(かい)せば「 初めに日出るところであり、豊かにして、肥ゆる、国を筑くところなり 」となる。



豊の国、豊後の国は既に、九州の瀬戸内ルートを通して畿内に通じた「海の道」でもあり、東九州の要地であった。 
その古代、既に「大分」の名が見れる。

市内には有名な「亀塚古墳」の他にも多くの古墳があり、これは有力な勢力を持った人が大分にいたことを示しているという。
その内、三芳地区にある「古宮古墳」は、九州に一つしかないといわれる畿内型終末期古墳(古墳時代:大和時代、畿内地方に多くの巨大古墳が造営されたが、その時代の終末期と呼ばれる)が、ここ「豊の国」にあり、当時日本の政治や経済の中心であった畿内の文化を色濃く反映した地域であったことが伺える。

古墳時代終末期には、既に古墳築造の禁止令(薄葬令=はくそうれい)が発せられていた。
古宮古墳はその最後の頃の古墳であり、誰が葬られているのかは確かな事は判っていないが、当時かなりの権力をもった人物で5世紀以来、賀来川流域を治めていた大分君(おおいたぎみ)の一族で、壬申の乱で活躍した「恵尺」(えさか)という人物が葬られていると想定されいる。

古事記には「 国造本紀 」の項目の中で、大分君は阿蘇君(火の君)と同様に国造(くにのみやっこ:こくぞう)と同格に列せられていて、九州の地方豪族として中央(都、畿内)にも知られていた。 

国造制とは、6世紀頃に律令制が導入される以前のヤマト王権(大和朝廷)の時代の制度で、地方統治体制(ここでは一つ国を意味する)の下の長官、国の長を意味する。

この時期、大分地方に大分国造が置かれていて、この大分国造になったのが大分君一族であった可能性が高いといわれる。
この時代に起こった中央の勢力争いに豊の国からその代表として「大分恵尺」(おおきだ の えさか)が応援に駆けつけ大功をなしたとされている。


壬申の乱」とは、672年に起きた日本古代の最大の内乱であり、天智天皇の太子・大友皇子(おおとものみこ)に対し、皇弟・大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が反旗をひるがえしたことによる。 
この戦いに勝利して後に天武天皇となった大海人皇子は、大分君・恵尺の功績に十分に報いて、死後、恵尺の出身国・「豊の国」(この時期、律令制が発布、豊後の国となる)に古墳の造営を許可されたという。


大分市椎迫(しいざこ)の丘陵、西の台小学校の東に石棺式石室の古墳が今も残る。
この古代大分氏に因んで、明治期に豊後の国が大分県になり尚且つ、大分市と呼称したとされる。

奈良期・国府時代の国分寺跡は「久大本線」の4つ目の駅「豊後国分」駅前に良く整備、復元された状態で見学でき、「大分市歴史資料館」が併設されている。 
しかし、肝心の「豊後国府」跡は未だに発見されていないという。 

学説もいくつかあって確定していないが、「久大本線」の駅名にもなっている「古国府」(ふるごう)辺りにあったことは間違いないともいわれ、古国府という地名にもなっているこの地域に遺構が残されているのでは・・?と想像されてる。

次回は、中世の豊後、「創始者・大友氏




『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真関係)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/



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