『日本周遊紀行』

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写真:中津城(天守閣は昭和39年に建設されたもの)

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ビッコの軍師・「黒田官兵衛」が中津の礎(いしずえ)を造った・・、

山国川河口には、壮麗優美な「中津城」が立つ。
築城の名手といわれた黒田如水が、心血を注いで築城を開始した名城で、戦国期の16世紀後半頃より築城が始まり、継承して細川氏の時代に完成をみている。 その後、江戸・藩政時代は小笠原氏、奥平氏と変じて明治を迎えている。
豊前・中津は天正16年(1588) 、豊臣秀吉による九州征伐の軍功により豊前16万石を与えられた黒田官兵衛孝高(如水・よしたか) が入部し、中津城の築城に着手しながら城下町造りをもスタートする。 しかし、孝高は城および城下町づくりが未完のうちに福岡へ転封され、その後を受けて入部したのが 細川 忠興だった。 実際は家督を 忠興の三男・忠利(ただとし) に譲って中津の町づくりが継続しておこなわれることになる、これが今の中津の原形となっている。 県北の雄藩として歴史や文化を育み、「西の博多か、東の中津」(明治の鉄道唱歌)と唄に歌われている。

黒田如水は戦国期、豊臣秀吉の側近として、竹中半兵衛亡き後「ビッコの軍師・官兵衛」として活躍する。 織田信長に反旗を翻した荒木村重の説得に向かったが、「友人の荒木村重が私に危害を加えることはない」と“たか”をくくっていた為に油断し、捕縛されて土牢に押し込められる。 1年後に救出されるが、長きにわたる土牢生活のために脚部の関節に支障を来たし、上手く歩くことが不可能となったという次第である。
官兵衛孝高(かんべえよしたか)の軍師としての活躍については、小生も読んだ司馬遼太郎の「播磨灘物語」( 播磨は官兵衛の出身地)に描かれている。
官兵衛は、さらに主君・秀吉にもその底知れぬ才覚を逆に恐れられたという。それは後に、秀吉の名だたる側近が軒並み大大名となるなか、官兵衛は天正15年(1587年)、僅か豊前国内6郡(現・大分県中津)に12万石を与えられただけであった。 官兵衛の才覚は、本能寺の「信長討ち死」の報を聞いた時、即座に秀吉に天下取りを進言したとも言われる。 そのことで秀吉は、「自分の死後天下を取るのは黒田官兵衛である」と思うようになり、更に、「私の後釜を孝高が狙っているのではないか・・?」と、秀吉に危惧を抱かせたためとの説もある。 その子の「黒田長政」は筑前国・福岡藩の当主として活躍していることは、既に、福岡の項で述べている。

中津藩(大分県中津市)城下の蔵屋敷で下級藩士・福沢諭吉が生まれている。 明治期の思想家で慶應義塾の創設者として有名、明治の六大教育家に数えられ、一万円札の肖像にも使用されているのはご承知である。

国道10号を走り出してまもなく、豪奢な施設の「道の駅・豊前おこしかけ」というところで小服した。 先ず立派なトイレにビックリした、なんでも“駅造り”の目玉に、TOTOとプロジェクトチームを組んで“日本一思いやりのあるトイレ”の完成を目指し誕生したという。 駅の名が「豊前・おこしかけ」という変てこな名称も、文字通り“お腰掛け”で、なんとなく頷けるのである・・?。 尤も、あの宇佐神宮に祭られている「神功皇后」が旅の遠征の途中、休憩と景色を眺めるために座った大きな石がこの地に有るとされ、この石を「おこしかけ」というそうだが・・。

国道10のバイパスになっている有料道路「椎田道路」を行く。 行橋から再び一般道のR10を北上する頃、苅田町辺りから左遠方に点々とした山波状の丘陵地が見えている。
「平尾台」といって、高知県と愛媛県の県境にある天狗高原・「四国カルスト」、山口県「秋吉台」とともに、日本の三大カルスト台地の一つである。
「カルスト」とは、ヨーロッパ南部の小国・スロヴェニアのカルスト地方に見られることから、その名が付いたといわれる。 石灰岩の台地でカレンフェルト(鋸歯状の地形)、ドリーネ(スリ鉢状の窪地)などといった石灰洞などが発達する特有な地形である。 石灰岩の表面が雨水によって溶解浸食を受けやすく、又、割れ目に沿って滲み込み、周囲の岩石を溶解して内部に鍾乳洞などの洞窟を造りやすい。
ここ平尾台も、広大な草原のところどころに「カレンフェルト」と呼ばれる大きな石灰岩が散在する独特の風景で知られる。 標高300〜700m、南北6km東西2kmの日本でも有数のカルスト台地で、緑の中に白い石灰岩が羊の群れのように顔を出す風景から“羊群原”とも呼ばれ、千仏鍾乳洞や牡鹿洞などの鍾乳洞が有名である。 台地全体が国指定天然記念物になっていて、場所柄も福岡南部の至近でもあり、地域の人々の行楽地にもなっている。 

次回は、下関
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写真:本耶馬溪・「八連の石橋」(オランダ橋)



頼山陽(らいさんよう・江戸後期の歴史家、漢詩人、文人で芸術にも造詣が深い)が「耶馬溪山・天下無双」と言わしめた・・、

宇佐神宮から、このまま、裏参道の緑陰の中を戻り、整然と並んだ茶店で冷たいものを戴いて車中の人となった。
本日中に九州を抜ける思いで先を急ぐ、国道10号線を再び飛ばす。
この辺りは豊後平野、青々と広がっている大地の向こう、左方向に耶馬渓の山地が望める。 清流・山国川を渡る頃、気がつくと、この川が県境で渡り終わると既に、筑後・福岡県であった。 この山国川の遡ると中流から上流奥部は、「耶馬溪」といわれる九州の代表的な景勝地の一つである全国耶馬渓の総本山でもある・・?。
振り返ること数過月、「東日本・・、」で北海道の襟裳岬から日高地方へ向う途中、様似町にある道内でも高山性植物で著名な「アポイ岳」の麓の海岸を「日高耶馬溪」と称していた。山塊が海岸にまで押し迫り、それが断崖絶壁や奇岩怪岩となって大平洋に落ち込み、美しい海岸美を形造っている。
そして、こちらが本耶馬溪である・・、 
今、小生が本耶馬溪と称したのは、景勝地としての耶馬溪全体を指したものであるが、実際に観光地域としての「本耶馬溪地区」と行政地名としての「本耶馬溪町」とが存在する、尚、耶馬溪町も在る。 ところが、平成17年3月1日、耶馬渓町、本耶馬渓町は、山国町・三光村とともに中津市に編入され、各々の行政上の地名は消滅しているのである、チョットややこしかった・・?。

「耶馬渓」は中津・日田・宇佐の三市と玖珠町とに跨る広大な地域で、全68景ともいわれる絶景が展開する景観地である。 大分県の北部、福岡県との県境を北流する山国川の中流に位置し、英彦山(ひこさん)系の小山群が連なり、山岳地帯は溶岩侵食により奇岩奇峰が起伏し、小さく開けた平野に集落が点在している。
「耶馬溪」は本耶馬、深耶馬渓、裏耶馬、奥耶馬と各地区ごとに別れ、何れも、山国川沿い、或いは周辺に奇岩、奇峰群が連なっている景観が圧巻である。その中で一際壮観なのが本耶馬(耶馬溪町)に展開する「青の洞門や石橋」や古刹・羅漢寺が名所のポイントにあげられる。 又、耶馬溪の奥には英彦山(ひこさん)など歴史の宝庫も存在する。 
江戸後期の歴史家・陽明学者、漢詩人と言われる頼山陽が「耶馬溪山・天下無双」と称えた名勝なのである。
其々の耶馬渓を一言で紹介すると・・、
本耶馬渓は「青ノ洞門」を中心とする山国川上流一帯をいい、羅漢寺の禅海和尚が参拝客が難所を渡る際に命を落とさないようとノミ一本で掘り抜いた自然のトンネルとして著名である。 
深耶馬渓は、山国川支流金吉川支流に位置する渓谷で、「一目八景」が有名。一度に秀峰の峰々が八つ眺望できることから名付けられたといい、近くには鴫良(しぎら)、深耶馬渓などの温泉がある。
裏耶馬渓は金吉川上流の渓谷で、浸食を受けた岩壁が屏風のように屹立した光景は見事であり、近くには伊福温泉もあって温泉水を使って養殖したスッポン料理が名物であるとか。
奥耶馬渓は、山国川上流に位置し、「猿飛の景」と名付けられた猿飛千壺峡が有名。 
他にも椎屋(しや)耶馬渓といわれる岳切(たっきり)渓谷一帯、そして津民耶馬渓といわれる山国川支流の津民川に位置する渓谷等、手付かずの自然が残る穴場もある。
又、かつてはこの他に羅漢寺耶馬渓(本耶馬渓に含む)、麗谷耶馬渓(深耶馬渓に含む)、東耶馬渓、南耶馬渓もあり、これらを称して「耶馬十渓」とも呼ばれていた。

ところで、本耶馬渓の「青ノ洞門」のことであるが・・、
この中津の街より凡そ10km上流の地、羅漢寺の住職・禅海和尚がノミ一丁で掘った手彫りの洞門として有名である。 
江戸中期、諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚は、断崖絶壁に鎖のみで結ばれていた難所を越す際、通行人が誤って転落し命を落とすこともあったことを聞かされて、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと托鉢勧進しながら掘削のための資金を集め、石工たちを雇って「ノミと槌だけで30年かけて掘り抜いた」といわれている。 完成を見たのは江戸中期の1746年のことであって、後に資金還元の為洞門の通行を有料にし、人は四文、牛馬は八文徴収したそうで、この手彫りのトンネルは日本最初の有料トンネル、有料道路とも言われている。 洞門の長さは350mあり、工夫が3人並んで掘っていたと推定されていて馬に荷物を積み込んでも十分通行出来るだけの大きさに掘られていたという。
この手彫りの洞門は、明治期に大型重機移動の為の道路を作る必要性から、爆破によりことごとく破壊されたが、現在の国道212号線から一段下がった所に、当時のノミの跡がハッキリ残された洞門の一部が発見され「手彫りの洞門」として保存され、現在公開されている。 トンネルの傍の園地に禅海和尚がノミで掘削している立像が建っている。
この逸話を元にして書かれたのが菊池寛の『恩讐の彼方に』であり、「青の洞門」という名称は、この小説の中で命名されたものという。
青の洞門の下流500mに位置している橋で、「耶馬溪橋」というのがある。 「八連の石橋」(オランダ橋)で当時陸軍の工兵中尉、永松昇県技士によって設計されたという。 観光道路として大正11年に着工し大正12年に完成し、我が国唯一の長崎式石積みのアーチ形石造橋として美景を誇っている。
こちらも、青ノ洞門同様、文豪菊池寛の小説「恩讐の彼方に」の舞台となった橋で、長さは116m、アーチ形石造橋としては日本一の長さで、「耶馬溪三橋」の一つであり、県の有形文化財に指定されている。

次回は、中津城


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写真:宇佐神宮の神域を画す寄藻川(よりもがわ)に架かる屋根付きで朱塗りの優美な橋・「呉橋」
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宇佐神宮と大和・東大寺は「神仏習合」の元祖であった・・、

時は下って、奈良朝における宇佐神宮創建(725年)の頃、45代天皇に即位した聖武天皇は奈良東大寺の大仏建立を計画する。 その当時、国内では金の産出量が少なく、仏像を飾る金が不足していた。 この時を待っていたかのように宇佐の神は、「必ず黄金を国内で産出できる」という御神託を発し、何と、その言葉どおり陸奥の国から大量の黄金が発掘されたという。 その光り輝く黄金900両を献上した人物が「百済王」といい、神託が下されてから僅か1年余後のことであった。
待望の金が産出されたと聞き、宮廷歌人の大伴家持(おおとも・やかもち)は大喜びで天皇を讃え・・、

『すめろぎの 御世栄えんと 東なる
みちのく山に 黄金花咲く』 
と詠んでいる。
この時期、日本に亡命した百済王族の子孫である「百済王敬福」(くだらおうきょうふく)は、官僚社会を比較的順当に勤め上げ、46歳の年(743年)に陸奥守(現在の知事)に任じらている。 半島国家の盛衰が渡来系の人たちの動きを活発にし、日本国内での影響力も増したと言われているが、特に古い時期(5,6世紀)から生活の基盤を日本に移した渡来人は、その財力を背景に次第に朝廷内部にも存在感を持った勢力として認識されるようになっている。
6世紀の仏教文化の渡来以来、秦氏の「稲荷神社」創建に象徴されるような、日本古来のカミサマとの神仏融合にも成功し、恐らく遷都や寺院建築といった事業に際しては率先して財貨・人材を提供して協力を惜しまなかったのではないかといわれる。
黄金900両を献上した百済王を天皇は大いに喜び讃え、位(従三位)を与え河内国交野郡内にも広大な土地を与えた。 現在も百済寺跡や百済王神社、居館群が跡を止めている。彼・敬福は、実入りの多い国司などを歴任したにもかかわらず家には余財などは無く、豪放磊落な豪傑肌の人物であったようで、聖武天皇が寵遇したのもこのような彼の性格を愛したことによるもので、決して黄金を献上したことのみではないともいう。 
又、天皇より大僧正の位を授かった「行基」が大仏鋳造を大いに支援しているが、行基も同様、百済系の渡来氏族ともいわれる。
図式として「宇佐の託宣」⇒「黄金の発見」⇒「東大寺大仏の完成」⇒「九州と都との連携の強化」と、渡来人の先見性と技術力、財力で当時の日本の象徴的大寺院・東大寺が完成している。 後に全国各地に「国分寺」、「国分尼寺」が造られるきっかけとなり、行基は全国に勧進行脚に出かけた折、各地に寺院を開山する中、土木事業にも精を出し、連日、汗水流しブルドーザーのように働いたという。 又、各地で温泉を発見したり、整備したりしていて、行基にまつわる温泉も多い、「疲れた人夫たちをくつろがせるには、温泉が一番じゃ」と・・。

こうして、宇佐神宮と東大寺が親密連携するようになって、「神仏習合」(神と仏という相異なる性格を持つものが平和に共存している、同時に信仰されているということで、以降の“神仏習合”の元祖といえる)と言う形をなし、宇佐宮は益々強くなってゆく。 やがて「八幡大菩薩」と称され、一般社会に浸透し、「はちまん」さまと呼ばれることが多い神様になる。
元々の呼び名は「やはた」さまでであった、その意味で「や・はた」とすると、「や」は『強い・多い・大きい』を意味する強調言葉だといわれ、最も分かりやすい解釈が渡来系の代表選手・秦氏の「はた」ではないかという見方ができる。 末広がりで強い「や・八」に、秦がひらめく「幡」で「八幡」から、やがて「はちまん」と呼ぶようになったとされている。又、はだ(秦)の呼び名は、朝鮮語のパダ(海)によるとする説もある。
秦氏は朝鮮半島から渡来した氏族で秦始皇帝の裔(えい:血筋、子孫)と称し、わが国文化、産業の基層を造ったすごい氏族である、本拠は京都・太秦の他、周辺各地に点在している・・?。

宇佐神社は、東大寺の守護神として奈良・手向山に鎮座(手向山神社)し、他の神社とは異なり積極的に仏教との習合を深めたとされる。 仏教側でもこれを喜び仏様の守り神と崇めて『八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ』の尊称を奉ったのである。 そして時代が下り、平安時代になると、平安京の裏鬼門(南西の方角)を護るため京都・男山に、応神天皇を主祭神として石清水八幡宮が勧請され、こちらも朝廷の篤い尊崇を受けている。
第56代清和天皇の直系、清和源氏の祖といわれる源満仲(みつなか)の頃より「八幡宮」を崇め、源義家(みなもと・よしいえ)は京都・岩清水八幡宮で元服し、「八幡太郎義家」と呼ばれるようになる。 ここから八幡さまが源氏の氏神、武門の守護神として祀られるようになった。
鎌倉・鶴岡八幡宮は、1063年、源頼義、義家公が奥州を平定する際、源氏の氏神として出陣の時に合わして、京都の石清水八幡宮を鎌倉・由比ヶ浜辺にお祀りした(元八幡)のが始まりで、その後、源氏再興の旗上げをした源頼朝が、1180年、鎌倉に入るや直ちに神意を伺って由比ヶ浜辺の八幡宮を、現在の地に遷宮し、1192年に鎌倉幕府の宗社となっている。 宇佐神宮(宇佐八幡宮)、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう:京都府八幡市)、鎌倉・鶴岡八幡宮は、日本三大八幡宮と言われる由縁である。 主祭神は八幡大神を祭神とする応神天皇で、相神に神功皇后、比売大神としている。

宇佐神宮境内東の最奥部に大尾山があり山腹に「護皇神社」がある。 和気清麿公を祭神として鎮座されている社である。 
世に「宇佐八幡神託事件」、「道鏡事件」と言うのがあった。 弓削道鏡(ゆげのどうきょう)が“宇佐八幡の御神託である”と嘘をついて帝位に即こうとするが、一方、和気清麿はこれを抑えるべく宇佐八幡に赴き、正規の御神託を仰ぎ、道鏡の意思を退けて「万世一系の天皇制、国体擁護」を説くという。 ここでは前項、(備前・和気町)に記載したので省略する。

岡山県和気町・「和気清麿と道鏡事件」
URL http://blog.goo.ne.jp/orimasa2005/e/50d06eb706bbad0aeffaebf178c5a2ad 

帰路、西参道を通ってみた、寄藻川に架かる「呉橋」がある。勿論この橋は扉が閉鎖されていて、一般の我々は通ることは出来ない。 川幅いっぱいに宮社風の建物が弧を描いて施してあり、屋根は茅葺で(檜皮・・?)外観は朱漆が鮮やかであるが、歳月を経てやや色落ちしている。 しかし、たかが小さな川に架かる橋としては豪奢そのものの造りであり、すぐ下流には一般人通行用の神橋も架かっている。
天皇及び勅使参詣に関しては先に記したが、この西参道を勅使街道と称した。 呉橋はその宮人・勅使、天皇達のやんごとなき(貴人)方々の専用通路であるが、一時期は一般の人もこの橋を渡って参詣したこともあるという。 
鎌倉期の1301年(正安3年)に、勅使として宇佐神宮を訪れた和気篤成が・・、

『 影見れば 月も南に 寄藻川 くるるに橋を 渡る宮人』
という歌を詠んでいる。
従って、鎌倉時代にはすでに橋が架けられていて、室町時代には既に屋根付の橋であったとされる。 当時、小倉、中津を領した細川家によって造営され、現在の橋は昭和初年の国費による造営という。
呉橋という名の由来もはっきりしないが、昔、呉の国(中国)の人が掛けたとも云われ、この名が付いたとあるが、その名から古い時代に渡来人によって架けられたとする伝承もある。 尤も、宇佐神宮そのものが大陸の影響を受けていたところをみると、この呉橋の造りそのものが如何にも大陸・中国風、唐風なのである。

次回は、「中津」
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神社の数のランキングは1位・稲荷神社、2位・八幡神社、3位・神明神社・・、

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日本で一番多くある神社はご存知「お稲荷さん」であるが、では二番目に多い神社は?と聞かれたとき、すぐに答えられる人は余程の神様通といわれるが・・?。 全国の神社のおよそ三分の一、実に3万社が八幡神社だという。 関西では京都・岩清水八幡宮そして関東では鎌倉・鶴岡八幡宮が代表的に知られているが、その大元締めともいえる総本社が宇佐市にある宇佐八幡神宮(宇佐神宮)で、日本史の中では八世紀頃に最も注目を集めた神様だと言われる。
現在の場所に宇佐神宮が正式に鎮座したのは西暦725年(神亀2)頃と言われている。 その時の主祭神は応神天皇(誉田別尊・ホンダワケノミコト)であり、歴代天皇の中でも「神」という文字が「贈り名」(諡号・人の死後に、その徳をたたえて贈る称号)に含まれている三人(神武、崇神、応神)のうちの一人で、古代史の中でも別格の存在なのであるという。その母親が、三の御殿に祭られている神功皇后である。 次に731年に祭神となったのが比売大神であり、いずれも太陽や海あるいは航海を司るのに縁のあるカミサマである。 
では、何故、神功・応神親子と海のカミサマを一緒に、お祭りする必要が当時の九州にあったのか・・?、その理由は、かなり明確に分かっている。

先ず、「三韓征伐」について・・、
三韓征伐とは、神功皇后が行ったとされる新羅出兵を指し、新羅が降伏した後、三韓の残りである百済、高句麗の二国も相次いで日本の支配下に入ったとされる。
このことは、4世紀後期ごろから倭国(ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されていて、倭が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦っていたことも「功績を大きく見せるための誇張はあってもおおむね史実を反映したもの」とする評価もある。
時代は下って、記紀(古事記、日本書紀)などの記述によれば、神武以来、国内全土の平定が紆余曲折を経て進められていたが、7世紀頃には大陸で巨大な統一国家(中国・唐)が生まれていて、先進文明を背景とした大陸、半島勢力が何時、日本本土へ進攻してくるかが問題であり、これが日本の実情でもあった。 7世紀後半には、その余波をもろに受けて朝鮮半島内が大混乱となり、相次ぐ戦乱、国家の盛衰が日本にも影響をもたらしてきた。
戦乱の結果、今からでは想像もできない規模で人・モノ・技術(それはいかにも文化そのものといってもよい)の流入があり、次に起こり得る事態に備えなければならなかった。 
現実の大問題が発生したのは633年に起こった「白村江の戦」(はくすきえのたたかい:前記)であり、唐・新羅の連合軍に敗北(百済と日本の連合)を喫した後、日本は半島への足がかりを全く失うことになり、今度は逆に、半島からの進攻を防ぐ手段を真剣に考慮しなければならない事態になった。
政治の中枢に居る人々は先ず、九州の守りを固めるべきだと九州の地に出来る限りの防御陣地(今でも九州福岡の各地に遺構が残る)を築き上げ、尚かつ最も威力のある「守護神」を最前線に建て、国や土地を守りぬく必要があった。 その守護神として、神功皇后の三韓征伐を実績に、その帰路の途中に生んだとされる応神天皇(現世の初代天皇ともいわえる)が祭られ、武神として崇めたといわれる。 幸いなことに宇佐に祀られることとなった応神天皇の威光は強力新たかなもので、異国からの進攻によって国内が混乱することもなく、表面的には平和な日々が続いたとされる。

その神功皇后とは、応神天皇の母ということになっているが・・、
神功(じんぐう)皇后は、戦前は教科書にも登場する古代の英雄であり、皇后は妊娠中でありながら朝鮮半島に出陣し、新羅を討ち、また百済・高句麗をも帰服させ日本の支配下にする(神功皇后の三韓征伐)、帰国後に応神天皇を産むことになる。
応神天皇については、日本が未だ倭国又は邪馬台国と言われた三世紀頃、神功皇后の下で若くて摂政職を賜り、後、第15代の天皇となり史的にも実在性が濃厚な最古の天皇といわれる。 応神天皇自身も、何かしら大陸との関係があり、大陸の史書によれば、倭国の朝鮮侵出を指揮したのは応神天皇の可能性も指摘されている。
又、応神天皇は、神功皇后の三韓征伐の帰途中に宇瀰(うみ、福岡県宇美町)で生まれたとされていて、成長して大和入りを果たす。 この事は神武天皇の東征伝説と似通っていて、応神天皇は大阪の「河内王朝」の始祖と見なす説などもある。 現在、墓陵は大阪府羽曳野市誉田六丁目の誉田御廟山古墳(前方後円墳)がある。  
この時代、海に面したこの地は、大陸との交通も盛んで朝鮮半島から多くの渡来人が渡ってきて、水田開発や酒造などの技術や文化が伝えられたともいわれる。 その王朝の守護神が住吉大社(住吉三神を奉る)で、神功皇后が加わって御祭神となっている。 実際の遣隋使や遣唐使は、住吉大社で住吉大神の加護を受け、住吉津から出発したとされる。

引き続き「宇佐神宮」
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写真:宇佐神宮拝殿(祈祷殿)、この奥に八幡造りの本殿が鎮座する


宇佐神宮の主祭神である比売大神は、「女王・卑弥呼」であった・・?、

さて、祭神は左脇から一の御殿は「応神天皇」(おうじんてんのう:八幡大神)を、中央に位置する二の御殿には「比売大神」(ひめのおおかみ:三女神)が、そして右手の三の御殿には「神功皇后」(じんぐうこうごう)をお祀りしている。 尚、神宮皇后と応神天皇は母子関係にある。
ここで気が付くことは、最も大きく豪華なのが比売大神で、意外にも八幡神と同一視されている応神天皇ではない。やはり太古に降臨し、宇佐を開いた国造(くにのみやこ)の最初の神ということで主神なのであろう。 この神は三人一組の女神で、元々、比売大神は「宗像三女神」とも呼ばれ、スサノオの娘とされている。 因みに、彼女達は普通の生まれ方をしていない。スサノオが持っていた剣を姉のアマテラスが三つに折り、そこから生まれたという。このことから彼女たちはアマテラスの娘であるとも言われる。 神宮の資料館にある絵には、三人とも古代の剣を持っている。この宗像三姫の末姫・市杵嶋姫(イチキシマヒメ)が邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)と言う説もあり、つまり、宇佐神宮の主祭神・比売大神とは邪馬台国の女王・卑弥呼なのではと・・。
宇佐神(八幡神)は応神天皇の神霊であると言われ、一の御殿に祀られているが、拝殿の配置を見ると中心に祀られているのは比売大神で、最も大切に祀られているのが判る。つまり、応神天皇と神功皇后は比売大神を守る形で左右を固めているように見える。そう考えると二神ともに八幡であり「武」に関係の深い神であることから、この配置は比売大神を守護しているのだとも考えられている。
比売大神は、筑紫の国(現、宗像市)宗像大社の主祭神として祀られていることは周知で、海、航海の安全の神として信仰を集めている。


ところで皇室は、奈良期以降の千数百年の間、ほぼ五年に一度勅使を宇佐に派遣しているという。 この間、近くの伊勢神宮には参拝せず、国家の大事や天皇の即位時には真っ先に宇佐神宮に勅使が必ず派遣されるという。 これを「宇佐使い」と呼び、現在も十年に一度、勅使参向(勅祭)が行われている。
宇佐宮は、大陸・朝鮮半島には近い地域にあるが、王朝(大和)の在位する地からは比較的遠い。にもかかわらず古代から最も多く「天皇の御使い」つまり勅使の奉幣・奉告などが定期的に行われた。 なかでも最も重要視されたのが、天皇の即位の奉告であり、これを「和気使い」とも言っている。
因みに京の石清水八幡宮に祀られている神は、正殿では中央の神殿に主祭神である応神天皇が置かれ、左右の神殿には西に比売大神、東に神功皇后をお祀りしているという。 何故か宇佐宮とは違い、比売大神と八幡神の位置が入れ替わっているのである。 つまり、宇佐の比売大神は京都には行かなかった、というより必要がなかったのである。 石清水八幡宮は京を鎮護するために宇佐の神を勧請されたもので、守護神である八幡宮が主神なのである。 孫神とされる「鎌倉八幡」やその他、全国の八幡社も概ね、主祭神を応神天皇としているのである。 尚、応神天皇は別名で誉田天皇・誉田別尊(ほむたわけのみこと)ともいわれ、各地の八幡社では誉田別尊を祭神としている場合も多い。
つまるところ、宇佐宮は本来、比売大神が地主神であり、女王・卑弥呼の墓所ではないか・・??、と考察される所以なのである。 卑弥呼についての人物評として、国内においては歴史上特定されてなく諸説あるようだが、「魏志倭人伝」では日本の弥生時代後期において邪馬台国を治めた倭国の女王(倭王)であり、封号(国家が近隣の従属国の君主ないし周辺諸民族の首長に対して傘下に置くために授与した称号のこと、爵号ともいった)は「親魏倭王」と表記されている。 邪馬台国つまり九州王朝の女王とする見方もある。このため崩御された後は九州の地主神とされ、宇佐神宮の主神となり、この地に墓稜として眠っているとされる。 
更に、「邪馬台国の主要地は宇佐地方である」と言う説も有力で、高木彬光の小説「邪馬台国の秘密」は、宇佐神宮の亀山が前方後円墳であり、これが卑弥呼の墓であると書き、上宮の三之神殿の手前の白砂の中に、卑弥呼の棺が眠っていると熱っぽくと説いている。そのため、現在でも熱心な信奉者がいるという。 従って、比売大神は各地に遷座することなく、遷座する必要もなく、強いて言えば、皇室がさせなかったともいわれている。 比売大神をそれほど大切に祀るということは、皇室の先祖として遇してきた、つまり、宇佐宮は皇室の始祖の墳墓の地ということになり、歴史上における皇室の大祖ということになるのである。
後述するが「和気清麻呂」が、なぜ伊勢神宮でなく宇佐神宮へ来たのか、宇佐に天皇家の宗廟が置かれているのはなぜなのか、宇佐地方は天皇家にとって、古代にどれほどの聖地であったのか、平城京から近いのは伊勢神宮のはずなのに、清麻呂が伊勢神宮には寄らず、まっすぐ九州に向かうのはどうしてなのか? どうして伊勢に行かず、わざわざ宇佐まで来たのか?万世一系が途絶えるかもしれないお国の一大事に・・??。

次回は、宇佐宮・「応神天皇」


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