『日本周遊紀行』

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鹿児島

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写真:有村溶岩展望所よりの「「さくらじま」



垂水から桜島へ渡る時、「早崎」なのに「早咲」と命名したのは何故・・?

油津、南郷、志布志を経て、小生が昨日辿った道を逆方向へ進み、垂水から向かうは火山島・「桜島」である。
途中、きのう見過ごした都井岬へ寄ろうと提案したが、時間の都合上やはり素通りすることにした。 串間辺りの220号沿線には「大黒」という大きな看板が目立つ。 ホテルや温泉施設、式場等の広告看板であろうが、たぶん“だいこく”と読むんだろうけど、我々はどうしても“おおぐろ”と読んでしまうのである。 車中は、次にサッカーの話で盛り上がる、一昨夜、W杯のアジア地区最終予選で北朝鮮との決勝戦で、「大黒」が決定的と思えるゴールを決めたからである。
志布志、串良から鹿屋の錦江湾へ出た。 既に海上から錦港湾に浮かぶ桜島が見え隠れしている。 垂水の変哲もない市街地を通り抜けると、海岸に沿って家並が続く、所々に廃隧道や線路跡らしきものが望める。 そう、克っての国鉄大隈線の跡であった名残である。先にも記したが、大隅線は志布志町(現・志布志市)の志布志駅から同県国分市(現・霧島市)の国分駅までを結んでいた、国鉄の鉄道路線である。 国鉄再建の特定地方交通線に指定され、1987年に廃止された鉄路で、志布志から大隈半島を横断して古江から錦江湾沿いを北上して国分に到っていた。
海潟(あいかた)温泉は錦江湾、桜島を望む温泉宿数軒の鄙びた温泉地であるが、泉温は大隅半島唯一の高温温泉で46〜52度の天然温泉で地域の人たちの人気が高いという。 
和田辺りまで来ると、桜島がチラホラ見えているので、思い切って和田の海潟の波止場へ出てみた。 案の定、忽然と煙たなびく桜島が海上に浮かぶように現れた、実に迫力あるポイントである。 もしかしたら、この地が桜島のビュウポイント・ナンバーワンではなかろうか・・?、おまけに、波止場岸壁のすぐ横には、懐かしい「江乃島」がこんもりと浮かぶ、実に気が和む風景であった。
いよいよ桜島へ向かう、国道220号の垂水市海潟〜牛根間は「早咲大橋」いう海岸海上の大橋を渡る。それにしても、右岸は急斜面の山肌が迫り、周囲の風景と相まって中々美事な橋である。 なんでも右手の早崎山・火山が噴火の時、火山岩や火砕流が錦江湾に向かった流れた際、急激に冷されて急な崖になったところらしい。 山裾にはかって旧道があったらしいが、過去の集中豪雨や台風の異常気象時に土砂災害を多く受けて、その度に斜面崩壊が発生して交通が途絶遮断した。そのために、早咲大橋を急遽、建設、開通させたという。
ところで、「早崎」なのに「早咲」と命名したことは何故・・?、役所の職員に、そそっかしい人がいて正式書類に早崎を早咲と書き込んでしまい、それが認可されてしまった・・?、などど邪推するが、定かでない。 全長は888mと実にキリが良い・・!、この数値には懐かしい思い出がある。小生20代前半の頃、実家である田舎町(いわき市湯本)に、888(ぱぱや)という名称の小奇麗な飲み屋(昔のバー)があり、そこのホステスと相思相愛・・?の仲に成ってしまったのである。(これは余計)

渡りきると鹿児島市桜島町である。 桜島は、今でも活発な火山活動を続けているが、1914年(大正3年)の大噴火の際、桜島と大隅半島の間の瀬戸海峡が溶岩で埋まり、大隅半島が今のように陸続きになった。現在の垂水市であり、その市境を戸柱鼻という。
ここからは国道224号線になり、斜面の山肌は特有のゴツゴツした火山岩で覆うわれていて、別称、溶岩道路(Lava Road)の名が付いている。 桜島が陸続きとなった戸柱鼻から2キロくらのところに「有村展望所」があり、道の内陸側に駐車場、みやげ物屋が数軒並んでいる。 展望所は、1946年(昭和21年)の大爆発で流出した溶岩原の小高い丘にあり、正面に桜島本山を始め、360度に広がる眺めである。 全長1kmに及ぶ溶岩遊歩道の途中にあり、世界的活火山「桜島」の迫力と錦江湾を手にとるように望むことができる。 東屋のある展望所は三か所あり、周辺は溶岩石や火山砂といった荒涼とした風景が広がっている。 溶岩地帯は遊歩道を散策でき、徒歩5分〜20分くらいで、時間に合わせて自由にコースを設定できる。 桜島山を正面に望める溶岩原の中に、「霧島・屋久国立公園・さくらじま」と標板が立ち、撮影ポイントを示しているのだろう・。 

「桜島」(桜島町)は鹿児島県の自治体として、町制施行30年余を経過しているが、平成16年11月1日に1市5町(鹿児島市、吉田町、桜島町、喜入町、松元町及び郡山町)と市町村合併を行うこととなり、新鹿児島市として発足、その長い歴史に幕をとじている。
桜島山は、鹿児島市の東方わずか約4km先、鹿児島湾(錦江湾)上に位置し、現在も活動を続けている活火山がこの半島を形成している。 整った山容を静かな錦江湾に浮かべ、湾に面する各地域から眺められる秀麗な姿は、全国に例を見ない景観でもあり鹿児島県民の心の拠り所であろう。
桜島の大きさは、周囲52キロメートル、北岳の高さ1117mで、円錐形の上半分が切断された半コニーデ式の火山である。 外周する道路は、北部は県道26号(桜島口=袴腰〜早咲大橋)と南部の国道224号で、国道は島内だけの僅か14km足らずの短い路線であり、袴腰−赤水の2キロ余は一直線に駆け抜ける「溶岩直線道路」と言われ、桜島避難道路としても使用されている。 海側を通っていた従来の国道は観光用道路として残されている。

引き続き、火山島・「桜島」

志布志は、古来より南九州の海運、交易の中心であった・・、

太平洋、志布志湾沿いの大崎町へ入って間もなく、大隅半島の東の入り口である志布志湾に面した国道220号線沿いにある「道の駅・くにの松原おおさき」へ来た。 入り口に巨大なカブトムシの、つがいのモニュメントが出迎える。大隅半島は「カブトムシ」の採取に適した自然豊かな地域だといい、大崎町は7月に「カブトムシ相撲大会」も開催されことで子供らに人気があるという。
裏手の志布志湾に面した海岸は「くにの松原」と言われる、数十万本ものクロマツの美しい美林が海岸線沿いに帯を成して美観を造っている。 日南海岸国定公園内に位置し、長さ約7kmにも及ぶその見事な景観は「日本の白砂青松100選」にも選ばれている。この地は神代から日向(ひむか)の国、救仁(くに)の地として栄えたところで、ここから「くにの松原」の名称が付いたという。 古代、ここ内之浦から大崎・志布志に至る大隅国中央部から日向国の南部にまたがる広大な地域を救仁院、救仁郷と称していたらしい。
志布志町の町並みに入ったが、思ったより小さな町並みに感じられる。 志布志湾というと、九州南部地方では極めて利便性の良い港であり、古来より海運業が盛んだった港町にしては意外と地味に思われた。 尤も、最近になって国の重要港湾・九州唯一の中核国際港湾として指定を受け、コンテナ関連施設の整備が進められているともいう。

かっての志布志は、藩政時代には密貿易で栄え、「志布志千軒町」と唄われたほどの港町であった。既に、平安時代末期には島津御庄と呼ばれた大荘園(貴族・豪族の私有地)の唯一の水門(港)でもあり、「志布志津」として歴史書の中にその名が記されている。 豪族達が戦略上の重要な地域として、また港の公益による利益をめぐって攻防の歴史をくり返した津でもある。
又、志布志は過去に“水の輸出”という珍しい地域でもあったという。
南九州地方は、特有の広大なシラス台地で、長年に渡り自然ろ過された清浄な水が豊潤に湧き出している地帯でもあり、湧水は古来より秀吉や加藤清正などともゆかりが深いという。彼等により、戦国時代以降は海外にもこの清水が運ばれ、味が変わらない名水であるとされて時の権力者達に喜ばれたという。  
江戸時代の志布志は薩摩・島津氏の外城として麓が置かれ、「麓の港」として南西諸島(琉球、その他)や京阪地方との交易による廻船(江戸時代の定期船のこと)で賑わい更に、江戸時代末期になると密貿易の基地として「志布志千軒町」と呼ばれるほど賑わいを見せたという。 同時期に大慈寺、宝満寺、山宮神社などの数多くの寺社仏閣が建立され、武家屋敷の庭園など多くの歴史的遺産も残されていた。 しかし、これらの遺産も明治期の政策の一つとして寺社分離、廃仏毀釈(寺院をとりこわして神社を大事にする明治政府の天皇制をすすめるための政策)が行われ、特に薩摩地方では激しく、由緒ある寺院や施設が壊されている。
志布志町役場の一角に大慈寺(県指定所有)がある。 室町期・1340年の創建といれる古刹で、京都の臨済宗妙心寺(拙宅の菩提寺と同じ)の末寺でもあり、江戸期の隆盛時には16の支院と100名以上の僧坊がいたという。 当然ながら明治2年の廃仏毀釈により一時は廃寺となったが、明治12年に一部を再興し現在に至っている。 この寺に克って参道門に石造の立派な金剛立像の呵形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)が立っていたという。寺院取り壊しの際、難を逃れるために地下に埋設して隠したとされ、寺の再興の際に再び掘り起こしたものという。だが、据付したのは一体だけで、もう一体は廃寺となっていた同系の寺・海徳寺に据えたという。
因みに、「呵・あ」、「吽・うん」とは印度仏教・サンスクリット語の“初めと終わり”を意味する、尤もで、日本語の五十音も全く同じである。 「阿・吽の呼吸」というが、口を開く「阿」と、口を閉じて発する「吽」から、そこから「呼気」と「吸気」の意味となり、両者が息を合わせることを「阿吽の呼吸」と言うようになった。 又、「あー」と口を開けて吐ききる「呼」と、「ん」と口を閉じて鼻から空気を吸う「吸」が「呼吸」であり、これが正しい呼吸法ともいわれるが・・?。

現在の志布志港は、日本有数の農畜産地帯への飼料供給など、南九州地域における拠点港として発展しており又、港湾と都市部を結ぶ南九州自動車道や都城・志布志間地域の整備計画が具体化してきており、今後さらに都市機能の整備や産業の振興を図って、世界に開かれた南の拠点づくりを目指しているという。
志布志町は2006年1月1日に有明町・松山町と対等合併して市制施行し「志布志市」となる。 因みに役所の一部には、鹿児島県志布志市志布志町志布志志布志市役所志布志支所というのがある・・??。 簡単に読めますかな・・、冗談ではなく大真面目である・・!!。
国鉄・大隈線については前に記したが、ここ志布志が一応の終点であり、志布志からは日南線が連絡して日南方面へ向かっていて、つまりは中継点でもある。そして、志布志湾沿いを志布志街道(R220)が日南線と並行して走っている。

志布志を抜けると間もなく「宮崎県」である。
ところで小生は、串間辺りで内陸を抜けて日向灘・日南海岸に面した南郷に到っていた。 ところで、小生のうっかりミスと言ってもよいが、串間市の南端に位置する「都井岬」へ向かう予定であったが、標識を見落としてしまい通過してそのまま南郷まで来てしまったのである。 南郷沿岸の日向道路のT字路の標識へ来て、始めて気が付いたのであり、今更もあって、都井岬へは断念してしまったのであるが・・、

次回は、その都井岬について述べてみたい。

鹿屋基地から特攻出撃して戦死した人々の員数は凡そ千人弱とも言われる・・、

国道220から垂水に近づくと、いよいよ眼前に迫力ある「桜島」が迫る。
昨日通った国道10号の「大崎の鼻」からは丁度反対側からの眺めになるが、垂水市内から桜島の展望が効く位置の所々で、その勇姿をカメラに収めて戻ることにする。 
垂水市の海岸道の柊原から古江辺りの国道220号は、道路面の拡張、改修されていつ実に広々として走り良い。更に、付近住民の理解と協力があってか、素敵な町並みが出来上がっている。 望むならば、この国道町並みをもう一工夫して、例えば洒落た街灯などを設置すると更に引き立ち、名所・櫻島や鹿児島にも近いので、街の名物として成り得ると思うが如何であろうか・・?。
確か、昨秋訪れた北海道東部の音別町辺りだったと思うが、市街地を貫通する国道38号線には、町花である「エゾリンドウ」をモチーフにした街路灯が連続して設置されてある。夜ともなると、真直ぐ続く街頭の明かりは宛ら(さながら)遠くから眺めると滑走路の様だともいわれ、ドライバーにはすこぶる評判が良く、更に、霧がかかると幻想的で、音別町の「ふるさと自慢」の一つにもなっている。
その、海岸の鹿屋市古江からは内陸方向の鹿屋の中心市街地へ向かう。 
気持ちのいい海岸道路であるが、目を内陸方向に転ずると海岸からいきなり急峻な山並みが競り上がっているのが判る。この山地は高隈山系といって1000m以上の山塊が連なっていて高峠、大隅湖、猿ヶ城渓谷などの景勝地もある。そして、日本におけるブナ林の南限であり、「森林生物遺伝資源保存林」に指定された地域でもあるらしい。高隈山系の最高峰は、チョット珍しい山名の大箆柄岳(おおのがらだけ:1237m)といい、頂上からの眺めは素晴らしく、桜島や開聞岳、大隅半島、霧島連山などの大パノラマが展開するという。
山地は、東側に向かってなだらかな裾野を広げている。 裾野は鹿屋の町であり、そこには広大な丘陵台地が広がっていて、この台地を利用して昭和の昔に飛行場が建設されている。 市域の西部に広がる航空基地は、今は海上自衛隊鹿屋航空基地となっているが、戦前戦中においても一大航空基地でもあった。

1936年(昭和11年) 日本海軍・鹿屋海軍航空隊が結成されると同時に、飛行場も建設された。 そして、第二次大戦における海戦においては、特に沖縄の戦闘は戦艦大和など戦史にも残るほど熾烈なものであった。 この時期、日本の戦局は絶対不利の状態となっていて、ここに退勢挽回を図るため秘策を試みるに至った、即ち敵国海空軍兵力の全滅を期して計画したと言われる特別攻撃、つまり「特攻」であった。
鹿屋基地において戦時中期頃までは、中国大陸に対する爆撃やマレー沖海戦、イギリス東洋艦隊の攻撃などで戦果があったとされといる。 特に零戦(零式艦上戦闘機)は大戦中には大量に製造され、世界的な名機といわれて太平洋戦争初期には圧倒的な力を誇ったという。世界を震撼させた零戦は、海軍鹿屋航空隊でも頻繁に出撃していったが、この鹿屋基地は、戦時末期にはアメリカ軍の沖縄侵攻により、特攻出撃の航空基地となってしまうのである。
太平洋戦争末期には鹿屋基地には第五航空艦隊司令部が置かれ、「神風特攻隊」の出撃基地となり、爆弾を抱えた零戦をはじめ戦闘機は、その運動性能を充分に生かすことなく、搭乗員とともに特攻作戦を展開しながら南の海に散っていった。 
特攻機が離陸するに当たり、知覧基地では「開聞岳」が最後の見送りの地となったが、鹿屋基地からは「桜島」が最後の想いの地になったものと思われる。この基地から出撃、特攻戦死した人々の員数は908名とも言われる。
現在は、海上自衛隊の航空基地で、対潜哨戒機や救難ヘリコプターの基地でもあり、日本の南西海域の安全保障や奄美諸島から甑島列島に及ぶ広大な海域・離島の海難・急患輸送に欠かせない基地となっているという。 その滑走路脇には今でも、戦中から使われていた零式艦上戦闘機の勇姿が展示されているという。

国道220号は大隈半島を、ほぼ直角に横断するように延びている。 その中ほどに「串良町」がある。この町域のだだっ広い丘陵台地には、緑の絨毯が広がっていて名産の葉タバコが育成されているようである。 おはら節に『花は霧島 煙草は国分 燃えて上がるは 桜島』と歌われているように、この地方は古来より葉タバコの生産地であった。 昨今は、原料葉たばこの輸入(中国、インド、ブラジル・・)や専売公社の民営化、消費の低迷などによる減反政策のため減少傾向にあるという。 J・Tからの買取価格も低下しているのが現状のようで、政府も転作を奨励するように働きかけているようである。
葉タバコ生産の産県別にみると熊本、鹿児島、宮崎と九州南部地域が全国ベスト3に入り、凡そ30%を占めているという。 尚、時代の勢いもあっていずこの地も禁煙運動が盛んであるが、強硬に反対しているのは実は、葉たばこ農家よりもタバコ販売業者達ともいわれる。
串良町の串の字を分解すると、「中中」と読み、「なかなかよい町」という意味にもとれ、町民はそのことを意識しているともいう・・?。 串良町(くしらちょう)は、今も第一次産業に従事する住民が多く、葉タバコ産業は今後懸念されるが、農業を基幹産業とする町に変わりはなく、「なかなかよい町」であることは確かなようである。 だが、串良町は周辺の鹿屋市、輝北町、吾平町と2006年1月に合併し、新たに鹿屋市となってしまうという。従って、行政としての独立性のある「なかなかよい町」は、消え去ってしまうのである。

次回は、「志布志」

「吾平」と「姶良」は同じ読みながら、その関連性は・・?、
 
佐多岬の断崖絶壁からの展望を満喫して戻ることにしよう・・、 R269の大根占までは先刻見慣れた風景である。 大根占町(旧)の東隣の町に「吾平町」(あいらちょう)がある。 
ここで、先般「川内」の項でも若干記したが、「吾平山稜」(あいらさんりょう)について更に述べてみよう。

吾平町の中央部に、あの薩摩・鹿児島県の神代三山稜の一つで「吾平山稜」が鎮座している。 山陵とは、一般に天皇・皇后の塚墓のことであり、吾平山稜の祖霊は、神武天皇の御父君・鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)、 そして御母君である玉依姫(タマヨリヒメノカミ)のものとされている。
境内は清流と神聖な樹木が鬱蒼として清々しく、数百米にわたり玉砂利が敷き詰められ、別世界のような静かな世界であり、雰囲気が伊勢神宮の内宮に似ている処から「小伊勢」とも呼ばれているという。 拝殿の前は沼池が配してあり、その向こうに本殿御陵が岩窟の中にあって、神代三山稜の中で随一岩屋の陵になっている。その窟内に大小二つの塚があり、大きい塚が神武天皇の御父君、小さい塚が御母君の御稜とされている。 この御陵山を鵜戸山(うどさん)といい、窟を 鵜戸窟と称している。 鵜戸というと日南の鵜戸神宮と同じで、こちらの神宮は鵜草葺不合を主祭神とし、天照大神から神武天皇までの六代の皇祖神を相神として奉っている。 この神宮へは本日この後訪れる予定である。
吾平山稜は昭和10年11月、昭和天皇が御親拝になり、昭和37年 5月には皇太子(今上天皇)、同妃殿下が御参拝されている。 正月、初詣には近郷近在から、数万の参拝者がお参りされるという。

ところで、薩摩には「吾平」と「姶良」というの二つの「アイラ」自治体が存在する。 
姶良は、鹿児島市の北、両半島(薩摩、大隈半島)の付け根に当る地域に姶良郡姶良町である。 一方、こちら吾平と書くと、普通「ごへい」と読んでしまいそうだが・・、この、二つの「アイラ」には何か関連性があるのだろうか・・?。
この吾平山稜の脇を流れているのが姶良川(あいらがわ)で吾平町中心を北流している。そして元々、吾平町は姶良郡姶良村という自治体名であったという。 
古代、この地方は大隅国で四つの郡があり、その中に姶羅郡(あいらごうり)があり、一方、始羅(しら)郡と呼ばれていた地域があったそうで、「姶」と「始」の文字は似ているので紛らわしく判別が付き難い、その為、近代以降単純化して「姶良郡」に統一されたとも言われている。 これにより近年、姶良郡姶良町が発足し、吾平山稜の周辺地においても姶良村や姶良川等の地名、固有名が起こったとされている。 そして、姶良村は1947年(昭和22年)町制施行の際「姶良」を「吾平」と改めているのである。
吾平という町名は、吾平山陵が由縁であることは確かだが、尚且つ、神武天皇の妃(きさき・妻)の御名が「吾平津姫」(アヒラツヒメ)と称し、故に吾平山稜、吾平町が誕生したとされる。 アヒラツヒメの吾平(アヒラ)を「あいら」と読み、吾平と姶良の読みが同じなのは偶然かも知れない・・?。
「吾平町」は周辺の鹿屋市、輝北町と2006年1月1日対等合併し、新市制による鹿屋市となっている。又一つ、歴史ある町名が消えることになった・・。

相変わらず見通しの良い海岸道の一本道が続く、R269から一部県道を乗り継いで、R220を行くことになる。 鹿屋市の高須、天神、古江、垂水市の新城、宮脇、柊原、浜平、垂水と大隈半島・錦江湾沿いの地名が連なるが、かってはこの地を鉄道が走っていたらしい。
日豊本線・国分駅から鹿屋を巡り、高須から大隈半島を横断する形で吾平町を通り、日南線・志布志迄行く国鉄・大隈線であった。 結局は国鉄合理化の一環として1987年に廃止された路線であり、全通してからわずか15年目のことであったという。 当時は、鹿児島市と鹿屋市を結ぶ幹線鉄道であったが、鹿児島湾をぐるっと廻る為に鹿児島湾を渡る船便の方が速く、移動するには致命的な欠点があったとされた。 又、沿線は人口が少ないうえ、自動車の普及が盛んになり、国鉄経営再建のためにも廃止につながったようである。

次回は、鹿屋

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写真:本土最南端の佐多岬と向いの大輪島に建つ佐多岬灯台



日本本土最南端の地・「佐多岬」は、有料観光地・・?、

一時して、大根占の埠頭に着岸した・・、雄川の河口でもある長閑な漁村風の港で、埠頭の周辺には小さな漁船が密集している。 国道269号を南下すると、程なく道の駅・根占に到着し一服する。 「道の駅・根占」は、本土最南端に位置しているらしい。やや傾斜地に位置していて、駅舎はその高台にあり、錦江湾・開聞岳の大パノラマを眺められる。
実は、大根占町は2005年3月、田代町と合併して、新しく「錦江町(きんこうちょう)」が発足している。
R269を南下すると間もなく「日英戦争の砲台跡」というのがあった。 “日英”とあるが、実際は“薩英”が正しい表現であろう、古い石垣からは大砲が錦江湾を睨んでいる、なかなか趣があって歴史を感ずる。
R269はこの先も殆どが海岸沿いの道で、錦江湾の静かなる海原と、その向こうに絶えず開聞岳の円錐形が見守っている。 こちらは、「南大隅町」といって、鹿児島県(離島部除く)の東南部、大隅半島の南部にある町で2005年3月、根占町と佐多町が合併して発足した新町である。 根占という町名は大根占町と根占町と在って、何故か、其々が別の町と合併し、其々の新しい町名を名乗っているのが面白い、何か、曰く因縁でもあるのだろうか・・?。
この海岸道路は、別名「佐多街道」といって諸島を除く本土最南端に位置する「佐多岬」へ通じている、その、佐多岬へ向かっているのであるが。 佐多の小さな町並みからは、大隈道という内陸を通るようになる、山間部の多少の上下屈曲を繰り返しながら大泊地区へ出た。
ここからは「佐多岬ロードパークウェイ」というチョット長ったらしい名称が付いている、ところで、ロードとウェイはどちらも「道」という意味であり、呼び名が重複しているのでは・・?、その有料道路の入り口へ来た。  通行券には「佐多岬有料道路」とあり、大泊から佐多岬までの約10キロのドライブウェイで、有料道路のわりにはかなり古そうな道で、カーブもかなり急であり、云わば、ワインディング・ロードともいえそうだ。 だが、沿道には並木や花壇はよく整備され、ハイビスカスやブーゲンビリア、ビロウ、ヤシの木などの亜熱帯植物が生い茂り、さながら南国の植物園に来たという醍醐味が感じられる。 一見、通行料の1000円は高そうに思えたが、この側道南国植物園で納得しよう。 途中、「北緯31度」の掲示板があり、はて・・この意味はと思ったが、本土最南端の緯度というわけであろうか・・?。 その下にカイロ、ニューデリー、ニュウオーリンズ、上海、カラチともかいてあり、主要都市の同緯度を示したのであろう。

ところで緯度とは、経度とともに、地球上の位置を示す座標の一つで、緯度は、地図上では上下方向、つまり、その地点における赤道を中心として北極の天頂、南極の天低までの方向と角度で表される。 赤道が緯度0度となり、北を北緯(ほくい)、南を南緯(なんい)と言い、北極・南極が90度となる。又、北緯に+(プラス)、南緯に−(マイナス)を付けて表す場合もある。 緯度10度分の距離は、6370km(地球の半径)×3.14÷180×10の計算によって約1111km であり、当然、1度は111.1kmである。 1度よりも細かい緯度は、1度=60分=3600秒と分割して表現する。 又、1海里は、緯度1分(経度も同じで111.1km÷60)の地球表面上の距離を元に作られており、正確には1852メートルと定義されている。
因みに、北海道最北端・稚内市は北緯45°25'N、東経141°40' E、本土最南端都市・鹿児島市は北緯31°36'N、東経130°33'Eであり、円形地球上の稚内市と鹿児島市の直線距離は計算によって1810kmとなる。 
序ながら経度は、同じ経度の点を結んだ線を経線と言い、子(北)と午(南)とを結ぶ線であることから「子午線」とも言う。 そして、経度は地球上の時間(標準時)を定める基準にもなっている。
地球の自転・1回転が1日に当たるので、15度移動すると1時間進むことになる。つまり、東経0度から東(又は西)に向かって国際時は決められていて、世界標準時は経度ゼロ(イギリスのグリニッチ)の子午線上の時刻で表され、グリニッチ標準時とも言われる。
日本は明石市が東経135度に位置しているので、日本時間は世界標準時より9時間進んでいることになる。 言いかえれば、日本時間の午前9時が世界標準時の午前0時に当る。 日本の標準時である日本標準時(JST・地方標準時)は、明石市を通る東経135度の時刻と決められている。 つまり、イギリスが午前0時のとき、日本は全国が午前9時を示すことになる。 尚、経度180度の線が国際日付変更線となる。

終点の駐車場から歩いていくと隅の遊歩道の入り口にトンネルがあり、中の入り口に小さな小屋があって、ここで通行料として100円を支払うようになっている・・?。チャッカリしているがトンネル通行料は兎も角、園内の環境整備代と思えば良しとしよう。
トンネルを抜けると遊歩道になり、御崎神社という真赤な屋根の派手な社(やしろ)が鎮座していて、航海の守り神として崇められているとゆう。 神社の右手の道を行く、岬突端の展望台までは起伏のあり、両側が切り立ったやせ尾根の稜線でスリルもあるが展望もすこぶる良い。 途中、休憩所・レストハウスという建物の脇を通るが、閉鎖されていた。 最後に、展望台の建物に着く、「日本本土最南端・佐多岬」と標識が立つ。 すぐ前には大小の島々が並び、一段と大きく屹立した大輪島に白亜の灯台が建っていた。そして、やや遠くなったが相変わらず薩摩富士の姿が遠望でき、周辺海域は地球の丸さ・・?を実感できるのである。 地球の丸さ云々は脇へおいて、やはり岬の先端というのは当然ながら絶景なる風景であり、何度見ても良いものは良い・・!。
因みに、日本本土・最北部は北海道稚内(宗谷岬)、最東端は同じく北海道根室市(納沙布岬)、最西端は長崎県佐世保市小佐々町(佐世保市小佐々町の神崎鼻先端部であり、神崎鼻公園と本土最西端のシンボル塔が建っている)で、其々、「四極交流盟約」というのがあるらしい。

次回は、「吾平」(あいら)

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