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日本周遊紀行(149)指宿 「休暇村と砂湯」 ,
http://www.c-player.com/_images/archive/d010766CGITIRGSI0FCR5UKQ6P45UDMDOE897DNEPSDTI56VGOKK1JJ/large http://www.c-player.com/_images/archive/d010HI3NGD5D8P3M83N2M3D6VFH660DPQU0VLA31Q72ULS6P2ETVIVI/large 写真:指宿国民休暇村の「砂蒸し湯と露天風呂」(小生です) 日本イレブン、2006年W杯サッカー・ドイツ大会へ六大陸で一番乗り決定・・!! 、 指宿国民休暇村は、魚見港から田良岬の一端に広がる一大リゾート地域にある。 館の前は広大な芝生が敷き詰めてあり、正面に魚見岳の姿がいい。 通された部屋は正面が青く光る錦港湾で、左右に広がる砂浜は指宿市のサンビーチ海水浴場でもある。 今夜は大事なTV放送があるので、急ぐようにして入浴、食事を済ませた。 ところで、九州でも指折りの温泉地である指宿温泉は「砂蒸し風呂」で有名なところである。 指宿・湯の浜海岸には「砂むし会館」という砂蒸し専門の名物の風呂が楽しめるところもある。 天然自然の砂風呂は、海岸の波打ち際の砂の上にあり、横たわると係の「砂かけさん」が砂をかけてくれるという。 指宿の砂湯は既に300年以上の歴史があり、しかも、干潮時に砂を被ると効果が有るともいわれる。 こちら、休暇村の館にも“砂蒸し”はあったが、残念ながら天然自然のではなさそうである。 ただ、砂蒸しは本日・特別サービスデイで、通常1000円のところ先着30名まで300円で入れるらしい、ラッキー・・!。 渡された専用の浴衣を着て、係員に穴を掘ってもらった所に寝ると、頭だけ残して砂をかけてもらえる。 最初は砂が重く感じ、しばらくすると身体全体が熱し、次第に痛痒くなってくるが、15分ほど我慢するとサウナのように汗が吹き出してくる。 終わる頃は体の芯から暖まり、砂を洗い流す頃にはスッキリ・爽快さを感ずる。 後は大浴場と露天風呂に浸かり、二度目の癒しを味わう。 浴室は海岸沿いの松林に囲まれた雰囲気のいい場所に面していて、特に露天風呂がよかった。 風呂からでて食堂にて夕食を食す。単品料理のメニューを見て、鰹のタタキを特注、「う〜ん、旨い!」ビールにピッタリである、大瓶2本飲んでしまった。 間を見計らって、大満足の食事を終え部屋に戻り、早速、TVのチャンネルを捻る。 来年、2006年はサッカーW杯ドイツ大会である。 現在、各地、各セクションで予選会が行われているが、日本はアジア地区B組の最終予選に進出し今日は、その最終戦で本戦出場の決定戦である。 対戦相手は北朝鮮だ・・!。 今回の試合は本来、北朝鮮の平壌で行われるはずであったが、前回、平壌で行った他の試合で観客が暴徒化しトラブルが有ったため、連盟が「第三国で観客を入れずに開催する」と処分を決定していた。 そして、今日この会場はタイ・バンコクの無観客の試合となっている。 飛んだハプニングの試合であったが兎も角も本日19時35分(日本時間)、いよいよキックオフになった。 日本は序盤からピッチを支配しが、だが今ひとつ攻撃にスピードがなく、北朝鮮DFに守備を固める時間を与えてしう。 好機を生み出すまでには至らず、要所要所でミスが出て、北朝鮮にカウンターの機会を与える場面もあり、まだ油断できない展開であり、後半、早い時間帯で先制点を奪いたいところだ。 本来なら、ジャパンブルーのサポーターが嬌声で賑やかなところだが、やはり、異様に静かだ。小生は一人、遠い九州の果てでの、テレビの前の応援であるが、チャンスになると「イケ、・・イケイケ」と声援を送るが、どうも前半戦は届かなかった様だ。 後半開始から、本大会ラッキーボーイとなっているFWの大黒を投入し、勝負を仕掛けてきたジーコ監督。 大黒の鋭い動きが最終ラインを脅かし、北朝鮮ディフェンスを混乱させ、ついに後半28分柳沢が先制点を奪った。 当然ながら、ここでは観客が大騒ぎするはずであるが全く静かで不気味である、TVのアナウンサーだけが興奮しながら伝えていて、やはり異様であった。 小生は一人TVの前で、「ヨッシャ・・!!、ヤッター・・!!」と両手のガッツポーズの意気軒昂であったが・・。 その後も日本が完全に試合をコントロールし、守備陣はしっかりと北朝鮮の攻撃をシャットアウト。 試合終了間際には、やはりラッキーボーイの大黒がワールドカップ本戦出場を決める追加点を奪った。この時も「よーし、決まった・・!」とテレビに吼える。 結果は2対0、日本は六大陸の中で最も早いワールドカップ予選突破、ドイツへ一番乗りを果たしたのである。 普段はスポーツ番組は余り見ないほうであるが、高校野球をはじめ本来スポーツ好きの小生である、特に国際大会になると愛国心旺盛で、応援にも熱が入るのである。 いやー有難う日本勢、実に満足である。 こんな訳で昨夜は、名湯、名食事、そして名勝負の一夜で、気持ちよく眠りに就いたのである。 窓の白のカーテンが、朝日を浴びて輝いている、今日も天気は良さそうだ。 TVを点けると何処のチャンネルも昨夜のW杯の決定戦を映し出している。 あの、2得点のゴールシーンは何度見てもいいし、飽きない。 無観客のせいか、その反動もあろう国内のサポーターが大変な騒ぎで、熱狂的ファンは半ば狂乱状態であった。 という場面をTVが盛んに映し出している。 さて、例によって朝風呂、朝食と済ませて気持ち良く宿を出て、指宿の埠頭まで車を滑らした。 昨日のうちに、薩摩半島へ渡るフェリーの時刻を調べておいたのだ、指宿発8時の大根占行きである。 ハイビスカスロードと言われる快適道路を指宿市内へ向かい、案内板にしたがって車を進めると海岸よりチョコンと出っ張っている埠頭があり、そこがフェリー乗り場であった。 小屋風の小さな建物に南九船舶・指宿営業所とあり、指宿⇒大根占とあった。 小型車〜マイクロバスの車輌8〜9台くらい航送可能のようで、大型車は不可であった。 通称、ミニフェリー「なんきゅう」 と言い、航行時間は35分で、運賃は普通車で3300円とあった。 小生のも含んで小型車3台、定刻よりやや早めの出航となった。 指宿の街並、バックに聳える「開聞岳」の姿が徐々に遠くなる。 正面にはひっそりとした根占の町並みが遠望でき、遥か遠方に桜島も望めた。 この辺りは錦港湾の中でも大海に近い海域であるが、海面は穏やかであった。 この穏やかな錦港湾で江戸末期、一大戦争が勃発し歴史に名を留めていることは、知る人ぞ知るであろう。 幕末、風雲急を告げる大事件は「薩英戦争」と呼ばれた。 次回は、「薩英戦争」 『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真関係) 「九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm 「九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/ 祝い・・!! 平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月) 「東北紀行2010(内陸部)」 http://orimasa2009.web.fc2.com/tohoku.htm 【小生の主な旅のリンク集】
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鹿児島
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日本周遊紀行(148)頴娃 「幸村伝説・・?」 ,
写真:松原越しに見る池田湖と開聞岳 「大阪の陣」の後、あの真田幸村が豊臣秀頼を奉じて薩摩へ落ち延びた・・? 、 指宿を目指すため、先ず「指宿スカイライン」に乗って頴娃I・Cを目指した。 ところで「頴娃町」・・??、何て読むの・・?、 サッパリ分からない。 一般に漢字は音読み、訓読みと両方あって普通の漢字なら大抵どちらかが読めるはずであるが、どちらにしても皆目見当が付かない。 実は、頴娃の2文字で「エイ」と読む。 地名とか人名の謂れを詮索してもしようが無いが、「頴娃」の2文字の意味はともかく、単字で「頴」は鋭い、秀れる、「娃」は姫、娘、美人、善女などの意味を持っているという。 このような意味合いで付けたかどうかは不明だが、いずれにしても日本的な名称ではなく、古代の渡来人あたりが付けた名であろうと想像は出来る・・?。 近年までは頴娃郡頴娃郷なるものが存在し、中世以降から戦国時代は島津氏の有力家臣であった頴娃氏が領土を支配していたため、その名が付されている。 現在の頴娃町は揖宿郡(いぶすきぐん)に属し喜入町、山川町そして開聞町などが合併により郡から離れたため揖宿郡唯一の町となっている。 そして頴娃町は、あの「真田幸村」の伝説地であるとも言われる・・?。 慶長年間・大阪冬の陣があり、そして翌年の大阪夏の陣(冬そして夏の陣で江戸幕府が豊臣宗を滅ぼした戦い)において徳川・豊臣の最後の決戦が行われたが、当の頴娃村の地にも大阪の乱において、豊臣側支援のための軍資、兵員の出費を相当に課せられたという。 夏の陣も終わり、豊臣側の敗戦が決した後、薩摩には豊臣秀頼公を始め、眞田左衛門幸村、木村重成等の上下一千余人の大阪残党が続々と逃がれて来たという。 真田幸村が薩摩へ豊臣秀頼を奉じて落ち延びたという噂は、童歌にも唄われ流行ったという・・、 『 花の様なる秀頼様を 鬼の様なる真田がつれて 退きものいたよ 鹿児(加護)島へ 』 ・・とある。 薩摩では真田を真栄田(真江田)と名乗り、伝説の古書に残っていて墓地まであるという。 史実的には幸村は1615年5月、夏の陣において家康の本陣へ突撃し討ち死にしている。 源義経や楠(木)正成もそうであるが、日本人好みの悲劇のヒーローであり、伝説を生んでいるのかもしれない・・?。 車も少なく、展望の良い快適な「指宿スカイライン」であり、時折、池田湖や開聞岳の円錐形の姿が見え隠れする。 下りきって程なく湖畔に着いた、「レイクグリーンパーク」というサッパリした園地に着いた。 芝生の先に満々とした湖面が広がる、その正面に円角錐の勇姿「開聞岳」が立つ。 絵になる風景である。 池田湖は、周囲15キロメートル程の小さい湖であるが、九州では一番大きい湖で、深さも錦江湾と同じ230mもあるという。 全体に明るく輝くような雰囲気であるが、湖の東側は切り立った岩山が湖面にまで落ち込んでいて、人を寄せつけない険しさもあり、神秘的な佇まいをも見せている。 池田湖には謎の怪物ネッシーならぬ、イッシーが生息していると昔から言い伝えもあり又、池田湖の東側にある鰻温泉で知られる「鰻池」とは湖底洞窟で繋がっていて名物の巨大ウナギが生息しているいう噂もある。 薩摩半島の最南端の海辺から、いきなり立ち上がる「開聞岳」は標高924mの火山で、日本百名山の一つで別名「薩摩富士」とも言う。 深田久弥氏が百名山を選んだ基準に「品格」、「歴史」、「個性」とあり、これに付加的条件として、1500m以上の高さが加わるという。 開聞岳は高さこそ及ばないが、いきなり海上から屹立しているというユニークな山容であり、他の、どの山にもこの様な姿は見当たらない特異な山である。 その為に敢えて加えたのだろう。 開聞岳の北麓に枚聞神社(天照大神を祀るが、祭神には諸説がある)がある、「ヒラキキ」と読む。 枚聞大神の神霊が宿る御神体山で、古代より信仰の山として崇められ、開聞岳は古くはヒラキキ岳と呼ばれた。 枚聞岳は薩摩半島の南東端に突出している若い休火山で、鹿児島湾の門戸に位置し、即ち海の門である。 その雄姿は海の門、即ちカイモンであり、一時は海門岳とも言われたそうで、ヒラキキは開聞で音読みでカイモンとも読むので、自ずと両方の意味合いを取って「かいもん」が開聞と呼ばれるようになったという。 薩摩には大壮な三つの山が在る・・!、 『 開聞に 西郷南州 桜島 』 小生 夕刻も迫ってきている。 県道28号(開聞岩本線)で一旦海岸へ出て、案内に従って今夜の泊まり魚見岬の先端に位置する「指宿国民休暇村」へ急いだ。 次回は「指宿温泉」
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日本周遊紀行(147)知覧 「特攻の真実」 ,
http://www.c-player.com/_images/archive/d011SJQNIVQ7BULEC6JKMJRE9OSAR292ANRBM9106RAKUDS879E78V5/large 薩摩富士と呼ばれる「開門岳」と池田湖 彼等は、古里の「開聞岳」を二度旋回して死地に向かったという・・! 、 第二次世界大戦(大東亜戦争・太平洋戦争)末期の日本で、戦況不利な状態下、陸海軍あげて大規模で特別な計画作戦として、「特攻作戦」が計画、実施された。 その理由として、先ず、優秀な搭乗員の減少により、通常の航空攻撃は既に充分な戦果を得ることができなくなった。 そして初めて行われた特攻作戦はあくまで志願制ではあったが、幾ばくかの戦果を上げることができた。 しかし、末期に至っては事実上強制的な特攻隊の編成が行われ、攻撃目的も精神論的なものが主眼となり、アメリカ軍の対応強化もあってその有効性が大幅に減じられたといわれる。 知覧では、昭和14年頃から陸軍飛行場としての調査がはじめられ、昭和16年、陸軍飛行学校知覧分教所として正式に開校された。 少年飛行兵や学徒出陣の特別操縦見習士官らが操縦訓練を重ねていたが第10期生の頃から、この飛行場は、ほぼ三年間にわたって特攻基地としてその役割を果たすことになる。 中でも、戦いの終盤、沖縄決戦において「特攻」という人類史上例のない作戦で、爆弾搭載の飛行機もろとも肉弾となって突撃していった。 一機一艦の突撃を敢行した「特攻機」は全部で2500機といわれ、そのうち1900機が沖縄に押し寄せた米機動部隊に突入したとされるが、その中心が知覧飛行場であった。 特攻は、知覧基地の他にも万世基地(知覧から西へ約15kmの吹上浜に面する位置に万世飛行場という特攻基地)や都城基地(宮崎県都城市)などから出撃し、1036人の隊員が戦死したのである。 知覧基地を飛び立ち、南へ向かう特攻隊員たちが見た風景は,薩摩半島南端の開聞岳,左手に池田湖,その向こうに大隅半島であったろう。 彼等の一番つらかった瞬間は、飛行機に乗り込むときに残った足が地面を離れる刹那、そして飛び立った後、振り返る度に見えていた開聞岳が見えなくなった瞬間、その2回だったといわれる。 そして彼等は「薩摩富士」と呼ばれる三角錐の際立つ秀麗な「開聞岳」を、二度旋回して死地に向かったという。 「特攻という戦法の自殺的行為」に就いては、戦中の国民皆兵、軍人教育、そしてあの有名な皇国教育は、国のために命を捧げることを徹底して教えこまれていたから、元々、戦争へおもむく兵士は生きて帰れることなど考えていなかった。 たまたま終戦、或いは不時に着任出来なかった特攻パイロットの中には帰郷が許された者もいたが、その時は軍から「特攻の任務については極秘にせよ」と厳命されたといい、当の本人も家族を悲しませたくないという思いもあり、大半の特攻パイロットは、家族には語らず死んでいったともいう。 遺書にも親や残された者が悲しむことのないように、気遣った文面が多く目立つのはこのためであった。 1944年10月、第二次世界大戦中(太平洋戦争)にフィリピン・レイテ島沖で行われた、通称「レイテ沖海戦」が行われた。 日本海軍とアメリカ海軍との、両国海軍が総力をあげて戦った史上最大の海戦としても有名である。 「戦艦大和」、「戦艦武蔵」を主軸とした水上部隊が参加し、日本側の作戦名は「捷一号作戦」(しょういちごう:捷は勝の意味で勝利に通ずる)と呼称した。 アメリカ軍によるフィリピン奪還作戦(米側ではマスケティーア作戦と呼ばれた)の阻止を目的として行われた。 日本海軍はこの海戦を最後に、組織的抵抗を終えたとも言える。 又、この海戦で「神風特別攻撃隊」による攻撃が初めて行われた。 海軍として最初の組織的な「航空機特攻作戦」は、大西瀧治郎海軍中将により提唱されたという。 大西は生還を全く期さない戦法を自ら「特攻は外道の統率」であると認識していて、この作戦に応呼すべきは1回限りの奇襲策と考え、決断したはずであり、アメリカ空母を一時的に行動不能にするためには有効な戦法と判断し、それを命じている。 しかし、1回限りの奇襲策が意外な程の戦果を挙げたことから、特攻作戦の継続、拡大することになる。 大西中将はかねて「特攻に狎(なれる)れてはいけない」が口癖であったといい、「特攻が日常化すると、命ずる方はそれを単に事務的に処理しがちで、命じられた方の心理や不安、心の葛藤や恐怖心、そして何よりも彼らの献身や犠牲の大事さを忘れがちになる」とも言っていたという。 しかし、実態は、陸海軍とも初期戦果に目を奪われ、たちまち、「特攻に狎らされてしまった」のであった。 その後、全軍特攻へと拡大し、狂気の自殺攻撃の兵器を生み出し、全軍特攻から全国民特攻へと暗黒の道を辿ることになり、行く手には日本民族そのものの玉砕による滅亡が危ぶまれる事態へとなっていった。 「特攻隊生みの親」は大西海軍中将と言われるが・・、 一方、既に、海軍内では検討されてきた事案で、大西中将は発案者ではなく実行者であるとも言われる。 いずれにしても彼は終戦の昭和20年8月16日未明、一切一身の責任を負い、介錯なしで割腹自決している。 大西は「特攻隊の英霊に曰く(いわく)、善く戦ひたり深謝する」ではじまる、特攻隊員に感謝し、遺族に詫びた遺書を残している。 ある新聞記者が、特攻の生みの親とされる大西中将にインタビューを行った。 その中で『 わしはな、神風攻撃で戦局を覆せるとは思っていなかった。今も、そう思っている。それにもかかわらず、わしは、次から次へと、若い人たちを死にかり立てている 』、 『 わしはな、この日本が破れようとしている時に、若い人たちが喜こんで敵に体当りをして死んで行ったという歴史をつくりたかった。つくっておきたかったと言った方が正確だな(中略)そういう歴史がないと・・、後世の日本人はどんなに淋しいことだろう 』・・と。「現代史の証言」より・・!!。 当時の戦争責任者・・?の「内心の暴露・・?」を我々はどう解釈していいのやら・・??、 一人の過去の人間に対して、一方、二方・・多方と種々の見方ができる。 歴史も同様で、歴史の一つの事象に対して一方、二方・・多方の見方ができ、戦争の責任問題にしても然りである。 戦争を発祥し、命令し、命令されて戦地に赴く・・!、 特攻を発案し、命令し、命令されて特攻機で戦地に向かう。 命令するものと、命令されるものの一線を何処に科すのかは常に曖昧である。 歴史(過去の事象)というものは概念的な結果であって、多くの曖昧さが含むものであろう。 命令するものも、命令されるものも、一線共通しているのは、結果を望んで使命感に溢れ、純粋に、実務を遂行したことであろう。 つまり、戦争の責任を同国民として何処に科すのか、誰に科すのかという事は非常に曖昧のような気がするのである。 曖昧さゆえに現世の人々は、結果に対して如何様にも考えられ、如何様にも発言できるのである。 大事なことは「過去の経過、状況もさることながら、その結果であって、その結果を現在に生かし、未来にどう繋げていくか」という事であろう。 現在、多くの「特攻隊員」が祀られている「靖国神社」は、その参拝について多々の物議を醸し出している。 他所様(よそさま:外国、中国、韓国))が靖国のことで色々言っているが、それはある意味で仕方がないが(勝手であるが・・)、日本国民の知識人や責任階級者が、それに乗じてかどうか確かではないが、靖国神社に「参拝するな」とか、「分祀せよ」とか、宗教法人を取り払えとか、果ては別の慰霊所を造れと物議が湧き上がっている。 この優秀な(・・?)日本人は「 歴史を、どう断罪しようとしているのか・・? 」、そこに見えるのは歴史の多様さ、曖昧さへの認識の疑問と思考的傲慢さが透けて見えて仕方がないのである。 やや陰鬱な気分で記念館を出、直線の桜並木へ戻る。 この「直線の桜並木」は当時、死出の旅立ちの、片道だけの滑走路だとされる・・!。 今年は(2005年)戦後60年の節目を迎えて、知覧特攻平和会館への訪問者は、さすがにいつもの年より多いと言われる。 次回は、「頴娃」・・? 『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真関係) 「九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm 「九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/ 祝い・・!! 平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月) 「東北紀行2010(内陸部)」 http://orimasa2009.web.fc2.com/tohoku.htm 【小生の主な旅のリンク集】
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日本周遊紀行(147)知覧 「特攻平和会館」 、
http://www.c-player.com/_images/archive/d01129ET6C2CG64044RN9TC7EB2UTBJO001GI07UNCR1E4VMND7VT9H/large 写真:整然とした「特攻平和記念館」 今の平和は、過去に知覧で起きたような犠牲の上から成っている・・! 、 知覧の街中を貫く主要道路の県道23号は、空中に電線が1本も張られてない開放感のある道である。 両側には程よく剪定された槙(まき)の木と花壇を設けた造りで飾ってあり、真に雰囲気が良い。 暫く行くと今度は道の両側に石灯篭が等間隔に配されている。 これは知覧町内から少し外れた薩南工高から平和公園までの凡そ2kmの区間に連なっていて、実はこの石灯籠は全国から寄せられた浄財で作られ、目標を壱千参拾六基、建立する計画であるという。 1036個という数字は知覧基地を中心とする主に陸軍の特攻隊員の人々のことで、沖縄特攻で散華された若者達の御霊(みたま)の数であり、現在でも建て続けているらしい。 緑の園地が広大に広がるここのエリアは知覧平和公園と称し、この中心に「特攻平和会館」がある。 桜並木の一直線が遥かに続き、奥の一角に数件の茶店が並ぶ。 公園の中心にこれだけ御土産屋が並ぶのも珍しい、実は「特攻記念館」という国内でも極めて稀な記念館なので見物に来る人々が耐えず、連日大型バスが連ねるという。 記念館周辺で先ず目に付くのが、当時使用されていたと思われる戦闘機のモデルが2機展示してある。 家族連れの子供らが「わあ、飛行機だ カッコいい・・」などといいながらはしゃぎまわっている。 両親も「おお、いいねえ、写真撮ろう・・」と言ってニコニコ顔である。 若い両親には過去に日本で戦争があったこと、尚且つ、戦争末期、若者が特攻隊などの肉弾戦で戦ったことなど認識の外であろう。 これらの親子の姿が平和というものであろう・・?、 でも、一体「平和」とは何であろうか・・? 少なくとも戦争実感者の小生としては、安堵感の中に少々の歯痒さも感じられるのであるが・・!。 他にも隊員や平和観音堂・実母の銅像、鎮魂の歌碑や慰霊記念碑、特攻英霊芳名、そして、右手奥に三角兵舎などがある。 これらの建立者は何れも遺族や関係者であったり、戦没者の会であったり、戦友会だったりと様々のようである。 三角兵舎は特攻隊の兵舎を復元したもので、敵の目を欺く為に杉木立の中に半地下壕を作り、地上には三角の屋根しか見えない作りになっているという。 出撃の前夜、ここで鉢巻姿の若者たちが壮行会を催し、酒を汲み交わし、隊歌を歌ったり、最後の手紙や遺書を書いたりして最後の夜を過ごしたという別れの宿舎でもある。 園内、歌碑の中にこんなのがあった。 『 アリランの 歌声とほく 母の国に 念(おもい)いを残し 散りし花花 』 当時、日本の属国であった朝鮮半島の出身の外国人も、知覧から日本という国の為に特攻隊員として出撃していったという。 韓国の「反日」の一因は、このあたりにも起因するのかもしれないが・・!。 500円の入場料を払って記念館の中に入ってみた。 丁度、入口部の広めのスペースに数十人の若き自衛隊員が床に腰を下ろして、館内の案内人の説明に聞き入っていた。 やむなく特攻に発進していった英霊たちの事例を、写真や文例を見せながら訥々と語りかけ、聞入る隊員の真剣な眼差しが印象的であった。 展示品は主に、若くて逝った隊員たちの遺影写真や貴重な遺品や資料、そして肉筆の文面等である。 そこの一文を読むだけでも胸が熱くなるのを覚える。 未だ、うら若き二十歳前後の諸君が、もう二度と戻らないであろう死出の旅立ちに当たって両親に感謝し、現在の状況下を素直な思いで述べ、祖国日本を後世に託す願いを“万感の想い出”を込めて切々と書き連ねているのである。 この文面を渡されて実際に読む、肉親や恩師らの胸中はイカばかりか、これまた察するに余りあるのである。 ただ、時勢下とはいいながら、並みの若人が「爆弾を抱えて敵艦に体当たりする」これらの自殺行為自体、上司の命令であったとしても、本人達は些かの疑問を生じなかったのか・・?、 このことが文集の文面には一切無かったように思ったが・・?。 これは、若者の余の純粋さゆえか、検閲によるものか、はたまた館内への非展示によるものか・・?、 察しはつかないが。 ただ言えることは、この犠牲的精神は、次世代の人々へ託して“逝った“ことだけは確かであろう。 フロアーの一角には、日本でただ一機現存する陸軍三式戦闘機「飛燕(ひえん)」や陸軍四式戦闘機「疾風(はやて)」、海から引き上げられた零戦(海軍零式戦闘機)、そのほか戦闘機や戦争関係資料が展示されていた。 引続き、「知覧特攻」について・・、 『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真関係) 「九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm 「九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/ 祝い・・!! 平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月) 「東北紀行2010(内陸部)」 http://orimasa2009.web.fc2.com/tohoku.htm
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日本周遊紀行(147)知覧 「外城・武家屋敷」 , http://www.c-player.com/_images/archive/d011BGQT26GGT8KFEV36JN29BVVVAIVIP138O95RIFLLRSGDEIICCN9/large 写真:清楚な知覧武家屋敷 http://www.c-player.com/_images/archive/d01111J7QFGL6SNKACTM5GM2SJJUSMLCDOAE0M8R8C7KFN5ATU1I1MS/large 知覧型といわれる「二つ家式住居」 知覧麓の薩摩郷士も知覧茶を栽培した・・?! 、 その226号線で指宿温泉方面を目指す。 暫く、鹿児島の喧騒の街中を行くが、やがて、錦江湾の海べりへ出てホッとする瞬間である。 程なく「平川」という大きな交差点に至ると標識に指宿・知覧とあった。 知覧とは、あの大戦中の「特攻の知覧」というのは記憶にあったし更に、地図を見ると「知覧麓武家屋敷」とあった。 先ずそちらに向かおう。 丘陵地のジグザグの道を暫く行くと、指宿スカイラインと交差する。 スカイラインは鹿児島市内より(九州道に直結)錦江湾を望みながらの、丘陵山地を薩摩半島南端の池田湖へ至る。 いわば観光道路であろう。 知覧I・Cを横目にながら手蓑峠を超え、知覧町内へ近ずくに従って目に鮮やかに茶畑が見渡す限りに広がる。 我々東国の人間は「知覧茶」というのはめったに耳目にしないが、何でも鹿児島県のお茶の面積・生産量は、静岡県に次いで日本第2位を占めてるという。 中でも全国茶品評会で連続日本一を受賞、皇室献上茶の栄光を得るなど品質についても折り紙つきだといわれる。 知覧茶の起源については、平家の落人が北部山間地の手蓑地方においてお茶の栽培を始めたという古い言い伝えが残っている。 本格的な栽培は明治の初年頃で、標高200m〜500mの山麓に拓けた山間冷涼の地が適した生産地といわれる。 昭和20年代頃までは林業と組合わせた茶業経営であったが、30年代になってからは生産も拡大され、緑茶の製法は技術的には京・宇治茶を伝習して生産拡大に努めたという。 知覧の町へ入った。 清楚で美風な町並みであることが先ず印象に残った。 一直線の道路の両側に清流が流れる大きな側溝を配し、その清水に錦鯉が悠々と泳いでいる。そして、この広い表通りを一歩中へ入ると「薩摩の小京都」呼ばれる武家屋敷群が広がっているのである。 先刻、出水の武家屋敷群を拝見したが、屋敷群造りの目的は同じである。 知覧・島津公の時代(18世紀中頃)に整備された武家屋敷群は、薩摩藩の本丸・鶴丸城を中央拠点として113ヶ所の外城を設け、薩摩藩は武士を郷村に集住させた。 平静は農業に従事させながら武道を訓練し、一朝事ある時は、戦場に向かわせる武農両道の郷士制度を推進したという。 その郷士の居住する地区を「麓」と称し、知覧もその一つである。 苔むす石垣に、緑の生い茂る垣根が見事な造作美の屋敷群であるが、こちら知覧の特徴の一つに、戸別の垣根の内側にはこれまた美しい庭園が築かれていることであろう。 庭園自体も実に繊細で美しく、小振りながら京都や鎌倉の庭園と比べても遜色がないように思われる。 ただ京都や鎌倉の庭園のように“侘びとか寂び”とか、枯れた幽玄の世界ではなく、南九州という土地柄もあってか南方系の植物が青々と生い茂り、更に、高低、奥行きの立体感を表し、力強い生命の躍動の世界を表わしているともいう。 これらの庭園を「知覧麓庭園」と称し、主なもものは国指定の名勝にもなっているという。 知覧麓は、一種の庭園都市と言うべき貴重な街並みを、今日に伝承しているようである。 知覧屋敷群の一つに、建築手法としては珍しい「知覧型二つ家」というのがある。 藁葺き屋根がL形(直角形)の平面構成を成しているのが特徴で、出入り口が「おとこ玄関」、「おんな玄関」というのが二箇所ある。 これは琉球の民家と共通するものというが、二つの屋根の間に小棟があるのが知覧型二ツ屋とも言われるようである。(国指定文化財) 尚、これらの屋敷は一部見学用を除いて、現在でも子孫の方々が住居として利用されている。やはりというか、武家屋敷から裏手の一角は名産・知覧茶の畑が無際限に拡がっていた。 平穏静寂なこの町並みに時折、平日にも関わらず大型バスの団体客がゾロゾロと来場し、中でも外国人グループ(中国、韓国人・・?)が大声で嬌声を発している様は、一寸頂けない・・!。 次回は、知覧の「特攻記念館」 『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真関係) 「九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm 「九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/ 【小生の主な旅のリンク集】
祝い・・!! 平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月)
東北紀行2010内陸部
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