『日本周遊紀行』

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日本周遊紀行(145)薩摩 「島津氏」   ,



以外だった、島津氏と堺商人の関係・・

400年前天下分け目といわれた「関が原」に、東西合わせて17万余の大軍が対峙した。
そして、慶長5年9月(西暦1600年10月)、遂に戦線の発端が開かれた。 

諸端の開戦からしばらくは西軍有利の状態が続いたが、突然の小早川秀秋の東軍・徳川方への寝返りによって形勢が一気に逆転し東軍が優勢になった。 

西軍は一斉に退却を始め、その西軍の中に薩摩軍の島津義弘がいた。 
屈強で知られる島津軍であるが未だ一発の銃砲も打たなかった、それは国元が「中立」を決め込んで援軍をよこさなかったためともいわれる。 

西軍総勢が退却する中、凡そ1000人の島津軍は突然、前へと突撃を始めた。 敵将・徳川家康の本陣を突くためにである。 
東軍本陣がたじろぐスキに、島津軍はそのまま伊勢路から甲賀へと退却する。

東軍も激しく追撃して殿軍(しんがりぐん)との戦いとなり、滋賀の信楽(しがらき)から奈良を抜け堺に辿り着いた時は、主従は80人に減っていたという。 

堺衆は義弘を匿い、その間に船や食料を調達して島津軍はようやく薩摩へ脱出した。 

帰国後、薩摩は軍備を強化し徳川方の来襲に備えたが、家康は攻めてこなかった。 
それは薩摩の巧妙な外交もあったが、家康は島津軍を極度に恐れたからであるという。 
退却の最中でも1000人が80人になるまで奮戦し、その強固な軍武魂は既に天下に知れ渡り、家康はそれを恐れたともいわれる。



戦後の始末において・・、

西軍の首謀者や各武将は捕縛されて斬首されたり、領地の召し上げや減封が行はれたが、島津氏は西軍の中で例外的に薩摩、大隈、日向の領地をほぼ現状維持で安堵されたという。 
その後の薩摩は2百数十年に亘り藩を改革し、近代化し、国力を蓄えた。
それが、明治維新の原動力となったことは言うまでもなく、維新という日本史上最大の改革の源流は関が原そして「」に有ったとも云われる。


その堺と薩摩の繋がりは鎌倉期から有ったとされる。
通説では源頼朝の御落胤とされる薩摩家初代の忠久は、大阪の住吉に生まれているという。 

堺の商人はこの住吉大社に参詣して忠久とは浅からぬ因縁があり、忠久の二代目・忠時は住吉地域の地頭を勤めたことも記されているという。 
又、室町期、堺の商人達は紀伊水道から土佐沖、南九州をして琉球にまで交易を発展させていた。 室町幕府は琉球貿易の管理を島津氏に任せたため、堺と薩摩は強く結びついていたとも言われる。 
現在の堺衆も「明治維新は薩摩をして、堺からはじまったんどっせ・・」と言うそうである。
そして、遂に江戸末期、文明開花の為に薩摩隼人は動くのである。


その薩摩・鹿児島で最も尊敬されている人物といえば、やはり「西郷隆盛」であろう。 
土佐の坂本竜馬もそうだが、特に、地元鹿児島では西郷隆盛の悪口を言うのはタブーとされ、西郷といえば質実剛健で骨太、頑固で気性の荒い豪傑で、理屈を言わず即実行に移す行動派というイメージがある。 

薩摩隼人は薩摩人の気質であり西郷隆盛そのものでもあるといい、男は「薩摩隼人」、女は「薩摩おごじょ」と称される。

古代より紛争が絶えなかった薩摩地方で、特にこの隼人、国分はその頃の城跡や隼人塚をはじめ、多くの古墳や遺跡が残っていると云われる。 
そんな中、隼人町の「隼人塚」は隼人の多くの亡霊が人民に祟りをすると恐れられ、其の霊を慰める為に造られた供養の塚だという。

今日(こんにち)の世代になっても薩摩隼人は、熊襲、隼人族の古代より脈々とした闘争的血脈が流れているといえる。 
もっとも、実際の西郷隆盛は一般に伝えられているイメージのような人物ではなかったという説もあるし、「いまどき薩摩隼人なんて・・・」という声がないこともない。 
しかし、特に男の場合(薩摩隼人・薩摩人)は、最近多くなった都会的な軟弱派とは一線を画しているのは事実であるという。


薩摩・藩島津氏の旗印は、「丸に十の字」として有名であるが、この旗印や紋は、隼人「隼」の字から、上の「隹」を取って「十」を表したと言う説もある 。

蛇足ながら、現在の「日の丸」の旗が正式に採用されたのは、薩摩藩主・島津斉彬(しまずなりあきら)によるものと言われる。 
斉彬が船舶の建造申請を行ったときに日本船の総印として、白い帆に太陽を象徴した白地に朱色の日の丸の使用を求め、日の丸を日本全体の総印とするように進言し、これにより幕府もその必要性を認めて承認したという。 

斉彬は我が郷土の日向(ひむか)の国、日出ずる国を想定して決めたものと思われる。


次回は、「桜島


『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真関係)
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日本周遊紀行(144)隼人 「薩摩隼人」  ,



薩摩地方は、中央政府(権力者)との抗争が古代より近代に至るまで変わらない・・!

西暦645年の「大化の改新」の後、中央政府は土地私有を禁じ、地方豪族の所有する土地や人を開放して中央政府の管理下に置くとした。 
所謂、「公地公民制度・班田収授制度」というものを採用する。 

班田収授法(田畑への租税)とは土地制度と税の仕組みのことで、日本の律令制の根幹制度の一つであり、概ね、租税として田から採れた稲の約3%を収めることとした。

大和朝廷と隼人族との戦いは、蝦夷のアイヌの抗争と同様、西南端においての稲作奨励の戦いでもあり、制度を設けて稲作による米の収税を行うのが主目的であった。
又、北方民族と南方系の人種との争いでもあった。

結果的に、大和朝廷は隼人族を滅ぼすのに数十年の時間が掛かることになるが、降伏条件として、交代で一定人数が中央政府の雑役に服す義務を課せられ、大和朝廷の門衛や行列の供人、兵士といった役務に就いている。 

又、土地制度による納税義務を果たせない農民たちは中央政府の衛士(兵隊)など、労働力で補うようになっていた。 
こうして、隼人族は大和民族と次第に“同化”してゆくことになるのである。 

この時期、朝廷等に仕えることになったのをきっかけに多数の隼人族(大隈隼人)が近畿地方に移住していたという。
これらの隼人族を「畿内隼人」と称し、丹波、近江、大和の国に移住したといわれ、特に、大隈隼人の移住の地は山城国綴喜郡大住郷(京都府京田辺市大住)で、大隈隼人が移住し荘の名を付けて「大住」としている。


然るに現在、北海道でアイヌ民族は存在するが、隼人民族は存在しないという。
(元々、隼人族と大和族は同一民族という見方もあるが・・、)


因みに、班田収授制度はやがて鹿児島県だけでなく九州全体に広がり、当時の名残の院や別府といった地名が多く見られるようになる。
又、班田収授制度に拘束されない開墾田はやがて荘園の発達へと繋がっていくことになる。


律令国家である朝廷を中心とする安定した平安期も、中期には東国では「平将門の乱」が起こり、将門謀反の報はただちに京都にもたらされる。
また同時期に西国では「藤原純友の乱」の報告もあり、中央政府軍対地方反乱軍の武士団間の抗争が起こって朝廷側は驚愕する。 

この頃より律令制度の崩壊が起こりはじめ、武士団が台頭するようになり、中でも平忠常の乱が起こって源頼信が平定するという、源平両氏の兵(つわもの)が歴史の表舞台に現れることになる。 

その後、平安末期には保元や平治の乱が起こり、源氏(源義朝)や平家(平清盛)の武士団が台頭し、貴族中心の社会が目に見えて衰退してゆくことになる。


九州・薩摩地方でも平安末期の源平の争いでは平氏側の薩摩は苦杯をなめ、新興・源頼朝の「鎌倉」の勢力下に入る。 
この時、日向・薩摩地方は、鎌倉より派遣された「島津氏」によって支配されることになる。(詳細は後報) 


島津氏は、室町期は中央の南北朝の動乱に巻き込まれ、戦国期は豊臣秀吉軍と地元で直接対峙するが、講和して領土は安堵されている。 
しかし、関が原では西軍に組して徳川家康と対立し、敗戦の憂き目を見るが、その後、徳川家康と硬軟とりまぜての交渉で薩摩藩・本領(77万石)は辛うじて安堵される。 
関が原での島津兵の剛強ぶりを知る家康は無理押しして内政が混乱することを恐れ、島津とは妥協したとされる。 

比較して・・、毛利藩の10州から2州への減封に比べると島津の本領安堵は大成功であり、それにしても、凄まじい島津の戦いぶりに家康は驚くばかりであったという。 
しかしこの為、江戸期においては勃興する江戸・徳川政権下、薩摩は忍従の時代を強いられるのである。 

しかし「薩摩隼人」は、この忍従の時代を経て江戸末期には、遂に日本国の中枢に躍り出ることになる・・!!。 

薩摩地方は、こうした中央政府(権力者)との抗争が古代より近代に至るまで変わることはなかったのである。

薩摩地方、薩摩隼人そして島津氏については、この後、おいおいと述べます・・!。


次回は、「薩摩・島津氏


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日本周遊紀行(144)隼人 「熊襲と隼人」   .




神話と歴史の主要地、大隈隼人の「隼人」とは・・、

霧島神宮を後にして、国分、隼人方面に下る。
この地方は名称からして、往時の薩摩地方の中枢部といえるのではないか・・? 
西の川内から入来、姶良、牧園、霧島、そして、この地の隼人、国分、都城、西都、日南、その他の周辺地域も古代日本の歴史が表舞台に現われている地域でもある。


古代の九州の南部地方は「日向の国」(ひむか、ひゅうが)と言われて「日向:ひゅうが」、「薩摩:さつま」、「大隅:おおすみ]の三つに分けられたは、律令国家が成立した奈良朝以降のことである。 

この隼人、国分は薩摩(地域)半島と大隈(地域)半島との付け根、中間に位置しているが、どちらかと云えば大隅地域に属している。 


この地に「大隅隼人」という人種が根拠を持っていて、これらの部族を「隼人族」とも称している。 

古代の隼人族は北方系の民族であるとか、沖縄経由の南方ルートからやって来た(隼人・ハヤヒトのハヤはハエ・南風で東南アジア方面を指すとも、国分市上野原遺跡〉民族と関係があるとか伝説、史実入り混じり諸説あるようだ。 

又、この辺り「熊襲」という名も目に付く。 
熊襲(くまそ)とは、日本の記紀神話に登場する一族名で、南九州に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗した一族名であろうが、地域名をも意味するとされる語でもある。 
日本書紀には「熊襲」と表記され、古事記には「熊曾」と表記されてるという。


有史の初めのころは熊本の南部の広い地区を「球磨」と呼び、現在の宮崎県の日南海岸から鹿児島県大隅半島の志布志湾以北を「曽於」とよび、総称として球磨と曽からいつの時代からか熊襲と呼ぶようになったとされている。 
その熊襲が、隼人のルーツであり対象ともされるともいわれる。


熊襲というと、北海道・東北の蝦夷(エミシ)を連想する・・?。 
蝦夷については、アイヌ民族とのかかわりで歴史上の様々なできごと、とりわけ何世紀にもわたるヤマト政権つまり天皇制国家との紛争を通してある程度のイメージを描くことできる。 

これはアイヌ文化と伝来の弥生文化(稲作における)の抗争でもあるとされるが、しかし熊襲・隼人は、蝦夷にくらべて早いうちからその独自な人間集団としての存在を失い、まったく過去の存在となってしまっていた。 


一般に、蝦夷地は日本古来のアイヌ民族の地であり、大和朝廷に属さない東北以北の原住民であったが、朝廷に服属した後は俘囚(朝廷の支配下に入り、一般農民の生活に同化した蝦夷・アイヌで、同化の程度の浅いものは夷俘・イフと呼んで区別)と呼ばれた。 

熊襲は隼人族の地であり朝廷に属さない南九州の原住民であったが、朝廷に服属した後は熊襲とは言わず隼人と呼んだようである。 

いずれにしても熊襲、蝦夷の共通するのは縄文期における日本の原住民であったことである。 


西日本は大陸人(いわゆる弥生渡来人系)による開発が早くから進んだため「熊襲」は、ほぼ7世紀頃までに駆逐され、その頃の弥生人の武勇伝が古事記に盛んに記録されている。 
しかし、東日本は8世紀はおろか10世紀頃になっても、まだまだ未開地(朝廷の統一国家以前)が多く、そのため縄文人の駆逐が遅れ、弥生人の進出が出来なかったことから古事記などの記録には東日本はあまり登場しない。 

古事記に東日本があまり出てこないからといって、東日本に人が住んで無かったわけではなく、多数の縄文人の天国だったからである。 
ただ、「蝦夷」というのは当時(14世紀以前)は東北に限定されていたのではなく、中部山岳を挟んで東日本全域が蝦夷だったとも言われる。 


熊襲や隼人についての一般的な文献も、蝦夷に比べて目にすることが少ないと言われ、目下、調査、研究がなされているという。

ただ、熊襲つまり隼人族は、現在の薩摩隼人に繋がっていることは確かで、熊襲につながる地名として、現在も肥後国球磨郡、大隅国贈於郡が残されている。 



2005年7月には曽於郡の末吉町、財部町、大隅町が合併し「曽於市」(そおし)が誕生している。 
この三町は、古代から熊襲(曽・くまそ)と呼ばれた人々が住む曽の国であって、「曽於」の名は昔から人々に親しまれているとし、この歴史ある地名を後世に残したい願いが込められて付されに違いない。



古代大和朝廷の起源は不透明ながら、「 大和朝廷や天皇家の起源は百済人の子孫である 」と言うのはほぼ定説となっていて記・紀等にも記述がある。 つまり北方系の人種といえる。 

渡来人である新進大和族は、鉄器文明や稲作文化を同時に北九州地域に上陸させている。

やがて、中央(畿内)に拠点を得た大和朝廷は中央集権化を計るが、九州南部の地・熊襲・隼人族は大和の中央政府に対する抵抗を繰り返す。 

記・紀の中では日本武尊(ヤマトタケル)が九州南部の熊襲を攻めた話は有名であるが、史実においても大和朝廷に刃向ったことは知られている。 

この時、隼人は大隅・日向(当時は“ひむか”とも称した)に7ヶ所の城をかまえて抗戦し、国府などを襲撃したりするが、この時、万葉集で有名な歌人・大伴旅人が率いる大和朝廷の遠征軍に敗れている。 

更に、大宰府の反乱(朝廷の中枢にいた藤原広嗣・ひろつぐが大宰府に格下げ左遷され、広嗣は大宰府の手勢や隼人などを加えて朝廷に対し反乱を起こす)のときも、中央政府軍に鎮圧されている。

初め隼人のゲリラ戦法に手を焼き、激しい戦いが1年数ヶ月も繰り広げられたが、兵器と兵力に勝る政府軍によって敗れ去っている。
この時の犠牲者は1000人以上の隼人たちが首を切られたり、多くの者が捕虜になったという記録も残っているという。

奈良時代も半ばになり、大和朝廷による支配力が強まってくると隼人族の抵抗は弱まり、隼人の国も分裂し、隼人の族長の中には県主(あがたぬし・大和朝廷時代の県の支配者、当時の大県や小県)や国造(くにのみやつこ・「国の御奴」の意、古代一郡の地方長官)になる者もいて、こうして隼人の国は大和朝廷の支配、構造の中に取り込まれてゆくことになる。


次回は、更に「薩摩隼人


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 日本周遊紀行(143)霧島 「高千穂」   、




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写真:霧島山系の「高千穂峰」(手前は御鉢)


http://www.c-player.com/_images/archive/d011N5KL5R64007H4BI1M5Q1T898AVBE2O7QH8EL5IBM2D022O8OUGL/large
煌びやかに佇む「霧島神宮」



高千穂峰への「天孫降臨」について・・、

古事記も日本書紀も、葦原中国(アシハラノナカツクニ)が平定された後に、ニニギノミコトが三種の神器を授けられ、神々を率いて降臨したと書かれてている。 
その場所においては、いずれもの記・紀にも「日向の高千穂の峰」と記されているが・・?。

しかし、降臨の場所についての記述は、解釈によって一定ではないとも言われる。 
ともあれ「神話」が語られていくとき、その時代設定や背景は明らかに稲作が展開する弥生時代を想定、意識して書かれているともいう。 


高天原でのスサノオの乱暴な行動の中に、田の畦を踏み壊したり、田に水を引く溝を埋めたりすることが出てくる。 
ニニギにつては先に記したが、その名はアマツヒコホノニニギノミコトという。アマツヒコは天津神の子の意味であるが、ホノニニギは稲穂が豊かに実ったことを意味しているとされ、高千穂に降臨する神話は、豊かに実っそた稲を高く積んだところに穀霊を象徴する神が降臨することを意味しているという。


神話の中のニニギは、高千穂に降臨した後、不毛のやせた土地から平地を拓き、太陽の輝く土地にしたとされている。
そして、大山祇(オオヤマズミ)の娘の木花咲耶(コノハナサクヤ)に出会い、その出会いの神話を伝えているのが木花神社(宮崎市)であり都萬神社(つまじんじゃ、西都市)であるという。 
どちらの社宮も付近から高千穂峰を遠望することができ、神話は、自然の景観と一体になって語られているのである。



その霧島山系一帯は古代から山岳信仰の対象となっており、中世においては修験道の霊山であった。
10世紀中頃に性空(しょうくう・平安中期の天台宗の僧)が修行に訪れ、山中の様々な場所に分散していた自然、山岳信仰を天台修験の体系としてまとめ、霧島六社権現(宮崎県と鹿児島県の県境にある霧島山の周辺にある以下の六つの権現寺社の総称)として整備した。
しかし、各寺院は明治の廃仏毀釈で霧島六社宮(筆頭が霧島神宮:当時の別当院は「華林寺」・・、等々)で統一され、いずれの社宮も日本神話に記される日向三代(ニニギの他、ホデミ、ウガヤフキアエズの三代、おいおい記載します)の神々が祀られている。



神々の秀峰を見ずして帰還するのは無念であるが、自然の営みも神の成せる業で致し方なく戻りことにする。 
丸尾の観光協会で適当な「立寄り湯」を案内して頂いた。
小さな部屋の事務所に三十半ばの面長美人・・?が独特の香化の香りを漂わせながら、親切に語って呉れる。 

「こちら、初めてですか・・?」、 
「初めても、初めてで九州自体がお初ですよ・・、日本一周の途中で・・・」、 
「わあ・・、いいなあ・・」

案内図を見ながらお互い頭を寄せ合い、会話の中の笑顔の様子にも世俗的な色香を感じたのであった。 
何か得した様な気分で事務者を出、角のファミリマートで若干の食料を調達して案内の「関原温泉」へ向かう。 
温泉場は少し行った右手に、先ず鉱泉販売所とした在った。

関平温泉は1832年、原田丑太郎という武士が霧島山南麓の国有林の渓谷内で発見し、以来こんこんと湧き続けているという。 
ミネラルを多量に含んでいるので、浴用だけでなく飲用にも適しているといい、「健康の水」としても販売されているようである。 麓にある佐藤酒造という造り酒屋は、関平名水仕込で醸造しているとか。 
霧島温泉郷に来て温泉に浸からない手は無い・・!。

その裏手を100メートルほど行くと関平温泉の共同湯がある。 
浴室は、大きな窓で明るく石張りの浴槽が2つあり、ここの温泉は別々の源泉2ヶ所からお湯をひいていて、関平温泉と「新床温泉」と称していて、二つの湯を楽しむことができる。 

浴室の中に入ると、新床温泉の湯船の方が関平温泉の湯船より大きく、主客転倒といった感じもする。 
どちらの湯船も石造りで、新床温泉の湯はちょっと黄みがかった透明であるが、関平温泉の湯は無色透明である。 
どちらの湯も癖が無く、これといった特徴もなかったような気もするが泉質は単純泉、効能は胃腸病、皮膚病、等々に良いという。



面長美人を想いながら国道223から霧島六社権現の一つ、「霧島神宮」へ向かった。
国道より離れた専用道路らしき車道を進むと立派な駐車場があり、鬱蒼とした緑陰に囲まれた参道と石段を登ると壮大で壮麗な社殿が現れた。 

広い敷地と樹齢何百年という巨木な杉に守られた緑豊な境内で、後には高千穂峰を従える。 霧島神宮は、多くの神社が一種古色蒼然とした「枯れた」印象を持つのに対して、唐様式の朱の色華が「西の日光」とも称せられており、絢爛たる朱塗の本殿、拝殿、登廊下、勅使殿等の配置も妙を得ている。
華麗な美しさを醸し出しす、この神社の主祭神は既に述べている「ニニギノミコト」を祀っている。

社務所の近く参道正面に「龍馬とお龍」と像がある。 
龍馬夫妻は1866年(慶応2年3月)、高千穂登山をし、その日の宿泊地に「華林寺泊」と道中記に記載してある。
先にも記したが、華林寺は当時霧島六社権現の一つであり、霧島神宮の神宮寺(別当寺)であったので同一と見なされていたのである。

社宮は、奈良期・六世紀頃に造られたとされているが、霧島山の大噴火による火災などで数回焼失し、1715年、時の藩主・島津吉貴公の寄進によって建てられたのが現在の社殿といわれる。 創建当時は高千穂峰の西麓の「高千穂河原」付近にあったのが、焼失と再建を繰り返して今の場所に再建されているという。 
煌びやかな霧島神宮は、平成元年5月19日、国の重要文化財に指定されている。


霧島神宮の直ぐ東側から霧島道路が山麓づたいに周遊していて、その途中に高千穂河原があり、チョット賑やかな山麓登山基地でビジターセンターなどもある。
この地が、かつての霧島神宮の所在地であり、今は古宮址として現存している。 
ここから見上げると、赤褐色の登山路から火口御鉢(おはち)やその奥に三角錐の高千穂峰が雄大に聳え立っている。

いかにも神話の伝説を秘めた天の逆鉾が立つ高千穂峰の霊峰にふさわしく屹立している。

次回は、「隼人


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日本周遊紀行(143)霧島 「韓国岳」   、



渡来人の故郷の山・霧島山系・「韓国岳」(からくにだけ)とは・・ 、

国道223号線は小鳥のさえずりが聞こえそうな森の中を走る一本道で、つい止まって大きく深呼吸をしたくなるような快適な道路である。 
それもその筈で、この道は基本的には霧島山系の観光ルートであり、全体的に路面は走り易く良好なのは当然でもあった。 

屈曲を繰り返しながら高度をかせぎ、「まほろばの里」や緑の中に「国民休暇村」などを見過ごして、丸尾地区という霧島温泉郷の中心・・?へ来た。 
霧島探勝の好基地になっているようである。


霧島国際ホテルの白亜の建物を左に見ながら、「えびの高原」への標識に従って、霧島山系の中枢部を目指してみた。 
道路沿いには既に霧島温泉の源泉が噴出し出し、道端に「立入禁止」の表札もある。 
そこは集湯施設であり、噴煙の合間に縦横に延びている配管施設でもあった。

次には、硫黄谷温泉とあって、巨大なリゾートホテルの様な霧島ホテルがあった。
ホテルの敷地内に20ヶ所以上の泉源があり、そこから湧き出る膨大な量の温泉はすべて自噴しているとのこと。

案内によると霧島山系の中腹に位置する一軒宿の温泉ホテルで、このホテルのユニークさは自前で発電能力をもち、ホテルの電気を賄っているらしい。 
自噴の温泉井、温泉熱を利用して設置された地熱発電所で、その時、蒸気分離器で分離された熱水は温泉としてそのまま利用しているという。

その温泉は千人が一度に入浴できるという庭園大浴場や巨大な体育館のような施設の中には自噴泉の大浴槽を中心に10を超える大小様々な風呂があって、しかもこれらは混浴であるとか。 
湯質は単純酸性硫黄泉・54度、明ばん泉・50度、鉄泉・62度、塩類泉・49度とあった。 入浴料は1000円とあり家族一同、行楽で一日中利用することが出来そうである。 
ただ、一人身の旅の途中の“おっさん”には、どうも向いてないようである。

更に霧島山を目指したが、既に、濛々たる霧のガスが吹き上げてきていて視界は全く効かない、つまりホワイトアウトである。
仕方なしに戻ることにした、残念である。 



ところで、九重山系に九重山という山は無い様に、こちら霧島山には霧島山という山はなく韓国岳、獅子戸岳、新燃岳、中岳、高千穂峰などの総称で、所謂、霧島山系である。

標高1700mの韓国岳がその主峰であり、韓国岳は「からくにだけ」と読み、天気が良い日は頂上から韓国が見える・・?(実際は見えるわけない)ぐらい眺めが良いので名付けられたという。


実際、この山の名前の由来については・?、
古代、朝鮮半島からの渡来系(百済系統)の人々が豊前の国の宇佐に大量に入り込んできたとされる。 
その後、8世紀始め頃、宇佐の稲積から現在の国分隼人(霧島市)を中心に移住してきた人達がいて、この地の郷名を稲積郷、豊国郷と名付けて住みついたといわれる。

国分隼人から見える霧島連山の秀麗な山々の姿が、故国(朝鮮半島)の山々を連想させるものであったろうし、彼らは、この霧島連山最高峰の山に故国への追慕を寄せて、「韓の国」を起想しながら「韓国岳」と表記したのではないかと推測される。
又、その氏神に現在の霧島市国分に「韓国宇豆峯神社」と名づけて鎮座させ総鎮守としたという。 

宇豆峯神社の宇豆はウズと読み、これは明らかに「太秦・ウズマサ」のウズを意味しているといい、峯は韓国岳を現している。 
太秦は朝鮮から渡来した秦氏(はだし・百済から帰化した中国系住民)の居住した地域をいい、有名な京都の映画村「太秦」がそうである。 
その人たちの大半はそのまま大隅に住み着いたと言われ、そして示すように、この地域は日本で最初に「漢字」が使われた可能性もあるという。



可憐でも、その広がりは天空の絨毯と称せられる「ミヤマキリシマ」は、今は濃霧にかき消されて一望だに出来ない。ミヤマキリシマは「深山霧島」のことで、この地からその名が付いたことは周知である。

鹿児島・宮崎両県にまだかる霧島連山は、古代より信仰の対象として崇拝されてきた山々で、その秀麗な姿は全国でもまれに見る美しさといい、日本で最初に国立公園に指定されている。 
1934年(昭和9年3月)、「霧島国立公園」として日本で最初の国立公園に指定されたが、その後、1964年(昭和39年)には錦江湾(桜島)と屋久島が「霧島屋久国立公園」として追加指定されている。


霧の街・都城市から霧島連山を見ると霧に浮かぶ島々を連想させる。 
霧島」の名前は霧に浮かぶ島から命名されたと言われている。
霧島は当然活火山であり、新燃岳は昭和34年に噴火し、お鉢から今も噴煙が活発に上がってる。 

尚、霧島屋久国立公園のうち「屋久島」は、九州最高峰の宮之浦岳(みやのうらだけ、1935m 九州最高峰、日本100名山:)や縄文杉をはじめとする熱帯植物相や希少な動物が見られ、自然環境の特異性、重要性から、平成5年12月に世界遺産条約に基づく「世界遺産」として登録されている。


霧島山系の東南に位置する秀麗な山「高千穂峰」は標高1594mで、連山とされているが遠方から眺めると独立峰の山容にも見える。 
中央に高く角錐の頂が見え、その左右に一段下がって肩を張ったように稜線が際立ち、やがて雄大な裾を引く秀麗な山で、お馴染み古事記、日本書紀にも出て来る「天孫降臨」の山地であり、この山は裾野から見てもその優美さは見飽きないという。

高千穂峰は、二つの寄生火山といわれる二ツ石と御鉢(おはち)を従え天に立ち、山頂にはニニギノミコトが降臨した際、逆さに突きたてたという鉾「天の逆鉾(あまのさかほこ)」(鉄あるいは銅製、長さ138cm、周囲26cm霧島東神社の社宝)が立てられており、日本の創始の地である事を物語っているとされている。 

ご当地出身の歴代の力士の四股名「逆鉾」は、“天の逆鉾”から名付けたものであり、最近では井筒部屋所属の元力士で、本名が福薗 好昭が井筒部屋の親方となって後進の指導に当たっている。実弟に「寺尾」がいて、年寄・錣山(しころやま)として部屋の指導にあたっているのは周知である。

次回は、霧島・「高千穂



『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真関係)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/



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