『日本周遊紀行』

「goo」で、「yahoo」な国柄・・、日本万歳・・!! http://www.geocities.jp/orimasa2001

鹿児島

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写真:現在の富屋食堂(ホタル館、資料館併設)と出撃隊員に書いた記念タオル
歌詞には・・、『散るために 咲いてくれたか さくら花 
            散るこそものの みごとなりけり』



富屋食堂の常連、板津忠正に出撃命令が下った。しかし・・!、

館内に展示されている若き隊員達の「遺書・文言」には、強烈に胸を打つものがあり、純真さ、健気さを強調する内容とも言えるが、当時は手紙一通にしても軍の検閲があったことは確かである。 従って、全くの本心は書き難い面があったかもしれないが、しかし、そこに書かれた言葉は決して嘘や偽りでは無く、万感の思いで書かれたことも確かであろう・・。
だが、こんな検閲厳しき兵舎内で、しかも、特攻隊員という死に際にあった彼らにも自由を謳歌し、純真無垢にする時と憩いの場所はあった。その場所の名は「富屋食堂」といい、彼らの集散の会食の場であった。そこには彼らを母と呼ばせた女主人がいた。

昭和4年、鳥浜トメ氏は27歳の時、現在の知覧町役場近くの通りに「富屋食堂」を開いた。 南国特有の明るい性格と、気さくな性格の彼女は、たちまち若い隊員たちの人気となった。 食堂は陸軍の「指定食堂」でもあり、やって来る少年兵を我が子のように可愛がり、誰言うともなく隊員たちはトメを「母さん」と呼ぶようになっていた。 
こんな時期の昭和20年、突然、知覧は特攻基地に変身した。 毎日のように出撃命令を受ける少年兵たちはトメに出撃を報告し、故郷に住む母への手紙を託したとも言う。 次々に知覧の飛行場を飛び立ち、誰一人帰ってくる者はいなかったし、トメに託した手紙こそ真心、本心の手紙だったのである。
こんな中に、板津忠正という隊員がいて、彼は1945年5月、知覧飛行場より出撃した。 だが、沖縄へ向かう途中エンジンの不調に気がつき、それでも編隊飛行を続けようとしたものの高度1500mのところでエンジンが完全にストップし、徳之島へ不時着してしまった。その後、二度ほど出撃命令を受けるが天候不良のため出撃中止となり、結局、出撃する機会を失ったまま終戦を迎えることになった。 生き残った特攻兵、板津忠正は虚脱状態を引きずっていた。
こんな時に、鳥浜トメが言うには、「生き残ったことは、残されたということだよ。神様があんたに、“他に何かをやりなさい”とおっしゃっていることがあるはずだよ」と、 自分だけ生き残った罪の意識を抱えながらも、この一言で彼は意思を取り戻し、その後、遺族の元を一人ずつ訪ねる巡礼の旅に費やされたという。 戦友たちがこの世に託したかったことは何だったのか、彼ら一人一人のわずかな言葉を拾い集めることに、戦後の全てを捧げた。 それはある意味で、死んだ者よりも長く厳しい道のりだったのであるが・・。
こうして昭和62年、板津氏は彼らの声を永遠に語り継ぐために、この地に自己の財を全て投げ打って「知覧特攻平和会館」を設立したのである。 遺影や遺品のほとんどは彼が独力で集めてきたものといい、収集に区切りがついたのは戦後50余年を経てからという。 この時、板津氏は知覧特攻平和記念館の初代館長をも勤めている。
ここに、小生は、板津氏の行った行為は、赤穂浪士の「寺坂吉右衛門信行」を彷彿させた。
首尾良く本懐を遂げ、全員打揃って泉岳寺に向かう途中、大石内蔵助は、吉右衛門に対し一人結盟同士を抜けて使者に立つように命じた。 吉右衛門は命に従い、討入りの顛末を仔細に申し伝えるべく、また義士らの残された遺族らの生活を助けるべく、遺族たちの元へ旅立っていくのである。

館内展示遺品に、出身地が「朝鮮」となっている者が11名いて、中には日本名と朝鮮名が併記されている者が7名いるという。 この事は先刻、訪れた時に記したが、館の公園の一角に「アリランの歌碑」があり、更に、「ホタル」の石碑がある。 その、朝鮮人とホタルについて・・、
富屋食堂の常連、宮川三郎(当時、軍曹)に出撃命令が下った。
「父上様母上様、幼き日よりの数々の慈しみ、不肖、決して忘れは致しません。中学校時代、寒い中を出迎えに来て下さった父上の顔、今もなお、深く頭の中に残っております。」
その遺書には“お国のため”、という言葉はなく、ひたすら故郷への想いが綴られている。
出撃前夜、富屋食堂にやってきた宮川(朝鮮人・現、韓国人)は、トメさんと子供達に別れを告げた。そして「死んだらホタルになって戻ってくるから」と言って、飛び立っていったのである。 トメさんは後に語っている、「サブちゃんはホタルになって会いに来るといっていたが、そしたら本当に時間どおりに参りましたヨ、ホタルが・・、」、「ホラ皆さん、このホタルは宮川サブちゃんですよ」、「本当かね、カアさん」といって、皆んなで「同期の桜」を歌ったという。 
これは実話である・・、そして、この事実は映画にもなった。

次回は、「映画になった特攻隊員」

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写真:特攻平和会館前の実物大の戦闘機(零戦・・?)



以前に、知覧の項で「特攻」について述べたが、更に・・、

食後、ホテル周辺の緑豊かな庭園を孫達とじゃれ合いながら散策したい・・、と思っていたが、ところだが生憎の雨模様である。 代わって広い館内をぶらつきながら、部屋へ戻って孫たちと一暴れした。 テレビがニュース、天気予報を伝えていて、地元地方の予報によれば、本日は「曇り時々雨」と伝えていた。 
ぼちぼち出発である、先ず、景勝「池田湖」へ向かった。
近くを通るR226(南薩道路)を池田湖の南部から辿ってみた、薩摩富士の開聞岳が至近のはずであるが、今は靄に煙っていて、その姿はホンノリ見えるのみであった。それでも僅かながら三角錐の形が幽かながら見て取れた時、「ヘー、あれが薩摩富士か、やっぱり富士山だな・・!」と婿殿が感心していた。 西側湖畔を行くが、湖面は灰色に沈んでいて、この辺りは鹿児島南部の景勝地の一つでもあるが、この日ばかりは、その美事さは感じられず、その辺の湖沼と変わらないような陰気な様子で佇んでいる。やはり、自然の景観は晴れた日の、太陽の下での立体的な輝く姿が、より印象的であろう。 小生が先日訪れた湖畔の園地を訪れてみたが、やはり、小雨に煙ぶっていて芝生は濡れて歩きにくく、本来、湖面より浮かび上がる薩摩富士の勇姿は、こちらも同様であった。
 
指宿スカイラインを、昨日とは逆に北上する。
知覧付近は、例によって延々と(遠々と・・)茶畑が広がっている。 静岡に次いで西日本一の知覧茶の産地ということで、皆々驚いていた。
先ず、知覧の「知覧特攻平和会館」へ既行者として案内する。 特に子育て真っ最中の若夫婦にはジックリ見てもらいたいのである。 幸いに館前に着く頃には、すっかり明るくなって雨も上がってきたようだ。 広ーく、整備された公園を孫達は、跳ねるように車から飛び出していった。 その先は、やはりあの二機の戦闘機が外部展示してあるところであった、「ワー・・飛行機だ・・!」 乗り物に興味を持ち始めた4歳の男孫である、「かっこいいナ・・」実物大の飛行機を、こうやって触りながら見るのは、勿論初めてだろう、父親も「おお、スゲー!!」といってニコニコ顔で一緒に写真に納まっていた。
所定の入館料を払って全員で入場した。先ず、壁一面にずらりと並んだ1036名の若い顔の遺影、達筆で書かれた遺書品々、日の丸への寄せ書き等々、小生は、一応拝見しているので冷静であったが、若夫婦をはじめ、年寄りの義母、そして上さんも、それらの品々に食い入るように観ていて、徐々に吸い寄せられていくようである。 面白がっていた孫達も親と一緒に眺めてて「これ、ナーニ・・?」と質問されて、親は説明、返答に窮しているようだが・・、そのうち飽きてきて嬌声を発し、飛び跳ねはじめた、子守は勿論、小生である。 大人の真剣さと、孫の無邪気さが好対照で面白い・・?。
近くで見物していた茶髪の少女・女学生風の数人が「ウッソー・・」、「マジ・・?」などと言って、俄かに信じられない風であったが、次第に食い入るように特攻隊員の遺書を読んでいる姿が見て取れる。 当時、桜の小枝を打ち振って特攻隊員の死への門出を見送る知覧高女の女学生達がいたのはご存知かな・・?、これら隊員たちを見送ったのは、丁度貴女たちの年代でしたよ・・!。

次回は、知覧・特攻隊員

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写真:指宿フェニックスホテル



「砂蒸し湯」の周りで、孫たち3人も素っ裸で・・、

「指宿フェニックスホテル」は、指宿名物・砂蒸し風呂や洞窟露天風呂で人気があるようだ。 昨夜は、我が家族一行が到着しだい、これらの名物風呂を堪能した。 
娘夫婦と上さんが「川の字」になって砂に埋もれている。 係員に許可をもらって孫3人も素っ裸で川の字の回りを、はしゃぎながら砂を掛け合っている。 「顔に掛けちゃ駄目だよ・・」、「はーい」、「ハーイ」、小生は先日体験したので、今回は遠慮して孫の監視役である。
砂湯は先ず、受付の係りのおばさんに案内され、手早く浅い穴を砂に掘り、頭を乗せる枕代わりに一箇所砂を少し高く盛り、その上にタオルを敷く。 その穴に横たわると、今度は身体の上に砂がかけられていく。 上半身から下半身へ、勢いよく砂を乗せられると下腹部に重さを感じる。 顔以外すべて砂に埋まったら、後はおとなしく10〜15分そのままボーッとしている。 すると、砂はじんわり温かく知らぬ間に汗が出てくる。 低温火傷というのがあるらしく、どんなんだか不明だが、そんな時は身体をモコモコ動かすといいらしい。 砂の重みのせいか、ズキンズキンと自分の脈動を感じるのである。まあ、この砂の重さと温かさが心地よいのである。 
砂むし温泉は、いわば天然のサウナであり、砂の重みはマッサージ効果もあるようで、あつい砂の中に体を横たえるとじわじわと温まり、爽快な汗とともに気分もすっきりリフレッシュできる。 指宿の旅で、思い出一つの体験としては絶妙であろう。
次に、砂を落して広大な室内浴場、露天風呂へと浴槽入浴に移る、孫達とっては遊園地のようなプールである。 幸いにと言うか、この広い浴場に他の客は誰一人居無く、貸切り状態なので気兼ねは不必要であった。 ただ、孫たちが勢いよく突走って、転ぶのが心配だったが・・。 大浴場、露天風呂とも展望もよく、気持ちよくレフレッシュできた。

指宿温泉は、薩摩半島の南端の海岸沿いに5kmにわたって湧き出る温泉で、豊富な湯量に恵まれ、市内いたる所から湧き出る。 一日の温泉湧出量は約12万t、泉源は約800箇所在ると言わ、源泉温度は60から80度の高温泉で、泉質のナトリウム・塩化物泉は神経痛、筋肉痛、関節痛、胃腸病、肩こり等々に良いとされる。 
旅館やホテルが建ち並ぶ温泉街のメインストリートは、フェニックスの街路樹が茂り、年間を通してハイビスカスやブーゲンビリアなどの花が咲き、南国情緒あふれる地域である。 かつては静かな湯治場として親しまれていたらしいが、現在でも町内には10ヶ所程の共同浴場が在り、何れも入湯料200円前後浸かれるという。 今も自炊施設を持つ宿もあり、湯治の長逗留の人も結構いるらしい。
そして、指宿温泉の特徴は、何といっても名物の「天然砂むし風呂」であろう。 摺ケ浜(すりがはま)海岸の砂浜に湧く天然の砂むし湯は、日本唯一の天然砂むし風呂が体験できる温泉地ある。 「砂蒸」そのものも、300年以上の歴史があるといい、近隣の海岸に出て適当に砂を掘れば、場所によっては砂蒸しができる場所がある。 海岸なので海水浴をし、その後、砂蒸しをするという優雅な温水浴ができる。また、高温の場所に「薩摩芋」あるいは「生卵」を埋めておけば、ふかし芋あるいはゆで卵が出来上がし、味付けは海水で十分であるという。

お風呂の後は楽しい食事である・・、
ホテルの食事は夕・朝共にバイキング方式で、皆でワイワイ言いながら楽しくガツガツと戴きである。 孫達は爺・婆が世話役で、当の親の娘夫婦は承知したもんで、まかせっきりの素知らぬ顔で箸を口に運んでいる。 もっとも、小生はビール片手に、上の孫とお喋りをしながらの食事で、手は懸からないのであるが。 そんなこんなで、久しく賑やかな一日を家族と共に過ごし、枕を並べて夢路を辿ったのであった。

目覚めると久しぶりの雨の様気である、長々と雨無しのカラカラ渇水期が続ていたので、少々お湿りが欲しいところであるが、家族との楽しい一時である、今日だけは欲しくなかったのが・・。 孫達は、まるでランダムに転がしたように、アッチャコッチャの寝姿である、夕べの宵っ張りが効いてか未だ未だ(まだまだ)夢の中である、どんな夢かって・・? 幼児も夢見るよネ・・?!。
小生は例によって朝湯である、上さんも起きてきて一緒に出掛けた。 大浴場から露天風呂の表へ出てみると、柔らかに降る雨は辺りをシットリと湿らせ、庭園の木々は緑を一層光らしている。 朝の入浴は身体を特に洗うことなく、のんびり入って体中の神経の目覚めを待つのである。 サッパリ湯上り後にホテル内をブラついて、後はご一行と朝食である、さすがの孫どもも半睡半眠(半覚半眠・・?)で、時々、ダダも・・!!

次回は、再び「知覧」へ

「なんでこんなに 可愛いのかよ 孫という名の 宝もの・・」、

桜島を満喫した後、その国道224号の所謂、袴腰−赤水の「溶岩直線道路」を通り、鹿児島へ渡るためにフェリー乗り場へ向かう。 
その前に港の前にある「道の駅・桜島」へ小用で寄った。 赤い四角錐の屋根が印象的な駅であり、意外と人が多いのに驚いた。例によって、「フレッシュ」が合い言葉の農産品、農産加工品などが地元産が並んでいるが、中でも目に入ったのが、特産の「桜島小ミカン」や「桜島大根」などであった。 上さんが(妻)、気を利かして1袋購入し、早速、手にしたところ実に小さい、皮をむくと1口で食べられるほどである。そして、この甘さが抜群であった。 孫たちも「ジージ、このみかん可愛くて、甘いよ・・!」と、「そうだよ、お前たちと一緒だよ」、「・・?」
桜島小ミカンは、ギネスブックにも登録されるほど世界一小さなミカンで、更に「世界一甘いミカン」だと地元の人は云っている。意外と歴史も古く、島津義弘が文禄・慶長の役の際に朝鮮半島から持ち帰ったと言われている。 更に驚きは、こちらは世界最大といわれる桜島大根が、やはりギネスに登録されているという。 この小さな島の一角に、世界一の物産が二個並んでいるのも稀有であろう。

桟橋へ向かう・・、すぐ前は既に鹿児島の市街、ビル群が迫っている。 高速道の料金所よろしく、車に全員が乗ったまま代金を払って、そのまま待機しているフェリーに乗り込む。 4階構造の華やかなフェリーで1階が大型車、2階が普通車で3,4階が一般乗客である。
航行時間わずか13分と非常に短い航路だが24時間運行を行っており、一日88便も運行されている。 日中は10分間隔で発着を繰り返しており、恐らく日本で最も便数の多い航路ではないだろうか。 僅か10分少々の乗船時間であるが、船内にはコーヒースタンドや立ち食いソバなどの設備も整っていて飲んで、食っている最中(さなか)に着いてしまう。
出航後間もなく鹿児島からのフェリーとすれ違う、孫たちも大はしゃぎで元気一杯である。そんな、こんなもしない内に鹿児島埠頭に着いてしまった。下りてすぐ水族館があって、早速、孫どもが「ねえー、水族館連れてって・・」と強請る(ねだる)、時間の関係上、どうしても無理なことを説得するのに一苦労である。 
日本西南の大都市・鹿児島の市内見物することもなく、(小生は既に済んでいるが・・、)鹿児島中央駅前から一寸、長目の「武岡トンネル」を抜け、九州道の鹿児島I・Cへ飛び乗った。 行き先は「指宿スカイライン」から、今夜の泊まり宿・指宿である。 

今日、朝早くから慌しい一日であったろう、車中、孫どもは疲れきって、三人ともすっかり寝込んでしまった。 上の女の子は小生の膝枕で、気持ち良さそうに寝息を立てている、可愛い孫たちである・・!!。
小生宅は子供三人、女、男、女であり、周囲の身内、親戚、友人の子供たちも、皆、偶然ではあろうが子供三人で女男女の順番も同じである、おまけに、車中の娘の子(孫)も同様なのである。 自分の子供達は飼育・・?に夢中であって「可愛さ」というのは余り実感が無かったようだが、 実際、大泉逸郎の「孫」という唄ではないが歌詞に「何でこんなに可愛いのかよ、孫という名の宝物」・・と本当に可愛いのである。
毎週末にやって来ては「ばばちゃん」、「じーじ」と纏わり付いてくる。 そのうち、おもちゃ箱へ行って、引っ掻き回し、部屋中にカッ散らかして悪さを始める・・、「コラッ・・」と怒鳴っても「イー・・」といって逃げてしまう。 親娘は、そんな孫たちには素知らぬ振りでテレビに夢中なのであり、爺・婆の家だから出来るのである。 たまには孫と一緒と遊び、動き回るときもあるが、あのハイテンションの声と動きには付いてゆけず、しまいには疲れてしまうのである。 婿(娘の旦那)も来て夕食をともにした後、間断なく吹き荒れた豆台風が、勝ち誇ったように意気揚揚と引き上げる。後は、残された爺・婆は、しばし放心状態に陥るのでのである。 外孫であるが・・、外であれ内であれ、孫の可愛さには変わりがない、外孫であるだけに日々の成長がわかって嬉しいものである。 尤も、内孫も近所にいるのだが、未だ、小さくて実感が無いが、その内、暴れだすのであろう・・!。
今は、車中でジックリ休眠とっているが、その後、ホテルへ着いたら、珍しさもあって一暴れ、二暴れするのだろう、その時は大いに付き合ってやろうじゃないか・・!。
上さんの実母である義母も、80歳を過ぎたとはいえ未だゲートボール、カラオケにと元気に暮らしている。 長旅の疲れもあり、車には弱いはずであるが、今のところ、それらしい気配はなくホッとしている。

指宿スカイラインは九州道に直結した日本列島の最も南にある豪快なロードであり、薩摩半島の尾根を左右に分けて東には錦江湾が見える観光道路である。 道路は次第に高度をあげ、左側には錦江湾と桜島から立ち上る煙が見え、右側には広々とした尾根が広がっている。山の頂上を走っているのに景色を遮る木がほとんどないのでロケーションは抜群である。
知覧インター付近には雄大なお茶畑が広がっている。ここからは小生が先日通った道程であるが、運転はしてないので快適さを満喫できる。 知覧インターを過ぎると今度は道は下り坂になる。スカイラインの終点には、あの池田湖であるが観光は明日に行うとして、このまま指宿市内へ向かう。
先日と同じルートから市郊外のR226を南下して、南端部・指宿枕崎鉄道が交差する辺り、派手に立ち上がっている「指宿フェニックスホテル」に到着した。 白亜の建物で、南国ムードいっぱいの庭園に囲まれた風光明媚な高台に建つ。 広大な敷地の庭園も見ごたえあるし、錦江湾を眼下に右手には山川港、遠くには本土最南端佐多岬まで遠望できる圧巻のロケーションである。 ホテルは、掛け流しの温泉は勿論であるが、洞窟風の露天風呂や中でも指宿名物の「砂むし温泉」も完備していた。
着後、一眠りして元気づいた孫達が、早速暴れだした・・!!。

『孫』 曲・唄 大泉逸郎
なんでこんなに 可愛いのかよ
孫という名の 宝もの
じいちゃんあんたに そっくりだよと
人に言われりゃ 嬉しくなって
下がる目じりが 下がる目じりが えびす顔

もみじみたいな 小さな手でも
いまにつかむよ 幸せを
仕事いちずで 果たせなかった
親の役割 代りの孫に
今は返して 今は返して いるところ

引き続き、指宿温泉

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写真:大正年間の大噴火の様子(家並みは鹿児島)、東部黒神地区、黒神神社の埋没鳥居
(資料提供:鹿児島市)



島名の由来は、ニニギの嫁さんの木花咲耶姫を祭る神社があり、咲耶島(さくやしま)か転じて桜島となった・・、

桜島火山は、姶良(あいら)カルデラという南部に生じた成層火山で北岳、中岳、南岳の三 峰と権現山、鍋山、引ノ平などの側火山からなり、人口が密集する鹿児島市の市街地に近接している。 有史後の山頂噴火は南岳に限られるが、山腹や付近の海底からも噴火はしているという。 江戸中期そして大正、昭和等の各年間に発生した大噴火はすべて山腹噴火であり、多量の溶岩を流出し、火砕流や泥流の発生もあった。 
桜島は東西10km、南北8km、周囲40km の島であったが、1914 年(大正3 年)の大噴火で山腹から流出した溶岩により大隅半島と陸続きになった。 南岳山頂火口は、1955 年10 月の爆発以来今日まで長期間にわたって活発な噴火活動を続けており、噴出物(火山ガス・火山灰・火山礫・噴石など)や爆発時の空振、また、二次災害としての土石流などにより各方面に被害を及ぼしているという。
南岳山頂火口から2km 以内は、現在も立ち入り禁止となっていて、平成の現代になっても尚、活動は活発といわれる。 平成12 の爆発では火山灰、噴石が噴出する被害を出し、年間の爆発回数も169 回にも及び、鹿児島市周辺でも直径2 〜 3mm の火山礫も飛散したという。 尚、平成14年以降は比較的静穏が続いているという。
この激しくも恐ろしい火の山に、どうして、優雅な「桜島」という名がついたのだろう・・?。
島名の由来については、島内に木花咲耶姫命と夫:瓊瓊杵尊(コノハナサクヤヒメ、ニニギノミコト)を祭る神社が鎮座していて、当初は、島の名を祭神に因んで咲耶島(さくやしま)と呼んでいたが、いつしか転訛して桜島となったとする説がある。一方、10世紀中頃、大隅守として京都から赴任してきた「桜島忠信」の名前からとったという説の二つが有るという。
桜島は時に、雨が激しいときには大隅半島(垂水方面)から桜島へと渡る国道が閉鎖され、又、常に噴火する可能性があるので、飛来する(かもしれない)噴石避けのための「避難壕」が島内の各所に設置されている。 そして定期的に、人口4,700人の桜島町では、噴火を想定した島からの避難訓練が行われているらしい。 尚、国立公園は何処もそうであるが、桜島の溶岩類は許可がなければ持ち出しはできない。

大正3年(1914年)の大噴火について・・、
未だお屠蘇気分覚めやらぬ正月12日の午前10時、桜島南岳が轟然として噴火を始め、鹿児島市内にも大量の降灰が始まった。 噴火は次第に熾烈になり、桜島全島が黒煙、白煙に包まれ、更に、上下動の激しい地震が発生、鹿児島市内では家屋や石塀が倒壊したという。 更に、噴火は拡大し、夜になって爆発音は更に激烈になってきて人々は混乱し、逃げ惑ったとされている。 そして、この噴火で流出した溶岩は、それまで錦江湾に浮かぶ文字通り島だった桜島と大隅半島の間の幅400m、深さ72mの海峡を埋め尽くし、半島と桜島は陸続きとなったという。 今も、東部・黒神地区の神社の鳥居は、上部を残す埋没した姿で痕跡を残し、そのすさまじい降灰の量を端的に物語っている。 この時の噴煙は上空8,000mに達し、遠くカムチャッカ半島にまで灰を降らせたといわれる。 当時の様子を誌書には「その状況は筆舌に尽くし能わざる・・、犠牲者は死者35人、行方不明23人・・、」と記されている。

次回は、「孫」


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