『日本周遊紀行』

「goo」で、「yahoo」な国柄・・、日本万歳・・!! http://www.geocities.jp/orimasa2001

宮崎県

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写真:鵜戸神宮の参道界隈、岩屋の中の本殿
画像:「神々の系図」



そして鵜戸神宮は、日本神話に語られる「山幸彦・海幸彦」の物語の舞台となった場所でもある。
山幸彦(彦火火出見尊)が、兄(海幸彦)から借りた釣り糸を海へ落としてしまい、失くしたの釣り針を探すために海宮(龍宮)へと向かった。 この時、海神の娘の豊玉姫命と知り合い深い契りを結んだ。 山幸彦が海宮から帰られた後、身重になっていた豊玉姫命は「天孫の御子を海原で生むことは出来ない」として、この鵜戸の地に参ることになる。 霊窟に急いで産殿を造っていたが、屋根の鵜の羽や茅も葺き合わぬうちに御子(御祭神)が誕生になった。 故に、その子の御名を鵜葺屋葺不合命「ウガヤフキアエズノミコト」と申した。 鵜戸神宮はこの御子を主祭神として祀る社である。

鵜戸神宮の創建は、崇神天皇(すじんてんのう:第10代の天皇、年代不詳)の御代ともいうがはっきりしないようである。 782年(延暦元年)に天台宗の開僧・光喜坊・快久が神殿を再興したといい、快久は同時に寺院も建立して初代別当となり、勅号「鵜戸山大権現吾平山仁王護国寺」を賜って、神仏両道の道場として栄えたという。 明治になって廃仏毀釈によって寺院が廃止され、鵜戸神社、更に鵜戸神宮と改称されて現在に至っているが、 神宮はその伝説のためか縁結び、夫婦和合、子授け、安産などの御利益で近隣の人々の信仰を集めてきた。 古くは日向の国のみならず、大隅、薩摩からも御利益を求める人々が鵜戸への街道を辿ったという。 かつて昭和40年代に宮崎と日南海岸が新婚旅行ブームで賑わった時代が有ったが、それは、新婚夫婦が鵜戸神宮の御利益を願った参拝が主目的であったともいわれる。

小生が鵜戸神宮へ向かったのは、海岸沿いの車のすれ違いがやっと出来る、海岸に面した断崖上の細い道であったが、昔はこんな道はなかったらしい。 今でも、通常の駐車場は(大型車等・・)鵜戸港より220号の旧道を行ったところの山上にある。 鵜戸神宮は、日向灘に面した波打ち際に築かれた社なので、従って、参道は日本でも珍しい815段という長い階段を降りて参拝することになる。 この石段は「八丁坂」といい、よく見ると石段の中央部は弓なりに磨り減って凹んでいる。それは人々が繰り返し、繰り返し鵜戸山参りした往還の証だともいう。
近年、参道の整備によって、険しい石段を上り下りする苦労は軽減されたが、参道の険しさが一層、鵜戸山参りに人々を駆り立てるともいわれた。 昔は、花婿に轡(くつわ)をとってシャンシャン馬に乗せ、鵜戸山参りをすることが、新婚夫婦の恒例行事なっていたともいう。
社務所の建つ付近には、土産物屋が軒を並べて参拝者の旅の疲れを癒してくれる。 それにしても鵜戸神宮は太平洋に面し、燦々とふりそそぐ南国の太陽の下にあり、大変明るい神社でもある

参考までに、御祭神の系譜は(日本書紀系)・・、
日本神話に登場する最初の夫婦神とされる伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)がおられた、そして、その子の一人(神)が天照大御神である。
天照神以降の譜系は・・、
天照大御神(アマテラスオオミカミ:伊勢神宮の主祭神、初代皇祖神) ⇒ 天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト:英彦山神宮の主祭神・福岡県) ⇒ 彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト:新田神社、霧島神宮の主祭神、天孫降臨、日向初代、可愛山陵) ⇒ 彦火火出見尊(ヒコホホデミ:鹿児島神宮の主祭神、山幸彦、日向二代、妃・豊玉姫命・ トヨタマヒメノミコト ・乙姫:長崎・海神神社の主祭神、高屋山陵) ⇒ 日子波瀲武草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト:鵜戸神宮の主祭神、日向三代、妃・玉依姫命・タマヨリヒメノミコト・豊玉姫の妹:玉前神社の主祭神・千葉上総、吾平山陵)
 ⇒ 神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト:宮崎神宮、橿原神宮の主祭神・奈良県、玉依姫命の子、神武天皇、皇祖初代天皇・紀元前660年の紀元節)となる。 天照大御神から代代辿って、神武天皇までは六代目に当り・・、神武天皇の父君が、こちらの鵜戸神宮の宮に当たる。

次回は、「青島」

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写真:茅の輪と神門、神宮前面の日向灘、



神武天皇の父君が神宮に祭られている・・、

日南・油津から宮崎への国道220は、道路沿いにヤシの木が整列に並んで南国っぽい雰囲気の海岸線であり、最高に気持ちいいロードである。 程なくして「鵜戸神宮」への入口標識があり、案内に従って海岸沿いの細い道を行くことになる。 波打ち際には怪異な波うつ岩盤が広がっている。 小さな鵜戸崎灯台を右に見ながら、程なく社宮駐車場へ着いた。 気がつくとこの社は、珍しく海岸の断崖の上に建つ神社らしい。鳥居に軽く会釈をして前へ進むと神門・石灯篭があり、その手前に藁(茅)で造作した「茅の輪」が設けられてある、茅の輪くぐりの輪であった。
「茅の輪くぐり」とは、延命長寿や無病息災を祈る「大祓」の行事の一つで、「輪越祭」ともいい、古くから各地の神社で行われている。 「大祓」はわれわれが日常生活の上で知らず知らずのうちに犯したり触れたりした罪・穢(あい:けがれること、けがらわしいこと)を祓い清める神事の一つで、一般に年に2回行われ、6月の大祓を「夏越の大祓」、12月の大祓を「年越の大祓」といいという。 古くは飛鳥時代・天武天皇の御代に始まったとされ、「すがぬけ」(ちの輪くぐり)の神事ともいわれて、その起源は、古事記や風土記にも記され、神代の昔まで遡ると言われる。ついては、この「鵜戸宮」は神代の宮であれば納得である。 茅の輪くぐりは左、右、左と三回ずつくぐるようで、∞文字を描くことになる。 実は神主さんが扱う“祓い串”(おはらい)と同じで、自分の身体を神主さんの祓い串に見立てて同じように「∞」の字を描くという事のようである、。
ところで、「茅」は昔、(今でも・・)屋根を葺くのにつかわれた草木(チガヤ、スゲ、ススキ、ヨシ、アシなど)の総称で、一般に水茅、地茅に分けられ、特に、屋根葺きは産地や地方によって使い分けしているという。 「チガヤ」・地茅はススキが代表的で、原野や山地で群生する多年草で根茎は茅根といって薬にも用いられる。 又、「ヨシ・アシ」などの水茅は湖沼や河川、湿原に群生して生息するイネ科の植物である。 一面に生い茂るヨシ原は水辺に美しい景観を作るだけでなく、魚類や水生昆虫、水鳥たちにとっては大切な産卵、生息の場所でもあり、さらに、ヨシは一本で20リットルの水を浄化させる機能があるということが近年注目されている。 昔の日本は、美しい“豊葦原(とよあしはら)の瑞穂(みずほ)の国”と呼ばれていた。
「茅の輪」は、このような青草のもつ霊力をもって、日本古来の風習として悪縁を切り、厄を祓い、無病を祈る願い事に使われたのである。
 
神門から社務所を通って楼門に到ると華美な朱色の門は壮大で参拝者を迎える。 手前左には「吾平山上陵」へと続く小道があり、小さな鳥居が並んでいる。 宮内庁の管轄となっている吾平山上陵は、鵜戸神宮の祭神である鵜葺屋葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の陵墓ということで、鹿児島県の吾平町にある吾平山稜から分霊されたものとされるが、、こちらが本物という議論もあるというが・・?。
楼門をくぐって本殿へと向かう参道は、右手に日向灘を見下ろす断崖の上を辿るようになる。 千鳥橋を渡り、さらに玉橋を渡ることになり、更に、灯篭が配され良く整った急な石段を下ると、本殿の建つ海蝕洞へと導かれる。 なかなか巨大な海蝕洞窟で、朱色の華麗なる鵜戸神宮・本殿がすっぽりとその中に収まって鎮座しているのである。 入り口には御札を取り扱う巫女の姿が真に慇懃清楚で、此方の方も気持ちが洗われるようだ。 先ずは本殿に額ずいて、賑々しく謝礼参拝を行う。

眼下の波打ち際の磯辺には、二柱岩や亀石桝形岩といった奇岩怪岩が横たわり、その造形美にも目を奪われる。 参道石柵の向こうは、直下の絶壁で打ち寄せる波濤が、これらの岩盤に砕け散って飛沫(しぶき)が足元へ飛来しそうである。 太古の昔、初めてこの岬を訪れ、目にした人々はその奇観に畏怖し、神々の鎮座するところと思ったのも無理からぬことのように思える。
参道真下の岩場に亀の形をした「亀岩」というのがある(居る)。その背の部分には注連縄(しめなわ)で囲まれた窪み(凹み)があり、それをめがけて願掛けの「運玉」を投げ入れ、見事に中に入れば願い事が叶うという。 この亀岩は、ウガヤフキアエズの乳母として玉依姫がやって来た時に乗ってきた亀ともいわれ、背中の凹みは自然のものだという。 運玉は五個ワンセットで男性は左手で、女性は右手で投げ入れ、一願成就、見事凹みに命中したら願い事が叶うという。
日本神話に語られる伝説を持ち、この地方の人々の信仰を深く集めてきた鵜戸神宮だが、太平洋を望む岬は景観も素晴らしく、境内の随所に見られる南国の植物も独特の風情を醸している。 玉橋を渡って石段を降りた洞窟の周辺は、かつては霊域として神職以外の者の立ち入りが禁じられていた時代もあったという。今では、宮崎県南部の観光名所のひとつとしての意味合いも大きく、気軽に参拝客が訪れている。 神宮は地元の人に「鵜戸さん」と愛称され、風光明媚な国定公園日南海岸の一角にもなっている。

次回も鵜戸神宮が続きます

「曾我兄弟の仇討ち」で、打たれたはずの伊藤氏が・・、

伊東氏は江戸時代、飫肥藩の領主として現在の宮崎県日南市を中心として栄えた一族である。 元々は、鎌倉・頼朝時代に当地へ移封された豪族で、関東の伊豆地方(本拠は静岡県伊東市)の伊東氏をルーツとしている。 そして伊東氏と言えば、「曾我兄弟の仇討ち」で有名であり、その当事者でもあった。

早速ながら、その「曾我兄弟のあだ討ち」について一寸・・、
結論を先に述べると、日向の伊東氏は「仇」を討たれた方の家系である。 鎌倉当時、伊東氏と工藤氏は同系の一族であるが、氏名も変更している。
平安末期、頼朝が伊豆へ流されたとき、平家方として幽閉された頼朝を見張っていたのが伊東次郎祐親である。 同族、祐親の甥子・工藤(藤原)祐経は、領地争いのことで祐親には常ずね恨みを抱いていた。 或る時、祐親を狙った刺客の一矢が、祐親ではなく一緒にいた祐親の嫡男・伊東(河津)三郎祐泰に当たってしまい、祐泰は憤死する。 その結果、祐泰の子である一萬丸と箱王が遺児として残されてしまった。二人は、成人した後の伊東(曽我)十郎、伊東(曽我)五郎の兄弟である。
1193年5月、源頼朝は富士の裾野で盛大な巻狩り(狩猟が主である、戦闘訓練の意味もある)を開くが、この巻狩りに、曽我兄弟と兄弟の仇敵・工藤祐経も参加していた。 この時、兄弟は積年の父の恨みを晴らさんと祐経の寝所に押し入り、酒に酔って遊女と寝ていた祐経を見事討ち果たした。 兄弟のその後の様子は後にして・・、頼朝の信任厚かった工藤祐経は討たれてしまったが、過去に奥州征伐(1189年、源義経を匿った藤原泰衡の罪を責めて、源頼朝が奥州藤原氏の本拠平泉を突いてこれを討ち滅ぼした戦役)において功があったとして、九州・日向国の地頭職をその子である祐時に与え、収めることになる。(同時に祐時の弟・工藤祐長は奥州安積郡の領主となる)
この時、日向に領地を得た工藤家は、元の家名である伊東家を名乗り、以降、南北朝から戦国期頃には日向から現在の熊本県八代市、球磨地方あたりまで勢力図を広げ、戦国大名としての地位を築いた。 戦国末期、島津氏の台頭によって、やがて大名の地位すら奪われ凋落するが、 関ケ原合戦後は現在の日南市の飫肥地方にて復活し、明治維新まで飫肥藩領主として続くことになる。 
因みに、曽我十郎・五郎兄弟は仇討ちを果たした後、騒ぎを聞きつけて集まってきた御家人に取囲まれ、兄弟はここで10人斬りの働きをするが、十郎祐成は新田四郎忠常(頼朝家臣)に討たれ、五郎は捕らえられて頼朝の面前で仇討ちに至った経緯心底を述べる。 頼朝は一時、助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡したとされる。

「飫肥」と書いて「おび」とは読み難いし、謂(いわ)れは不明だが「飫」の意味は腹いっぱいに飲み食いすることで、「肥」は字の如くで土地が肥えて、食物が豊富をいう。即ち、土地柄が良く、作物や天然資源が豊富で人々が安心して暮らせる地域という意味であろう。
当時、飫肥村その後、町域になったが、1950年1月に南那珂郡、吾田町、油津町および東郷村の4町村が合併して「日南市」が誕生する。 市名の由来は、当地が「日向(宮崎県の旧国名)の南、日本の南」であることから名づけられたものとされる。 風致優美とされるこの町・飫肥は、NHK朝の連続ドラマ「わかば」の舞台にもなった。

次回は、鵜戸神宮

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写真:堀川運河と堀川橋(向こうに吾平津神社の鳥居)
    吾平津神社こと「乙姫大明神」



「油津」は神代の浦であり、自然が織りなす天然の良港であったが・・、

南郷の目井津港の正面に瓢箪の様な形の島が見えている、「大島」といい人口僅か10数人と言われる優雅な島である。島は奇岩なども多く亜熱帯性の植物が繁り、季節には、あちこちでハイビスカスの花が咲き、なかなかの景勝地である。ダイビングやキャンプに訪れる人も年々増えて、釣り客や島を散策に来る人のための民宿もあるとか。
気が付けば、既にここは日向の国・宮崎県である。 日向灘の紺碧の大海を望みながら、日南フェニックスロードと呼ばれる国道を北上する。
日南市に入って先ず「油津」という所へ来た。 
対岸に細長く突出した大節の岬に囲まれた天然の良港で、今はヒッソリとした港町のようである。 油津は古くは「吾平津」(あいらつ)と呼んでいて後に「アイラ、油」と、訛ったという説が一般的である。 神武天皇のお妃、「吾平津妃」がお立ちになったとされる故事に由来し、堀川端に鎮座する「吾平津神社」の縁起にもなっている。その御陵が「吾平山陵」であるこのことは先に記した。

日南市の油津港から砂州の広がる広渡川の河口から凡そ1.5kmで結ぶ「堀川運河」が、江戸初期に拓かれている。 運河は、地元特産の飫肥杉(おびすぎ)を運搬する目的で、飫肥藩が水路として開設したものである。
堀川運河は日向・飫肥藩主・伊東祐実(五代藩主)によって開削されたもので、主に広渡川を流して運ばれた木材を油津港へ送り込むことを目的としたものだった。 運河が開削されるまでは、北郷あたりの山地から産出した木材は広渡川を下って一旦、海へと出ることになる。その後に梅ヶ浜の沖から尾伏のハナ(現在の大節鼻)を廻って油津の港へと曳かなくてはならなかった。かなりの遠回りで、時には潮流や強風などによって損失する木材も少なくはなく、また危険も大きくて効率の悪いものだった。 
1683年(天和3年)の12月に始まった堀川開削の工事は、1686年(貞享3年)の春まで、およそ2年4ヶ月の期間を要したという、運河の開削は当時の技術では決して楽なものではなく、特に吾平津神社下あたりの岩盤の掘削はかなりの難工事であったという。 言い伝えによれば当時、生贄(いけにえ)として「人柱」が立てられたという噂もある。
その後の油津は、最盛期には周辺一帯、一面に材木の山が積まれていたという。
その河口よりやや遡った所に堀川橋がある。 明治36年(1903)、飫肥の名石工・石井文吉によって完成させたという由緒ある石橋で、油津を横断する堀川に堂々たる姿を、現在でも残している。 俗称、優雅に「乙姫橋」とも呼ばれ、この界隈を今でも乙姫町としている。 映画「男はつらいよ」-寅次郎の青春編-(シリーズ作)に登場した町のシンボルでもあり、油津にかつて訪れた野口雨情が

『 水と筏を 堀川橋の 石の手すりは 見て暮らす 』
と詠んでいる。 そして1921年、野口雨情は本居長世の作曲で童謡「乙姫さん」を残している。 その橋の袂に吾平津神社があるが、この神社は「乙姫大明神」ともいい、近隣の人々は今も親しみを込めて「乙姫さん」と呼んでいるという。

『乙姫さん』 詞 野口雨情  曲 本居長世
龍宮の龍宮の 乙姫さんは
トントンカラリン トンカラリン
トンカラリン トンカラリン と
はたを織りました

浦島太郎も トントンカラリン
黄金のたすきでトンカラリン
トンカラリン トンカラリン と
はたを織りました

「吾平津神社」は海の民・油津の人たちの氏神でもあるが、古代神話に彩られる鵜戸の岩屋(現、鵜戸神宮)同様、油津も神代の浦であり、古代から自然が織りなす天然の良港であったという。 江戸期には油津港を基地として、飫肥杉使用する造船場が多い播磨地方に千石船 (俗称・弁財船、)で運ばれ、木材積出し港として最盛期を迎える。 堀川運河と広渡川の連結部には当時の「石堰堤」が今も残る。
この石堤の上流は妻手川、酒谷川、広渡川、益安川などの四つの河川が合流し大きな砂州、河川敷を形造っている。 この酒谷川の上流域で凡そ5kmのところが飫肥地区である。
飫肥(おび)は、戦国期(1588年)から明治初期までの280年間飫肥藩・伊東氏の5万1千石の城下町として栄えたところで、町の中央部に清らかな酒谷川が流れ、深い山々に囲まれた景観と静かな佇(たたず)まいを漂わせている。 復元された飫肥城大手門、本丸御殿をはじめ、藩校や武家屋敷通、町並みと合わせて「九州の小京都」とも言われている。 また、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。
藩主・伊東氏は周辺山々の植林に力を入れ、飫肥杉という銘木を造り上げた。その後、合わせて製紙業も盛んになり藩は大いに潤ったという。 飫肥杉は南九州の豊富な降水で育った山間部の杉であり、山間部の厳しい気候で育った飫肥杉は腐りにくく、強靭な杉として造船材などに多く使用されている。
 
次回は、飫肥藩・伊東氏

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写真:都井岬

日本原産の野生馬・御崎馬とは・・、

都井岬は野生馬の生息地として有名である。 
「御崎馬」(みさきうま)と呼ばれる野生馬が約100頭が、ハーレムというグループをつくって生活している。 約300年も前に放牧したものが野生化し繁殖したもので、体高は130cm程度で首が短く毛並みが荒い、純度の高い日本馬で、寿命は永く40才位まで生きるという。 野生馬なので蹄鉄を打つ必要がなく繁殖は自然まかせだが、牧草の管理等は人の手が入り、岬の入り口には柵や門が設けて管理されている。

御崎馬(岬馬)は、信州の木曽馬、陸奥の南部駒や北海道の道産馬などとともに日本古来の在来馬と言われ、日本種ではあるが、約2000年も前の縄文時代後期から弥生時代中期にかけて古代・中国(蒙古系)大陸から導入された馬がその起源とされている。 その後、日本では馬の生産が盛んに行われ、各地に多数の官営の牧場が作られていて、特に平安後期から鎌倉時代以降の武士の時代には軍馬として重要な役割を果たした。
又、牛とともに農業や輸送に不可欠の家畜であったために幕府直営や藩営あるいは民営の牧場が盛んに作られた。九州南部では日向の駒を集めて都井村の御崎の牧(御崎牧場)で生産され、これらの馬を御崎馬(岬馬)と呼んだ。 御崎馬は主に高鍋藩・秋月家の乗用馬として管理され、現在もその面影を残していると言われる。 実際に御崎馬を使役した古老によれば、農耕にも使用したが本来は乗馬用であり、瞬発力も持久力もあったという。 御崎馬は、牧場開設当初から殆ど人手を加えない粗放な管理しか行われず、廃藩後の明治期には御崎組合の共有牧場となり、その粗放な飼い方は、そのまま続けられてきたという。 そのため御崎馬の風貌や習性あるいは体型や資質は野生状態そのものを思わせるという。 これが「都井の野生馬」と言われ、「自然における日本に特有の家畜」として国の天然記念物に指定されている。

ところで、日本の名馬といわれる陸奥の「南部駒」や「甲斐の黒駒」の血統は、共に蒙古、中国、露国の血統が入った品種改良馬といい、起源は御崎馬と同じであるという。
源頼朝が藤原氏の陸奥の国を平定した後、「南部駒」の特産地であったことに目を付け、貢馬(くめ)といって馬を年貢として納めるようにしたという。 
この時期、頼朝は馬産地で知られる陸奥の国へ、甲斐源氏(現在の山梨県)出身の南部光行(なんぶ みつゆき)を転封している。 甲斐の国は「甲斐の黒駒」で知られる名馬の産地で、光行は馬の育成には詳しく、赴任先の陸奥の国では国造りの傍ら、牧場経営にも当たらせ、大いにその手腕を発揮したという。 当時、馬は軍用として極めて貴重であり、この馬の管理,貢馬のための行政組織が「戸」の起こりといわれる。 「戸」とは広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。 その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そしてここ八戸市がある。
尚、甲斐は、飛鳥以前の古墳時代といわれる頃から牧(牧場)が作られ、馬の生産地とされてきた。この馬を「甲斐の黒駒」として古事記や日本書紀にも登場し、聖徳太子に献上されたともいわれている。 これにより馬に乗る聖徳太子の伝説は全国に広がったという。
平安時代、武士の道を選んだ清和源氏はこの甲斐の馬を手に入れたことでその勢力を強め、騎馬の将・源頼信の話が「今昔物語」で精彩を放っているという。 戦国初期、一世の雄・武田信玄もまた清和源氏の流れを汲む甲斐源氏の一人であり、甲斐の騎馬軍団が関東地区を席巻したことは余りにも有名である。

話はチョット反れたが、日本在来馬には乗系(軽種・騎馬用:乗馬に適したもの)と駄系(重種・農耕用・肉用:荷物を載せ運ぶのに適したもの)の二つのタイプ(型)があるという。 乗系は体形的には足や首が長く、運動が滑らかであり、瞬発力、持久力があり、駄系は大型で、ずんぐり形で肉が付きやすく、奮発力、持久力に優れ、肉食用としても重宝される。
広大な芝生が広がる都井岬の丘陵地帯には、野生馬の「御崎馬」が生息しているが、江戸期・元禄年間、高鍋藩・秋月家が軍用馬や農耕馬を岬に放牧したのが始まりと言われ、昭和30年代までは地域農業の担い手として活躍していた。 だが、農業の機械化が進んだ今日、観光用として現在まで繁殖し続け、今では約100頭が棲息しているという。
馬の社会は一夫多妻制で、一頭のオスを中心に4〜5頭のハーレムをつくる。 ただこれは優秀なオスだけの話で、子孫を残せない悲しくも寂しいオスの群れもあるという。 手付かずの自然ゆえ苦難の歴史もあり、最大で160頭もいたものが戦後の一時期、草原の減少や病気などで50頭位にまで減少したこともあったという。 その後、昭和28年(1953年)に国の天然記念物に指定されたことから、寄生虫の除去などの保護活動が本格化したことで何とか持ち直したという。
野生馬の中には、水道の蛇口を首でひねって水を飲む賢い馬もいるという・・!?、飲み終わった後、閉めることはどうかな・・?。

都井岬の最南端標高250mの断崖には、白亜の都井岬灯台が建つ。 距離・44キロメートル先までの海上を53万カンデラ(カンデラ:「光源そのもの」の明るさ、ルクス:「照らされているある面」の明るさ)の光で照らすといい、都井岬沖を行き交う船の安全を昭和4年から守り続けている。 灯台の最上階は展望室になっていて、天気のいい、空気の澄んだ秋の晴れた日には大隈半島から遠く種子島、屋久島まで見渡すことが出来るという。この灯台は九州で唯一、内部が見学できる観覧灯台でもあるとのこと。
他にも、都井岬には馬の生態や岬の自然を紹介する都井岬ビジターセンター「うまの館」がある。(入館料大人500円) 又、都井岬の先端部の断崖に御崎神社があり、この御崎神社の創建は和銅元年(708)と伝えられている古社で、周辺にはソテツの自生地などもあり公園化されている。 宮崎に来たのなら日南海岸の序に、こちら「都井岬」も是非見て欲しいお薦めのポイントであるとか・・!!。

次回は、日南・「油津」

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