『日本周遊紀行』

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宮崎県

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日本周遊紀行(156)日南 「飫肥藩・伊東氏」   、



「曾我兄弟の仇討ち」で、打たれたはずの伊東氏が・・? 、


伊東氏は江戸時代、飫肥藩の領主として現在の宮崎県日南市を中心として栄えた一族である。元々は、鎌倉・頼朝時代に当地へ移封された豪族で、関東の伊豆地方(本拠は静岡県伊東市)の伊東氏をルーツとしている。 
そして伊東氏と言えば、「曾我兄弟の仇討ち」で有名であり、その当事者でもあった。


早速ながら、その「曾我兄弟のあだ討ち」について一寸・・、
結論を先に述べると、日向の伊東氏は「」を討たれた方の家系である。 
鎌倉当時、伊東氏と工藤氏は同系の一族であるが、氏名も変更している。

平安末期、頼朝が伊豆へ流されたとき、平家方として幽閉された頼朝を見張っていたのが伊東次郎祐親である。 
同族、祐親の甥子・工藤(藤原)祐経は、領地争いのことで祐親には常ずね恨みを抱いていた。 

或る時、祐親を狙った刺客の一矢が、祐親ではなく一緒にいた祐親の嫡男・伊東(河津)三郎祐泰に当たってしまい、祐泰は憤死する。 
その結果、祐泰の子である一萬丸と箱王が遺児として残されてしまった。
二人は、成人した後の伊東(曽我)十郎、伊東(曽我)五郎の兄弟である。
後の曽我の姓は、頼朝から相模国足柄郡曽我庄を賜ったことから命名された。


1193年5月、源頼朝は富士の裾野で盛大な巻狩り(狩猟が主であるが戦闘訓練の意味もある)を開くが、この巻狩りに、曽我兄弟と兄弟の仇敵・工藤祐経も参加していた。 
この時、兄弟は積年の父の恨みを晴らさんと祐経の寝所に押し入り、酒に酔って遊女と寝ていた祐経を見事討ち果たした。 

兄弟のその後の様子は後にして・・、
頼朝の信任厚かった工藤祐経は討たれてしまったが、過去に奥州征伐(1189年源頼朝が奥州藤原氏の本拠平泉を突いてこれを討ち滅ぼした戦役)において功があったとして、九州・日向国の地頭職をその子である祐時に与え、収めることになる。(同時に祐時の弟・工藤祐長は奥州安積郡の領主となる)

この時、日向に領地を得た工藤家は、元の家名である伊東家を名乗り、以降、南北朝から戦国期頃には日向から現在の熊本県八代市、球磨地方あたりまで勢力図を広げ、戦国大名としての地位を築いた。 

戦国末期、島津氏の台頭によって、やがて大名の地位すら奪われ凋落するが、 関ケ原合戦後は現在の日南市の飫肥地方にて復活し、明治維新まで飫肥藩領主として続くことになる。 


因みに、曽我十郎・五郎兄弟は仇討ちを果たした後、騒ぎを聞きつけて集まってきた御家人に取囲まれ、兄弟はここで10人斬りの働きをするが、十郎祐成は新田四郎忠常(頼朝家臣)に討たれ、五郎は捕らえられて頼朝の面前で仇討ちに至った経緯心底を述べる。 
頼朝は一時、助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡したとされる。



飫肥」と書いて「おび」とは読み難いし。 
謂(いわ)れは不明だが「飫」の意味は腹いっぱいに飲み食いすることで、「肥」は字の如くで土地が肥えて、食物が豊富をいう。
即ち、土地柄が良く、作物や天然資源が豊富で人々が安心して暮らせる地域という意味であろう。


当時、飫肥村その後、町域になったが、1950年1月に南那珂郡、吾田町、油津町および東郷村の4町村が合併して「日南市」が誕生する。 
市名の由来は、当地が「日向(宮崎県の旧国名)の南、日本の南」であることから名づけられたものとされる。 
風致優美とされるこの町・飫肥は、NHK朝の連続ドラマ「わかば」の舞台にもなった。

次回は、「鵜戸神宮



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 日本周遊紀行(156)日南 「油津と堀川運河」  ,



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写真:堀川運河と堀川橋(向こうに吾平津神社の鳥居)


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吾平津神社(乙姫大明神)



「油津」は神代の浦であり、自然が織りなす天然の良港であったが・・、



南郷の目井津港の正面に瓢箪の様な形の島が見えている。 「大島」といい人口僅か10数人と言われる優雅な島である。
島は奇岩なども多く亜熱帯性の植物が繁り、季節には、あちこちでハイビスカスの花が咲き、なかなかの景勝地である。
ダイビングやキャンプに訪れる人も年々増えて、釣り客や島を散策に来る人のための民宿もあるとか。 


気が付けば、既にここは日向の国・宮崎県である。 
日向灘の紺碧の大海を望みながら、日南フェニックスロードと呼ばれる国道を北上する。

日南市に入って先ず「油津」という所へ来た。 
対岸に細長く突出した大節の岬に囲まれた天然の良港で、今はヒッソリとした港町のようである。 
油津は古くは「吾平津」(あいらつ)と呼んでいて後に「アイラ、油」と、訛ったという説が一般的である。 

神武天皇のお妃、「吾平津妃」がお立ちになったとされる故事に由来し、堀川端に鎮座する「吾平津神社」の縁起にもなっている。
その御陵が「吾平山陵」であるこのことは先に記した。


日南市の油津港から砂州の広がる広渡川の河口から凡そ1.5kmで結ぶ「堀川運河」が、江戸初期に拓かれている。 
運河は、地元特産の飫肥杉(おびすぎ)を運搬する目的で、飫肥藩が水路として開設したものである。 

この運河は日向・飫肥藩主・伊東祐実(五代藩主)によって開削されたもので、主に広渡川を流して運ばれた木材を油津港へ送り込むことを目的としたものだった。 
運河が開削されるまでは、北郷あたりの山地から産出した木材は広渡川を下って一旦、海へと出ることになる。

その後に梅ヶ浜の沖から尾伏のハナ(現在の大節鼻)を廻って油津の港へと曳かなくてはならなかった。
かなりの遠回りで、時には潮流や強風などによって損失する木材も少なくはなく、また危険も大きくて効率の悪いものだった。 

1683年(天和3年)の12月に始まった堀川開削の工事は、1686年(貞享3年)の春まで、およそ2年4ヶ月の期間を要したという。 
運河の開削は当時の技術では決して楽なものではなく、特に吾平津神社下あたりの岩盤の掘削はかなりの難工事であったという。
言い伝えによれば当時、生贄(いけにえ)として「人柱」が立てられたという噂もある。

その後の油津は、最盛期には周辺一帯、一面に材木の山が積まれていたという。
その河口よりやや遡った所に堀川橋がある。 

明治36年(1903)、飫肥の名石工・石井文吉によって完成させたという由緒ある石橋で、油津を横断する堀川に堂々たる姿を、現在でも残している。 
俗称、優雅に「乙姫橋」とも呼ばれ、この界隈を今でも乙姫町としている。 

映画「男はつらいよ」-寅次郎の青春編-(シリーズ作)に登場した町のシンボルでもある。

油津にかつて訪れた野口雨情

『 水と筏を 堀川橋の 石の手すりは 見て暮らす 』
と詠んでいる。 


そして1921年、野口雨情は本居長世の作曲で童謡「乙姫さん」を残している。 
その橋の袂に吾平津神社があるが、この神社は「乙姫大明神」ともいい、近隣の人々は今も親しみを込めて「乙姫さん」と呼んでいるという。


乙姫さん』 詞 野口雨情  曲 本居長世

龍宮の龍宮の 乙姫さんは
トントンカラリン トンカラリン
トンカラリン トンカラリン と
はたを織りました

浦島太郎も トントンカラリン
黄金のたすきでトンカラリン
トンカラリン トンカラリン と
はたを織りました



「吾平津神社」は海の民・油津の人たちの氏神でもあるが、古代神話に彩られる鵜戸の岩屋(現、鵜戸神宮)同様、油津も神代の浦であり、古代から自然が織りなす天然の良港であったという。 

江戸期には油津港を基地として、飫肥杉使用する造船場が多い播磨地方に千石船 (俗称・弁財船、)で運ばれ、木材積出し港として最盛期を迎える。 堀川運河と広渡川の連結部には当時の「石堰堤」が今も残る。

この石堤の上流は妻手川、酒谷川、広渡川、益安川などの四つの河川が合流し大きな砂州、河川敷を形造っている。 
この酒谷川の上流域で凡そ5kmのところが飫肥地区である。

飫肥(おび)は、戦国期(1588年)から明治初期までの280年間飫肥藩・伊東氏の5万1千石の城下町として栄えたところで、町の中央部に清らかな酒谷川が流れ、深い山々に囲まれた景観と静かな佇(たたず)まいを漂わせている。 

復元された飫肥城大手門、本丸御殿をはじめ、藩校や武家屋敷通、町並みと合わせて「九州の小京都」とも言われている。 
また、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。


藩主・伊東氏は周辺山々の植林に力を入れ、飫肥杉という銘木を造り上げた。
その後、合わせて製紙業も盛んになり藩は大いに潤ったという。 

飫肥杉は南九州の豊富な降水で育った山間部の杉であり、山間部の厳しい気候で育った飫肥杉は腐りにくく、強靭な杉として造船材などに多く使用されている。
 

次回は、「飫肥藩・伊東氏


『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真関係)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/

祝い・・!!  平泉地方が世界文化遺産に決定。(2011年6月) 
「東北紀行2010(内陸部)」
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 日本周遊紀行(155)都井 「都井岬の野生馬」  ,



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写真:都井岬と野生の国産馬




日本原産の野生馬・御崎馬とは・・

都井岬は野生馬の生息地として有名である。 
御崎馬」(みさきうま)と呼ばれる野生馬が約100頭が、ハーレムというグループをつくって生活している。 
約300年も前に放牧したものが野生化し繁殖したもので、体高は130cm程度で首が短く毛並みが荒い純度の高い日本馬で、寿命は永く40才位まで生きるという。 

野生馬なので蹄鉄を打つ必要がなく繁殖は自然まかせだが、牧草の管理等は人の手が入り、岬の入り口には柵や門が設けて管理されている。

御崎馬(岬馬)は、信州の木曽馬、陸奥の南部駒や北海道の道産馬などとともに日本古来の在来馬と言われ、日本種ではあるが約2000年も前の縄文時代後期から弥生時代中期にかけて古代・中国(蒙古系)大陸から導入された馬がその起源とされている。 

その後、日本では馬の生産が盛んに行われ、各地に多数の官営の牧場が作られていて、特に平安後期から鎌倉時代以降の武士の時代には軍馬として重要な役割を果たした。

又、牛とともに農業や輸送に不可欠の家畜であったために幕府直営や藩営あるいは民営の牧場が盛んに作られた。
九州南部では日向の駒を集めて都井村の御崎の牧(御崎牧場)で生産され、これらの馬を御崎馬(岬馬)と呼ばれた。 

御崎馬は主に高鍋藩・秋月家の乗用馬として管理され、現在もその面影を残していると言われる。 
農耕にも使用したが本来は乗馬用であり、瞬発力も持久力もあったという。 

御崎馬は、牧場開設当初から殆ど人手を加えない粗放な管理しか行われず、廃藩後の明治期には御崎組合の共有牧場となったが、その粗放な飼い方は、そのまま続けられてきたという。
そのため御崎馬の風貌や習性あるいは体型や資質は野生状態そのままで、これが「都井の野生馬」と言われ、自然な日本に特有の家畜として国の天然記念物に指定されている。


ところで、日本の名馬といわれる陸奥の「南部駒」や「甲斐の黒駒」の血統種はよく知られる。

源頼朝が藤原氏の陸奥の国を平定した後、「南部駒」の特産地であったことに目を付け、貢馬(くめ)といって馬を年貢として納めるようにしたという。 
この時期、頼朝は馬産地で知られる陸奥の国へ、甲斐源氏(現在の山梨県)出身の南部光行(なんぶ みつゆき)を転封している。 

甲斐の国は「甲斐の黒駒」で知られる名馬の産地で、光行は馬の育成には詳しく、赴任先の陸奥の国では国造りの傍ら、牧場経営にも当たらせ、大いにその手腕を発揮したという。 


戦国の世、馬は軍用として極めて貴重であり、この馬の管理,貢馬のための行政組織が「」の起こりといわれる。 
」とは広大な地域を官営牧場とし、九つの区画として運営していた。 
その名残りとして現在、岩手県は一戸町、二戸市,九戸村、青森県は三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、そして八戸市がある。

尚、甲斐の国は、飛鳥以前の古墳時代といわれる頃から牧(牧場)が作られ、馬の生産地とされてきたとされる。
この馬は「甲斐の黒駒」として古事記や日本書紀にも登場し、聖徳太子に献上されたともいわれている。 
これにより馬に乗る聖徳太子の伝説が全国に広がったという。


平安時代、武士の道を選んだ清和源氏はこの甲斐の馬を手に入れたことでその勢力を強め、騎馬の将・源頼信の話が「今昔物語」でも精彩を放っている。 
戦国初期、一世の雄・武田信玄もまた清和源氏の流れを汲む甲斐源氏の一人であり、甲斐の騎馬軍団が関東地区を席巻したことは余りにも有名である。


話はチョット反れたが、日本在来馬には乗系(軽種・騎馬用:乗馬に適したもの)と駄系(重種・農耕用・肉用:荷物を載せ運ぶのに適したもの)の二つのタイプ(型)に分けられるという。 

乗系は体形的には足や首が長く、運動が滑らかであり、瞬発力、持久力があり、駄系は大型で、ずんぐり形で肉が付きやすく奮発力、持久力に優れ、肉食用としても重宝される。



広大な芝生が広がる都井岬の丘陵地帯には、野生馬の「御崎馬」が生息しているが、江戸期・元禄年間、高鍋藩・秋月家が軍用馬や農耕馬を岬に放牧したのが始まりと言われ、昭和30年代までは地域農業の担い手として活躍していた。 
だが、農業の機械化が進んだ今日、観光用として現在まで繁殖し続け、今では約100頭が棲息しているという。


馬の社会は一夫多妻制で、一頭のオスを中心に4〜5頭のハーレムをつくる。 
ただこれは優秀なオスだけの話で、子孫を残せない悲しくも寂しいオスの群れもあるという。 
手付かずの自然ゆえ苦難の歴史もあり、最大で160頭もいたものが戦後の一時期、草原の減少や病気などで50頭位にまで減少したこともあったという。 
その後、昭和28年(1953年)に国の天然記念物に指定されたことから、寄生虫の除去などの保護活動が本格化したことで何とか持ち直したという。

野生馬の中には、水道の蛇口を首でひねって水を飲む賢い馬もいるという・・!?。 飲み終わった後、閉めることはどうかな・・?。


都井岬の最南端標高250mの断崖には、白亜の都井岬灯台が建つ。 
灯台の最上階は展望室になっていて、天気のいい、空気の澄んだ秋の晴れた日には大隈半島から遠く種子島、屋久島まで見渡すことが出来るという。
この灯台は九州で唯一、内部が見学できる観覧灯台でもあるとのこと。

他にも、都井岬には馬の生態や岬の自然を紹介する都井岬ビジターセンター「うまの館」がある。(入館料大人500円) 

又、都井岬の先端部の断崖に御崎神社があり、この御崎神社の創建は和銅元年(708)と伝えられている古社で、周辺にはソテツの自生地などもあり公園化されている。 
宮崎に来たのなら日南海岸の序に、「都井岬」も是非見て欲しいお薦めのポイントであろう・・!!。


次回は、日南・「油津

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次に、米良地方(めらちほう)について・・、

先ず、伝説を一つ・・、
日向・高千穂に降臨したニニギノミコトが巡遊しているとき、好漢と見たオオヤマミズミコトは二人の娘のイワナガヒメ(姉)とコノハナノサクヤビメ(妹)の両方を嫁にしようとした。だが、ニニギは、花のような美人である妹のコノハナノサクヤだけを選び、妻とした。 失意のイワナガヒメは一ツ瀬川を遡り、この地に田を開き、実り豊かな稲作を作られたという。 ヒメの作った米が非常に「良い米」であったので、この地方に「米良」という名が起こったという。 そして後々、良い米から米焼酎が作られ、好まれるようになったという。

日向、肥後国境付近の山間には椎葉(椎葉山・椎葉荘)と米良(米良山・米良荘)呼ばれる地域があり、山深い地域のため、有力大名の支配も及びにくく、半独立的な地域であった。
米良地方は椎葉同様、平家落人の隠遁僻地として知られる。 なかでも「村所」を中心とする米良部落は、南北朝時代の末期、肥後の菊池一族が足利方の九州探題・今川氏に敗れ、この米良の山奥に隠れ住んだといわれる。 入山した菊池氏は、それ以来、米良姓を名乗り、文武に優れ、礼節を重んじ、村では合議制による民主的な施政を敷き、幕末までの約400年にわたり統治したという。 そして、明治期の版籍奉還に際し、最後の領主となった米良(菊池)則忠公は、領地の全てを領民に分かち与え、人々の生活を担保したとされ、その遺徳は今もなお、米良の歴史とともに語り継がれているという。 九州では、現在でも米良姓を名乗る人は、その菊池一族ゆかりの末商だとも称している。
この米良地方は、近年になって明治22年(1881)に西米良村と東米良村に分割され、更に、昭和期の1962年に一ツ瀬川の銀嶺地区辺りを境に、東側の東米良村は西都市・木城町に編入されている。
西米良村は、九州山地にへばりついている村で、一ツ瀬川の最上流部が村を貫通している。
江戸期まで米良地方は肥後・人吉藩の領地であったらしいが、明治初期の廃藩置県により日向・宮崎県に割譲された。従って、地風は肥後・菊池氏の影響もあって、人吉・球磨地方の色合いが濃く、宮崎県になって130年たった今でも、米良地方と肥後・球磨地方の人々は、年賀を欠かかさず、お互い交流しあっているという。

ところで、焼酎処とも言われる西米良村の中心地、「村所」の酒屋の店先には、「白岳」、「極楽」といった球磨焼酎の銘柄が正面に並び、日向の「霧島」などは隅っこに追いやられているという。酒屋さん曰く、「西米良では今は焼酎はつくっとらんが、球磨焼酎がやっぱり地元になりますね、白岳がよう出ます」といった具合で、西米良村民達は、独特な球磨焼酎を求めているという。
人吉地方は、球磨焼酎作りのメッカといわれる・・、垣根の向こうから「ちょっとお茶でもせんかね」(ちょっとお茶でも飲んでいきませんか)と、声がかかる。「それでは えんりょなく」と、垣根の内に入れば 爺さんが球磨焼酎の一升びんと湯のみを持ってくる。肴は自家製の漬物。これを指でつまみながら、焼酎をちびりちびりとやるうちに心と心がつながってきて・・、 
一方、日向地方は、薩摩が焼酎作り日本一なら、宮崎は焼酎消費の日本一だそうである。米良地方は日向・宮崎に属しているが、歴史の流れからも窺えるように、人脈、物資の流通は昔から肥後・人吉、八代との繋がりが強いといわれる。今でも流通路である国道など、熊本県方面は概ね整備が進められているが、宮崎・西都市方面は交通が困難な難所区間がある。

肥後・球磨地方の湯前町から西米良へ通ずる横谷峠越えは、通称・横谷越え(現、国道219号線)と言われる難所中の難所で、昔は、凡そ20k行程の山道を荷駄で行き来した旅人や焼酎のびんを積み上げた馬方さんが往来し、その旺盛な脚力には敬服していたとされ、 又、近年に至っても、道路の状況はあまり変わらず、ここを走っていた定期運行の国鉄バスのドライバーのテクニックには感心したといわれている。 現在は、横谷峠直下に長大なトンネルをぶち抜いて、相当に交通が楽になっている。
村は、村所地区を中心にして菊池氏・所縁(ゆかり)の城址、御所跡、神社仏閣、記念館など歴史、文化、自然や風土など地域固有の観光資源がある。 又、最近では特に、生涯現役元気村と名打って、「カリコボーズの休暇村・米良の庄」等、テーマ性を持たせた地域づくりを推進しているという。 「カリコボーズ」とは、山を守るもの、森の精霊、神的存在の言霊ともいうべきもので、村おこしのイメージ・キャラクターとしているらしい。
米良で善政を施した菊池氏の本拠は、現在のその名も熊本県菊池市で、古来から市名に名を残す由緒ある一族であり、平安期までは九州の政治・文化の中心地として栄えた。このような関係から現在、西米良村と菊池市は「友好姉妹都市」を結んでいる。
米良地区は、これまで、2004(平成16)年度に地域づくり総務大臣表彰、2000(平成12)年度に過疎地域自立活性化優良事例国土庁長官賞、優秀観光地づくり賞を受賞している。 更に、2004(平成16)年度は黒木村長が観光カリスマ百選にも選ばれ、2005(平成17)年度は、オーライ!ニッポン大賞を受賞していて、正に、地域振興の牽引的役割と見本を示している。 

次回は、「佐伯」


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椎葉の南に位置する南郷村は、百済王の伝説の地であった・・、

飛鳥期の660年代、「白村江の戦い」(はくすきのえ:朝鮮南西部を流れる錦江と呼ばれる河口付近で、日本と唐:中国との海戦が行われた。今から1300年以上も昔のことである)において、朝鮮半島の百済の国の要請により応援にかけつけた大和(日本)の水軍であったが、錦江下流、白村江の河口に乗りこんだとき、そこには唐と新羅の連合水軍170艘が、時こそ来れりと待ち構えていて挟み撃ちにされ、無念の惨敗を喫してしまう。
朝鮮の史記の記述によれば、「大和軍の船は火災につつまれて次々と沈没、海に呑まれる兵士は数知れず、炎は天を焦がし、海の水は朱に染まったという惨状であった」とされている。 敗戦の悲報は、翌月には早くも筑紫の「那の津」(現在の博多)の本営にもたらされ、やがて敗残兵や戦に敗れて亡命する百済人たちが那の津の浜に次々と渡来してきた。 この時、連合軍に滅ぼされた百済の王族達は大和・畿内地方に亡命してきたが、その後、国内の内戦、動乱に巻き込まれ、その王族たちは日本を転々としながら最終的に落ち着いたのが、「南郷村」であったという。
南郷村の中心に位置し、守護神でもある「神門(みかど)神社」には、百済王の御神体が祀られ、隣にある「西の正倉院」といわれる倉庫には、百済製とされる銅鏡や馬鈴・馬鐸(鈴などの馬に付ける装飾具)などの遺品が多数収蔵されているという。
古色蒼然たる神門神社の創建は西暦718年という古社で、主祭神に大山祀命(オオヤマズミノミコト)と百済国・禎嘉帝を奉ってある。

普通、日本各地の神社には、偉人や神格化された人物以外の例外を除いて、概ね、神話に出てくる国造りの神を主祭神としていて、大山祀神もその一神である。 ここ神門神社は、それ以外に韓国の百済滅亡の時逃れてきた禎嘉帝(伯智王ともいうらしい・・)をも奉ってある珍しい神社である。 神社はこの地に伝わる百済王伝説と密接なかかわりを持ち、しかも併せて、千年以上の長い間、百済王の秘宝とされる宝物が神社に保存され、地域の人々によって守り継がれてきたという。
南郷村に落ち着いたとされる百済の王族は、禎嘉王とその子の福智王で、本国より追尾の手が迫ったが土地の豪族の援助もあり、これを撃退したと伝えられている。 王はこの地で崇敬され、死後、神として祀られたといい、福智王は現在の木城町に住んだとされ、町の比木神社に奉られている。 
神門神社の近くには、「百済王禎嘉帝古墳」と書かれた標柱が立てられ、王の遺品として伝わる鏡24面が社宝として残っているという。 又、本殿内には、千点以上の鉄鉾や鉄製の武器類が保管されており、当時の戦闘の様子や関わりが考えられるという。さらに、須恵器(古墳時代後期から奈良・平安時代に行われた、大陸系技術による素焼の土器)の大甕(おおがめ・底の深い壺形の陶器)や古墳時代の直刀や銅鈴、馬鐸(ばたく)などが保存されている。 これらの宝物、遺蹟品は「西の正倉院」といわれる特別仕立ての倉に納められている。
因みに、「正倉院」とは、奈良の東大寺・大仏殿の北西に位置する、高床の大規模な校倉造り(あぜくらづくり)といわれる特殊な木造建築で造られた倉庫で、聖武天皇や光明皇后(東大寺や各地の国分寺を建立)に縁(ゆかり)の品をはじめとする、天平時代(奈良時代のこと)を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設である。 奈良・正倉院は、東大寺伽藍の一部として、「古都奈良の文化財」のユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
「正倉」とは、中央や地方の官庁や寺が、宝物を収めるために設けた倉庫のことである。   

南郷村の神門神社に保存されていた数々の遺品のうち、特に貴重とされる宝物も有ったという。それは奈良・正倉院にあるものと同じ伝世品(美術品などの、古くから大切にされて世に伝わってきたもの)の鏡銅といわれる宝物があり、しかも、奈良正倉院のものが、遺跡から発掘された出土品であるのに対して、こちらの神門神社の鏡は大切に保管、保存されていたものであった。 これによって更なる調査が始まり、数々の遺品を鄭重に保存すべく、東大寺・正倉院を忠実に再現した南郷・正倉院を建造することなったという。
村人は、「本物をつくる」ことにこだわり抜き、門外不出の正倉院の設計図を学術目的で入手、木曽の国有林からヒノキを調達、建築方法から瓦、金具にいたるまで学術支援のもと、古代建築の修復などに携わった名工達を呼んで当たらせたという。 この間、柱を運ぶ御木曳式(おきびきしき)、礎石の上に柱を立てる立柱祭、上棟式など大切な行事には村人が総出で参加し、「西の正倉院」は計画から10ヶ年の歳月をかけて平成8年に完成したという。 
現在、神門神社の東側には、西の正倉院といわれる奈良・東大寺の正倉院と寸分違わぬ造りで、巨大な姿を見せ、その高さは4階建てのビルに匹敵するほど大きいという。 館内には銅鏡をはじめ、神門神社に集積された宝物、又、百済王伝説の祭りとされる「師走まつり」に関連する物など、百済伝説を紹介する品々などが展示されている。 
それにしても、よくぞ人口2500人足らずの貧村が、歴史に残る豪奢な建物を造ったもんであると感服する。 現在でも、離れ離れになった百済王の子孫達が、祖先である百済の人々の御霊をお祀つりするため、年に一度再会するという「師走祭り」が、1300年以上もの間村民によって受け継がれている。 
南郷村の「百済小路」といわれる村を見下ろす小高い丘には、「南郷温泉・山霧」をはじめ西の正倉院、百済の里、恋人の丘、コテージ山霧・霧の宿等数多くの観光施設が点在している。

次回は、「米良」


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