『日本周遊紀行』

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宮崎県

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次に、日向・宮崎の山村で、椎葉、米良、南郷地方について・・、

「椎葉」は、九州山地の中央部の山襞深く、県境、五家荘や五木に接する日向の最奥部に位置し、共に平家の落人伝説を秘めた地である。 昔から人跡まれな秘境として知られ、俗に「推葉千軒」という一郡にも匹敵する広い面積の士地に、わずかな人家が散在していたのである。 昭和30年に、我国初のアーチ式ダムである上椎葉ダムができるまでは、車も行けない秘境であった。今は自動車で行けるが、けっして道は広くなく山また山を超えて細い道を行くことになる。 もともと日向・椎葉は、中央から離れ、陸の孤島とされた内陸の流刑地として、有名無名の罪人がこの地に遠流された地でもあった。

1185年、源平の壇ノ浦の戦いに敗れた平家の残党は、全国各地へと落ち延びるが、ある一行は険しい山を越え、熊本の阿蘇路を経て九州山脈の最も奥深い椎葉へと辿り着き、かくれ住んだという。 だが、この山地も鎌倉幕府の知るところとなり、追手が迫ることになる。 源氏の棟梁・源頼朝より追討の命を受けたのは「扇の的射」で有名な那須与一宗高であった。ところが、与一自身は病の床に伏していたので、弟の那須大八郎宗久が軍勢を率いてこの椎葉を目指すことになる。 険しい道を越え、やっとのことで隠れ住んでいた落人を発見するが、そこで大八郎が目にしたものは、かつての栄華もよそに、ひっそりと農耕をしながら平和に暮す農民達であった。 大八郎は哀れに思い「椎葉の平家の残党は一人残らず討ち果たした・・、」と幕府に嘘の報告する。
その後、大八郎はこの地に屋敷を構え、この場所で生活することを決め、やがて、平清盛の末裔とされる「鶴富姫」と出会い、二人の間にロマンスが芽生える。 そして姫の屋敷の山椒の木に鈴をかけ、その音の合図に逢瀬を重ねる。 そんな中、幕府から、「すぐに兵をまとめて帰れ」との命が届き、仇敵平家の姫を連れて帰るわけにもいかず、大八郎は一人で帰ることにした。この時既に、鶴富姫は身ごもっており、大八郎は、「生まれた子が男子ならば我が故郷下野の国へつかわせ、女ならこの地で育てよ」と言い残し椎葉を発つ。
この大八郎と鶴富の運命的な逢瀬の時、生まれたのが全国的にも有名な「ひえつき節」だという。

『ひえつき節』 宮崎民謡
庭の山椒(さんしゅう)の木 鳴る鈴かけて 
ヨーオー ホイ(以下、おなじ)
鈴の鳴る時ゃ 出ておじゃれヨー

鈴の鳴る時ゃ 何と言うて出ましょ 
駒に水くりょと 言うて出ましょヨー

おまや平家の 公達(きんだち)流れ 
おまや追討の 那須の末ヨー

那須の大八 鶴富捨てて(おいて) 
椎葉たつ時ゃ 目に涙ヨー

恋の別れの 那須大八が 
鶴富捨てて 目に涙ヨー

泣いて待つより 野に出て見やれ
野には野菊の 花盛りヨ

以上、那須の大八と鶴富姫の下りだが、歌詞は、まだまだ続くという・・。
椎葉村は、標高千メートル近い山の斜面を切り開いて、雑木や雑草を焼き、残った灰を肥料としてソバやヒエが作られてきた。 有名な「ひえつき節」は、このような生活の中から生まれた椎葉を代表する民謡で、焼畑によって収穫されたヒエを木臼に入れて杵でつくときに歌われる労作業歌でもある。
平家の鶴富姫と源氏の武将・那須大八郎の平家落人にまつわる伝説は、今も残っており、鶴富姫が住んでいたといわれる豪壮な屋敷も存在する。 平安期の寝殿造りで、建築様式から約300年前の建立と云われ、昭和31年国の重要文化財となっている。
毎年11月の初旬の3日間「椎葉平家まつり」が行われ、祭りのハイライトは大和絵巻武者行列で十二単の平家方の鶴富姫と源氏方の那須大八郎が、よろい姿の騎兵と一緒に町中を練り歩くという。
 
次回は、「南郷、米良」


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写真:北川・表野の児玉熊四郎邸(西郷隆盛宿陣跡資料館)の西郷の最後の軍議の様子



可愛岳周辺は、「西南の役」における西郷軍の最後の激戦地であり、退却地でもあった・・、

現在、北川の「表野」辺りは実に長閑で雛びたところであり、時が止まっているような地である。 だが、明治初期の一時期、この辺りは一大騒乱の地であった。
可愛山稜の伝説の地から東側に沿っての表野集落の一角に旧邸らしい「岡田邸」があるが、元は児玉邸という邸宅であったらしい。 現在、この地は可愛岳への登山口になっており、、登山愛好者が集うところでもある。 併せて、ここには「桐野利秋宿営の地」と白の看板が立ち、更に、横に「可愛嶽突囲戦薩軍登山口」とある。 案内板の主文には『明治18年8月15日、和田越の戦いに敗れた西郷軍は、ここ表野に集結した。17日の夜には官軍の包囲網は完成していて、翌朝は西郷本陣を総攻撃する手筈になっている・・・』 とある。
児玉熊四郎邸は、当時、西郷軍の本陣であり最後の軍儀が開かれた所で、最後の決戦か、降伏か、あるいは鹿児島への脱出か、三者択一を迫られた場所であった。 本営地の頭上は、岩峰鋭い天険の山・「可愛岳」が聳えていて行軍には最大の難所であるが、それでも西郷は栄光の脱出行を決断し、選択したのである。 そして遂に西郷は、薩軍解散の命を出し、陸軍大将の軍服を裏庭で焼いて捨てたと言われている。 現在この場所は「西郷隆盛宿陣跡資料館」となっていて、西郷軍が最後の軍議を開いたときの様子が、人形(ひとがた)を使って再現してある。

「西南戦役」については先に熊本の項・「田原坂」でも記したが、熊本では谷干城司令官(土佐藩士、軍人・坂本竜馬の同輩)率いる政府軍がたてこもる熊本城に総攻撃をかけたものの城を落とすことはできず、頼みの田原坂の防衛ラインも分断され、田原坂も政府軍の手に落ちてしまう。この後、西郷軍の敗走が始まるのである。 
政府軍に追われて右往左往する西郷軍は、矢部(現、上益城郡山都町)から「椎葉越え」をして人吉へ、更に、薩軍は人吉盆地での攻防戦を経て小林−野尻−高岡から宮崎と向かっている。(別働隊は人吉から米良村の横谷峠を越えて村所、一ノ瀬川沿いを宮崎方面へ)実に九州の脊梁山地といわれる急峻なる難所を踏破し、漸く(ようやく)にして現在の宮崎市広島1丁目近くの農家・黒木某宅に本陣を置き、約2ヶ月滞在している。跡地には「西郷隆盛駐在の地」として「敬天愛人」の石碑と案内板が当時の様子を伝えている。
しかし、そこにもそう長く落ちつくことは出来ず、佐土原−美々津と日向各地を転戦し、さらに延岡まで退却することになる。 延岡が官軍の手におちる直前、延岡の山中から五ヶ瀬川を下り、東海港(延岡市東海)を経て北川を遡り、野峰の吉祥寺(国道10、326号の分岐点)に入る。 隊士たちも続々北川・長井村に集結し、西郷軍は最後の決戦となる「和田越戦」の軍議を開き、この席で、西郷は「明日の和田越戦の指揮は、直接自分が執る」と伝えたと言われている。
「和田越の戦い」は、西南の役、最後の激戦地としても有名で、西郷軍三千に対して、政府軍は山県有朋指揮いる五万の大兵力であり、朝から昼過ぎまで灼熱地獄の中での死闘5時間続いた戦闘であった。しかし、善戦はしたものの多勢に無勢、所詮勝ち目はなく西郷軍は敗れて空しく敗走、再び北川の俵野に至る。 和田越は、現在、延岡市無鹿町の北側丘陵に当たり、北川西岸の国道10号線と日豊本線の和田越トンネルが抜けている。
和田越の案内板より・・、

『8月15日晴天、南洲翁は開戦以来初めて戦場・和田越山上に立つ。薩軍3,500は長尾山、小梓山、和田越、無鹿山に布陣し、樫山山上に立った。この戦い南洲翁死処を求めし最後の決戦なり。』
トンネルの入口には「西南の役・和田越戦跡」の標柱と、反対側の出口には野口雨情の・・、

『 逢いはせなんだか あの和田越で 薩摩なまりの 落人に 』 
の歌碑や案内板が建っている。 

西郷隆盛最後の本陣となった俵野の児玉熊四郎宅で最後の合議がなされたのは、時に明治10年8月15日であった。そして、8月16日、最終的に西郷が解軍を決意し令を出した。

『我軍の窮迫、此に至る。今日の策は、唯、一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際、諸隊にして、降らんと欲するるものは降り、死せんと欲する者は死し、士の卒となり、卒の士となる、唯、其の欲する所に任ぜよ』 

これより降伏するもの相次ぎ、精鋭のみ 1,000名程が残ったという、そして、8月17日の夜、可愛岳突破を敢行するのである・・、
先頭に2人の猟夫と数人の樵夫(きこり)を道案内に立て、険しい岩場や鬱蒼とした樹木の間をくぐり、傷だらけになっての山越えであったという。 実際に、この山を越えたのはわずか200名足らずだったそうで、あとはこの地で、官軍に投降したという。 その後、薩軍は、上祝子(かみほうり)、鹿川(ししがわ)、三田井(みたい)、七ツ山(ななつやま)、松平、御門と九州山地を南下するが、道なき道の山岳逃避行は故郷・鹿児島まで半月近く続いた。 そして、9月1日には懐かしの鹿児島に到着し、城山・岩崎谷において最後の籠城するも、同24日、西郷らは自刃し、ここに半年間に亘る西南戦争は終結するのである。

次回は、「九州山地」


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可愛岳は、天孫・ニニギノミコトが降臨した後の御陵墓が安置する山であった・・、

日南海岸の青島より美々津に至る海岸は、約60kmにわたっては直線状をなした美しい砂浜海岸で特徴づけられる。 これは大淀川・一ツ瀬川・小丸川・耳川などの大きな河川によって運び込まれた大量の土砂が、 沿岸流と波浪の作用によって集積され、形成されたものであろう。 砂の堆積によって周辺は沖積平野を形成し、これらの河川の河口には発達した砂州が形成されている。
対して、北部地域の海岸線は、美々津より北の佐賀関あたりまでは、九州山地が海まで迫り、岬や入江や島が多く、沈水海岸(海面の上昇または地盤の沈降にもとづいて形成された海岸、河川にし浸食された陸地の沈水で形成される)で形成されたリアス海岸の様相を呈している。 特に、延岡以北の海岸は屈曲の多いリアス海岸で、急崖が海に臨み、沖合には大小の島々が点在する。
岩手の三陸リアス海岸もそうであったが、こんな地形の箇所はなかなか海岸へは近付くことが困難である。したがって、風雅な日南海岸を北上してきた主要国道10号線も、ここ延岡から北側は内陸の山地へ向かっている。 小生もこれに倣って国道10を行くようになる。

マラソンで有名な宗兄弟の旭化成、その赤白縞模様の巨大煙突を左に見ながら北川を渡り、その川沿いを走る。 左側にそう高くはないが裾野を大きく広げる山容が見える、気が付くとこの山は「愛可山」(あいらさん)という。 標高727メートル、この可愛岳は、ニニギノミコトが降臨した御陵墓伝説が伝えられてる山である。
先に、薩摩・川内の「新田の宮」でも記したが、古事記によると、天孫ニニギノミコトは高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰」に降りてこられたと記され、日本書紀にはニニギノミコトが亡くなられた時「筑紫の日向の可愛の山陵に葬りまつる」と記されている。
可愛岳の西方、県境の地に高千穂峡でも有名な高千穂町があり、神話の町としても知られている。 天上界を治めていたアマテラスは、地上の国が乱れている事を知り、孫にあたるニニギを地上に降ろした。ニニギは多くの神を従え地上、日向・くしふるの峰へ降り立つが、この時、ニニギは千の穂を持って降りたとされ、言い伝えにより、この地を「智穂(千穂)」となずけられ、そして高千穂と呼ばれるようになったという。
町には、にはアマテラスが身を隠した天岩戸(洞窟)を祭る「天岩戸神社」があり、百万(やおよろず)の神々が集まって相談したと言われるところ「天安河原」がある。更に、古事記に「筑紫日向の久志布流多気・・、」と記されていて、ニニギが地上へ降り立った(降臨)の地とされている「くしふる神社」も存在する。 ニニギが降臨されたのが高千穂であり、その東方、大洋を見下ろし天上界のも近い「可愛岳」(727m)に御陵墓を鎮めたことは、説得力がある。
「可愛山陵」は、江戸期より調査がされて人々の関心を呼び、明治維新後、時の政府や国学者や宮内庁の調査によって可愛岳山麓の古墳が「可愛山陵伝説地」として認定されたともいう。
高く聳える可愛岳の頂上に「鉾山」といわれている所が御陵墓とされ、往時は、この山腹に社殿を営んでいたというが、人々の参詣に不便なため、さらに社殿をふもとの「江」(可愛)という里に移し、「可愛山陵大権現」として崇めて奉仕しているという。 寛政4(1792)年7月、高山彦九郎(1747−93年、江戸後期の尊皇思想家、寛政の三奇人の1人)は、可愛岳に登り、「筑紫日記」の中で記している・・、
『可愛村に着く。北川でみそぎをする。石橋を渡り、鳥井を入る。壱丁余(約800メートル)登って行くと山間に可愛山陵大権現の社殿が南南東に向かって建っている。ニニギノミコトを祀る。西の山を可愛岳という。これを山陵と伝えている。可愛岳山上迄一里(4キロ)の登りである』と・・。
この山は特徴的なのが、中腹より上部は巨石群に覆うわれ、更に、人工的なストーンサークルが存在するとされている。頂上に散見するこれら巨大石の石組は、原始石槨(せっかく:石でつくった、棺を入れる外箱。日本では古墳時代にみられる) とか弥生時代の立石(メンヒル)であるらしいと学者間でも言われている。
大正3年、考古学者・鳥居龍蔵は可愛岳頂上のこれらの巨石群を調査し、拝み石、鉾石、盤鏡などを一緒にして巨石遺跡としている。
可愛岳が、はるか昔から霊山として人々の祈りや儀式の場になっていたことが想像でき、初代・神武天皇の四代前の先祖というニニギノミコトは、日本が歴史を刻みはじめたとされる神話の世界の神である。 陵墓の存在は「伝説」の域を出ないものの、多くの巨石群と相まって御陵墓とされている所以であろう。 小さな可愛岳の陵墓は、大きなロマンをかきたててくれる。
旧道、日豊本線沿線の可愛の地に「御陵伝説地」の御陵と碑があり、野口雨情の歌碑には

『 こころして吹け  朝風夜風  ここは日向の 可愛山稜 』 とある。

【追記】
同じような伝説地とされる鹿児島県川内市の新田八幡宮にも、ニニギの御陵墓とされる「可愛山陵」があり、所謂、宮崎と鹿児島で御当地論争が起こっている地柄でもある。

次回は、延岡の「西南の役」


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写真:鎌倉材木座「光明寺」の歴代内藤家の墓所(重文)



陸奥国・磐城平と日向の国・延岡の内藤家とは・・?、

国道10は日向市街の中心地、日豊本線・日向駅に達した。
市街地は海岸の方向に広がっていて、その町外れの海岸には壮絶な風景が広がっている。 通常、黒潮洗う太平洋に面した宮崎の海といえば、すぐにフェニックスロードと言われる長閑な日南海岸を思い浮かぶが、こちら県北部は日南海岸とは対照的な「日豊海岸」(国定公園)といわれる壮絶なリアス海岸が、日南とは勝るとも劣らない特異な景観を誇っている。 そのなかでも日向市西方郊外の絶景ポイントである「日向岬」は、特に、馬ヶ背(馬が背)といわれる付近一帯の岩が柱状節理の断崖絶壁を成し、越前海岸の「東尋坊(とうじんぼう)」をも凌ぐともいう。
日向駅から日向市街、日向岬、日向灘と日向ずくしのこの地は、町並みと自然のおりなす大景観が隣合った珍しい地域の一つであろう。

門川町から延岡に入った。
この「延岡」は小生の田舎・実家(福島県いわき市)と非常に縁が深いということが判明している。 「延岡」は水辺の町で、各河川が合流している水郷の町である。事実、「日本の水郷百選」にも選ばれていて、五ヶ瀬川、大瀬川、そして祝子川の清流を街の近隣に抱き、「水郷・延岡」の愛称でも人々に親しまれている。
この五ケ瀬川と大瀬川に挟まれた三角州・高さ50m余りの延岡山の山丘に縄張りしたのが平山城・延岡城である。 今は「千人殺し」と言われる城跡の石垣が、その名残を留め、城山公園として市民の憩いの場になっている。 
最初に城が築かれたのは遥か遠くの昔・天平時代(奈良時代の後期)のことらしいが、江戸期まで下って1614年 (慶長19年)、有馬直純が島原から入封し、城および城下町建設に力を注ぎ、本格的城郭が完成している。 以降城主は三浦氏、牧野氏と替わり、延享4年(1747)・内藤正樹が七万石で入封すると、そのまま世襲して明治に至っている。
牧野氏の時代、牧野貞道(1719〜1747年までの日向延岡藩二代藩主、寺社奉行や京都所司代を歴任)の出世で経費が嵩み、藩財政は困窮するに至った。 そのため、江戸中期(1747年)の「三方領知替え」の制度により、牧野氏は常陸国・笠間藩に転封となり、代わって陸奥国・磐城平藩(たいらはん)より内藤政樹が7万石で入封した。 なお、磐城平藩には笠間藩より井上氏が入封している。 
「三方領地替え」とは江戸期に徳川幕府が行った大名に対する転封処分の手法の一つで、大名三家の領地を互いに交換させることを言う。 例えば、大名家Aを大名家Bへ、BはCへ、CはA領地へ同時に転封することで、「三方領地替え」、「三方所替え」、「三方国替え」とも称した。 江戸時代を通じて何回か行われているが、中には、四家が関係した「四方領地替え」の例もあったという。
さて、話は飛んで、小生の実家・田舎、福島県いわき市(磐城藩)であるが・・、
江戸期においてはこの地方を磐城平藩と称して、鳥居、内藤、井上、安藤の四大名が領地を支配していた。 中でも内藤家は永く、江戸初期の1622年から1747年まで125年間、六代の永きに亘って治めていた。 内藤家は、徳川家譜代として戦国期より活躍し、大阪の陣では江戸城の留守居役を任されるなど、江戸幕府を開くにあたり功績は大きい。 
江戸中期、六代目内藤 政樹の代の磐城平藩では、天地変による洪水や凶作、また過去の悪政などにより藩財政の破綻が続き、そのため重税で苦しめられた領民の不満が鬱積していた。そして、ついに元文3年(1738年)に「元文百姓一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生するのである。 四方から平城下に押しよせた一揆勢は凡そ二万人ともいわれ、富豪や商家を打ち壊し乱入、 役所、獄舎をも襲ったという。4日間、武士団に抗し訴え続け、ついに減免措置を勝ち取ったという。 だが、この騒動で領主・内藤政樹は責任をとられ、日向・延岡藩7万石へ移封となり、磐城平を去ることになる。 去るに及んで次の歌を残したという。

『日に向ふ(日向) 国に命を 延べおかば(延岡) 
          またみちのくの(磐城平) 人に逢うべし』

こうして九州・日向延岡・内藤氏は、磐城平藩と同様の年月(124年)に亘り藩政を治めることになる。 江戸幕末、延岡藩・内藤家は、薩摩藩を筆頭に倒幕派の南九州諸藩の中にあって、徳川譜代藩であるがゆえに佐幕の立場を採らざるをえず、苦況に立たされるが・・。
このあたり、「鎌倉」(日本周遊紀行・特別編)の項でも記したが、内藤家・江戸上屋敷は江戸城外郭門の虎の門に続く外堀辺りにある。 内藤本家は磐城平藩より財政難の連続で、内藤貧乏の守・・と、そのあまりの質素な暮らしぶりを揶揄(やゆ・たとえ)されたほどのであったという。 しかし、七万石の小藩ながら、その後もなお私財をつぎ込み城下町の再興に尽くすなど、民衆に支持された名家でもある。
そんな生活ぶりの中、内藤家は代々「浄土宗」を崇拝信仰している。 菩提寺は鎌倉材木座「光明寺」で、寺院は徳川家康によって関東十八檀林(だんりん・栴檀林の略 仏教の学問所、平安時代の檀林寺に始まるが、学問所を檀林と呼ぶようになったのは室町末期で、近世、各宗で設ける、関東十八檀林の類、学寮のことでもある)の一つに数えられ、その筆頭に位置づけられた名刹である。 総門より、巨大な山門をくぐると本殿があり、その横奥に内藤家の廟所があって、磐城・平藩の初代から日向・延岡藩の幕末までの、代々の墓所が一同に祭られている。 このように江戸初期から末期まで、代々の大名の墓が整然と全部一箇所に揃っているのは大変珍しいという。 墓石が順よく並ぶ姿は美的でもあり、壮観であって、鎌倉市の史跡にも指定されている。
先にも記したが、延岡城の内藤家は日向灘の海を望める高台にある。 江戸住まいの日々、彼岸や盆の参詣のひと時には、内藤家の人々は鎌倉・材木座の海に重ねて、日向灘を思い出していたに違いないと思われる。
城址内の一角、延岡城の西の丸、もともと延岡藩主の御殿があった地に「内藤記念館」があり、延岡藩の歴史を伝える貴重な資料や書・絵画などが保管されているという。

次回、延岡の「可愛山陵


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美々津は、神武天皇の「御東征」の出発地である・・、

ここは日向市である・・、
先の宮崎の項でも述べたが、「日向の国」の中心は古代は宮崎であり、中世から江戸期にかけては島津氏や伊東氏の居城であった都城や佐土原がその中心であった。 そして、古代神代の時代におけるここ日向の美々津は、神武天皇の「御東征」の出発地として知られ、初代天皇として名を残した神武天皇の伝説の地であって、古代の片鱗がここにも残るという。
「神武天皇」という名は有名ではあるが、近世に至るまで、天皇の名は諡号(シゴウ=おくり名)として後から付けられたものであって、その時代に人々にそう呼ばれたわけではなかった。 たとえば神武天皇の名前は本来、古事記では神倭伊波礼毘古命・カムヤマトイワレビコノミコト、日本書紀では神日本磐余彦尊・カンヤマトイワレヒコノミコトといった。 その他の呼び名もあるようだが、 神武天皇という名前は、彼の死後に送られた称号である。
ところで東征というと、東国、つまり我々の認識では関東や東北地方を平定したように聞こえるが、 邇邇芸命(ニニギ)の天孫降臨以来、九州に国家を構えていた天皇家(宮崎)にとっては、東国とは近畿地方あたりを指したようである。 即ち、この神話は九州に都を持つ国家の王が、近畿地方までを勢力下に組み入れ、名実共に大八島(オオヤシマ=日本全州)の中央を制圧したという事である。

神武天皇45歳のとき、宮崎市の皇宮屋(こぐや:神武天皇の居所、宮崎神宮・摂社)で東征のための軍議をなされ、大和へ向かうことを決心する。そして船出の地に選ばれたのがここ美々津であったと伝えられている。 この地から舟出した神武天皇一行は、沖に浮かぶ一ッ神と七ッバエと呼ばれる二つの岩礁の間を通って旅立ったとされ、その後、天皇一行が二度と戻られることがなかった。 因みにその後、この岩礁の間を通ると二度と戻れないとされ、現在でもこの間を通って沖に出る漁船はないといわれる。
出港後は、豊国(大分宇佐宮)、筑紫岡田宮(福岡芦屋)から阿岐の国(広島安芸)へ、そして吉備国高嶋宮(岡山)から瀬戸内海を経て、浪速(大阪)に入った。 浪速では、上陸を阻止しようとナガスネビコ(大和地方の豪族の長で、イワレビコの東征に抵抗したとされる)との戦いが行われ、この時、イワレビコは「日に向かって戦うことは不吉である」として更に、南の方へ回航しその後、紀州に回って大和に入ったとされている。 大和を平定した後に橿原宮(かしはら宮:奈良)で即位し、初代天皇となるが、この日が紀元節と言われる現在の2月11日とされ、つまり「建国記念日」である。
神武東征御船出の地として美々津港の右岸、耳川に面して「立磐神社」いう社が建っている。神武天皇東征の折、ここで戦勝と海上安全を祈願したといわれ、後に景行天皇の時代に、東征を記念して創建されたと伝わっている。 東征の船出を待つあいだ、腰かけていたという「腰かけ岩」も祀られている。
又、この社のすぐ近くに「日本海軍発祥之地」の記念碑が建つ。 神武天皇親率の水軍が初めて編成されて進発した地とされ、即ち、日本海軍は天皇が統治された海軍で有っことから、国が美々津の地を海軍発祥の地と定め建立したという。

『紀元二千六百年』 紀元2600年奉祝会選定(昭和14年日本放送協会製作)
金鵄(きんし)輝く 日本の
栄(はえ)ある光 身にうけて
いまこそ祝え この朝(あした)
紀元は二千六百年
ああ 一億の胸はなる

荒(すさ)ぶ世界に ただ一つ>
揺るがぬ御代に 生立ちし
感謝は清き 火と燃えて
紀元は二千六百年
ああ 報国の血は勇む

次回は、「延岡」


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