『日本周遊紀行』

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宮崎県

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九州の「関が原」と言われる「耳川の戦い」が・・、

国道10号線を快適に北上する。
川南町、都農町は日向灘に開けた明るい地域で、大部分が台地状の所謂、西高東低の、ゆるやかに傾斜した高台となっている。 広大な畑作が広がっていて、きっと南国豊かな農業生産が主体の地域であろうことが想像できる。
日豊本線を跨ぐように、直線の高架線が走っている。 以前になるが日豊本線の都農駅から美々津駅まで、リニアモーターカーの実験が行われていた所らしく、現在は、実験の舞台が山梨に移されていて、施設は取り壊されることなく現在もそこに居残っているのであろう。
まもなく、日向市に入り「美々津」という港へきたようだ、清流・耳川の河口に当る。
耳川は一般の川の趣きとは異なり、巨大な中州を持つ湖のような泰然とした川である。 川面は珍しく、青緑、エメラルドグリーン、黄緑と天候や見る場所によって色が変化する不思議な川だという、五色川ともいうべきか。 耳川は、九州山地(椎葉村三方山)に源を発し東へ向かって宮崎平野を流れ、日向市美々津町から日向灘に注いいでいる、長さ100kmの水系で美々津川とも呼ばれる。
この川に「幻の魚」と呼ばれる、「アカメ」という魚が生息することでも知られてる、スズキ目アカメ科の魚で、名前の通り目が赤く、北川、耳川のほか、高知県の四万十河口域など汽水域に生息し、体長1メートル、重さ20kの巨大魚になるという、地元では“マルカ”とも呼ばれているらしい。 尤もアカメは、ここ数年は魚影が見られなくなって、2007年には環境省のレッドリストの中の「絶滅危惧種」に指定されているとか・・。

往時はやはり「耳川」も河川流通路としての重要な地位を占めていたという。 
江戸期、この地方の産物である木材や炭を高瀬舟で河口の美々津に集め、大型船・千石船で大阪方面に送り出していた。当時の美々津はそれら特産物の積出港として大いに賑わい、元禄年間には回船問屋や商家が数多く軒を連ね、「美々津千軒」とも呼ばれるほどの繁栄ぶりであったという。
現在、美々津、耳川の南部、国道10号線と海岸に挟まれた狭い一角は、江戸時代の回船問屋や明治、大正、昭和初期の商家などが数多く残されれており、当時の隆盛ぶりを知る事ができる。 中でも現在、日向市歴史民族資料館となっている元廻船問屋・旧河内屋は間口が広く、美しい京格子と白壁で当時の繁栄を偲ばせている。
この美々津の町並みは、1986年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。

耳川の中流域は「奥日向」とも呼ばれて、鄙びた景観を呈しているが、この周辺は古戦場としても今なお秘められた足跡を残している。 戦国期の天正6年、九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(木城町)を主戦場として激突した合戦で、「耳川の戦い」とも云われる。
九州の覇者「大友氏」(九州探題)と九州南部に勢力をもつが北部への進出口を押さえられている「島津氏」、この両者が九州の覇権をかけて戦いで、主戦場は「高城」(現、木城町南部)と、そこを流れる小丸川を境に両軍は対峙することとなる。 激戦の末、勝敗は大友軍が三千余の将卒を失い、壊滅状態となって敗退した。 大友方は、さらに敗走する途中、城の北方の耳川で島津軍の迫撃に合い、戦死者の総数は二万人にも達したともいわれる。 結果は、島津氏が勝利し九州の覇権は島津氏に移って行くが、更にそのことが起因して、天下を平定しつつある豊臣秀吉の九州出兵を促す原因となる。 結末は秀吉軍が島津を抑えて、九州地方は平定されることになるのだが・・。
ところで、この合戦に島津勢が勝利した戦いを「耳川の合戦」と呼ばれるが、一方では、主戦場は耳川ではなく、宮崎県児湯郡木城町にある「高城」と城下の高城川(現在の小丸川)であることから、「高城の戦い」とするのが妥当とする向きもある。 
耳川と高城川は、凡そ20キロの行程幅であるが、豊後地方に勢力をもつ大友軍から見ると、この耳川は南進北帰の生命線であり、そしてこの地で追撃する島津軍に完敗した地であることから、「耳川の合戦」が妥当であるとも言われる。
その後、九州攻略のため本州勢力の秀吉軍が大挙して島津軍を攻める際、この時の主戦場がやはり「高城」であった。この時、秀吉の先鋒として戦ったのが大友の残兵(大友義統)でもあり、結果、秀吉軍が勝利したため大友家は一国を安堵されている。 この戦も「高城の戦い」と称している。

次回は、日向・「美々津」


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「厳重を極めたといわれる箱根の関所も、江戸後期ともなると・・、」 野田泉光院の「日本九峰修行日記」より・・、

因みに、作家・石川英輔氏の「泉光院江戸旅日記」の中で、小生の居住地である神奈川県厚木市近郊の“くだり”について記してみると・・、
『 文化十四年丁丑(ていちゅう)元年:西暦1817年2月16日・・五月八日(6月22日)〜十日(24日)鎌倉の主要な神社仏閣巡り・・・藤沢から寒川泊まり、 十一日(25日)相模一の宮(寒川神社)そして四之宮(平塚・前鳥神社)を参回している。 ここでお供の平四郎が二と三はいいんですかい・・と理屈をいったが、泉光院は無視している−−平塚八幡、坂東札所・金目山(第七番・光明寺)へ参って納経印をもらいに行くと、住職に笈仏(箱に収まっている戒名)を開帳して欲しいと頼まれた。 長々、読経せられたり・・。石田村(伊勢原市石田)の浄心寺泊り。 十二日(26日)大雨なので、「憂きことの はてや旅路の 五月雨」と一句作ったら、住職が見て、それほど雨が難儀なら、もう1日いなされ、といってくれた・・、幸いなりと滞在す。かようなるときは発句も役に立つものなり・・。 十三日(27日)、アツ木(厚木市)へ出て相模川を船で渡り、相模国分寺(海老名市国分)参詣。坂東札所・星の谷(第八番星谷寺・座間入谷)の門前に泊まった。 十四日(28日)、坂東札所・飯山寺(第六番・長谷寺(厚木市飯山)、日向薬師(伊勢原市日向)に参り、門前に泊まった。 十五日(29日)大山不動尊(伊勢原市大山)に参詣、菖蒲団子というものを買うて数十匹の犬に食わす・・。 尾尻村(秦野市尾尻)の寺に泊めてもらう。 十六日(30日)十六日坂東札所・飯泉山(第五番・勝福寺 ・小田原市飯泉)参詣。酒匂川を渡って塚原村(同市塚原)泊まり。 十七日(7月1日)この家に笈(背負う荷物箱)を預けて道了尊(最乗寺)へ上って参詣す。――― 十八日(2日)箱根山を登って関所を通ろうとしたところ、引っかかってしまった。  役人「その方ども、江戸屋敷からの関所手形を出せ」 「われわれは日本回国の行者で往来手形はあるが、他には存じませぬ」 「 江戸屋敷へ行って頼むことが出来るはずだ・・」 「 江戸屋敷は存じません、又、お屋敷へ出るほどの身分ではございません」 「そのほうら名を何と申す・・」 「私は一葉坊、この者は合力助と申します」 「今回は内聞で通してやる、次回はそうはいかんぞ・・!!」 「へい・・」・・泉光院が名乗った一葉坊は俳号であった・・、役人とのやりとりが面白いし、関所も、そこそこいい加減であったことが判る。 』

以上本文よりであるが、神奈川県の鎌倉へ入って、箱根を出るまでの神奈川県央、県西部にかけて11日間を要している。 その気になれば山道を1日60kmをも平気で歩き通せる頑健な人であるが、この相模地方は意外とゆっくり、じっくり歩を進めていることが判る、見所が多かったのであろう。
因みに、坂東札所・星の谷(第八番・星谷寺・座間入谷)には、当時のメモ帳なる「つづれ草」が置かれていて、ここを訪れた泉光院のことが記されている。
『 「つづれ草」37号に書いた「野田泉光院」の廻国修験僧、日向の国・佐土原の泉光院が星谷寺に参詣した文化十三年五月十三日当時の住職は「周應」であったはずである。在住期間も長いし、過去帳を整備するなどの事績もあった 』、とある。
気が付くのは泉光院が記した『日本九峰修行日記』には文化十四年五月十三日とあるが、星谷寺の記録には文化十三年五月十三日になっている、丁度一年違いになっているが・・??。

佐土原は中世の頃、伊東氏から島津氏へと領主が代わっている・・、
鎌倉時代において佐土原・伊東氏は、鹿児島で勢力を伸ばしてきた島津氏と日向の支配をめぐって激しい戦いが繰り広げられ、徐々に島津氏が優勢となり、遂に伊東氏は豊後国へと追い払って島津の支配が始まる。 戦国期の最初の佐土原城主は島津家久、次いで江戸期には、その子豊久に引き継がれ、島津の支配体制が整っていく。 野田泉光院の全国行脚の時期は江戸後期であり、当時の佐土原は島津の支配下にあって、島津氏の相当の援助を戴いてもいる。
江戸後期の泉光院行脚中、伊能忠敬が「大日本沿海輿地全図」を完成しているし(1814年)、当時の文化・文政の時代(1800年前期)には、十返舎一九が「東海道中膝栗毛」初編を著し(1802年)、間宮林蔵が樺太を探検している(1814年)。 又、葛飾北斎の「富嶽三十六景」ができ(1832年)、歌川広重の「東海道五十三次」ができる(1833年)など、各階、各層の人々の諸国漫遊も盛んであったのである。

2006年1月「佐土原町」は宮崎市に編入、合併特例区(市町村の合併の特例)に指定されている。

次回は、日向・美々津


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野田泉光院は、西の松尾芭蕉とも呼ばれていて・・、

鎌倉末期の1335年、領主・伊東祐聡(祐明から4代目)は、佐土原町上田島の一角に「大光寺」を建立し、以降、伊東氏代々の菩提寺とした。 後に戦国期、領主が島津氏に代わると以降、島津氏の菩提寺になっている。 寺院は、国の重要文化財に指定されている名刹でもある。
この古寺・大光寺の山手の静かな森の一角に「野田泉光院」の墓がある。
「泉光院」は、佐土原の真言宗・安宮寺(新城地区に在った今は無き寺跡〉の八代目住職で、寺跡には、日本九峰修行供養塔があり、彼自身の墓は大光寺境内にある。 本名を野田成亮(のだしげすけ)といい、泉光院とは修験者の院号である。 当時の最高水準の知識人であり高僧だったという。
1811年(文化8)、56歳の時に斉藤平四郎という30代の男性を従え、6年2ヶ月にわたる全国の山伏寺を回る旅に出た。泉光院は、西の松尾芭蕉とも呼ばれていて、後に、『日本九峰修行日記』を著している。 日記は当時の庶民の姿を知る貴重な資料となっている。
作家・石川英輔氏が、野田泉光院の『日本九峰修行日記』を、ノンフィクションに訳して「泉光院江戸旅日記」を著している。

『泉光院江戸旅日記』の書が新聞の広告に出るなり、興味八百と旅好きの小生は早速買い求め、熟読し、大切な蔵書の一角を占めている。 副題には『山伏が見た江戸期庶民のくらし』となっていて、帯紙には表側に「文化文政の6年間、南は鹿児島から北は秋田まで日本を歩き回った僧・泉光院の見聞録」とあり、裏側に「泉光院の足跡⇒佐土原⇒宮崎⇒鹿児島⇒指宿⇒阿蘇山⇒長崎⇒名護屋⇒彦山⇒中津⇒小倉⇒長府⇒萩⇒広島⇒津和野⇒大山⇒鳥取⇒大江山⇒丹後半島⇒三方五胡⇒伏見⇒京都⇒福知山⇒姫路⇒大阪⇒草津⇒白山⇒金沢⇒能登⇒富山⇒野麦峠⇒松本⇒身延山⇒甲府⇒江戸⇒秩父⇒前橋⇒日光⇒浅間山⇒戸隠⇒立山⇒鶴岡⇒出羽三山⇒本庄⇒金華山⇒仙台⇒山形⇒那須野⇒筑波山⇒成田⇒銚子⇒鎌倉⇒箱根⇒下田⇒富士山⇒岡崎⇒岐阜⇒伊勢⇒白浜⇒和歌山⇒吉野⇒高砂⇒岡山⇒今治⇒大分 他」とある。
主人公は56歳で当時としては老年といっていい高齢であること。 執筆者の山伏は出発当時、高地位にある寺院の住職で、大先達という高位の山伏として日向一国の山伏を支配するという階級であったばかりか、佐土原の島津家の縁者として禄も受けており、佐土原では弓術の指導などもしていたという人物であった。
本人著書の『日本九峰修行日記』の興味深いところは、そのような有能な人物が敢えて貧しい人々の間を托鉢・修行をしていて、記録の中から当時の一般の人々、特に農民の生活の一端が伺えるあたりにある。 長いたびの間、斉藤平四朗というお供が付いているが、この男は佐土原の町人で、ある種、道楽人であったらしい・・?。
旅は経路を現在の地名と照らし合わせつつ、当時の一般の生活を浮き彫りにしようという主旨で書かれている。 この住職(泉光院)は6年間、ほんとにまめに日記を付けていたらしく、行程は本著の帯紙の通りで、南は鹿児島から北は秋田の本庄(本荘市)まで、日本中を歩き抜いている。更に驚くべきは、日本の名だたる山岳聖地を登攀しているのである。そのことは、彼が著した旅日記・『日本九峰修行日記』には、多くの山名も記載されている。作者は旅日記を「修業日記」と題したように、修業、参詣の宗教的目的をもって回国している。登山もこの宗教的目的の下におこなわれた。 回国修業の登山によって当時として一流の登山家とも考えられている。
山好きの小生としては興味あるところなので、その内容を記してみる。

野田成亮の日本九峰とは・・、
西より英彦山、石鎚山、箕面山、金剛山、大峯山、熊野山、富士山、羽黒山、湯殿山である。これらは何れも国内有数の山岳霊場で、世に知れ渡っている名山である。しかし、これら九峰修業の旅以外で、彼はもっと多くの山に登拝しているのである。
九峰以外の主な遍歴の山を列記すると・・、
九州・・阿蘇山 太郎岳(多良岳)黒髪山 求菩提山(くぼてやま) 
山陰・・妙見山 大江山 三滝山(三岳山) 
山陽・・後山 瑜伽(ゆか)山
近畿・・比叡山 朝熊(あさま)山 愛宕山
北陸・・白山 石動山 立山 
東海・・光明山 秋葉山
信越・・浅間山 米山   
関東・・行道山 中ノ岳(妙義) 八溝山 加波・足尾山 筑波山 鹿野(かのう)山
奥羽・・月山 鳥海山 金華山 水晶山
等等・・、

引き続き、「野田泉光院・旅日記」


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佐土原は、神武天皇の幼少時の名前・「サノハルノミコト」から起こった・・、

神宮から再び一ッ葉有料道路に戻って・・、この道路は国道10号の交通渋滞を解消するバイパスとして主に海岸を北上して佐土原に至っている、別名「くろしおライン」ともいう。 北部地域には、隣接している「フェニックス・シーガイア・リゾート」のグリーン地帯があり、こちらは世界でも屈指の施設で、自然と環境を備えた世界に誇れるリゾートだと当事者は自認しているようである。 因みに、シーガイアとは、英語で海を意味する「Sea」と地球を意味する「Gaia」を組み合わせた造語である。
昨夜は、この道路のP・Aで夜を明かした。
車には柔らかな朝日が入り込んでくる、今日もいい天気のようである。 海岸へ出ると陽光が海面に反射して一寸眩しいくらいである、陽気のわりに打ち寄せる波は大きく白の飛沫を上げている、やはり日向の海である。
朝日に見送られながら出発すると、一ッ葉道路は間もなく海岸から離れて10号線に合流する、ここは既に佐土原である。 九州流に言うと“サドバル”であるが、こちらは“サドワラ”と読むらしい。

こちら佐土原も、「神武天皇」が誕生された地とされている伝承がある・・、
佐土原町上田島地区の小高い丘・・、昼なお暗く鬱蒼と茂る木々の中に、ぽつんと小さな「社」が鎮座している。 この地が「佐野原聖地」と呼ばれる聖なる地というが、賽銭箱などはなく、扉に掛かる鍵は壊れかけていて、まるで森の中に放置されたような空間、年月から無視されたように建っている。 後に、大和の国を平定した人(神)が生まれた場所にしては、あまりに寂しいのである。
佐土原は、始めサノハルと称し「サノハルノミコト」(サノノミコト)は、神武天皇の幼少時の名前である。 この社は、都於郡(とのこおり:現、西都市)から宮居を遷し、鵜茸草茸不合命(ウガヤフキアエズ)が天下を治め、玉依姫命(タマヨリヒメ)を妻に迎えたとされる地で、後に神武天皇が生まれた場所でもあるという。日本の初代天皇の聖地としては余りに粗末であると思われるが・・?。

鎌倉期に、源頼朝から日向国・地頭職に任命された工藤祐経が佐土原を支配し、この時期に佐土原神社が創建されたといわれる。工藤氏は姓を本来の姓である伊東と変えながら、400余年に亘り、この地の支配体制を確立している。 第10代・伊東義祐の頃には佐土原城を中心とし日向・四十八城を支配したともされている。
日向・飫肥の項でも記したが・・、工藤祐経は鎌倉のお膝元で起きた「曽我兄弟の変」の主たる登場人物で、当の本人は兄弟の仇討ちで殺されてしまう。
では何故、佐土原の初代領主なのか・・? 鎌倉期、既に領地を与えられてうたが、祐経本人は鎌倉の地で頼朝の信任厚き重臣として務めを果たしているのであり、領地の管理は、その代官が行っていた。祐経亡き後、その子伊東祐時の四男祐明、つまり工藤祐経の孫が現地に赴いて実質拝領し、初代「田島氏」と称した。 佐土原は、当初は「田島の庄」とも呼ばれていたからである。 佐土原城は、戦国期に伊東氏の中心的城郭となり伊東義祐が居城した頃が全盛期と言われる。
戦国期、島津氏の大軍は、伊東氏の本拠である佐土原を目指して進撃を開始し、戦況不利と見た義祐は、戦わずして退却し、豊後の大友氏を頼い、大友宗麟はその要請をいれて伊東義祐らを庇護した。 その後、大友軍は島津軍と戦ったが敗戦、兵を退くところを追撃され「耳川の戦い」で潰滅的敗北を喫し、こうして、大友氏も一気に勢力を失墜することになった。 
奇しくも、伊東氏の出実は伊豆の「伊東の荘」であり、大友氏の出実は相模の小田原の「大友郷」である。 奇しくも伊豆と小田原は隣接していて、東国の雄は親しく九州でも隣国同士となり、共に滅び去ったのである。 そして滅ぼした当の島津氏も大元(初代都城:島津忠久)は頼朝のご落胤との説もあり、この三者とも頼朝のお声がかりで、九州の平家残党の抑えとして派遣された共通目的があり、これも歴史の面白さであろう。

次回は、「野田泉光院」


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写真:宮崎神宮、神門より拝殿
資料:神武天皇祖神の譜系



「宮崎神宮」は、地元では親しみを込めて「神武(じんむ)さま」と呼ばれていて、神倭磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)=神武天皇(初代の天皇)を主祭神とし、父君・ウガヤフキアエズ、母君のタマヨリヒメ(玉依姫命)を相神としている。 創建は社伝によると神代までさかのぼるが、現在の社殿は明治40 年に建て替えられたものという。 
社伝によれば、鎮座地である宮崎は、神武天皇が東征以前に宮を営んだ地で、後に九州に下向してきた天皇の孫とされる建磐龍命(タケイワタツノミコト)が、その縁に因んでこの地に創祀したという。この神は、日本神話にも登場する人物で、阿蘇神社の主祭神であり、神武天皇の孫として皇統に組み込まれているが、元々は阿蘇で信仰されていた阿蘇山の神とみられる。
最初の天皇といわれる神武天皇が誕生した地は、同県内の高原町の「皇子原」といい、奇しくも、祖神であるニニギが降臨したとされる高千穂峰の山麓に当たる。 幼名が「狭野尊」(サノノミコト)といわれたため同地に「狭野神社」が祀られている。その後、宮崎神宮に西方、「皇宮屋」(下北方町)というところに住むようになった。
45 歳の時、「東に良いところがあると聞く。恐らくそこが日本の中心地だろう。そこに行って都を造るに限る・・」と察し、彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)稲飯命(イナヒノミコト)と共に全国統一をめざして兄弟三人で日向を発つ。 そして現在の日向市の美々津(みみつ)港から船で東方へ旅立ったと伝えられている。(詳細は美々津の項で記載) 
天下を統一し、政治(まつりごと)を行うべく、はるばる東遷の途に立たれたが、神武天皇は直接、大和に入ったのではなく、いろいろと寄り道をしている。 日向⇒宇佐⇒筑紫の国の岡水門(おかのみなと)⇒安芸の国の埃宮(えのみや)⇒吉備の国の高島宮(たかしまのみや)と、数年かけている。
その後、浪速の津(大阪)へ上陸して生駒山の方から大和に入ろうとする。ところが大和の長髄彦(ナガスネヒコ)の激しい抵抗に合い、進路を阻まれる。このとき、神武天皇の長兄のヒコイツセは傷を負い、それが元で亡くなっている。 神武天皇は、「太陽に向かって攻撃するのが良くない」として、熊野のほうに迂回する。 回り道をし熊野の地にたどり着いたが、今度は、熊野の荒ぶれる神の毒気に当たり病に伏せる。元気を取り戻した彼は、険しい山の中を八咫烏(やたがらす)に導かれ、苦労の末にナガスネヒコを滅ぼし、こうして幾多の困難に遭いながら東征から6年目で漸く(ようやく)大和の国に到達し安住の地とした。 畝傍(うねび)の橿原(かしはら)の宮において即位の礼(神武天皇に即位)を挙げ、天皇を中心とした国の基を建てられ(建国)、荒ぶる国々を平定された。 大和三山の一つ畝傍山の北東麓、玉砂利の参道と素木の大鳥居が立つところに神武天皇御陵があり、その南側に、明治天皇により創建された神武天皇祭神の「橿原神宮」が鎮座する。

神武天皇は、日向の国・高千穂に降臨したニニギノミコトから数えて四代目、天孫族の頭領・アマテラスからは六代目(又は五代目)そして、国生みの神々の祖神とされるイザナギ・イザナミからは七代目に当たるとされる。 日向の「高千穂」という地名の起こりは、ニニギがこの地に降臨するとき千本の稲穂をつみ、その籾(もみ)をしごいて蒔いたとことから「千穂」というようになり、その上にニニギノミコトの尊さを意味する「高」の字を付けて「高千穂」と呼ぶようになったと言われている。
参考までに、高祖神々の系譜の概略を述べてみよう(参考・日本書紀系)・・、
日本神話に登場する最初の夫婦神とされるイザナギとイザナミがおられた。そして、その子の一人(神)が天照大御神である。
天照神以降の譜系は・・、
天照大御神(アマテラスオオミカミ:伊勢神宮の主祭神、初代皇祖神) ⇒ 天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト:英彦山神宮の主祭神・福岡県) ⇒ 彦火瓊瓊杵尊(ヒコホノニニギノミコト:新田神社、霧島神宮の主祭神、天孫降臨、日向初代、高千穂神社、可愛山陵) ⇒ 彦火火出見尊(ヒコホホデミ:鹿児島神宮の主祭神、山幸彦、日向二代、妃・豊玉姫命・ トヨタマヒメノミコト ・乙姫:長崎・海神神社の主祭神、高屋山陵) ⇒ 日子波瀲武草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト:鵜戸神宮の主祭神、日向三代、妃・玉依姫命・タマヨリヒメノミコト・豊玉姫の妹:玉前神社の主祭神・千葉上総、吾平山陵) ⇒ 神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコノミコト:宮崎神宮、橿原神宮の主祭神・奈良県、玉依姫命の子、神武天皇、皇祖初代天皇・紀元前660年の紀元節)となる。 天照大御神から代代辿って、神武天皇までは六代目に当る

日向・宮崎は、神話と伝説の古里と言われており、天地が作られた天地開闢(テンチカイビャク)から天孫降臨、そして神武遠征まで様々な言い伝えが残り、宮崎の各地に祀られている。 市内では、国生み神生みの日本最古の神、イザナギとイザナミのご神体を祀る「江田神社」、イザナギノミコトが禊(みそぎ)を行ったとされる阿波岐原のみそぎ池、イザナギノミコトを祀るイザナキの禊にまつわる「小戸神社」、イザナギの禊(みそぎ)の際に綿津見三神(ワタツミ・アマテラスの姉弟、住吉三神)を祀った「住吉神社」、ニニギの妻で海幸彦・山幸彦の母であるオオヤマツミの娘・コノハナサクヤが祀られている「木花神社 (きばな神社)」、山幸彦、豊玉姫のご夫婦神を祀っている青島神社、それにニニギは、高千穂町の高千穂神社、北川町に墓稜とされる可愛山稜に祀られている。
そして、神武天皇の東征前の皇居跡と伝えられる皇宮屋(こぐや・皇宮神社)、初代天皇である神武天皇とその父の鵜葦草葦不合命(ウガヤフキアエズノミコト) と母の玉依姫命(タマヨリヒメ)を祀る「宮崎神宮」などがある。

次回は、佐土原


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