『日本周遊紀行』

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「出雲の国」とは・・

アマテラスやニニギ、天孫降臨、神代三代などについては九州南部(宮崎、鹿児島)あたりで概略記載しているが、神代の太祖にあたるのがイザナギ、イザナミである。 この両者から生まれたのがアマテラス、オオヤマズミ、そしてスサノオであって、アマテラスとスサノオは姉と弟の姉弟関係にある。
この弟はかなりの“悪”(若気の至り・・?)であり、この悪さが極まったのが「天の岩戸」事件であった。 弟の悪さで業を煮やしたアマテラスが高天原の岩戸に引きこもり、お隠れになってしまい、世の中(高天原も葦原中国も)が真っ暗闇になってしまう事件で発生する。 この時、アメノウズメが奇態な踊りを見せて、アマテラスを誘き出し一件落着するのだが・・。 この時、アマテラスをはじめ、八百万の神々は相談し、スサノオに罪を償うために弁償の品物を科し、高天原から追放したのである。 追われたスサノオは、葦原中国の出雲へ降りたった。

出雲へ降り立ったスサノオは、その地を荒らしていた八岐大蛇(八俣遠呂智)を退治し、八岐大蛇の尾から出てきた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ:三種の神器の一つで、熱田神宮の神体である。草薙剣・クサナギノツルギ、都牟刈の大刀:ツムガリノタチとも称される。三種の神器の中では天皇の持つ武力の象徴であるとされる)を天照大神に献上した。 この時スサノオは、八岐大蛇の餌食になりそうだったクシナダヒメを助け、そして妻として迎える。
そこでスサノオは次の歌を詠んだ・・、

『 八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 
八重垣つくる その八重垣を 』  古事記
(出雲の地に、新妻を迎へ宮を造ろうとすれば、雲の幾重にも立ち上るような、そして八重垣を造るような如しである) 

妻を迎へたことの喜びの歌で、新婚の二人を寿ぐが如くその喜びは幾重にも雲が湧き上がるようである、その愛でたさは八重垣をなす・・、幸せの気持ちを繰り返す様を「八重垣」に見立てて朗々と歌ひ上げている。 
日本初の歌とされている
この時スサノオは、この国を「八雲立つ出雲・・」つまり「出雲の国」と定める。

スサノオの若年における悪行は、神名の「スサ」の意味は、荒れすさぶの意として嵐の神、暴風雨の神とする説や(高天原でのスサノオの行いは暴風雨の被害を示すとする)、勢いのままに事を行うとする説がある。
スサノオによるヤマタノオロチ退治の英雄譚は、優秀な渡来人を平定して鉄の製法を得た象徴とされ、天叢雲剣の取得はその“鉄”を得た事象であると解釈できる。 そしてスサノオは、日本で初の和歌を詠んだ神(人物)として文化的な英雄の側面も有し、人間の成長、つまり国土の発展が伺えるのである。

スサノオは八俣の大蛇を殺したあと、クシナダヒメと幸福な結婚生活を送るが、やがて根の国(冥界)に下ってしまう。 その後、出雲神話の中心人物となるのは、オオクニヌシである。 オオクニヌシは、スサノオの息子とも、数代後の子孫ともされているが・・?。
オオクニヌシは、因幡の白ウサギの説話(後述・・)からわかるように医療の神としての性格もあり、又、邪悪な自然を避けるための「まじない」を定めた呪術の神でもあり、祭祀王(祟りと大和朝廷の関係・・)としての資格をも備えた神、つまり「大国主神」となる。
葦原中国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた。この時、共に国造りを行ったとされる少名彦神(スクナヒコ)は、農耕神としての性格があるという。

次回は、「神話と史実」

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日本周遊紀行(182)出雲大社 「拝礼の意義」

出雲大社への拝礼は、希望や願望と同時に、“厄災を起こさずに鎮まってて下さい”という意味でもある・・、

出雲大社の広大な境内(実は、境内そのものは伊勢神宮や宇佐神宮よりかなり小規模)の内、拝殿、本殿などの敷地、つまり銅鳥居の内側を「荒垣内」と称し、本殿周囲の垣を「端垣内」と称している。 一般参拝人が寄れるのは荒垣内で、八足門の内側・端垣内へは禁足となっている。
境内、特に荒垣内、端垣内には、筑紫社(宗像大社に祀られている神)や 御向社(大国主神の嫡后である多紀理比売命・タギリヒメを祀る)など、数社の摂、末社が祭られている。 その荒垣内摂社の中に素鵞社(そがのやしろ)が本殿の真後北側に、南面つまり本殿同様の向きで鎮座している。 小社(小さな御社)であるが、四方を鬱蒼とした樹木に囲まれ、一段高い位置で神威豊かに祀られている。 祭神は、有名な素戔鳴尊(スサノオノミコト)である。

スサノオは天照大神(アマテラス)の弟神で、出雲の八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の神話は周知である。 オオクニヌシの親神として、大国主に国作りの大任を授けられた出雲の太祖でもある。 即ち、本殿の真後ろから暖かく大国様を見守られているといった感じなのである。(昔、出雲大社の主祭神とされていた時代もあったという) 
素鵞社は、本殿の後陰になったいるため一般参拝人には気が付きにくいのであるが、ただ、我々参拝者が「拝殿」に頭を下げ、「八足門」に額ずくとき、主神の大国主神には、前述したように横向きのため参拝者の真意が直接伝わらないが、本殿越しに鎮座している「素鵞社」には伝わるのである。 つまり、われわれが出雲大社に詣でる時、知らずのうちにスサノウをお参りしていることにもなるのである。

大和系の神社(伊勢神宮や熊野神社など)は「2礼2拍手」で礼拝するが、しかし、出雲系は違って、現在の礼拝は「4礼4拍手又は2礼4拍手」である。 かっては「16礼16拍手」であったという時期もあり、明治時代になって礼拝方式が簡略化され、今に至っているとのこと。 多礼多拍手の儀礼は、「祟り封じ」の為に作られた挙礼挙手の方策の一つだったかも知れない。 
神社とは、祭神が祀られているところで、鎮守の森に囲まれ鎮座している所である。 又、鎮祭という儀式もあり、諸神を鎮め固めるための祭儀であるとしている。

我々は神社に参拝するとき、いろいろ祈願をする。 
無病息災、家内安全、交通安全、五穀豊穣、安全平和、等々、裏を返せば自然界はままならぬもので、人災、天災、争い事と後を絶たないのである。 これらを、特に日本人は神の厄災と観るのであって、古代中世の人々は、この傾向が強く、特に、神に祈るとき、希望や願望は同時に「厄災をおこさずに鎮まってて下さい」という意味としている。
出雲大社は、大和の神々に虐げられ滅ぼされた神なのであり、御神心は怨み1000年の怨念の神なのである。 それだけに絶対的に鎮座をお願いする神でもあるのである。
神社は定期的に神を祭る儀式、神社の祭りがある。 その中でも重要な要素の一つは、神にお供えものを献じることであり、マツリ(祭)という言葉は、マツル(献)から出たものだといわれている。 神に神酒・緒食をたてまつることがマツリの原義である。 
日本人の考え方では神は、祭りの機会ごとに祭神が来臨され、祭りが終わると帰っていかれると考えられていた。 現在でも祭りの基本的儀礼構成は、まず神を迎え、神酒・御食を供えて仕えまつり、願いや感謝の祈りを捧げ、時が来ればお送りするという形をとっている。 祭礼の日のみ、鎮座している神が天下に降りてこられて俗世と交わり、俗界を伺い、俗民は神の霊力を戴くのである。

次回は、出雲の国と神話



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写真:古代・出雲大社の想像図(資料)

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日本周遊紀行(182)出雲大社 「国譲り伝説」


大国主が、大和の神へ「国譲り」を行ったとされる真意は・・?、

出雲大社が最初に創建されたのはいつのことなのか・・?、その具体的年代を知る事は非常に困難であると言われる。 
「出雲國風土記」や「記紀」に創建の由緒や社殿の壮大な様がはっきりと記されてはいるが、創建の年代については、神話伝承の時代に溯る故に確定するのは難しいとされる。
出雲大社が神話伝承の時代から、次の歴史的実話に登場するのは、第11代の垂仁天皇の御代であるとされ、在位は紀元前後1世紀とされているので、大社創建はそれ以前ともされている。
この出雲大社の本殿に祭られているのは、ご承知、「大国主神」(オオクニヌシノカミ)である。 その大国主によって出雲は「国譲り」の地、国譲り伝説の地とされ、出雲大社は国譲りの神・大社とも言われる。 

然らば「国譲りの・・」とは一体何か・・?、
大国主はその霊力によって、住みよい日本の国土を築かれた。 それは全てのものが豊かに成長する国土で、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれた。 そして、この国づくりの大業が完成すると、日本民族の大神である天照大神に、その豊葦原の瑞穂国を譲ったとされている。  

弥生文化の実質的統合者となった大和朝廷は、各地の縄文的な文化の残る部族を制圧して回ったとされている。 須佐之男命(いろんな書き方がある)にしても、大国主命にしても出雲土俗の統治者、或いは神様とされていたものが、無理やり大和朝廷によって統合されたもので、それらの経緯が神話や祭儀となって組み入れられたが、その裏には制圧された怨念が実はこもっているともいう。 須佐之男命が荒ぶる神とされ、大国主命も朝廷側からみて都合良いように物語が作られ、捏造されたにすぎないともいえる。 

「国譲り」の真意・・??、 
見方を変えてもると・・、国を譲ったのか、或は国が奪われたのかと言う事であるが・・。 記紀(古事記、日本書紀)に記されているものは、大和朝廷成立後、大和側から書かれたものであり、普通、勝者側からは都合の悪いことは書かれていないのが自然である。 大和朝廷(天照大神)から見れば、出雲王朝(大国主命)は邪魔な存在であり、大和朝廷による出雲の国の収奪戦が行われたとという見方もある。 大和朝廷からみれば出雲を奪ったことになるが、出雲王朝からみると国を譲ったことにもなり、記紀には、出雲が大和に穏やかに(・・?)国を譲ったと記されているが、内実は、この時、激しく紛争や騒乱が起き、場合によっては戦乱によって大国主命の殺害などもも考えられる・・?。

古代における陰謀や暗殺、殺害といった事件には、必ずといっていいほど「祟り」という現象が付き物で、この事は当然ともされた。
平安初期、菅原道真が宮廷の陰謀によって九州に左遷され、無念のうちに死してから、京では道真の怨霊)などによって大事な災厄を被っている。 当時の人々に取って「祟り」は日常的であり、祟りほど恐ろしいものはなかったのである。
出雲の国を奪った大和朝廷は、大国主命を神格化して出雲の地に最大の神殿を作り、大国主の祟りを鎮めようとした。それが「出雲大社」の始まりとも考えられる。 大層な大社造りを見ると大和朝廷がいかに「祟りを恐れた」か分かるともいう・・?。


話は些かとぶが・・、
信州・諏訪地方に諏訪大社による、ご承知奇祭と言われる「御柱祭」なるものがある。 御柱祭は寅と申の年に行われる諏訪大社の大祭であり、祭神は「建御名方命」 (タケミナカタノカミ )で、越後出身の神(実は出雲である)であり、武神、農耕神、狩猟神といわれる。
古事記では、諏訪の祭神である建御名方命が高天原の神との戦いに破れて越後の地に逃げ、更に追われて諏訪の地に逃げこんだとされている。 祭神・建御名方命は、越後の奴奈川姫(ヌナカワヒメ)と出雲の八千矛神(大国主命)の息子である。
ある時、建御名方命は出雲へ渡ったものの、高天原の神々(武甕雷男神:タケミカズチ、鹿島神宮、春日大社祭神)と、父の意に背いて戦ったため、出雲では今でも「勘当された神」といわれている・・と。 これは記紀つまり、記紀の編纂は高天原(大和朝廷)サイドからの捏造された見方であって、出雲サイドから見れば出雲族は堂々と戦い、そして無念ながら敗れ去った。 その時に、からくも大国主命の息子は母方の実家の越後え逃げ、その後、諏訪に入ったのであり、建御名方命は地元の女神である八坂刀女姫と結ばれ諏訪大社に祀られているとするものである。

大国主命の息子ということで、神々が出雲大社に集まる神無月にも建御名方命は出雲大社へは行くことができず、諏訪大明神が出雲へ行かないという話は出雲だけでなく、諏訪地方でも承知している話である。
御柱祭りの行事は社殿の造営行事と御柱曳建行事とに分かれ、主祭りは御柱曳建祭といわれる。 祭りでは、それぞれの社に四本の柱を建てるので、計十六本の大木を建てることになる。この四本の柱とは何を意味するのであろうか。 これら柱祭の起源には四本の柱が宮殿を表すとされ、柱が神の依代(よりしろ)である、竪穴住居の柱を七年ごとに取り替えた名残り、とういうような諸説もある。

更に、ここでは出雲大社の本殿造営に関係しているのではないかとの見方ができる・・?。四本の柱は本社:出雲大社を模写したもので、本社に崇敬の念を表したものであると。 諏訪大社は上下あわせて四社(上下2社ずつ)ある。 出雲本社の本殿の高さは、当初は96m、あるいは48mもあったとされているが、このことは先に記した。 
本殿へ至る長い階段、そして階段と本殿を支える強靭な柱、重塔を除いた単一の建物としての最大の建物には当然、巨大な芯柱や大柱が必要である。 又、大柱は切り出し、運搬、加工、据付と多数の人力、高等な技術が必要であろうことは言を待たない。 
諏訪大社では、本家、出雲大社の大柱の造営技術を受け継ぎ、自らの社殿の造営に生かしたものが、現在の「御柱祭」となって継承し残されているとも想像できるのである。
大和側から見れば、出雲はやはり恐ろしくも、偉大な神であった。
これだけ本殿を高くするという意味合いは、御霊を天上に追いやって天下に下りて来難くすることで、祟りや呪いを出来るだけ遠ざける事だったのかもしれないのである。

「御柱祭」が行われる前年、北安曇郡小谷村(信越国境)の二つの諏訪神社で交互に行われる、社前の杉の大木に木づちで薙鎌(なぎがま)を打ちつけるという、珍妙な祀り行事がある。 薙鎌とは諏訪大社の御神体ともいわれるもので、この時期にこの地で行われる神事の意味するものは何であるのか・・?。  
建御名方命が高天原の神との戦いに破れて越後の地に逃げ、追われて諏訪の地に逃げこんだとされている、この薙鎌は大和の神が、「許してやるから、ここからは出るなよ・・!」という印とも言われている。 
一方で、出雲の国で須佐之男命が殺したとされる八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から出てきたのが草薙剣で、「三種の神器」の一つとされる。 薙鎌は、その草薙剣を模写したもので、この剣を出雲王家の怨念を柱に打ちつけ、天下の末代まで呪柱、忌柱として祀る印ともいわれる。 

引き続き、出雲大社


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写真:出雲大社の銅鳥居内の神殿配列(右より拝殿、八足門、楼門 御本殿の各神殿)
写真:出雲大社・本殿
写真:本殿内部、御神体の配列と向き(主神が正面でなく西向きの謎・・?)

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日本周遊紀行(182)出雲大社 「本殿」

その奥の高床の最上位にある神殿、つまり大社造りの御本殿に御神体が鎮座している。
本殿建物は、所謂、切妻様式の“大社造り”と言われるもので、神殿口は切妻の妻入部(対して平入)になっている。 こうした妻入の形式に対し、平入の手法をもつ神明造(伊勢神宮など)は、穀物を収蔵する「倉」の形式を踏むものとして、性格を異にする神社形式であるという。 その起源を異にするこの二つの系列が基調となって、平安時代以降それぞれ発展を見せて春日造や八幡造、さらには権現造等々となって変遷していったといわれる。
その本殿の屋根には鰹木(かつおぎ)と、破風部に雲を分け、天を指すといわれる千木(ちぎ)が配してある。 千木の先端の切り込みが垂直なのは祭神が男性ということを表している。因みに、伊勢神宮はアマテラスで女性の神であり、内宮・正殿の千木の先端切込みは水平になっている。

現在の本殿の大きさ、高さは八丈(24.2m)、神社建築の中でも他に比類を見ぬ規模の豪壮さであるという。(現存神社の最高の高さ) ところがこの本殿は昔に遡ぼれば48m、最も古くは三十二丈(98メートル)もあったともされている。
普通、建物は小さいものから大なるものへと時代とともに推移し発達を見せるが、大社の古式からの伝達はこの逆だというのである。 背後に聳える秀麗な八雲山は、嘗ては大社の神体山であり、神体に近ずこうとすれば、この三十二丈説も頷けるのである。

2000年に周辺の調査発掘が行われ、境内から巨大な柱(1本の径約1.4mの柱が3本束ねたもの)が発掘され、伝承と考え方を合わせると48メートル前後あった可能性が高いという。 48メートルは現本殿の二倍、現代のビル14階建てに相当し、現存する世界一の木造建造物(塔を除く)である東大寺大仏殿(約46メートル)を超えるという。
平安時代の「口遊」(この時代の子ども達が文字をならう教科書のひとつ)という書物に書かれた内容の1つに、全国の大きな建物の順として「雲太、和二、京三」と記され、これは出雲太郎、大和二郎、京都三郎のことで、「一番が出雲大社、二番が東大寺大仏殿、三番が京の太極殿」を意味しているといい、その巨大性を示す有力な証しとなってる。 
ただ、出雲大社の場合は高床式が超高床であって、その本殿へ誘う階段が長大なものであって、本殿そのものの建物(建屋)は、現在の大きさか、やや小振りであったとされる・・?。いずれにしても大社は、大社(おおやしろ)であったことは確かなようである。

ここで、社(ヤ・シロ)という言葉の概念について知る必要がある・・、 
シロという言葉は、当然、城ではなく“代”である。 代はタシロ(田代)、ナエシロ(苗代)、アジロ(網代)の如く、示された場所を表す。 つまり、ヤシロとは屋代であり、臨時に屋根をしつらえて神祭を行う場所のことである。
神仙(神様)の住居、皇宮族の御殿としてのミヤ(御屋・宮)が造営され、この場所や建物をヤシロと呼ぶのである。 原始家屋の形式である出雲大社・本殿は まさにその「御屋、宮」であったはずである。 国々に散らばる多数の分祀神社や支社は、モリでありヤシロであって、ミヤとはよばれない。 出雲大社はその起源からして、祭神:オオクニヌシの御坐したところ、即ちミヤ・ヤシロ(宮社)であり、神の宮であり、神宮・なのである。 そして出雲の宮社が余りに巨大であったので、いつしか“おおやしろ”、大社、出雲大社になったのである。


本殿内部の御祭神(御神体)配列について・・、
しからば、出雲大社にはいろいろ不思議な事柄があるという・・、
その内の筆頭に本殿内部の御神座の位置、配列が“奇妙”であるとされている。 御神体・大国主命の神座が西向きで、参拝者から見ると横向き(そっぽ向き)になっているという。
大社造りの特徴は妻側から拝む形式になっているが、神殿内部の平座ではご神体・大国主命の他に、大和の五神が祀ってある。 その配置の正方形の平座には左方奥隅に大和五神が正面に正対して鎮座し、右方奥隅に大国主が左方(西方)を見る形、つまり正面からは横向きになり、五神にお伺いをたてている、といった構図になっているのである。 しかも、大国主が正面から直接見えぬように、中心に柱(「心御柱」といい、この柱が所謂、大黒柱の謂れであるとされる)を置いて目隠しのカーテンを施してあるという。 従って、我等の出雲の神への礼拝は、傍に控える大和の五神に向かって拝礼している形になる。つまり、いかなる願いも大和の五神がチェックを入れてから大国主に取次ぐという形になっているのというのである。 要するに、我々と大国主とは直接接触を絶っているのであり、このことは大和五神が大国主を見張っていて、このことは大和神の意に反すること、「祟り」を起こすための“行い”を監視しているともとれるのである。このことは、神話における大国主の大和への「国譲り」の結果が現れているとも取れるのである。(「国譲り」については後述・・、)

以上は、御神座が西向きであることの一つの説話であるが、その理由については他にも諸説あるようで・・、
先ず、古代の住宅様式における入口と最上席の配置と向きの関係は、御本殿のそれと一致するという。出雲大社は古代住宅から成り立った神社であるから、御神座も古来の風習のまま設けられたものであるとする。
又、古代では、西の彼方には「常世(とこよ)の国(霊魂が鎮まるところ)」があると信じられていた。そして出雲大社のすぐ西には「国譲り」神話の舞台として有名な「稲佐の浜」があり、又古代の出雲大社の社殿は直接海に接していたともされているので、大国主命は海の彼方(西方)から来た霊威としての性格をも持ち、そのため御神体は西の方向へ敬意を表して座してともいう。 現に出雲大社は、海とのつながりを色濃く持つ神事がある。
いずれにしても、御神座の横向き(西向き)の謎は、出雲大社創建の謎にも隠されているのかもしれない。

御本殿天井の雲の絵について・・、
御本殿の天井には雲の絵が描かれているという。 上段の天井には二雲、下段の天井には五雲の計七雲であり、普通の雲の絵とは少し趣の違った形に描かれている。 出雲の地と雲と聞いて連想するのは、やはり素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲の須賀に宮を造り鎮まられる時に詠まれたとされる・・、

『 八雲立つ 出雲八重垣 妻篭みに 八重垣作る 其の八重垣を 』
という歌であろう。
素戔嗚尊は大国主命の御父神でもあり、御本殿の雲の絵も素戔嗚尊との縁により描かれているとされてきた。だが、「八雲立つ・・、」の縁ならば何故七雲が描かれているのか・・?、という疑問についても、出雲大社創建の謎とされ、素戔嗚尊との縁に絡めて疑問視されてきている。

次回は、「国譲り」


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写真:出雲大社・拝殿


出雲大社での参拝は四礼四拍手一礼が基本で、四回の拍手は、四合わせ(幸せ)に通ずるという・・、

出雲大社の拝殿、本殿に向かうには、本来は、松の参道から本殿境内とされる銅鳥居から入殿し、拝殿へ向かうのが本筋である。 小生の場合、いきなり神楽殿の前へ来てしまったので、これより通じている横参道より直ぐに、本殿境内の拝殿に立ってしまった。
拝殿は本殿の手前にあり、総ケヤキの切り妻風・「大社造り」といい、珍しく妻入り部分(妻の方に入口を設けて、これを正面とする様式)が拝所になっていて、上部に神楽殿に次ぐ大きさの注連縄が下がる。 早朝、全く静かな雰囲気で神妙なるお参りが出来、ホッとする。 

出雲大社での参拝は、四礼四拍手一礼が基本で、この拝礼作法があるのは全国で出雲大社と宇佐神宮だけらしく、その起源は分かっていないという。 四回の拍手は、四合わせ(幸せ)に通じているともいい、又、賽銭も“しじゅう御縁”が有りますようにとの意で、「45円」が妥当との事らしい。 御縁は“男女の縁結び”も合わせて、四拍手つまり“幸せ”に巡り合いますよう祈願するものという。
因みに、お膝元の島根県の離婚率は日本一低いらしく、これも地元の人は出雲大社のご利益としていて、やはりというか「縁結びの神様」なのであり、「縁を離さない神様」なのである

拝殿奥の本殿・拝所においても四礼四拍手一礼を行う・・、
気が付くと、一人の女性が真剣に拝礼している姿があった、未だうら若き女性である。 早朝の静寂の中、手持ちの物も無く、拝殿、そして本殿・拝所(八足門)と正規の石畳の通路を往来しながら一心不乱にお参りしているのである。「お百度参り」であろう・・!。
拝礼参拝は、先祖の供養、自分と家族の健康、平安、無事など、心に思い願い事すべてに功徳があり、又、自分の反省、懺悔にて心身が洗われることをより強く祈願することだという。 この女性には如何なる願いがあるのやら、神仏に百回(数多くという意味もある)お参りする行為に見とれながら、満願成就することを願うのみである。

更なる御神域に囲まれた、本殿・拝所は一段高いところに本社(ほんやしろ)がある。 その至近正面にあるのが「八足門」といって、一般の参拝はここまでである。 本殿と八足門との間にあるのが本殿・楼門で、この門は二階づくりになっており、階段の一番上(15段目)、つまり二階の部分が本殿の床のと同じ高さになっているという。 尚、階段の下の部分を「浜床」といい、昔は浜の近くに本殿が建てられていたらしく、この名前がついたともいう。

次回は、大社・本殿



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