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写真:九頭竜川河口に広がる三国港 日本周遊紀行(207) 三国 「九頭竜川流域」 荒々しくも見所一杯の越前海岸の国道305号を北上し、三国町に近付くに従って、どうやら穏かな平地が広がってきた。 左手には、今までの自然景観とは異なって、海岸に沿って物凄い工場群が連なっていた。 その終点に「九頭竜川」が万端の水をたたえて、すぐ其処の日本海へ注いでいる。 三国の地柄は日本海に沿って臨海企業、工場群が林立し、湊は九頭竜川の河岸に沿って開けている港といってもよい・・!。 これは往年の九頭竜川水運の特徴を今に残しているのかもしれない。 九頭竜川(くずりゅうがわ)は、福井県嶺北地方を流れる九頭竜川水系の本流で、越前福井と飛騨岐阜の国境にある油坂峠(717m)辺りを水源として、九頭竜ダムを経、大野盆地・勝山盆地を北西に進み、福井平野を潤しながら日野川と合流し北進、三国(坂井市)で日本海に注いでいる。 その九頭竜川は昔から河川物流、水上交通、水運の要として重要な地位を占めていた。 昔の人々が辿った陸路は、峠越えなど自然条件も過酷で難渋が多かった。 そのため林産物や平地で採れた穀物など重い荷物の輸送には大変苦労する。 そこで舟を利用した海、湖、川を利用する水上交通が発達した。 九頭竜川流域には、奈良時代は東大寺荘園、平安時代には興福寺兼春日社領荘園が多くあり、流域で産出された米や穀類などは、舟で九頭竜川から三国湊に集められ海路を敦賀まで廻送し、敦賀で陸揚げされた産物は駄馬に積み替えられて、陸路を琵琶湖の北岸にある海津、塩津まで運ばれ、次に琵琶湖水運を利用して大津まで廻送され、再び、荷揚げされて陸路を都や大阪へと運ばれたという。 九頭竜川は本流、支流とも昔から舟を利用した輸送が盛んに行われ、併せて良港や街道と交差する河川付近には市が立ち、人々が集まって発展してきたとする。 特に嶺北七郡の諸物資は、舟で九頭竜川などを下り、日本海沿岸にある交通の要地、三国湊に集まったという。 江戸近世の頃は、三国湊と越前国内の諸河川を往来する舟の利用度が高くなり、三国湊〜福井間を往来する舟は昼夜の別なく舟便があったとされている。 九頭竜川の名の由来や伝説・・、 この川は有史以来氾濫を繰り返す大河で、当初は「崩れ川」とも呼ばれていたが、いつしか変じて九頭竜川と名づけられるようになったと・・?。 しかし、“九頭竜“とは本来、印度伝来の仏法から生じたもので八大竜王の一仏神とされ、昔から水の神、雨乞いの神様として各地に祀られている。 或いは、水を治める為に命名されたものであろう。 他に、平安中期、平泉寺の白山権現が衆徒の前に現れ、その尊仏像を川に浮かばせたところ一身九頭の竜が現れ、尊像を抱いて流れに下り黒竜大名神社の対岸に着いたという。それ以降、この川を九頭竜の川と名付けられたとする、「越前名蹟考」より・・。 又、やはり平安中期における国の守り神として国土の四隅、すなわち東は常奥の鹿島、西は安芸の厳島、南は紀伊の熊野、そして北は越前の崩山の黒竜大明神に四神が置かれたとする。この黒竜大明神の祭神は水体、黒竜王であり、即ち、黒竜から九頭竜信仰が生まれ、その前を流れる川を黒竜川、つまり、九頭竜川と呼ばれるようになったとされる。 九頭竜は仏教と神道を守る神仏習合の神となり、九頭竜は水の神、雨乞いをつかさどる神として信仰を集めた。 現在、黒竜神社は、旧国道8号線の九頭竜橋南詰、船橋交差点東側に鎮座している。 次回は、平泉寺・白山神社
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福井県
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写真:越前岬灯台 写真:国道が交差する越前梅浦漁港 写真:弁慶の洗濯岩と柱状節理の鉾島 写真:呼鳥門と越前海岸の水仙 日本周遊紀行(206) 越前 「越前海岸」 鄙びた、玉川温泉から新造成った玉川トンネルを抜けると突端の越前岬である。 小さな(断崖絶壁にやっと設えたスペース)駐車場があり、古めかしい「越前海岸」と記した看板がチョコナンと立っていた。 越前岬は、越前海岸で最も西に突き出した、所謂・「く」の字の先端地点である。 海岸に見える、一種異様な岩の形は、海食洞やノッチ(VあるいはU字形の切り込みやくぼみ)、ベンチ(腰掛状の平らな部分)などの姿で数多く見られ、日本海の荒波が作り出した変化に富んだ奇岩・断崖でもある。この海岸段丘の高さ130mの断崖に白亜の越前岬灯台建っている・・、光は53kmまで届くという。 すぐ近くには、呼鳥門、鳥糞岩といった奇岩怪岩の名所がある。 海食による自然が造り上げた洞穴に国道が走るという珍しい岩である・・!。(現在はすぐ横に迂回路ができ、歩行にての見物スポットになっている) 糞鳥岩というチョット変わった名称の断崖は、多くの鳥住み着き鳥の糞が白くなっているで名づけられたという。 この先の国道沿いにも、夫婦岩、軍艦島、弁慶の洗濯岩、鉾島、亀島といった奇態な岩峰群が無数に乱列しているのである。 車のドライバーは、周囲のあまりの景観に注意しなければいけない・・!、越前海岸は全体的にこのような風景が連続しているのである。 又、越前海岸一帯は日本一の水仙の名所であることは周知である・・、 既に花の時期は終わったのであるが、海岸のほぼ全域に細く、しなやかな葉をそよがせている。 冬から早春にかけて、甘い香りを放ちながら海岸一帯に咲き誇るのが特に「越前水仙」といわれる。 日本海の寒風にもかかわらず、強く美しい花を咲かせ、雪が積もっても折れることのない越前水仙は別名「雪中花」ともいい、可憐な花と冬の荒々しい日本海との対比が印象深い。 この越前岬を中心とする中部でも水仙が自生し、12月から3月にかけて咲き乱れるといい、「越前岬水仙パーク」も整備されている。 ところで、日本のスイセンは外国のものが帰化したものとされている。 日本への伝来については中国・朝鮮からの渡来説と,暖流による漂流説とがあるが定かではないという。 まさか、稲作、鉄器、更には、焼き物と一緒に渡来した訳ではないだろうが、同一視することで一段とロマンも広がるというものか・・?。 一帯は、福井県を代表する自然景観でもあるが、日本海の季節風にさらされたスイセンは花が引き締まって日持ちも良く、香りも最高といわれ、切り花として関西を中心に中京、関東などへ出荷されている。 越前スイセンは,「福井県の花」に指定されており、郵政省の「花の切手シリ−ズ」第1 号に取り上げられた。 河野村は2005年1月南条町、今庄町との合併で「南越前町」として誕生している。 やはり2005年2月、越前町、織田町、朝日町、宮崎村の3町1村が合併し新「越前町」としてスタートしていることは先に述べたが、又、2005年10月、嶺北地方の中南部に位置する武生市と今立郡今立町が合併して「越前市」が誕生している。 この地方、地域の人々は古来からの名称である「越前」という名に相当固執しているようで、これはこれで大いに頷けるのである。 一方、越廼村(こしのむら)は、 2006年2月に福井市へ編入された。 この村は岬の先端に位置していて、合併廃止の前の時点では福井県の市町村では面積最小、人口最少であったらしいが、これで県内の貴重な村は全て消えて無くなったことになり、残念でもある。 次回は、三国・九頭竜川流域 【小生の旅のリンク集】 《 主な旅の記録 》 【旅行リスト】 【日本周遊紀行:東日本編】 【日本周遊紀行:西日本編】 【日本一周・海道を往く】(こちらは別URLです) 【日本の世界遺産紀行】 「北海道・知床」 「白神山地」 「紀伊山地の霊場と参詣道」 「安芸の宮島・厳島神社」 「石見銀山遺跡とその文化的景観」 《 主な山歩記録 》 【山行記リスト】 「白馬連峰登頂記(2004)」 「八ヶ岳(1966年)」 「南ア・北岳(1969年)」 「北ア・槍−穂高(1968年)」 「谷川岳(1967年)」 「丹沢山(1969年)」 「西丹沢・大室山(1969年)」 「八ヶ岳越年登山(1969年)」 「西丹沢・檜洞丸(1970年)」 「丹沢、山迷記(1970年)」 「上高地・明神(2008年)」 .
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. 日本周遊紀行(206) 越前 「渡来人と焼物」 沿岸道を北上すると越前町の梅浦という湊地区で、国道365号線と交差する。 この国道は内陸の武生から宮崎、織田という丹生の山間地を通って、ここ越前海岸に達している。 元々、織田町、宮崎村、朝日町というのは福井県嶺北地方に位置する行政地域であったが、2005年に2町1村が旧来からの越前町と合併し、新越前町が誕生している。 この宮崎、織田地区は「越前陶芸村」という陶芸の故里でも有名である。 この地域は古来、奈良朝以前から焼物が行われ、初め須恵器という大陸系技術による素焼の土器などが焼かれていたらしく、大陸伝来の手法が現在にまで引き継がれている地柄であるという。 丹生山地のことは前項にも記したが、海岸に沿って高位の山稜が続き、海側に急斜面となって落ち込んでいる。 最高峰は「六所山」(698m)で、「く」の字形の先端・越前岬からも水平距離にして4〜5kmと僅かな距離である。 逆に東方向、内陸に向かっては盆地などを形成しながら比較的緩やかに福井平野に繋がっている。 丹生(にゅう)山地の、「丹生」というのは「砂鉄を含む赤い土」という意味があるらしい。 縄文末期から弥生期にかけて、稲作とほぼ同時に鉄器文化(製鉄製法)やそれに類する様々な技法が大陸から移入されてきたことは以前にも数度述べたが、大陸に近いこの地方にも比較的早い時期に渡来したものと思われる。 この時期、朝鮮半島においては製鉄のための燃料となる樹木が多量に伐採され、ある箇所などでは禿山になって全く燃料が無くなったともいわれる。 この不足分を日本に求めたとも云われ、 越前の丹生山地などは恰好の地域であったと想像できる。 福井平野で稲作が作られるようになり、丹生山地の宮崎、織田の盆地では砂鉄による製鉄が行はれていた。 併せて半島(朝鮮)でも盛んであった、焼き物が行はれるようになったことは自然であり、理に適っているのである。 丹生山地は砂鉄を産し、尚且つ、焼き物の原料となる土類(粘土)も適性であったことから製鉄技術者及び焼物師も土着したものと思われる。 焼物は始め「須恵器」という硬質の生活用品、祭具としての器が製造されていたことが明らかになっている。 須恵器が朝鮮からやって来たのは5世紀頃とされ考古学的な文献にも残されていて、当、丹生山地にも相当数の遺跡が発掘されているという。 平安後期から壷や瓶などの日用雑器が焼かれるようになり、室町後期には北陸最大の窯場になり、「越前焼き」として確立されたという。 この地は瀬戸、丹波、常滑、備前、信楽と並ぶ国内の六古窯の一つでもあり、これら古窯跡は宮崎、織田に200基以上もあったとされている。 宮崎村と織田一帯の丘陵地、丹生山地には、窯の燃料となる雑木林と良質の粘土が豊富にあり、当初から壺や甕、擂り鉢などの台所用品が作られていて、越前焼は現在も、古来より趣向を変えることなく芸品、生活用品、そして雑器を焼き続けているという。 昭和45年、全国から陶芸家が集り、それらの有志によって「越前陶芸村」が造られたという。 小生は、陶芸の事はサッパリだが、愛好家には堪らない地域であるとか。 国道365号線は、越前沿岸と内陸を結ぶ主要幹線であることは当然であるが、併せて、古来より越前町と内陸部、そして京、阪神地方へと結ばれ、港は大陸との交易の窓口であったのかも知れない。 次回、越前海岸 【小生の旅のリンク集】 《 主な旅の記録 》 【旅行リスト】 【日本周遊紀行:東日本編】 【日本周遊紀行:西日本編】 【日本一周・海道を往く】(こちらは別URLです) 【日本の世界遺産紀行】 「北海道・知床」 「白神山地」 「紀伊山地の霊場と参詣道」 「安芸の宮島・厳島神社」 「石見銀山遺跡とその文化的景観」 《 主な山歩記録 》 【山行記リスト】 「白馬連峰登頂記(2004)」 「八ヶ岳(1966年)」 「南ア・北岳(1969年)」 「北ア・槍−穂高(1968年)」 「谷川岳(1967年)」 「丹沢山(1969年)」 「西丹沢・大室山(1969年)」 「八ヶ岳越年登山(1969年)」 「西丹沢・檜洞丸(1970年)」 「丹沢、山迷記(1970年)」 「上高地・明神(2008年)」 .
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写真:白竜の滝と越前がにミュージアム 日本周遊紀行(206) 越前 「越前地方」(2) その越前海岸を行くことにする・・、 早速、険しい海岸線のR305を行くことになる。 間もなく「白竜の滝」という園地が在って、そこから一筋の滝が流れていて涼味を誘う。 山中ならば何処にでも在りそうな、何の変哲も無い小滝であるが、海岸にいきなり流れ落ちているのは普通でない。 道路も園地もない以前の自然のままであったら、いきなり日本海に落ちていたのかもしれない。 またこの公園の南には、大正末期に舞鶴へ向かう途中、この沿岸付近で座礁・破船した軍艦の遭難園地があり、園内には墓銘碑も建っていた。 大正13年12月12日、舞鶴港へ向かう特務艦・「関東」(民間から転用された軍需用の給油艦)が激しい吹雪に見舞われ、河野村糠地区の沿岸で座礁破船した。事故の報せを受けた河野村民は、自らの危険も顧みず献身的な救助活動を繰り広げたというが、97名の尊い命が奪われた。 山肌の急斜面を無理やり切り取ったような海岸線に道路を付け、所々に道路に沿って人家があり、鄙びた漁村も点在している。 傍目(はため)では、長閑な雰囲気の海辺の田舎の風景であろうが、われわれ都会人・・?から見ると実際の生活は大変だろうな・・と変に勘ぐってしまうのである。 しかし現地の生活者に言わせれば、余計なお世話と叱られるかもしれない。 それにしても、厳冬期に日本海の季節風を的もに受け、実感としては厳しい地域風景を想像するのである。 河野村は、2005年1月南条町、今庄町が合併、「南越前町」として誕生している。 そして、「此れより越前町」の標識があった。 その千飯崎海岸近くにも集落と小さな漁港があり数艘のイカ釣り船が待機している。 この近辺も、海水面付近の波の侵食作用によるのだろう、海上には無数の奇岩、怪岩や海食洞などが形成されていて、見る者を圧倒させる。 久しく賑やかな港へ出た、越前町の港である、湊である・・?、 「ミナト」のことであるが・・、 昔はミナトを「湊」と書き、今は「港」と書くらしい・・? 、漢字源から察すると湊は陸の部分を指し、港は水の部分を指すらしい。 船が越前の港に入り、越前の湊に着く・・、とするのが正しいようである。 今、日本語が乱れていると言われるが、このぐらいの事はどうでもいいか・・?。 貴重な平地(殆どが人工的に造作した)に細長く人家が立ち並び、やはり陸地にへばり付くように湊が展開している。 ここは言わずと知れた「越前カニ」の最先端の基地である、カニの看板を付けた漁業関係の店や民宿風の宿屋が目立つ。 日本海の冬の味覚、ズワイガニ漁は11月頃から冬場にかけて最盛期をむかえる。 解禁と同時に海が荒れなければ、日本海に繰り出していた漁船が底引き網を投下し、網を引いて海底にいるカニを捕る。 福井県内の漁船は夕方には港に帰り、水揚げされたカニは早々に競りに掛けられる。 一般には「ズワイガニ」と呼び、福井県では越前ガニ、山陰地方にいくと松葉ガニと呼ぶらしい。 ズワイガニは雄カニの名称で、雌ガニはセイコガニと呼ぶらしい、これは初耳であった。 雌のセイコは背(背中)に子(卵)をもっていることから「セイコ」と呼び名が付いたという。 他に山陰地方ではセコガニ、石川、富山県ではコウバガニ、丹後地方などではコッペガニとも呼んでいるという。 ズワイガニは日本海、北方海域に広く生息していて、日本海では水深200メートルから500メートルの範囲に生息し、カニを賞味する日本人の嗜好が、ズワイガニを冬の味覚の代表とした。 一時は取りすぎで、カニ資源が枯渇するのでは・・、という懸念があったが、最近では沿岸自治体、漁港関係者等の努力で資源保護の成果も挙げてきているという。 最近、某水産メーカーが「ベニズワイガニ」を「ズワイガニ」として景品表示したとして、公正取引委員会から排除命令を出された事件があった。 ズワイガニ(本ズワイ)は、「松葉ガニ」、「越前ガニ」などの地域ブランドで知られる高級品として扱われている。 それに対し、ベニズワイガニは同じズワイガニ属の近縁種であるが、若干水っぽい肉質・鮮度落ちが早いなどで、加工用として用いる場合が多い。 価格もズワイガニの1/5以下の値段で取引されているようである。 越前ガニで名高い越前町厨海岸(くりやかいがん)には、国内にただ一つ、越前がにの生態を学べる「越前がにミュージアム」がある。 次回、越前の渡来人 【小生の旅のリンク集】 《 主な旅の記録 》 【旅行リスト】 【日本周遊紀行:東日本編】 【日本周遊紀行:西日本編】 【日本一周・海道を往く】(こちらは別URLです) 【日本の世界遺産紀行】 「北海道・知床」 「白神山地」 「紀伊山地の霊場と参詣道」 「安芸の宮島・厳島神社」 「石見銀山遺跡とその文化的景観」 《 主な山歩記録 》 【山行記リスト】 「白馬連峰登頂記(2004)」 「八ヶ岳(1966年)」 「南ア・北岳(1969年)」 「北ア・槍−穂高(1968年)」 「谷川岳(1967年)」 「丹沢山(1969年)」 「西丹沢・大室山(1969年)」 「八ヶ岳越年登山(1969年)」 「西丹沢・檜洞丸(1970年)」 「丹沢、山迷記(1970年)」 「上高地・明神(2008年)」 .
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写真:日本海の荒波寄せる特異な越前海岸 日本周遊紀行(206) 越前 「越前地方」 敦賀から福井・越前に入るには、越境山脈を超えなければならない。 ところで、現在の福井県の県域は若狭湾から北陸と呼ばれる三国町(現、坂井市)辺りまでをさすが、昔は若狭の国、越前の国と行政上の二国としての区分があったらしい。 今の呼称としては若狭とか越前というのは余り言わないらしいが、愛称として、若狭、越前の代わりに越境山脈を境に嶺北、嶺南などと呼んでいるらしい。 即ち、鉢伏山を主嶺とした海側から山中峠〜木ノ芽峠〜栃ノ木峠の稜線より北東部を嶺北(れいほく)地方と、南西部を嶺南(れいなん)地方と称しているようで、この福井県の両地域は人や地域の気性(サガ)も異なると言われている・・?。 又、歴史的な経緯を見ても、明治4年の廃藩置県により福井県ができてから、現在の嶺北地方を福井県、嶺南地方を敦賀県に整理・分県された時期もあった。 その後(のち)、10年後の明治14年に其々分離統合されて、現在の福井県が設置された。 従って、往時の呼称、分県状況から越前即ち嶺北地方、若狭を嶺南地方と今でも呼んでいるようでもある。 北陸越前といったら一般には、この敦賀の山域を越えた今庄辺りから武生、鯖江、福井本庁から丸岡、金津あたりと、内陸部の大野、勝山あたりを指すのが普通である。 所謂、越前平野(福井平野)といって、肥沃な平地が広大に広がる地域で、日野川、足羽川、そして、あの九頭竜川が揉み合うようにして氾濫を繰り返し、その都度大量の土砂を置き去りにし、沖積平野を形造ったという。 この越前地区は、古来より越の国として人、物が頻繁に流通し、又、戦乱の相克が激しく興った地域でもある。 現在でも道路、鉄道、高速道が南北に駆け巡り、古来より変わらぬ交通の要衝となっている。 尚、新幹線についても構想が進捗中で、長野から上越、富山、金沢、福井、敦賀、小浜を経て新大阪へ繋がる北陸新幹線が着々と進められている。 これによって何れは、北陸新幹線が東海道新幹線と・・、即ち、日本の中心地域である太平洋岸と日本海側が直結され、関東・北陸・近畿・中京・東海を環状に結ぶ高速交通ネットワークが形成されつつある。 敦賀より発した国道8号線は、一旦、沿海を北上するが山中峠(トンネル)を抜け、河野村辺りで内陸の福井平野に至っている。 海岸線は敦賀北部の比田地区で分岐した国道305号線が走っている。 この越前海岸地域は、越前岬を西端に緩い「く」の字形で日本海へ突き出ている。 海岸線はいきなり聳え立つ山稜を呈し、急峻な海岸段丘や海食断崖が続いていて近年まで人跡少なく、陸路は永年交通の難所だった。 所謂、標高700m前後の「丹生山地」が、沿岸山地と内陸の福井平野を切り離すように壁が造られているのである。 次回、引き続き「越前地方」 【小生の旅のリンク集】 《 主な旅の記録 》 【旅行リスト】 【日本周遊紀行:東日本編】 【日本周遊紀行:西日本編】 【日本一周・海道を往く】(こちらは別URLです) 【日本の世界遺産紀行】 「北海道・知床」 「白神山地」 「紀伊山地の霊場と参詣道」 「安芸の宮島・厳島神社」 「石見銀山遺跡とその文化的景観」 《 主な山歩記録 》 【山行記リスト】 「白馬連峰登頂記(2004)」 「八ヶ岳(1966年)」 「南ア・北岳(1969年)」 「北ア・槍−穂高(1968年)」 「谷川岳(1967年)」 「丹沢山(1969年)」 「西丹沢・大室山(1969年)」 「八ヶ岳越年登山(1969年)」 「西丹沢・檜洞丸(1970年)」 「丹沢、山迷記(1970年)」 「上高地・明神(2008年)」 .
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