『日本周遊紀行』

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写真:神宮寺本堂と本堂横の霊水・閼伽水と名札
写真:鵜の瀬の清流と「お水送り」の神事



日本周遊紀行(203) 小浜 「“お水送り”と“お水取り”」

その神宮寺本堂の手前に霊水の井戸・「閼伽水」というのが、風格のある家屋に護られて巌(いわお)と共にあった。 この「霊水の井戸」は、若狭・神宮寺の「お水送り」の行事に利用するという。
この「お水送り」というのは、三月に奈良・東大寺の二月堂で行われる「お水取り」の行事に使われる聖なる水のことらしい・・?!。


「お水送り」の行事とは・・?、 
先ず、8世紀(752)年にインドの渡来僧・実忠和尚(じっちゅうおしょう)が「東大寺・二月堂」建立の際に、修二会(しゅにえ)という法要を実施したのが始まりといわれる。 
え・・ッ・!、東大寺は「お水取り」ではなかったの・・?、
この行法は東大寺の二月堂の本尊・十一面観音に向かって、僧侶たちが世の中の罪を一身に背負い天下泰平、五穀豊穣、万民快楽などを願って祈りを捧げ、代苦者、つまり一般の人々に代わって懺悔(さんげ)の苦行を勤めるものである。  
この法会は、現在では3月1日より2週間にわたって行われているが、もとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会(ほうえ)という意味をこめて「修二会」(しゅにえ)と呼ばれるようになった。又、二月堂の名もこのことに由来している。
 
これら一連の行法を、俗に「お水取り」とよばれ、11人の僧侶・「練行衆」が選ばれ執り行われる。 奈良期の開祀以来一度も途絶えることがなく、平成16年(2004)で1253回を数えることになるという。
これは実際に現在でも行われている行法であるが、これには伝承もある。 
昔、実忠和尚が、東大寺二月堂・修二会の行法中、全国の「万の神」である一萬七千余の神名を読み上げ参集を求められた所、若狭の国・「若狭彦神社」の遠敷明神(おにゅうみょうじん)だけが魚釣りに出かけていて遅刻してしまったという。 諸神に其遅刻を咎められ、そのお詫びとして本尊に供える「香水」を若狭から送ると約束した。 そして、若狭神社において毎年3月2日、奈良東大寺・二月堂へ「お水送り」の儀式を行うことになったという。
 
境内にある井戸から霊水を取り、遠敷川(おにゅうがわ)の「鵜の瀬」と呼ばれる場所から霊水を流す。 こうして流された霊水は地下水脈を通って、奈良東大寺までたどり着くと信じられている。 東大寺・二月堂の下にある「若狭井戸」は若狭の「鵜の瀬」から導かれたものとして、その名が付いている。
遠敷川の上流部、神宮寺の更に奥の下根来というところに「鵜の瀬」という名所があり、夏になると子供がこの地で水と戯れるほどの清麗な流水がながれ、環境省の名水百選にも選ばれている。

現在行われている実際の「お水送りの」神事は、残雪が未だ見られる春まだ早き3月2日、先ず神宮寺本堂で「修二会」が営まれ、神宮寺・遠敷明神宮前では、弓打ち神事など祭事が行われる。 夕刻からいよいよ「お水送り」の始まりで、神宮寺本堂の回廊から大松明を左右に振りかざす達陀(だったん)の行と言うのが行われ、大護摩(ごま)に火が焚かれる。 白装束の僧侶らを先頭に、大護摩からもらいうけた火を手に、三千人ほどの松明行列が、2Km上流の鵜の瀬へ向かう。 
鵜の瀬で護摩が焚かれると、いよいよ送水神事の始まりで、白装束の住職が祝詞を読み上げ、竹筒からお香水(こうずい)を遠敷川へ注ぐ。 そして、このお香水は10日かかって東大寺・二月堂の「若狭井」に届くとされており、よって奈良のお水取りは 3月12日に行われるのである。
 
過ぎる頃、東大寺・二月堂の「お水取り」は、3月12日の真夜中、すなわち13日の早朝、3時頃に行なわれる行事であることは周知である。 
この「若狭井戸」からの「お水取り」の行法は、一度も欠かされたことがない行法、所謂、「不退の行法」であり、根本香水の入った水壷は、1200数年前からの香水を入れるための壺ということになる。
行事は、朝早くより多くの信者や群衆で溢れ、後はテレビの映像でお馴染みのとおり、11本の松明が次々と上堂・二月堂の欄干に集まった群衆に火の粉を浴びせかける。 
天をも焦がす勢いの大松明に歓声だけが夜空に響く最も華やかな、水と炎の祭りの一大ページェントである。
この東大寺・二月堂の「お水取り」は、春の到来を示す行事ともいわれ、春の季語にもなっている。

『 水取りや 氷の僧の 沓の音 』  芭蕉(野ざらし紀行)
(厳しい余寒に耐えて修二会の行を修する衆僧の、内陣を散華行道するすさまじいばかりの沓の音が、氷る夜の静寂の中にひときわ高く響きわたる。)

因みに小浜は、市内に点在する数多くの文化遺産から「海の正倉院」とか、或は「海の有る奈良」とも呼ばれているが、「お水送り」、「お水取り」という神事で、小浜と奈良は1200年の時を経ながら直接繋がっていたのである。
 
次回、更に小浜・オバマ
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日本周遊紀行(203) 小浜 「神宮寺と神仏習合」

ところで、一般に神宮寺(じんぐうじ)とは、日本において神仏習合思想に基づいて神社を実質的に運営していた仏教寺院のことである。
日本に仏教が伝来した6世紀中頃の飛鳥時代には、当然、神道と仏教はまだ統合される事はなかったが、奈良から平安期になり仏教が一般にも浸透し始めると日本古来の宗教である神道との軋轢が生じながらも、神社の境内に寺院(神宮寺)や僧形の神像が造られるなど、神々への信仰の中に仏教が浸透していった。
又、神々が仏法を守護する神として仏教の下に取り込まれる(宇佐八幡宮が大仏造立に積極的に協力するなど )という形にもなった。 そこから“神は仏の仮の姿”であるとする「神仏習合思想」が生まれ、寺院の中で仏の仮の姿である神(権現)を祀り、営まれるようになった。 
日本では千年以上のもの間、神と仏の複雑な混淆・折衷が続けられてきた結果、神仏両宗教という日本の歴史的風土に最も適合した形へと変化し、独自の習合文化を生み出した。 即ち、 神仏習合のはじまりが神宮寺の出現であり、越前国・気比大社の神宮寺や8世紀初頭の若狭国・若狭神社の神宮寺の建立はその先駆けをなすものでもあった。

早い話が、神社の霊、御魂は過去に偉大な功績を残し、その後に、記念としてその者を奉るに過ぎず、時々、お祭りをしてやればそれで良かった。 そこには、尊大ぶった教えや、思想、哲学などは無く、通常はただジッと鎮座してれば良かったのである。 
しかし、仏教というという新しい教えや、思想なるものがいきなり入り込んできて、どうじゃ・・!こうじゃ・・!と人の心の中の説教をしはじめる。 人々はおろか神社宮司から神社の御霊にまで影響するようになり、神々が「私は迷っている、ぜひ仏法を聞きたい」などとも言って、神というものが仏教に取り入れられ、「権現」、「明神」といった、神性の仏になってしまったのである。 
「八幡大菩薩」などといって、神仏がごちゃごちゃになってしまったのがいい例で、これが所謂、神仏習合思想である。 そして有力な神社にあっては、神宮寺が併設され、寺僧が神に対して仏事で仕え、お経を上げるのである。 つまり、神職より、僧の方が位が上がってしまったのである。 これを一般に「本地垂迹(ほんちすいじゃく)」と言われて、これはなんと、凡そ1000年以上もの間、明治の神仏分離政策まで続くのである。

別当寺(べっとうじ)とは、神仏習合が許されていた江戸時代以前に、神社に付属して置かれた寺のことで、神前読経など神社の祭祀を仏式で行う者を別当(社僧ともいう)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と言った。 神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義である。
奈良時代には、伊勢・大神宮寺、越前・気比神宮寺、常陸・鹿島神宮寺、豊前・宇佐比売神宮寺、出雲大社別当寺・鰐淵寺など、日本の主要な神宮を取り込んでしまう。 その後も、寺院は寺領を拡大し、鎌倉期においては読経・教義そっちのけで武僧集団まで造ってしまうのである。
そして戦国期、新風を吹き込みながら台頭してきた織田信長が寺僧の武力化、政治介入など余りの傍若無人さに業を煮やし、比叡山の焼き討ちや一向宗徒の撃破などで、一時的には退けることになる。 しかし、信長の偉業・・?は、明治維新の神仏分離、廃仏棄捨の其と比べれば、まだ可愛いものであった。
  
元来、仏教が日本に伝わって以来、その形は日本の神々を取り入れ、神仏習合という独特の宗教文化を形作った。 近年、一般に日本人は無宗教であると言われるが、実際は神仏信仰は生活のすみずみにまで浸透していて、盆や正月の年中行事のほか、占い・祭礼・お守り札などの多様な民俗信仰の形を現代においても継承している。
これは日本特有の折衷文化、融合文化であるが、しかし、世界的に見ると異宗教間や他宗教同士では融合することは有り得ず、歴史的にも宗教戦争など宗教界あげて、又は国を挙げて他宗教を排し、合い争うのが常道だった。
これらの折衷文化は、日本人特有の特異(得意)な特性かもしれない・・!!。

次回は、「神宮時・お水送り」


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写真:若狭彦神社(上社)と若狭姫神社(下社)
写真:神宮寺本堂と仁王門


日本周遊紀行(203) 小浜 「若狭一の宮と神宮寺」

海神(綿津見神:ワタツミノカミ)の娘、豊玉姫を祀る若狭姫神社と、豊玉姫の夫、彦火火出見尊(ヒコ・ホホデミ:山幸彦)を祀る若狭彦神社は、二社あわせて「若狭一の宮」と呼ばれる。 
祭神二神は海彦・山彦の神話の登場人物でお馴染みで、二人のあいだには鵜萱草葺不合尊(ウガヤフキアエズ:日向・鵜戸神宮)が生まれ、ウガヤの子、つまり両神の孫が神武天皇である。
 
若狭彦神社は畳、敷物の神ともされ、現在はインテリア関係者の信仰も厚いという。
この訳は、豊玉姫が産気づいたので海辺に産屋を作ろうとし、茅草のかわりに鵜の羽を葺(ふ)こうとしたが、葺き終らないうちに豊玉姫が産気づいたため、その子の名を「ウガヤフキアエズ(鵜茅葺き合えず)」と名付けられたという、つまり鵜の羽の葺物、敷物の伝説に元ずいたものであろう。
若狭姫神社は安産・育児に霊験があるとされ、境内には子種石と呼ばれる陰陽石や、乳神様とよばれる大銀杏などがある。 
創建は、社伝によると和銅7年(714年)に両神が示した白石の里に上社・若狭彦神社が創建された。 そして下社・若狭姫神社は、養老5年(721年)上社より分祀して創建されたとある。 延喜式神名帳では「若狭比古神社二座」と書かれており、現在、祭事は下社・若狭姫神社で行われているという。
  
両神の鎮座する道に沿った更に奥まったところに、小浜・若狭地方でも随一と言われる古刹・「神宮寺」がある。 714年(若狭神社と同一)の創建と古く、鎌倉初期には若狭神社の別当寺(神社に付属した寺院で、神仏習合説に基づいて神社に設けられた神宮寺の一つ)であった。 若狭随一の木造本堂が雄大な姿で座して居る。
若狭神宮寺は五木寛之の百寺巡礼の20番目にも記述されているほどの古寺である。
この寺の面白いところは、神仏を合わせ持っているのが特長てあろうか。 山門や本堂には注連縄が飾られ、本堂内でも仏像と並んで若狭彦、若狭姫をはじめこの地にゆかりの神々の名が書かれた「神号」が祀られているという。 参拝も神仏両用で、柏手を打って神様仏様を拝んでも良いらしい。
江戸末期までは三重塔など二十数の御堂が在ったとされるが、明治政府による神仏分離令、その後の廃仏毀釈の嵐で殆どを破壊されたが、しかし、本堂、仁王門など一部の建物は生き抜き、今でも神仏を合わせ拝む習俗が残っているともいう。
ところで、小浜の市街地や周辺地域に古い寺や神社が多いのは、朝鮮半島にも近く大陸の人や文物がこの地を経由して、鯖街道、御食の道を100キロほど先の奈良・京都へ運ばれたことと関連があるかもしれない。 

次回、神仏習合について・・、


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写真:空印寺(元、若狭の守護・武田家守護館)


日本周遊紀行(203) 小浜 「後瀬山」

「鯖街道」は、現在の国道27号線の上中町より303号線、367号線となり、所謂、若狭街道と呼ばれる国道を、比叡山系から比叡山山麓、大原を経て京都に達する道である。 運ぶ人達は『京は遠ても十八里』と歌いながら寝ずに走り、歩き通したという。
尤も、広義には「鯖街道」とは福井方面から海産物を運んだ街道全てを指す場合もある。
尚、小浜では当時のルート(福井県小浜-京都市出町柳間76キロ)を走り通す「鯖街道マラソン」というのが毎年開催されているらしい。 ルートの大半が未舗装路であり高低差も大きいことから別名、ウルトラ山岳マラソン鯖街道マラニック(マラソン+ピクニック)とも呼ばれるとか・・。
  

『 かにかくに 人は言ふとも 若狭路の 後瀬(のちせ)の山の 後も逢はむ君 』
  
と、古く、坂上大嬢(さかうえのおおいらつめ・大伴家持の妻)が、「万葉集」に詠んだ後瀬山(のちせやま)は、小浜の市街地のすぐ南にある山で、標高168メートルの比較的低い山というより丘である。
この後瀬山に戦国の世に相応しい山城が築城されたのは、大永2年(1522年)のことで、
当時の若狭国守護・武田元光が、全国的にも飛躍をみせ、海外との貿易も視野に入れた小浜湊を望み、山麓に往来する丹後街道を掌握する要衝の地に、この城の縄張りを行ったとされる。
城主は、築城した初代・若狭武田氏から八代元明へと継承されたが、戦国期、1568年(永禄11年)8月に越前朝倉氏の若狭進攻によって武田・領国は失うことになる。 
1573年(天正元年)に織田信長によって朝倉氏が滅亡すると、若狭を任されたのは丹羽長秀だった。 若狭武田氏が滅亡後は、織豊系武将の丹羽長秀、浅野長政、木下勝俊が相次いで入城し、後瀬山城は若狭国を統治する拠点として存続していた。
やがて、関ヶ原合戦後に入国した京極高次(若狭国小浜藩初代藩主)によって後瀬山城は廃城となり、新しく築城された「小浜城」(東の小浜湾の海岸を背に、北川と南川に挟まれた中州に築城、水城:現、小浜神社近辺)にその役目が引き継がれることになる。

因みに、若狭武田氏は甲斐源氏武田氏と同族で、鎌倉政権発足時は甲斐守護であったが、「承久の乱」後に安芸の守護職も獲得、そして、元寇に際して初めて安芸に下国したとされる。
武田元光は、1519年に父の元信が出家したため、家督を継承して第6代の若狭国守護となり、後瀬山城を本拠とした。
「承久の乱」とは、鎌倉幕府三代将軍・源実朝の死が発端となり、1221年(承久3)に起こった鎌倉幕府と朝廷との争乱である。 皮肉にも実朝没後、源氏将軍の断絶を契機に、都では朝廷(後鳥羽上皇)が権威挽回のために乱を起こしたが、幕府側が勝利した事により、幕府は朝廷を含め当時の日本全国を掌握することになった。


古来より日本海側の諸国の物資を京都へ運ぶ中継港として栄えた小浜であるが、室町期、若狭武田家の守護舘は現在の「空印寺」の境内あたりにあったとされる。
空印寺は、若狭の守護・武田元光が守護館とした場所で戦国末期、小浜城を築城するまでは、この地が小浜の政治の中心地であった。 江戸期には、小浜藩・酒井家の菩提寺でもあった。
城址である後瀬山からの眺望は、眼下に西流する北川と南川が一望のもとに眺められ、その南川の河口には、諸国の産物で賑わう天然の良港小浜湊が望める。

こんな、小浜の豊かな風土と文化は、今日の町社会にも少なからず影響が残っている。 
小浜西部地区の後瀬山周囲には、歴史的建造物や町並み保存地区が並び、数多くの歴史と由緒ある寺院が点在する、否、密集していると言ったほうがいいかもしれない。 
著名な寺院が、その数合わせて50とも60ともいわれ、正に寺社だらけで、若狭の海のある小奈良、小京都といえる所以である。
又、小浜には、現在も「四社参り」と称して由緒ある神社へ市民がお参りする習慣が続いているという。 氏神の「八幡さん」、火の神の「愛宕さん」、水の神の「瀧の天神さん」と「神明さん」 ・・・と、生活に密着した社宮がある。 
更に、これとは別に小浜・宮の前地区には、神話時代からの伝説的神社、若狭の国の開祖神、総鎮守とされる「若狭一の宮」が鎮座している。

小生は、ここを訪ねることにした。
国道27より案内にしたがって山手の方向へ右折すると間もなく先ず、「若狭姫神社」があり、更にその奥に「若狭彦神社」が鎮座していた。 
両神とも、山裾の静寂な田園地帯に建ち、鬱蒼とした鎮守の森に鎮まっていて、神霊を感ぜずにはいれないほどである。 若狭姫神社境内へ入ると、手水鉢に美しい水が溢れて、広葉樹の森を背に建つ拝殿脇には樹齢千年といわれる千年杉が聳えたつ。

次回は「若狭一の宮」


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写真:小浜市内、鯖街道起点の路面表示


日本周遊紀行(203) 小浜 「鯖街道」

舞鶴を後にして、国道27号線、通称、丹後街道を行く。
舞鶴から若狭へ抜ける半島を横切るようにして、若狭の小浜方面に向かう。 青葉山系のトンネルは既に京都府と福井県との県境に位置していて、抜けると福井県である。 その最初の町が高浜町であるが、暫く行くと若狭の素敵な海岸が広がっていた。 更に、大飯町(おおいちょう)の小浜湾もなかなか結構な海岸であり、和田の青戸の入り江などは鏡のように静かである。 それもその筈で、小浜湾が鋸崎、松ヶ崎といった両岬に挟まれた狭い湾口の奥に小浜湾があって、その又西側の奥へ細長く入り込んだ青戸入を形成しているためである。江をにある。 尤も、若狭湾そのものが日本海側では珍しい海と陸とが交互に出入りする、大規模なリアス式海岸になっているのが特徴である。
若狭本郷の駅前を過ぎると、間もなく対岸を結ぶ巨大な橋が見渡せる。 静かな若狭湾が更に深い入江となっている青戸入江の付け根に架かっているのが青戸大橋で、海上橋が国道27号と大島半島の犬見崎を結んでいる。 かつて陸の孤島と呼ばれていた大島半島の大島地区と本土・JR線などを最短で結んでいる、生活には非常に重要な橋であろうことが伺える。


静かな若狭湾に点在する各港は古来より良港で、鯖(サバ)などの魚介類の水揚げ地でもあり、しかも京都にも近いため丹後街道、若狭街道などは、いわゆる「鯖街道」とも言われていた。
その最も良港の一つである、小浜湾の東に位置する小浜市に入って来た。
 
小浜は歴史と伝統が息ずく町である・・、
古代から日本海を隔てた大陸との交易が開け、日本海側屈指の要港として栄え、陸揚げされた大陸文化や各地の物産は所謂、鯖街道などを経て、近江、京都、奈良にもたらされた。 それらの証しとして小浜の大陸とのつながりは、市内に点在する数多くの文化遺産からも伺い知ることができ、即ち、「海の正倉院」とか、或は「海の有る奈良」とも呼ばれてる。

小浜には「鯖街道基点の印」が今も残る・・、
市内のいづみ町商店街内に、その起点プレートがある。
ここが、鯖街道の始まりで、小浜から熊川宿、朽木を経て、京都へ18里、約70kmであった。

『若狭湾で取れた鯖に、一塩して、夜も寝ないで京都まで運ぶと、ちょうど良い味になっていた』

と古来よりいわれたという。 
因みに、昔の鯖は今と全く比較にならないほど大量に獲れ、体形も大きく、一般庶民、特に都人にはに喜ばれたという。 このため鯖を担いで走る街道を、いつしか鯖街道の名が付けられたという。 しかし、鯖は一つの代名詞にすぎず、その他、多種の海産物などが運ばれたのは当然で、いわゆる北前船から陸揚げされた物資も盛んに輸送され、この中には日本海の塩も加わり、別名、塩の道でもあったという。 
小浜は、鯖街道である“食の道”の他に政治の道、軍事の道、特に文化の道でもあった。 特に大陸文化の交流、渡来品も盛んで、室町時代には南蛮船が小浜へ”象”をもたらした史実などがあり、遠く南方との交流をも覗かせるという。

近年、差別用語として余り使われなくなったが、つい最近までよく用いられた「裏日本」という言葉があった。 そのイメージは暗く、うら寂れた感じを伴い、日本海側地帯の特徴を表しているような錯覚さえも起こさせた。 しかし、雪の国・越後新潟の項でも記したが、この裏日本という用語は僅か百年ばかりの歴史しかなく、この日本海に面する越の国を含む一帯は、大昔より、まさに国土の表日本であり、しかも若狭地方はその正面玄関でもあった。

次回も小浜の「後瀬山」


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