『日本周遊紀行』

「goo」で、「yahoo」な国柄・・、日本万歳・・!! http://www.geocities.jp/orimasa2001

石川県

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日本周遊紀行(221)七尾 「七尾城」 .



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写真:草生した七尾城址(本丸への上り口)




能登半島は、無理していうなら鮫の顔に似ている・・!、 
鮫が口を開いて能登島をガブリと銜(くわえる)え込んでいて、その口元から下顎に当たるのが「七尾市」であり、喉仏に相当するのが「和倉温泉」の地域であろう。 
その七尾市へ向った。

七尾市は能登半島の中程に位置し、平成16年(2004年)10月、旧七尾市、田鶴浜町、中島町、能登島町の1市3町が合併し、新生七尾市として新しい一歩を踏み出した。 
この地域は、天然の良港として栄えてきた七尾港を海の玄関口とし、古代より能登の政治・経済・文化の中心地として発展を続けてきた。


鮫の頭部に似た、能登国は小国である。 

律令制によって養老年間、越前国から分立、更に、越中の国との併合と分離の変遷を繰り返している。 
その、越中国に併合されていた時期に越中国守であった「大伴家持」が巡視に訪れた事は先に記したが、この奈良期、能登国守として実際に政務を執ったのが「源順」(みなもとのしたごう)であった。 

源順は嵯峨天皇の直系で平安初期の学者、歌人と若い頃から博学で有名で、20代で辞典『和名類聚抄』を編纂している。 
三十六歌仙の一人にも数えられ、大変な才人として知られており、源順の和歌を集めた私家集『源順集』もある。 

尤も、源順が能登守に赴任するのは七十歳の老翁であったという。 
従って、国政としての真新しい実績はあまり無く、博学歌人としても能登においては名歌は残していないという。 

能登の人は、源順については余り記憶の中に無いという。 
又、実際に政務を執ったとされる国庁の跡は未だ発掘されず、源順が編纂した和名抄には「能登国国府在能登郡」とあるので、現在の七尾市古府の総社の近くか、七尾市府中町の辺りとも云われてる。   


次に、西方、高さ300mの山中に「七尾城址」がある。 
室町中期、能登畠山氏(12世紀、源頼朝の重臣・畠山重忠の分家筋)の初代当主・畠山満慶(はたけやま みつのり)が城山に城を築いたのが始まりといわれる。 
城は、尾根を平に削って曲輪(重臣達の居城)を連ねる典型的な山城の縄張りで、長屋敷・本の丸・二の丸・三の丸など尾根筋に並び、その堅固さは日本の五大山城(謙信の越後・春日山城もその1つ)とも言われた。  
しかし戦国期、さすがの堅城も上杉謙信の侵攻により開城させらる。上杉謙信は七尾城を攻め滅ぼした後、本丸から眺める七尾湾のあまりの素晴らしさに「九月十三夜」という詩を読んだといわれる。

九月十三夜』  陣中作 上杉謙信(1530-1578)

霜軍営満秋気清
数行過雁月三更
越山併得能州景
遮莫家郷遠征憶


1行:見渡す限り真っ白な霜が、我が陣営いっぱいに満ちて、秋の気配がすがすがしい。
2行:幾列もの雁の群れが空を飛んで行き、真夜中の月が白々と照り映えている。
3行:越後、越中の山々の他に、手中にした能州を併せたこの光景はまことに素晴らしい。
4行:故郷では遠征のことを案じていることだろうが、ままよ、今夜はこの美しい十三夜の月を静かに賞でよう。


その後、謙信から前田利家と城主を変えたが、戦国の世も終わりを遂げつつあるとみた利家は、山城を不便として七尾城を廃城にし、行政府は平地に造った「小丸山城」に移したという。

七尾城の本丸などに見られる石垣は、造成技術が未熟な頃の戦国初期(室町期)に造られたものして貴重なものとされ、又、七尾城は山全体が城とも言える複合城で、その範囲はかなり広く、長期の篭城にも耐えうる性格を持っていたという。

七尾城跡は現在、七尾市によって保存整備計画が進められていて、現在の城跡範囲の追加、拡大と城下町の遺構の範囲までの史跡指定を進めている。 
また、七尾城下町の町並、通路の復元なども視野にいれているという。 
ただ現時点では未だ計画段階に過ぎず、本格的な保存・調査・整備はまだ先であるという。


次回は、富山県・「氷見





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  日本周遊紀行(221)七尾 「和倉温泉」   .



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写真:最後の宿「フローイント和倉」


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部屋にて・・、(小生の素顔です)



能登島大橋を渡った先の、和倉温泉東の交差点を右に行った先に、地方公務員の保養所になっている「フローイント和倉」があった。 
一見、五階建ての地味な建物であるが、玄関を入ると真赤な絨毯が敷かれた広ーい豪華なロビーは一流ホテルを思わせる。 
案内された最上階の和室はゆったりとした新装の施しがしてあり、窓の向こうには能登南湾から能登島が一望できる展望絶佳な部屋だった。

早速、湯に浸かる・・、
温泉浴場は一階に設置してあり、大窓で風流な中庭の和庭を見ながらの大浴場は満足である。
露天風呂がないのが残念であるが、折角だから、中庭の一角にでも掘っておけば、一段と風流さを味わえるのにと思ったが・・?。 
湯質は海辺の温泉のせいか塩分が多く含まれて、やや塩味がするが、効能豊かそうなサッパリした湯である。 
風呂上りで寛いでいるとやがて食事の時間になり、部屋に御膳が運ばれてきた。 
ビールは部屋の冷蔵庫から取り出し、精魂の入った地元の食材、海の幸とともに戴き、更に地の酒を流し込む。 
至福の時である。 

それにしても、こちらの会席風の料理は超一級品であり、実感を込めて礼を言っておいた。 旨い酒に、美味い肴で今夜も気持ちよく酔えた。

思えば、長道中の内の今日は最後の夜になるだろう。
公営の宿舎とはいいながら、一流ホテル以上の隅々までの気使いを実感して大満足である。
今日の旅路の纏めも、そこそこに、もう一ッ風呂浴びて心地よい夢路を辿った。


目覚めて、更に、朝湯に浸かる。 
部分覚醒が朝の湯浴みによって全身覚醒に至るのである。 
あらためて屋上ラウンジより外を眺めると、海辺に沿って高層のホテル群が林立していて、その奥のほうに一段と巨大なのが、和倉温泉でも特に有名な「加賀屋」だという。 

加賀屋は、旅行雑誌、その他に取り上げられる名旅館であり、全国的にも評判の旅館で、その豪華さ、満足度の点で日本を代表できる旅館だという。 
プロが選ぶ日本のホテル旅館100選」では、26年連続で加賀屋が一位となっているという。 日本一の「加賀屋」の施設、建物は七尾湾に突き出るようにして建っている。 
温泉が海から湧き出るように。


実は和倉の温泉は、時代を遡ること凡そ1200年も前に、沖合60メートルの海中から湧き出したという・・!。 
湯の湧き出づる浦」、湯涌浦(ゆわくうら)が発見されたが、実際に大衆、民衆が温泉として利用したのは江戸期に近い後の世のことであった。 
江戸期には加賀藩の統制を受けつつ、湯が涌く「涌浦村」は加賀前田家の命により今日の「和倉村」と名を改めたとされる。 

明治初期の廃藩置県の際、村人により和倉村の“湯権”は官地ではなく村の共有地として認められ、ともなって「湯の島」であったのが埋め立てられて陸続きとなった。 
湯が発見され、湯島ができ、船着場や橋ができ、そして埋め立てて陸続きになったのは、或いは、今の「加賀屋」辺りではないだろうか・・?。 
加賀屋は今の和倉温泉の草分けといわれ、創業は明治中期の頃という。


和倉温泉は明治初期、ドイツで開催された万国鉱泉博覧会で三等賞を受賞したと記録にあるという。戦後になって交通アクセスの向上に伴い、温泉街も大規模化し、高度経済成長期になって能登方面にも観光ブームが沸き起こり、その後北陸本線の特急が直行運転され、急速に宿泊客が増加した。 

一時は同じ石川県内の加賀温泉郷や福井の芦原温泉と同じく歓楽要素を持っていたが、今日その傾向は薄く、加賀屋旅館の影響もあって各旅館とも高級指向を全面に打ち出し、今では山代温泉を抜いて、県内温泉地では宿泊客トップを誇るという。 

大きな旅館が林立する和倉温泉の街中に、唯一の共同浴場「総湯」がある。 
「竜宮城」という豪華な浴場もあり、その他、お楽しみのセンター形式の浴槽もある。 
温泉はナトリウム・カルシウム塩化物泉(高張性中性高温泉)で神経痛、筋肉痛、関節痛、特に慢性皮膚病、虚弱体質、慢性婦人病等々に効くという。 
飲用も可能だというがチョッとしょっぱいのがのが難・・。


江戸期、大阪に居ながら和倉温泉の湯に入ることが出来た・・? 
この頃の温泉は、現在のように湯につかって、飲んで食べて一泊する楽しみではなく、農作業などで疲れた体を癒す所謂湯治が主流であり、多くの病に効くことが自慢となっていた。 
涌浦(和倉)の温泉は、海中の小さな島である湯島から出ていて、湯治用の建物建設は不可であり、そこで、七尾の商人やお偉いさんは和倉の湯を船で運び、七尾の旅館の風呂に入れて湯治がわりにしたという。 
この風習が各地に広がり、金沢や富山や大坂までも、湯が樽に詰められて船で運ばれるようになったとされる。 
商人(あきんど)の町、大坂の「和倉の湯」は大変人気があり、温泉好きな人々を居ながらにして楽しませたといわれる。 

現在、関西方面の利用客が多いのは、この「樽湯」の伝承が大阪地域には行き渡っているからだろうとも云われる。
和倉温泉駅まで電化されていることもあって、関西の大阪・京都方面、名古屋、新潟(越後湯沢)方面からの直通特急が其々和倉温泉まで運転されている。 
能登の観光と併せて、半島唯一の名温泉・和倉温泉は今でも幅広く利用され、人気がある。


次回、再び「七尾





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「漂泊の旅から、学問が生まれる」   

日本周遊紀行(221)七尾 「能登島」 .



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写真:能登島に架かる農道橋

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能登島大橋


能登半島を巡って、穴水町に戻ってきた・・!、 
能登の内浦を更に入りこんだ七尾湾の湾口に能登島という巨大な島が浮かび、波消しブロックを置いたような海域になっている。 この島が七尾湾を北湾、西湾、南湾と三つの湾に分断していて、従って海面は鏡面の様に凪いでいる。 

そんな北湾の北に穴水港があり、周辺海域は更に複雑な入り江を成している。 
海域の穴水は古来より「海の幸」が豊富なところであり、牡蠣、サザエ、白魚(いさざ)などなど、これらの豊富な食材をキャンペーンを兼ねて、四季折々の「食材祭り」というのがあるらしい。 

穴水ではこれを「まいもん祭り」と称し、「まいもん」とは、能登弁で「美味いもの(うまいもの)」という意味だそうで、「穴水まいもんまつり」は、春夏秋冬四季折々の旬の能登の味覚(=まいもん)をお客様に提供しながら、自らも豊かな食材を楽しもうという、何とも羨ましい祭りなのである。 

春の陣、夏の陣、秋の陣、冬の陣の各期間に分け、春はいさざ祭り、夏はさざえ祭り、秋は牛祭り、そして、冬は牡蠣祭りと実に多彩である。 これらは役所自体に「穴水まいもんまつり実行委員会」という組織があって、各々音頭をとって実施しているらしい。 
いやはや、羨ましくも、結構なことです。
  

七尾湾の鏡のような美景を左にながめながら、七尾線が並行して走る国道249を南下する。
目の前に、七尾湾を塞ぐように能登島の大島が迫ってくる。 
島によって隔てられた三方の海を大口瀬戸(湾・北側入り口)によって穴水町と、三ヶ口瀬戸、屏風瀬戸及び小口瀬戸(湾・南側入り口)によって七尾市の本州側と対している。 
その三ヶ口瀬戸に架かる中能登農道橋(ツインブリッジのと)を渡る。 
「農道橋」という地味な名称であるが、何の々々、最近開通した実に立派な吊橋である。 
袂(たもと)に園地が有ったので、一服しながらカメラに収めた。


次に、能登島の西岸を進みながら、次に本陸へ戻るため能登島大橋をめざす。 
能登島は二つの橋が架かる以前は湾内の本土の眼前に在りながら、陸の孤島ともいわれてきた・・?、
尤も、孤島ではあるけれど古来より人が住み着き、遺跡によれば縄文期の生活跡が見られるという。 
一時期は伊勢神宮に「食」を納める御厨(みくりや)の栄誉も授かっているらしい。 そうかと思えば、江戸期には加賀藩の流刑地に指定されていて、主に政治犯(思想犯)がこの時代百数十人が流されてきたという。 

その閨(ねや)地区に「閨観音堂」(ねやかんのんどう).という古堂があり、小さな観音堂とほぼ完全な五輪塔が30基、他に10数基の欠けた碑と珠洲焼の骨壷の破片が散在している。 年代は定かでないが江戸期の流人達がこの島で骨を埋め、その祀りの古跡ではないだろうかと想像されているが・・?。

現在、能登島は能登島大橋とツインブリッジのとの二つの橋が揃い、島は観光地化していて水族館やガラス美術館、ゴルフ場、キャンプ場等が人々を寄せている。 


島から渡り返す能登島大橋は、吊り橋構造の農道橋と違って橋脚構造のオープンなコンクリートの橋である。 
橋の中ほどから既に、七尾の「和倉温泉」の賑やかそうな、ホテルや旅館の家並が見えている。 

1kmの橋程を終えれば、ここは既に和倉の温泉地であった。 
十字路を右手に行った、程なくして五階建ての本日の宿舎「フローイント和倉」が在った。 
たぶん、今回この旅程の最後の宿泊地になるであろう・・!。


 次回は、「和倉温泉




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日本周遊紀行(220)能都 「石仏山祭」 .




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写真(資料):3月の残雪の中の「石仏山祭」


国道249は能都町の宇出津(うしつ)辺りから再び海岸に出た。 
能都町は現在、「能登町」に町名が変更になっているようで、能都町、内陸部の柳田村、内浦町とが平成17年3月1日付けで合併し、「能登町」が誕生している。 

能都という地名も意味ありげだが、能登町もこれはこれで結構な町名である。 
北陸の地、能登地方は「お祭り・行事」が多いことは前に記したが、ご多分に漏れず、こちらの町も実に多くの祭があり、ザッと数えても15〜16もの大小の祭事が行われている。 

中でも気になったのが「石仏山祭」という祭事・神事である。
穴水町との町界近く、山田川を遡った辺りに柿生神道地区というのがあり、その名が示すとおりの古代神道形式の祭りがあるという。 

近くにはコンモリしたその名も石仏山(潔界山)という山があり、そこに立つ巨石を信仰対象としたお祭で、例年3月1日、2日にかけ例祭が行われるという。 

「田の神」、「山の神」として信仰され、3月1日の宵祭りには祭神が田の神として里へ下り、豊作の予告と必要なエネルギーを人々に与えると伝えられる。 

翌日は、打ち鳴らす太鼓を合図に人々は石仏山へ入り、急な坂道を上ると中腹に前立ちという高さ3m、幅60cmの巨石があり、左右に小さな石が並んでいて、これは大己貴命(大国主)の霊代とされていて、ここが祭場となる。  

特徴的なのが境内において古来社殿を設けたことがなく、賽銭を入れるところもないとする。

それは伝説によると、この神様は特に「自然な清浄」を好み「人工」が嫌いとされ、過去数回社殿を造営したが一夜で潰れたしまったという。 
そのため社殿を設けなくなったと言われている。


石仏山は、潔界山とも言われ今日までも珍しく女人禁制の霊山として、女子14才に達すると境内に入れない不文率がある。 
祭式は、古代の祭祀様式そのままであり、巨石をご神体として祀る石神信仰に基づく古い形態の祀りで、原始神道を今に伝える巨石崇拝の神事なのである。


ところで、この地区よりやや離れてはいるが、九十九湾の近くに「真脇」という地域がある。
ここは縄文期の遺跡が大量に発掘された処であり、遺跡は縄文前期から晩期のものまで途切れることなく遺物・遺構が出土しているという。 

凡そ、4000年もの間この地で人々が継続的に生活していたとされ、遺跡の中でも列柱といわれる天と地をつなぐ縄文のシンボルの様な木柱群などがあり、しかも整然と並ぶその様は時空を超えて我々に何かを語っているという。

現在は公園化され憩いの場所になっているが、いずれにしても能登の地域には縄文期の頃から多くの人が多数住み着いていたことが伺え、当然、石仏山の祭事との関連も有るものとしている。 
これは驚くべき事で縄文時代当時の様式の伝統文化を、そっくり、そのまま現代に継承しているのである。
 


昨今、祭りブームとやらで、祭りの内容も時代と共に華美になり、賑やかになり、派手になって、祭りの果てには傷害や死亡事件まで発生しているところもある。 
それは祭りの本来の意義をすでに逸脱してしまっていて、一種、催事としても見受けられる。 
又、最近では行政主導といわれる「まつり」もあり、住民に連帯感を持たせるとか、大勢の観光客を誘致し、商品の宣伝や観光だけが目的であったりする。 
こなると本来の祭りではなく一種のイベントであろう。 

これはこれで良いと思うが、このように俗化された「まつり」をヨソに、古式に則るというか、縄文時代当時の様式、伝統をそのまま伝承している祭事には改めて驚愕致すのである。 

能登は、これ一つとっても素晴らしいところである。 
イヤ恐れ入りました・・!!。


尚、同公園には「縄文記念館」が併設され、開館したのがH9年9月19日であった。 
これは平成8年9月19日に天皇・皇后両陛下が能都町に、そして真脇遺跡にお越しになられた記念として、その翌年の同日にオープンしたという。 

九十九湾を意識して九の字を並べた訳であろうが・・?、
これはこれで実に結構なことである。


次回は、「能登島




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日本周遊紀行(219)内浦 「九十九湾」 . 



九十九湾(つくもわん)は、内浦のほぼ中央に位置する代表的リアス式海岸の小湾で、湾の中にも更に数多くの入江があるという意味で九十九湾という名があるという。 
湾の真ん中には弁財天を祭る蓬莱島が浮かび、日本百景の一つにも数えられる優美な景勝地として知られる。


ところで九十九というと、日本周遊を巡りつつある小生にとって、直に房総半島の九十九里浜や長崎・佐世保の九十九島を連想する。 

他に九十九の名が付く地域名や固有の名称が沢山あるようで、橋、曲、峠、山、森、沢、谷、塚・・等、「九十九」とは、概して「たくさんある」とか「大変長い」などを意味するという。 

又、中国では数にはそれぞれ意味があるとされ、九は最高の数を表すともいわれる。 九は漢数字で「久(または玖)」と書き、これは永久、つまり無限大を意味する。 
又、 「九十九」を「つくも」と読むのは・・?、「つくも‐がみ」と言うように、九十九髪、江浦草髪と書き、老女の白髪を云うらしく、伊勢物語の歌に・・、


『  百年(モモトセ)に 一とせ足らぬ 九十九髪(ツクモガミ)
                    我を恋ふらし おもかげに見ゆ
 』

から、ツクモはツグモモ(次百)の約で、百に満たず九十九の意と見ている。 
それを「百」の字に1画足りない「白」の字とし、白髪にたとえたともいう。 

関連して白里、白浜、白潟などは広いとか長いとか大きいを意味し、そして、「白寿」の祝いは「百ひく一」つまり「九十九」の祝いであり、何れも、九十九の意味を示しているものである。
こちらの九十九湾は、これらの意味合いで何を表したものか・・?、
リアス式・溺れ谷の海岸線の総延長でも表したものか・・?、一説だと小さな入江の数が九十九とも云われるが・・?、定かでないがマーいいか・・!。



ここで、九十九に因んでチョットしたクイズ式・数字遊びを・・、
江戸期に詠まれた短歌ですが何と読みますか・・?(答えは頁末)

『 三十十百九 三千百三三四八 一八二 
         四五十二四六 四百八三千七六
 』・・??、

次に見覚えのあるこの読みは・・?、(読み易く覚えやすいよ)

3.141592653589793238462643383279・・』・・?
  

関係するかどうか疑問だが、九の付く数字遊びに中国発祥の「麻雀」がある。 
4人のプレイヤーがテーブルを囲み、1から九までの同種4組のもの3種類と字牌を合わせた136枚の牌(麻雀用品のことを牌・はい、ぱい という)をやり取りして「役を揃えることを数回行い、得点を重ねてゆくゲームで、勝敗はゲーム終了時における得点の多寡と順位で決定される。

小生も若かりし頃よく遊んだが、未だ「九蓮宝燈」(ちゅーれんぽーとー)は達成していない。 
九蓮宝燈は一と九がそれぞれ3つ、二〜八まで1つずつが入っていて、つまり、一一一 二三四五六七八 九九九、の形で、麻雀は基本的には14枚で上がりなので、これで、あとの1枚は一〜九まで何でもOKで上がりなのである。 

九面待ちはダブル役満だよ・・!!、 
この上がり方は、全ての役上がりで最も美しい上がり方だといわれる・・!。 
エーッ・・、麻雀知らないって・・?、こりゃまた失礼しました・・!!。


数字遊びの答、覚えておいて・・!。
里遠く 道も寂しや 一つ家に 夜毎に白く 霜や満ちなむ
産医師 異国に向こう 産後厄(やく)なく 産婦御社(みやしろ)に 虫散々闇に鳴く


次回は、「能都・石仏山祭




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