『日本周遊紀行』

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「さすらいと変化を愛するものは生ある者である。」by(ワグナー)   



 日本周遊紀行(212) 能登・羽咋 「千里浜」  .



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写真:羽咋市の「千里浜なぎさドライブウェイ」



金沢市を後にえしt能登を目指す。

能登入り口にあたる海岸線の「能登有料道路」を目指す。
北陸道を横切り、県道60にて海の端・栗橋(内灘町)のインターから高速道へ乗った。 
いきなり日本海が目に飛び込んでくる。 
ここからしばらくの間、左手に海を観ながらのクルージングロードとなる。


能登ハイウェイは、金沢から内灘町、そして穴水まで全長83kmを結ぶ能登半島の大動脈であり、内灘から柳田あたりまでは海岸線を、柳田から終点の穴水までは内陸部を走ることになる。 
能登一周するのであれば柳田ICで下りてR249を北上するのがベターのようである、とりあえずその柳田を目指す。


海岸線は比較的多くのインターが設けてあるようで、その中の高松町に「道の駅 高松」があった、高松S・Aでもある。 
有料道路の北向き(能登方面行き)と南向き(金沢方面行き)と別々に道の駅があるようだが、 断然お勧めなのは能登方面行きの駅の海側だろう。 

金沢方面行きが山側に位置するので眺めの良さが全然違うのである。 
こちらの駅からはすぐ海岸に降りれるようになっていて、足下にはすぐに白い砂浜が広がっている。  

もともと能登有料道路上の「高松SA」として造られ、その後「道の駅」と認定されたため、上り線と下り線の2ヶ所に「道の駅 高松」があるというチョット変わった道の駅になっている。 
「道の駅・高松」は能登有料道路からはもちろん、一般道からも利用することができるようである。 つまり、ハイウェイではS・Aであり、一般道は道の駅なのである。


落ち着いた和風ムードのレストハウスで、日本海を一望しながら時間的にはやや早いが、軽い昼食を摂る。 
一服して再び走り出すと間もなく今浜というところを通過する。 

この地は、先般、家族で北陸旅行した際に、最も印象に残った箇所で千里浜という海岸線である。
羽咋市域南部か今浜辺りは千里浜といって「千里浜なぎさドライブウェー」で有名なのである。 

家族を乗せたワンボックスカーが、道路でない波打ち際の砂浜を、否、波打ち際の砂浜の道路を走り抜けるのに、子供たちがキャーキャー言いながら感嘆してたのを覚えている。 

海岸およそ8kmの渚のドライブウェーは、車が通れる砂浜として全国的にも知られていて、それは、他の海岸の砂の粒径は1mmから0.5mmほどだが、千里浜の砂は細粒で4分の1mmほどしかないらしい。 
それに海水がしみこんで固い砂浜を作りあげ、波打ち際を自転車からバスまでも走ることができるのである。 

この道路は、れっきとした国道249号線の海岸道路なのである。 
ただここで、バイクの人は注意が必要であろう。 

千里浜の出入り口付近は砂の水分が少なくフワフワしており、タイヤを取られる恐れがあるという。 
そのうえ砂の上なのでさすがにスタンドが立ちにくく、あらかじめ板状の物を持っていく必要があると思う。 
又、渚ではバイク、車共に潮が付くのでドライブウエイから出たらスグ洗車を要するであろう。 
バイクの場合は特にエンジンむき出しだしのため、チェーンに砂が絡みつくので必ず洗車した方がいい。
 

千里浜の北側では毎年7月中頃、羽咋市主催の恒例行事「千里浜なぎさフェスタ」が開催され、この砂浜を利用した「砂の像」やその他の催しが行われる。 
周囲の砂丘で見られるクロマツの林は、飛砂防止のために江戸時代に植林されたものであり、砂浜には、ハマナスやハマヒルガオなどの海浜植物も見られる。 
遠浅の海は、潮干狩りや海水浴場としても賑やかであるとか・・!。


次回は、「気多大社



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「この人生は旅である。その旅は片道切符の旅である。往きはあるが帰りはない」   <吉川 英治>
   

 日本周遊紀行(211) 金沢 「茶屋街」   、




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写真;東茶屋街の豪奢な一角




兼六園、金沢城址の北方、浅野川の辺に「ひがし茶屋街」があった。 
石畳の路地に、古い佇まいの町屋が並ぶ、何とも雰囲気のある通りである。 

今はまだ、お天とう様が真上にある時間帯なので、そこはシーンと静まり返っているが、夕闇とともに格子のある家々から行灯の灯が灯り、立ち並ぶ間からは三味や太鼓、笛などの音が聞こえてくる。 

金沢市は京都同様、戦時に空襲の被害を受けていない希少な都市であり、随所に城下町時代の古い姿を残し、訪れる人が絶えないという。 
金沢城を中心に渦巻状に城下町が形成され、南北に北国街道が通過し、その市中に浅野川と犀川が流れている。 
その東岸の東山地区には数箇所に分かれて残存する茶屋街が在り、その中でも最大規模と言われるのが「東茶屋街」であり、近年、国の「重要伝統的建造物群保存地区」にも指定されている。


文政3(1820)年に金沢城の東の廓として設置されて以来、この界隈には町人、文化人たちの集う場となり、遊興の場であった。 
石畳通りの一本道は混じり気のない全くの茶屋建築で統一されていて、当時、町人たちは二階建築が禁止されていた中で、特別に許可されていたため総二階で統一された美観と迫力がある。 

比すれば京都・祇園や飛騨・高山の古い町並み(三之町)を想起させる風情でもある。 
特に裏路地に入るとかつての茶屋街は江戸期のそのままの風情を味わえるという。


御茶屋として現在は8軒が実際に営業しているらしい。 
京の祇園や先斗町(ぽんとちょう)の如く、やはり 、一見さん(いちげんさん)はお断りだとされ、これは京都の町屋の商法・・?と合い通じるのである。 

一見さんとは、お馴染みさん・ご贔屓(ひいき)さんと言われる顧客を大事にし、大切な時間を割いて来てもらったお客に楽しい一時を過ごしてもらうよう最大限の努力をする。 
そして、細くても永い付き合いをする為の茶屋独特の接客法で、無論、支払いの仕方も特別にあるいう。


現在、金沢市内の三箇所の茶屋街には芸妓は50名、その内、この東茶屋街では20名いるそうで、年齢は20代初めから70代後半の年増さんも居るようである。  
芸妓は、芸を売るので只年齢が若ければいいと言うものでもなく、やはり芸がしっかりしていることが大切で、芸妓の仕事はお酌をし踊り、三味線、笛、太鼓などを鳴らし、飽くまで客を楽しませるのである。

席料は「一席二本」といい、一本は45分、これは線香の燃え尽きる時間だそうで、普通一席は13万から15万が相場といい、人数に関係なく時間の値段であり、大勢で割り勘をすれば結構お安い・・?とも言える。

京では、店によっては店に入る時「お帰りやす」と迎えてくれて、店を出る時「いっといやす」て云って見送ってくれるという。 
まるで我が家の様な持成し(もてなし)であるが、此方(こちら)の金沢の方は如何であろうか・・?。


すぐ近くに金沢が生んだ文豪・泉鏡花の生家跡があり、平成11年に記念館として開館し、遺品の数々を展示しているという。 
全く人気のない寂とした東茶屋町風情を、数枚の写真に捉えて後にした。


次回は「能登



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 日本周遊紀行(211) 金沢 「金沢城」   .




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写真:金沢城と兼六園を結ぶ石川橋



兼六園に隣接して「金沢城公園」がある。

主要道を跨いだ貫禄のある立派な橋・石川橋が両所を結んでいる。 
その向こうには石川門があり、左右に二つの楼閣が見えている。 

この貫禄ある橋脚の下には広大な「百間堀」というのがあり、城を取り巻いていた。百間堀は、一向一揆の尾山御坊(後の金沢城)を攻め落とした佐久間盛政が、その跡に今の金沢城を築城する際に掘らせたものだという。 
工事に駆り集められたのは、皮肉にも元の主たちである、あの一向宗の門徒達であったという。


この辺りは金沢市の中心部に位置する所でもあり、百間堀は、明治末期に埋め立てられて道路になり、市電が走るメーンストリートになった。 
道路となった百間堀通り(百万石通り)では、加賀の藩祖・前田利家が金沢城入城を記念して行われる「加賀百万石祭り」の主要会場であり、行列や木遣りの催事が行われる。そして、隣接する兼六園は、祭りの間は無料開放されるという。


1546年、前身となる空堀や柵などを備えた城作りの寺院・尾山御坊(金沢御堂)が建設され、加賀一向一揆で加賀国の支配権を得、本願寺の拠点となったことは先に記した。

1580年 佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、そのまま尾山城と改称して用いたが、後の賤ヶ岳の戦いの際、主君・柴田勝家が敗れたのと同時に没落し、羽柴秀吉(豊臣秀吉)から加増を受けた前田利家が天正11年に入城し、改築城している。 

加賀の前田氏は「加賀百万石」といわれ、江戸時代の大名の中で最大の石高を持つ大大名である。2番目の薩摩の島津氏が77万、3番目の仙台の伊達氏が62万というから、120万石をもつ前田氏は如何にダントツであったかが判る。


慶長4年、利家が没し家督を受けた利長は、豊臣家・五大老の一人であり、更に、この時の利長は豊臣秀頼の傅役(もりやく)でもあった。 
利長同様、五大老の一人であるが、内心、天下を狙う徳川家康が最も警戒したのが豊臣家と併せて利長(前田家)であり、家康にとっては厄介な存在であった。 

家康はこの厄介者を潰そうと難題をかけてくるが、それに対して利長は弱そうな振りをして何気なくも、鮮やかに難題をかわしている。 
謀反の疑いをかけられても、母親(まつ)を江戸に証人・人質として出し忠誠を示している。 一方で、利長の弟・利常と珠姫(徳川秀忠の娘、家康の孫。)の婚姻関係を約し、自ら隠居して利常に家督を譲った時には、豊臣色の濃かったはずの前田氏は徳川色に染まり、三代家光が将軍になる頃には前田氏と徳川氏は外様にしては異例の良好な関係になっていた。


「戦」という強硬手段を用いず、徐々に豊臣氏を離れ徳川氏に接近、その地味にして先見の目と緻密な利長の行動の結果が、前田家が幕末まで存続させることにつながってゆく。 

徳川・藩政時代は、各藩では家督問題等で内紛が発生した場合は即刻、縮小されるか廃藩に追い込まれる中で、加賀百万石が近世にまで温存したのは、前田氏の藩祖、及び利長の緻密な思惑を踏襲したに他ならない。


徳川家の珠姫が輿入れした時には、徳川家からは数百人の家来が付き添ってきたという。
その多くが、今の石川門正面の兼六園入り口付近に住み付き、その名も「江戸町」と呼ばれる屋敷街を形成していた。 

珠姫が24歳で亡くなった後、付人、家来たちの多くは江戸に帰り町屋は消滅したが、近年の発掘でその住居跡も確認されている。 

百間堀の中には、白鳥堀や蓮池堀といった、「江戸風」の趣を取り入れた御堀端があったとされ、徳川家康の孫・二代将軍秀忠の娘「珠姫」の威光は加賀の地で大きく執り成し、前田家の徳川への義理・忠臣が伺える。 

江戸生まれの姫さまをお慰めする理由で加賀の地に「江戸の風」を吹かせ、「二つの堀が江戸城と同じ配置で並んでいて、金沢に成立した江戸町の風情」を保ったという諸事は、加賀百万石にとって少なからず好影響を与えていたことは確かである。


次回は、「金沢の茶屋街



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「世界は一冊の本だ。旅をしないものはその本を一頁しか読めないだろう。」
アウグスティヌス(古代キリスト教世界で最大の教父、神学者と言われる) 


日本周遊紀行(211) 金沢 「兼六園」 .




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写真:兼六園(入場口付近)と徽軫灯篭と黄門石橋(下)
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見れば、右手に広大な「小松空港」が横たわっていた。

走り出して間もなく梯川の橋を渡る。 
ここから先の北陸道はまるで海上の上を走るが如く一気に走り抜き、金沢西I・Cで下りて金沢市内へ向かった。  

県道25号、通称、西インター大通りから市内中心部、北陸本線を超えて名所「兼六園」へ達した。 
緑豊かな、やや勾配の道の上に入園口がある。
小生、何度か訪れているので入園はせずここまでで、記念の写真に収めるのみとした。


兼六園は、春夏秋冬それぞれに趣が深く、季節ごとに様々な表情を見せるが、特に雪に備えて行われる「雪吊」は冬の風物詩として情緒を添える。 

又、霞ヶ池の湖畔には、琴に見立てて徽軫灯籠(ことじとうろう)というのが据えられていて、園内でも有名スポットであり池に映える姿は優雅で美しい。 

徽軫(ことじ・琴柱)とは、形が楽器の琴の糸を支え、音を調整する琴柱に似ているため、その名が付いたと言われている。 
又、この灯籠の架台は、虹のような形の橋に支えられているため虹橋ともいい、琴橋という別名もある。 
徽軫灯籠は、水面を照らすための雪見灯籠が芸美に変化したものであり、兼六園を代表する景観となっている。


兼六園は、江戸時代を代表する池泉回遊式庭園としてその特徴をよく残されている。
岡山県の後楽園、水戸の偕楽園とともに日本三代名園の一つに数えられていることは周知である。 

兼六とは、宏大(こうだい)・幽邃(ゆうすい)・人力(じんりき)・蒼古(そうこ)・水泉(すいせん)・眺望(ちょうぼう)の六勝を兼ね備えた庭ということで、その名が付けられたという。 

園内には、池を渡る石橋や築山を巡って曲水や池、滝などが配され、随所に縮景という作庭手法が用いられている。 

例えば霞ヶ池は琵琶湖を模じったともいい、霞ヶ池と瓢池の間にある「黄門橋」(黄門と言えば水戸黄門が有名であるが、加賀三代目・前田利常も加賀の黄門様と言われた)と「獅子厳」は謡曲・「石橋」を表現しているという。


謡曲「石橋」は、能の中で最も勇壮にして豪華な演目であるという・・!、
文殊菩薩(知恵を授ける仏尊)の乗り物の霊獣・獅子を表すことにより、(文殊)浄土を象徴しているとされる。

『 平安の歌人・大江 定基(おおえさだもと) は出家して寂昭(じゃくしょう)法師と号し、唐・天竺へと渡り、清涼山へと至った。 目も眩むような深い谷には幅の細い石の橋が懸かり、渡ろうとしていると童子が現れ、「この橋は人間の渡れるものではない・・、」と諭し、「向側は文殊菩薩の浄土である。ここで待てば、やがて奇瑞(目出度いことの前兆として現れる不思議な現象)が現れるであろう。」と告げて消え失せる。 しばらくすると橋の上に獅子が現れ、国土安穏を祈念しながら、咲き乱れた牡丹の間を舞い戯れる。』  


牡丹は百花の女王、獅子は百獣の王、この最強にして最上の組み合わせは、古代、高貴な身分の人が御印として使ったものであるとされた。 
一般に、歌舞伎における「獅子物」と「道成寺物」の両舞踊は、相並んでの女形舞踊の二大ジャンルといわれ、獅子物舞踊はその発想を謡曲「石橋」に発しているという。


次回、「金沢城
     


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 日本周遊紀行(210) 小松 「安宅の関」  .



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写真:安宅関の銅像
弁慶(中央)・富樫(右)・義経(左)の各像、石碑に刻まれた「智・仁・勇」の文字で、智は弁慶の知恵、仁は富樫の情け、勇は義経の勇気を表現している言葉



北潟湖の南端は既に加賀・金沢であった。
そして、北陸道の加賀I・Cがすぐ近くにあり、これに乗って金沢まで行くことにした。 

途中、「安宅PA」で休憩、ここがまた珍しくトイレ以外何にも無い、売店も無ければ自販機も、ベンチも無い、無い無いずくしでこれはこれでよかったが。 
ただ、意外なことに、トイレがとても管理の行き届いて綺麗なので、「おー!」という感じであった。


何も無い安宅のPAであるが、この地安宅は「安宅の関」で有名なところである。 
石川県小松市安宅町、日本海に注ぐ梯川(かけはしがわ)の左岸の丘、ここは美しい松原で「安宅関跡」の碑が建ち、そのほか安宅・住吉神社、神社の参道に弁慶逆植松、弁慶・富樫問答の像などがあるという。 


弁慶(中央)・富樫(右)の銅像は、七代目松本幸四郎・二代目市川左団次をモデルとし、左端は義経像である。 
石碑に刻まれた智・仁・勇の文字で、智は弁慶の知恵、仁は富樫の情け、勇は義経の勇気であり、わが国古来の国民性の美しさを端的に表現している言葉ともいう。


日本海の海の色は、太平洋と違って濃い紺青色で、松の緑と対照的に美しい。 
この「安宅の関」(あたかのせき)は、古来、梯川の上流にある北陸路の通行を監視する、重要な役目を持っていたという。 
その関は、加賀安宅に加賀の守護・富樫氏が設けたと言われる関所であり、歌舞伎の「勧進帳」で有名になった箇所でもある。


『 源平・壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした源義経は生来の猜疑心から、これを退けようとする兄頼朝に追われ、奥州・平泉の藤原氏の元へ落ちのびようとしていた。 頼朝はこれを捕らえようと各地に関所を設け、当、安宅の関守は冨樫左右衛門泰家が任に当たっていた。 そして文治3年(1187年)3月頃、山伏姿に変装した義経弁慶以下主従が安宅の関にさしかかる。 一行の山伏姿を関守・冨樫に疑われると、弁慶は、東大寺復興勧進のため諸国を廻る役僧である称し、何もか書かれていない勧進帳(寄付帳)を読み上げ、難を逃れようとした。 しかし、荷人夫姿の義経に疑いをかけられると、弁慶はすかさず金剛杖を持って主君・義経を打ち据える。 冨樫は弁慶の忠誠心に心をうたれ、義経一行だと気付きながらも関の通行を許したのであった。 』
 

ここまでは、後年、歌舞伎や物語になったのであるが、以前は義経の西国落ちの道程を扱った「船弁慶」という猿楽(能楽の原型)や能になって演じられたのが始めであると言われる。 

又、能以外にも幸若(幸若舞のこと、室町後期の芸能の一つ、広義の曲舞の一種で、武士の世界を素材とした物語を謡うのを特色とする)の富樫軍記物や「義経記」などの諸要素を取り入れて成立したともいう。

安宅(あたか)能楽は、観世小次郎信光(室町期の能作者)の作とされ、曲名の四番目の出し物である。 義経追補のために設けられた新関を富樫(ワキ)が守護している。 弁慶(シテ)は、義経(子方)を荷人夫姿につくりあげ山伏の一行として新関にかかると、富樫はこれを怪しみとどめる。 一行は覚悟を決め、山伏の勤行を始めるが、勧進帳の聴聞を求められた弁慶は、これを高らかに読み上げる。 疑いも晴れ、関を通ろうとするとき、変装した義経を見出し供の郎党(ツレ)は詮議するが、弁慶の知略で事なきをえる。 安堵する主従の元へ、先度の非礼をわびる富樫から御酒が届けられ、弁慶は一差し舞って喜ぶ(男舞)。 以上のように劇的構成をもつ現代物で、後に歌舞伎に入って「勧進帳」となった。

『 それ、つらうらおもんみれ〜ば  大恩教主の秋の月は ねはんの雲に隠れ 生死長夜の永き夢 驚かすべき人もなし ここに近頃の帝おわします 恩名を聖武天皇と申し上げ奉る 最愛の夫人にわかれ 追慕やみがたく 涕泣眼にあらく 涙玉を貫く 思いを善路にひるがえし 上求菩提のため盧遮那仏を建立したもう  しかるに去んじ 治承の頃焼亡しおわんぬ かほどの霊場絶えんなきことをなげき・・』

勧進帳を諳(そら)んじてた弁慶は、怪力無頼の強僧でありながら、学識、知恵のある智僧でもあった。

次回は、「金沢




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