『日本周遊紀行』

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資料:須須神社の日本一のキリコ


日本周遊紀行(218)珠洲 「伝説とロマンの里」   

長手の岬からは所謂、能登半島の内側に入り込む内浦湾(富山湾)である、間もなく「蛸島」という小さな町に入った。
辿り着いた「のと鉄道」の終点の蛸島駅は、ボロボロで落書きだらけのコンクリートの駅だった。 田畑に面して細く延びてきたレールが途中で途切れていて、ホームから周囲を見渡せば海側の高台に「弁天公園」という展望台も見られた。 内浦湾に沿って穴水駅から蛸島までは、直前まで「のと鉄道の七尾線」が結んでいた。 だが2005年3月限りで全線が廃止されている。
廃線に向けた動きが出てきた頃、存続を求める沿線住民らで市民団体が結成され、激しい廃止反対運動が展開されたらしく、廃線が決定した後も復活に向けて現在も活動中であるという。 しかし、廃止後の代替バスの運行状況も芳しくなく、二社の路線とも利用者が少なく、難渋しているようである。
  
珠洲の市街に来たようである・・、 
市街といってもビルが林立するような喧騒の地ではなく、シットリとした緑豊かな、落着いた雰囲気の町並みである。
しかし、珠洲の町は昔は違ったようだ。 一説には古代能登文化は此の半島突端の珠洲地区から発祥したとも云われる。  往時から出雲、佐渡、蝦夷と並ぶ海洋交通の主要地として、弥生期には出雲方面から鉄器文化を導入し、開田の営みも自ら促進していたことが伺えるとされる。
万葉集に・・、

『珠洲の海に 朝びらきして 漕ぎくれば 長浜のうらに 月照りにけり』
大伴家持(奈良後期の天平時代)が能登国主を兼任した折、当地に来て珠洲湾の景勝を詠んだ有名な句である。 

珠洲市の「スズ」は、須須神社からの由来とされ、祭神が美穂須須見命(ミホ・ススミノミコト)で、そこから地名をとったと考えられてる。 ミホ=ミ(海とか神霊)、ホ(抜きん出て秀でている様)を指し、ススミ=烽(煙や火ののろしをあげる所)と解釈でき、「珠洲の地は、大海に突き出た地であり、海難等の海を守るため須須神社を奉り、この社にて狼煙を揚げて航海の安全を見守った」とする。 
その他、アイヌ語を語源とするという説も根強く、能登地方にはアイヌ語を語源とする地名が散見されると言われているが、能登はノット(突き出たところ)、珠洲はスズ(先っぽ)で同義語でもある。

珠洲は、日本海へと伸びる能登半島の最先端に位置し、三方を海に囲まれた「伝説とロマンの里」とされる。 
この世界に存在する全ては海に生まれ、そしてやがて土に還る。 そんな神々の創造を強く感じさせる大自然がそこにあり、珠洲市は神々を祀る、祭りの宝庫ともいわれる。 
祭りの主役はやはり「キリコ」に関係が多いらしく、飯田地区は「飯田燈籠山祭り」(7月20日・21日)、日本一の大提灯を囲む「ちょんがりまつり」(8月6日)、「宝立七夕キリコまつり」(宝立町・8月7日)、日本一の大キリコが登場する「寺家の秋祭り」(三崎町寺家・10月第1土曜日)、「奴振り」(正院町正院:9月15日)、「早船狂言」(蛸島町・9月11日:県指定無形民俗文化財)・・、と珠洲市内だけでもこれだけある。
能登地方(口能登、中能登、奥能登)においても、春夏秋冬合わせると、何と100以上もの祭り行事が存在するという。 これはもう、この地方は年柄年中お祭りのようなものあり、能登地方の豊かな生活基盤、深い歴史観が存在すことが見て取れる。
  
鵜飼地区から内陸へ入ってしまったが、この先の海岸沖に見附島というのがあり、別名「軍艦島」ともいう。 30mの高さの船縁(ふなべり)をもつ巨大戦艦が、こちらに向ってやって来るようであるという。
武骨な厳(いかめしい)しい名称の軍艦島に対して、こちらの海岸線は何ともロマンチックな「恋路海岸」と称している。 地名に恋路とつけるあたりは、シャイな能登人の感覚が知れるが、確か伊豆半島のアッチの方にも「恋人岬」と言う地名が在ったようだ。
七尾線が走っていた頃は「恋路」(こいじ)という、艶かしい駅名も在ったらしく、若い女性には人気の的だったという。 思えば、北海道の内陸地方にも「愛国駅」とか「幸福駅」があって、全国的なブームを巻き起こして有名になった駅があったが、こちらも当の昔に廃止になっている。 ただ、今だに各駅前売店ではキップが販売されているという。 こちらの「恋路駅」はどうなんだろうか・・?。
  
この先、国道249号線の沿岸に「九十九湾」という景勝地がある。 
能登の海というと半島を東西に分けた海、外浦と内浦に囲まれていることは言をまたないが、この様相たるや全く異なるのである。 冬の季節風がモロに吹きつける外海、能登金剛に代表される荒々しい景観が売りであるが、内浦は恋路海岸の如く穏やかで、優しいイメージの様である。 その内浦のほぼ中央に位置する九十九湾(つくもわん)は、更に深く入り組んだ入江となっていて、湾の真ん中には弁財天を祭る蓬莱島が浮かび、日本百景の一つにも数えられる優美な景勝地として知られる。

次回、九十九湾


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写真:須須(スズ)神社の大鳥居と燈篭
資料:「蝉折の笛」と弁慶の守刀


日本周遊紀行(218)珠洲 「須須神社」     

狼煙を後にした・・、
内陸伝いの山道から、一転海岸に出たところ寺屋地区に「須須神社」があった。
鄙びた部落の様相とは不釣合いな程の五段の台座に一対の石灯篭を従えて、立派な鳥居が海岸道路沿いに立っている。 日本海の大洋に向けて真東に向いていて、時期、時刻によっては鳥居の正面に太陽を迎えるが如く輝くという。 参道の奥には二の鳥居、更にこの奥に三の鳥居が控えていて、そこからは鬱蒼としてやや苔生した感じの奥参道もあり、社殿はその奥に鎮座しているという。 無論、この海岸からその姿をここからは拝見できない。
1万坪にもおよぶ境内の社叢は、スダジイを主とする照葉樹林(暖帯系常緑広葉樹林)であり、種々の温帯、冷温帯の植物が見られることから、照葉樹林の北方的限界性を示しているともいいう。 一帯は国の特別天然記念物に指定されている。 神域は、派手々々しさはないが何か格別な古社を感じるのである。
須須神社は通称、神仏混交時代の名残で三崎権現とか三崎明神と称した。 又、当社は高座宮(たかくらぐう)と称し、すぐそばにある金分宮と山頂・奥宮の三社合わせて須須神社と呼ぶ。 祭神は天津日高彦穂瓊瓊杵尊(アマツヒダカホコニニギノミコト)と木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)、それに土着神(氏神)の美穗須須美命(ミホスズミノミコト)、他に建御名方命(タケミナカタノカミ)、武甕槌命(タケミカヅチオ )、保食神(ウケモチノカミ)等の錚錚(そうそう)たる神々が祀られているのである。

これらの神々を復習のつもりで一寸解説してみよう・・、
瓊瓊杵(ニニギ)はアマテラスの子(又は孫)で九州の日向・高千穂に降臨した神で日本の建国の祖神と言われる。 木花咲耶(コノハナサクヤ)は大山祇神(オオヤマズミ:山の神)の子(姫)で、桜の木の命名の由、富士山をご神体とした浅間神社の総本社でもある。 この両神は「夫婦神」で後、海幸彦、山幸彦を生む。 山幸彦の孫が初代天皇の神武天皇とされる。
建御名方(タケミナカタ)は大国主(オオクニヌシ)の子で、長野県諏訪地方の大神:諏訪大社の主神である。 そして、武甕槌(タケミカヅチ)は、元々は鹿島(茨城・鹿島)の土着神で雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰され鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている神である。 両神は、出雲の「国譲り」で最終的に争った神とされ、結局、武甕槌が建御名方を打ち破り、後に、諏訪の地に押し込めたとされる。 このことから両神は「相撲」の起源ともされている。
保食(ウケモチ)は、祖神であるイザナギとイザナミの子で、食べ物を受け持った(ウケモツ)神様、五穀の食物起源の神で多くの神社に祀られている。
  
須須神社の創建は古く、一説には二千年前とも言われる。これはもう神代の時代である。 
鎮座の位置、方位性などから東北鬼門、日本海の守護神としてあまねく信仰され、古代より縁結びの神として知られる。 この「結び」とは単に男女の仲を結ぶだけでなく安産・育児・病気平癒・槌児祈願、生業繁栄・五穀豊穣・大漁・交通安全・学業成就・・鬼門除け等、人としての総ての生業(なりわい)をいうらしい。
社宮は元々、来る途中の山稜、狼煙地区の「山伏山」(鈴ケ嶽)に鎮座していたらしく、八世紀半ばにここ寺家(じけ)の地に遷宮し、分社されたという。 山伏山には今も奥宮が鎮座する。 その昔はこの奥宮の中腹に大燈明堂が設けられ、夜ごと大神に献燈(狼煙)しており、これが日本海を航行する船舶の狼煙としての印にもなったという。 奥宮の鎮座する地は、狼煙(のろし)町と呼ばれるのもこのためであり、社名の「須須」は、煤(すす)という解釈ともとれる。

又この社は義経に纏わる伝説がある・・、
義経一行が奥州へ向かったのは能登、珠洲の経路であり、義経の妻は能登(珠洲市)へ流された平時忠の娘であることは先に記したが、妻を伴った義経一行が奥州へ逃れる途中、義父・時忠を訪ねて珠洲にしばらく滞在したと伝えられている。 
能登から奥州へ向かう途中、一行が珠洲岬の沖合で暴風に遭った為、海上守護神の三崎権現(須須神社)に必死に祈ったところ、たちまちに風が止んで難を逃れたと伝承はいう。 その時のお礼に平家の名宝とも伝えられる義経愛用の笛・「蝉折の笛」(せみおれのふえ:鳥羽天皇が宋の国〈中国〉から送られた蝉のような節のついた漢竹の笛で、その節のところから折れてしまったところからついた名前とされる)と弁慶が寄進した「左」という銘入りの守刀を奉納したのが今に残るという。
平成17年度のNHK大河ドラマに「源義経」が放映されているが、同様に義経は昭和41年にも大河ドラマの題材に取り上げられている。 
その時の原作者・村上元三は珠洲を訪れ・・、

『 義経は 雪に消えたり 珠々の笛 』と詠んでいる。 
当社にその歌碑も建っている。

この海岸に向かって屹立する大鳥居の寄進者は「北海道・札幌市」の人であるという。 
奥能登にひっそりと佇む神社の鳥居を札幌の方が寄進されたということは、珠洲地方と北海道とは深いつながりを示し、氏の先祖が珠洲地方の出身だといわれる。 因みに、明治30年頃の石川県民の北海道移住者の数は珠洲地方が最大だったらしい。

次回、伝説とロマンの里


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写真:能登の最北端表示と禄剛崎燈台


日本周遊紀行(218)珠洲 「禄剛崎燈台」

禄剛埼の中心に、さほど背は高くないがドーンと鎮座しているのが白亜の灯台「禄剛崎灯台」である。 どっかの灯台の項で記したが、こちらの灯台も「日本の灯台の父」と呼ばれるスコットランド出身の鉄道技師・リチャード・ヘンリー・ブラントンによるものであった。
明治16年、初点灯の禄剛崎灯台はブラントンの設計により、日本人の手による洋式灯台の最初の建設であり、「国産の証」である日本で唯一の菊の紋章が灯台正面の記念額にに掲げられている。 灯塔の高さは12m、三角形のガラス板を幾何学的に組み合わせた巨大なレンズはフランス製で、3秒毎に明滅して、約35km先まで光を届けることがでるという。

日本では明治以降、灯台守を職業とする人達がいた。 
灯台守として禄剛崎灯台を始め、全国を渡り歩いた内の一人である「小坂長之助」氏は、美保関(島根県)、烏帽子島(福岡県)、大立島(長崎県)などへ妻子とともに赴任して、1928年に伏木(富山県)の地で生涯を終えたという記録がある。 この灯台はその後も長く灯台守の常駐体制を守り、昭和38年(1963)4月になって無人化さたという。 当時、灯台守は映画にもなった「喜びも悲しみも幾年月」を地で行くような人材が、全国に数多く居たのである。

奥能登にあって120年余の風雪に耐えてきた禄剛崎灯台は、今もなお現役の「航路標識」であるとともに、明治の面影をとどめる貴重な近代化遺産とも言われる。 遺産としての禄剛崎灯台、実は、日本の灯台の23基の中の「保存灯台」にも選ばれている。
平成10年11月1日、灯台記念日に日本の灯台50選にも選定され、11月1日は灯台記念日としている。
灯台は航路標識の一種で、すなわち灯火によって船舶の航行を支援する施設の一つである。 因みに江戸時代は「灯明台」と呼ばれていた。 
航路標識とは、一般に灯光、灯標、立標、浮標、霧信号所などの標識によりその位置または航路や障害物の所在を示すものとされる。 航路標識を管理する「海上保安庁」は、標識(灯台)が正常に機能するよう定期的に点検整備を行い、航路標識の消灯や故障に対しても直ちに復旧できるように努めている。
映画やTVの「海猿」で馴染みになって御存知とは思うが、海上保安庁の主業務は警備業務、海難救助業務、海洋情報業務とそれに交通業務がある。 その交通業務の中に、灯台の設置・管理、航行支援システムなど、海の交通警察・海事情報提供機関としての業務がある。
 
海上保安庁の北陸地方の海域(新潟県=本部、富山県、石川県、何故か海の無い長野県も含む)は、第九管区海上保安本部が受け持つ。
よく北朝鮮の船舶「万景峰号(まんぎょんぼうごう:Man Gyong Bong)」(日本と北朝鮮の間を不定期ながら年20〜30回くらいの頻度で行き来し、人と貨物を運んで新潟に入港する。日本と北朝鮮を結ぶ唯一の貨客船 )が入港する際の管理、監督は第九保が受け持っていることは周知である。 能登地方はその中の七尾海上保安部・ 能登海上保安署が担当しているという。 従って、名灯台と言われる「禄剛崎灯台」は七尾市に管理所が在ることになる。

「灯台」と「燈台」について・・、
灯台は構造物を表す言葉で、ごく近年建てられた一部の灯台を除き、殆どの灯台では地点を表す固有名詞の後に「燈台」を付け正式名称としていた。 これらの多くは、常用漢字として「灯台」が採用される以前に命名された灯台である。
常用漢字が制定されてからは、燈台と言う名詞が付いているにもかかわらず「灯台」の字が使われることがある。しかし、基本的には人名同様、既に記されている固有名詞であり、常用漢字が制定された以前に「燈台」と名前が付いている灯台は、燈台で良いのである。 つまり、「禄剛崎灯台」は、「禄剛崎燈台」が正しいと言える。 

もっとも、この様な事例は他にも沢山あるが・・?、
地域の名称が役所の都合で簡略に変換(漢字の変換)されることには、小生も疑問符をもち、地域の固有名詞は人名と一緒の筈である。 何時の日か、小生もウッカリして人の名前の「廣」という字を「広」と書いてしまって、当人にお目玉を頂戴した記憶が有る。
当用漢字は1946年11月に公布,教育漢字は1948年に公布されている。 更に、常用漢字は1981年10月に内閣告示された漢字のことで、当用漢字に代わるものとして告示された。 実際、常用漢字は一般の社会生活における漢字使用の目安とされ,日常生活で日本語を表記する「目安」として定められたもので、専門分野や固有名詞は対象としていないともいう。

能登半島の北東端で、海面上46mの段丘上に灯台があって、灯台下の崖下には「千畳敷」といわれている平らな海食棚が広がる。 干潮になると姿を現し満潮になると海中に没するらしいが、規模的には九州・日向(宮崎)海岸の「鬼の洗濯板」に比ぶれば可愛いものである。

次回は、須須神社



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写真:日本列島中心表示碑と禄剛崎方位表示


日本周遊紀行(218)珠洲 「狼煙の禄剛崎」

この先、曽々木トンネルの道路サイドには「垂水の滝」というのがあり、落差35メートルの滝水は荒磯へ直に流れ落ち、押し寄せる潮風によって飛散している。 厳寒の候には、季節風により白い波頭が岩に砕け、渚一面にふんわりとした綿花状となって、風に吹きちぎられる、土地の人は「波の花」と呼んでいるらしい。
 
この辺りから町域は珠洲市(すずし)となる。 
国道249は更に荒々しい海岸を進み、前記の平時忠の配流地・大谷の地で内陸の大谷峠を越えて恋路海岸の飯田へ向かっている。 小生は、このまま県道28号の海岸沿いを進み、能登の最先端「禄剛崎」へ向かう。  
日本周遊の中で、全てが海岸に面している国土において岬は付き物である。 しかも、自然景観に優れている岬巡りは楽しみの一つであり、そして概ね、この岬には概ね灯台が配置されていて、こちらも必見なのである。 こちら能登半島の突端に立つ禄剛埼や灯台は、避けては通れないチェックポイントである。

木の浦のS字カーブを過ぎ、折戸の海岸を過ぎると能登の最先端の港・狼煙漁港へ着いたようである。 このまま進むと港海へドボン・・!、と落ちそうなくらい道は海岸埠頭へ接近していた。 防波堤に囲まれた港は波音なく静まりかえり、十数艘の漁船が岸壁に着突き当たっていた。 人の気配は全くなく、能登先端の静かな漁港である。 
地域名で狼煙(のろし)というのはすごく珍しい地名のようであるが、何か曰くは有りそうだ・・?。 日本地図をみると、本州の太平洋側に比べると日本海側は比較的凸凹が少ない。 そのなかで突出して目立っているのはが能登半島である。 
その大きな出っ張りは、航海者にとっては紛らわしかったであろう。 何故かと言えば昔の航海は、陸地からは余り離れず、陸の地形を頼りにしてのである。 半島の大きな出っ張りは、目印にはなったが、又、一方面倒な存在でもあった。 特に、夜間や天候不順の日は目印が必須であった。 この高台の岬には以前は大きな狼煙台があったに相違なく、 それがこの地域の名称になって残っているのは納得である。

現在の珠洲(すず)という地名は、「すすみ」(古訓で狼煙・のろしのこと)に由来するとも言われ、それに因んで狼煙町、狼煙港、狼煙海岸などの地名が今に残っている。 この狼煙は1883年(明治16年)に白亜の石造灯台・禄剛埼灯台が建設されるまで活躍していたという。 実際に、地元氏神の三崎権現(現在の須須神社:これより2km先の寺家地区)には、大昔から狼煙を行っていたという伝承も残っているという。

港の後背部は岬の高台になっていて禄剛崎といい、禄剛崎灯台がある。 
港の海岸を一当たり見渡して、近くの商店に伺いをたてると、「歩いたッで、すぐそこでぇ・・」と返事が返ってきた。 車を港の岸壁に置かせてもらって、カメラ一っ丁で出向いた。 5〜6分あるいたところで、東屋のある原っぱへ出た。 やはり展望は抜群であり、前方左右で外浦、内浦を分ける岬の先端に居ることを実感する。 その又先端に貫禄十分の灯台があった。 囲いで囲ってはいるが、門構えがあって「能登半島国定公園・禄剛崎」とあり、「禄剛崎灯台」と両門に掲げてある。 灯台の他に送信等と思われる鉄塔が建ち、そこに・・、

『ここは能登半島の最北端で、ちょうど外浦と内浦との接点にあたるところです。「海から昇る朝日」と「海へ沈む夕日」が同地点で眺められろ貴重な場所であります。又、晴れた日は、立山連峰から佐渡島が遠望できます。この灯台は・・』と記されてあった。
 
俣、下の駐車場の案内板には「最果ての地・狼煙町」と書いてあったけど、灯台の近くにあった碑には「日本列島ここが中心」と書かれている。 版図には禄剛埼を中心に円が描いてあり、その中にすっぽり日本列島が収まっているのである。 実際に地図上で能登・禄剛埼を中心に円を描くと、ほぼ北海道の中央部から九州の中央部が円の線上に位置している。
小生は、日本一周で北海道の稚内(宗谷岬)から、九州南端の佐多岬を巡りつつ現在、禄剛埼に立っているが、この位置が日本の中心というのは一種、感慨深いものがある。

又、この一角に“面白い標識”がある。
『東京・302km、上海・1598km、釜山・783km、ウラジオストク・772km』とある。
輪島の項でも述べたが、やはり能登からウラジオ・・へは近かったのである。 
周辺は一部石畳など敷かれ芝生が植えられた広場になっていて、ゆっくりと寛ぐことがでる。 灯台近くの崖の斜面に生えている木が斜めになっているのは、季節風による厳しい吹き付けによるのだろう、今は穏やかな雰囲気が味わえる岬である。 

次回は、禄剛崎燈台


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写真:曽々木の窓岩と上時国家


日本周遊紀行(217) 曽々木 「時国家(ときくにけ)」  

高所から次第に坂道を下る途中、正面に絶壁のような峰がそそり立つ。これが日本海に落ち込んでいる岩倉山(357m)である。 手前には僅かに一筋の川(町野川)が流れ、この川が造ったものであろう、僅かな砂洲の平地に「曽々木」の小さな部落があった。
その部落の砂浜の向こうに奇体な大岩が迫り出している。 「窓岩」といい中ほどにポッカリと窓のように空洞を開けていて、源義経が矢を射ってあけた穴とも言われているが・・?。
 
この地は、既に、輪島の市街地から約20kmほどのところ、一昔前なら人跡未踏の僻地のようであるが、ここに、茅葺きの二つの・上時国家と下時国家という名代の旧家が建っているという。(輪島市町野町・字南時国) この両家の意味というか、読みは「上(かみ)の時国(ときくに)の家」といい、一方は下(しも)の・・・家である。
平地を見下ろす高台に建っているのが上時国家で、少し町野川下流側にある見るからに歴史を感じさせる古い佇まいの家が下時国家である。 両家とも、北陸地方でも最大級の規模と歴史を有し、特徴ある建築様式は江戸末期の民家風建築である。
これらの二つの旧家は、源平・壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門のうち、「平家にあらずんば人にあらず」と奢った言葉を述べた事で知られる武将・平大納言時忠(ときただ)の末裔とも言われる。 両時国家の二つの家は、約800年の歴史を受け継ぎ、上時国家は24代、下時国家は23代を数えるといい、これはまた凄いことである・・!!。

因みに、ロッキード裁判の時、田中元首相を裁いた裁判官に「時国」という裁判長がいたが、彼はこの時国家の出身といわれる。 時の権力者・田中元首相を裁いたことで左遷されたともいわれるが、名門の出の矜持(きょうじ:自分の能力を信じていだく誇り)が、そのような圧力にも屈せず、田中元総理を有罪に持ち込んだのかも知れない。
因みに、ロッキード事件とは、1976年2月に明るみに出た戦後の日本を代表する大規模な汚職事件である。 全日空の新型旅客機導入選定に絡み、前内閣総理大臣で自由民主党党首の「今太閤」、「コンピューター付ブルドーザー」と称された田中角栄が引き起こした贈収賄事件で、同年7月27日に受託収賄と外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで逮捕されるという前代未聞の事件となった。 「総理の犯罪」の異名を持ち、田中前総理の他にも運輸関係大臣が逮捕され、戦後の疑獄事件を代表する大事件となった。
  
平何末期、平時忠は平時信の子として京都に生まれ、姉の時子は平清盛の妻となっている。 又、妹の滋子は後白河天皇の后(きさき)となり、建春門院と称し後の高倉天皇を生むことになる。 高倉天皇は、時子と平清盛の間にできた徳子を皇后とし、安徳天皇を産むことになる。 徳子は国母(天皇の母)となり、後に建礼門院と称した。 
このように平時忠は平清盛の小舅として、権勢並ぶ者なきの地位にあった。 そして官位も中宮大夫、検非違使別当、左大弁などを歴任し、権大納言正二位まで昇進した。
時忠は平清盛亡き後、平清盛の妻の弟だったことから平家一族の纏め役として実質上の頭領であった。 しかし、壇ノ浦の戦いで平家一族が敗れて海の藻屑と消え去った際、時忠は生きて捕らえられた。 時忠は、三種神器の神鏡(八咫鏡:やたのかがみ)を義経に奉じ、また、娘・蕨姫(わらびひめ・義経の側室)を義経に献じて身の安全を図り、助命されたといわれる。

しかし、義経が時忠の娘婿となったという情報は直ちに鎌倉に届く。 
元より源頼朝は義経について行状不善として、既に追われる身になっていたのであり、この知らせによって一層、義経に対する不信感をつのらせた。 
平時忠が流罪になったのは文治元年(1185)で、配流地は奥能登の現在の珠洲市大谷の地(これより10kmほど先の地)である。 その約40日後に頼朝は義経追討の院宣を得て、五畿七道(全国)へ義経の追討令を出していた。
時忠は、波乱に富んだ生涯をこの配流地・大谷の地で閉じたとさ、時忠の墓は現在、国道249号が恋路ガ浜へ抜ける大谷峠の手前にあるという。  時忠没前の文治3年頃、追われる身の義経は妻(蕨姫)の縁を頼って、この大谷の地に妻を含む一行と訪れたことになっている。 義経と妻・蕨姫は時忠に会い、最後の親子の対面をしたのかもしれない。 
義経の北陸や能登における伝説は無数にあり、先の「窓岩」の一見も満更では・・と思いたくもなる。
 
時忠の後を継いだ子の時国は、平家の子孫ということであるが、頼朝自身は義経追捕と奥州藤原氏の対立に躍起になっていて、能登の時忠の子孫などには眼中に無かったようである。 時国はその後、町野の地に移り、館を構えたといわれている。 
時国家は町野川下流域に勢力を伸長し、代々の当主の努力によって当地の土豪となり、近隣の村々を統治したいう。 又、鎌倉幕府の世にあって、平の姓を名乗り続けることに支障を感じたので、その後、実名の「時国」を姓とするようになったとする。
上と下に分立する以前の時国家は、今の時国家より少し上がった町野川の河原にあり、その頃の時国家は母屋の間口が約50mもあったそうで、建築時期は室町時代の文明15年(1483)頃に立てられたとの伝承もある。 その他に土蔵や酒蔵、厩舎、稲蔵などもあり、さらに曽々木海岸の浜には塩蔵もあったことが古書文献や絵図によって判っているという。

次回、能登先端・「禄剛崎」


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