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日本周遊紀行(223) 高岡、新湊 「金物と射水」 . その高岡はご存知、鋳物工業の発祥の地である。 駅より1kmの地に金屋町の古風な町屋が並んでいて、高岡の歴史と文化の基点にもなった地域である。 慶長14年(1609年)、加賀藩第2代藩主・前田利長が高岡城を築いた際に、城下の産業発展のために砺波郡西部金屋に住んでいた鋳物師(いもじ)七人衆を高岡に呼び寄せ、鋳造作業場を開業させたことに始まるという。 利長は鋳物師衆に対して5000坪の領地を与え、税や労役などの諸役を免除する特権を認めるなど手厚く優遇した。 それ以後、金屋町の鋳物業は大いに繁栄し、高岡鋳物発祥の地として今日の高岡の銅器・アルミ産業の礎となっている。 現在、金屋町では銅器など芸術作品を軒先に配置したり、各所にモニュメントを配置し、観光客と住民の交流の拠点となる「鋳物資料館」も開設されている。 現在も伝統産業として、梵鐘などの銅器製造(高岡銅器)が盛んで全国的に有名であり、日本三大大仏(奈良東大寺、鎌倉高徳院)の一つ、高岡大仏にも生かされている。 又、豊富な水を利用した水力発電により、電力が安いことからアルミ製品の生産が発展しアルミ建材の出荷額が多く、三協アルミ、立山アルミの本社もある。 国道160号線は高岡市郊外で国道8号線になり、そこから富山方面に向う。 高架下を派手な柄の市電と思しき電車がゆったりと走っている、この辺りの「万葉の地」に因んで、その名も「万葉線」というらしい。 高岡駅前から小矢部川と庄川の間をぬって、河口付近から「新湊」に至っているチンチン電車(路面電車)である。 新湊市は、2005年11月に射水郡小杉町、大門町、下村、大島町が新設合併して「射水市」として新規に発足している。 「 射水」という地名は、奈良時代の「万葉集」の中で既に登場し、古くから書物や地図にその名が記されるなど、長い歴史を持つ由緒ある地名である。 小矢部川のことを嘗ては「射水川」と称し、神通川・庄川の間に広がる富山平野の北西部に位置する呼称を射水平野ともいう。 平野に湧き出る清水群を見て、古代の人々はこの地を「出(い)ずる水(みず)の地」と呼び、この言葉から「イミズ」(射水)という土地の名が生まれたともいう。 大きく湊を広げて発展した町を明治以降「新湊」と近代的な名称を付した。 その後に、歴史ある「射水市」としたことは納得である。 命名するにあたって、合併協議会での新市名の一般公募の結果「射水市」が大多数を占めたともいう。 若くしてノーベル賞を生んだ富山県民の良識ある判断に感心する次第である。 余計だが、昨今の合併で新しい地域名、行政名の付与に苦慮している自治体もあり、時折、話題・ニュースとして取り上げられている。 愛知県で新市の名称に「南セントレア市」というのが話題になったのは周知であるが、小生の住む(神奈川県厚木市)関東周辺地域に限定しても、珍妙にして意味が曖昧な行政名がある。 わが独断と普見(偏見ではない・・)にて地域の方には申し訳ないが列記してみると・・、山梨県(南アルプス市、甲斐市、甲州市、中央市)、埼玉県(さいたま市・ふじみ野市、ときがわ町)、千葉県(いすみ市、南房総市)、東京都(あきる野市・西東京市)などであります。 幸いと言うか・・?、地元・神奈川県には、あやふやな地位名は無い・・!。 ところで、某テレビ局の番組で拝見したことがあるが、新湊市(当時)にはユニークで楽しい名前が多いという。 「姓」というのは明治初期、政令で誰もが名乗る事になったが、その際、役場の担当者や地元の有力者、僧侶、神官、勤め先の社長、親方などと相談して決めたというのが一般的である。 専門家によれば、日本の苗字の八割は地名から、それ以外は職業に由来している言う。 新湊の場合は職業に関する苗字の割合が非常に高く、しかもその立地場所から海や漁業、食品に関するものが多いのが特徴である。これ等の姓名を具体的に何処の誰が付けたかは古文書や資料が残されておらず解らないという。 主なユニークな姓は次の通りで・・、 釣さん、魚さん、海老さん、味噌さん、醤油さん、酢さん、糀(こうじ)さん、素麺さん、牛さん、万十さん、菓子さん、米さん、飴さん、風呂さん、桶さん、壁さん、大工さん、綿さん、等々・・、 いやはや、ご苦労さん・・!!。 次回は、「富山」 |
富山県
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日本周遊紀行(222)氷見 「雨晴海岸」 . 氷見は、万葉集の選者・大伴家持(おおとも の やかもち)が愛した景勝地でもある。 越中国守だった家持は氷見周辺で詠んだ歌を30首以上、万葉集に収めている。 家持は特に、富山湾越しの立山連峰の絶景を好んだようである。 富山湾上に浮かぶように聳える立山連峰の景観は氷見市のシンボルで、このような陸から海越しに3,000m級の山々を眺めることができる場所は、この地区、氷見海岸一帯から雨晴海岸(高岡市)にかけてしか確認されないという。 氷見が万葉の時代から歌枕の地であったのも納得できる。 大伴家持が越中守に任じられ越中国に赴任したのは奈良・天平10年(738)で、帰京するまでの5年間在任していた。 家持には通常の国守としての任務のほか、東大寺の官業(政府が直接いとなむ営利事業)などの任があり、家持はその任をよく全うしながら、折に触れて歌を詠んだという。 家持の生涯で最大の業績は「万葉集」の編纂に加わり、全20巻のうち巻17〜巻19に自身の歌日記を残したことにある。 家持の歌は万葉集の全歌数4516首のうち473首を占め、万葉歌人中第一位であり、しかも家持の万葉集で確認できる27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首もあり、越中の古代を知るうえでのかけがえのない史料となっているといわれる。 『 馬並(な)めて いざ打ち行かな 渋谿(しぶたに)の 清き磯廻(いそま)に 寄する波見に 』 (馬を並べてさあ出かけようじゃないか、渋谿(雨晴海岸)の清らかな磯に打ち寄せているその波を見るために) 万葉集 巻17 3954 『 渋谿の 崎の荒磯に 寄する波 いやしくしくに 古(いにしへ)思ほゆ 』 (渋谿の崎(雨晴海岸)の荒磯に、寄せる波のように、 なおもしきりに、昔が思われる) 万葉集 巻19 3986 氷見から国道415の海岸沿いを行く、高岡市に入り氷見線の海岸に面した駅に「雨晴駅」がある。 そこが渚100選、家持が詠んだ「雨晴(あまはらし)海岸」であり、白い砂浜と松林の美しい海岸線が続く。 ここ雨晴海岸からは、海の向こうに雄大な立山連峰を望むことができ、海の上に3,000m級の山々を望むことができるのは、世界でも3か所だけだそうで、富山県の観光パンフ写真の定番でもある。 「雨晴」というユニークな地名は、義経岩に伝わる源義経一行の雨宿り伝説によるものという。 『 文治三年(1,187年)に源義経が北陸路を経て、奥州下りの際ここを通りかかった時、にわか雨にあい、海岸沿いの岩(義経雨はらしの岩)の下に家来ともども、雨宿りをした 』 というものである。 又、「雨晴」は雨のち晴、雨を晴らすという意味で、不幸から幸福へと幸をもたらす、ということで能登の「恋路」や北海道の「幸福」と並んで人気があったとか・・?。 この雨晴海岸の山の手に二上山、「二上山公園」がある。 ふたつの峰からなる二上山は、月や紅葉の名所として有名で、ゆるやかに山をめぐる全長約8kmの万葉ラインを中心に、万葉の歌碑や像のほかにいろいろな施設があり、四季の景色や展望が楽しめる。 この地が、万葉の代表的歌人・大伴家持が越中の国守として5年間赴任していたが、この間に二上山に関わる数多くの歌を残している。 JR高岡駅前に建つ大伴家持像は町のシンボルとなっている。 雨晴駅からは氷見線といい国道といい、海に落っこちそうな路線を辿る。 この海岸際に小さな岩屋があり、「雨晴」の謂れとなった「義経岩」である。 小さな鳥居の先の岩段の上に祠があった。 国道を更に雨晴トンネルを抜けると(鉄道は海際を走っている・・?)、その名も「越中国分」の駅がある。 この辺りは伏木地区といって、字に如く昔は越中の国府があった地域であり、この地方の政治・文化の中心地であったという。 小矢部川が富山湾へそそぐ河口に位置する二上山東麓の河岸台地、伏木町古国府の地一帯が越中国庁の跡といわれる。 その国庁跡に建っているのが勝興寺である。 現在の境内は約三万三千平方m、中世風の豪壮な伽藍を持つ二十四間の本堂、そして、本堂前に建つ唐門(四脚門)とも国の重要文化財である。 かつての越中国府は、現在の勝興寺境内を中心として200m四方(4万平方米)あったと推定されているという。 高岡市の中心はこれより5kmくらい内陸に入った小矢部川と庄川の扇状地に広がる。 次回は、「高岡」 |
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日本周遊紀行(222)氷見 「海鮮館」 .
http://blog-imgs-30.fc2.com/o/r/i/orimasa2005/20090725091842a69.jpg 写真:氷見の港に建つ「海鮮館」 七尾市から国道160号線を富山湾に抜けると波打ち際を延々と走るようになる。 この氷見市に至るまでの海岸線は素晴しく透明感があり、目を見張る美しさである。 特に小境海岸の白砂が鮮やかで、海の色香もますます冴えてくる。 対岸には、未だ白く雪を戴いたアルプスの山並みが見え、富山湾の海の青と対比して絵のようである。 特に富山湾の海の色は、明るく濃い青色で水彩画の水色を何度も塗り重ねて濃く塗ったようで独特のものがある。 このことは天気や海底の状態や様々な要因があるのだろうが、もしかするとアルプスから流れ込む清流水の所為(せい)かもしれない。 そして、いつの間にか石川県から富山県に到っていた。 富山県(富山市)出身の「田中耕一」氏がノーベル化学賞を受賞したのは2002年12月で、若干43歳の時であった。 島津製作所の社員であり、サラリーマンのノーベル賞受賞として日本国内で話題となったのが記憶に新しい。 氏は、「コツコツ続ける堅実さと、粘り強さは富山の地(ぢ)のおかげ」といっている。 隣の石川県が百万石の豊かな地であったのに対し、富山は加賀藩の支藩にすぎず、僅か十万石の貧国で、衣は麻か木綿、食は雑穀、酒の代わりに茶を飲むなど倹約を勧め、贅沢を戒めた。田中氏も言っているように、この様な堅実な県民性がノーベル賞という偉大な賞を戴いた一つの要因であろうと想像できるが・・?、無論、本人の人並みはずれた精神があったことは論をまたない。 富山県は近年、耕作地における水田比率は高く、勿論、政府が勧める減反政策に対して、その休耕地比率が極めて少ないともされる。 中部の砺波地区においては、明治時代から続く異彩のチューリップ栽培が盛んであり、特に、富山湾の漁業の恩恵は国内でも最大級のものがある。 その漁業の中心が「氷見」であり、美味しい魚が四季を通じて各種の漁が獲れる。 それには独特の理由が有ったのだ・・!。 3000m級の険しい立山連峰とそれに連なる山並みからの雪解け水や雨水が、森林を通って河川に流れ込む。 河川は森林の有機質がプランクトンを培養し、富山湾は絶好の漁場環境なのである。 更に、富山湾の海底は、水深1000mも深く複雑な地形をなしていて、一気に湾底まで落ち込む斜面を海底谷、所謂、あいがめ(藍瓶)とか、「ふけ」と呼んでいる。 この谷底に向かって大陸棚からプランクトンを培養する有機質が流れ、格好の漁場となるのである。 富山湾の中でも氷見沖は最も大陸棚が発達しているため、この「ふけぎわ」が多く存在し、古くから漁業が盛んである。 今も40数ヶ所もの定置網が設置されており、富山湾は全国的にも好漁場で「天然のいけす」とも呼ばれ、県内随一の漁獲量を誇っていて、その魚の美味しさも一味異なるという。 国道から氷見市内に入って、そのまま海岸通りを行くと洒落た園地が在った。 港はモダンな造りで、観光船なども停泊している。 近くに「海鮮館」なる巨大な食のデパートがあり、さすがに魚色豊かな氷見ならではである。 因みに、氷見の魚のカレンダーは、春(3〜5月)はマイワシ、サヨリ、クロダイ、夏(6〜8月)はマアジ、トビウオ、クロマグロ、カジキ、マダイ、秋(9〜11月)はカマス、シイラ、アオリイカ、ワタリガニ、冬(12〜2月)はブリ、カワハギ、スルメイカ、マダラ、フグなどである。 他にも四季を通じて150種類以上もの魚が水揚げされ、初夏の「マグロ」、冬の「寒ブリ」、そして「氷見いわし」は広辞苑にも掲載されるほど有名であるとか。 次回、「雨晴海岸」 【小生の主な旅のリンク集】
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写真:後曳橋を渡るトロッコ列車 |
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