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 日本周遊紀行(230)白馬 「追憶・冬季長野オリンピック」  .



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写真:白馬村と白馬ジャンプ台



白馬:「追憶・冬季長野オリンピック

序ながら、あの冬季長野オリンピック・白馬ジャンプ競技の感動的名場面を思い起こしてみよう。
1998年・平成10年2月11日、白馬の空は晴れ渡っていた。 

この日、先ずノーマルヒルの競技がいよいよ開催されるのである。 やや高台にある競技場の観覧席は日本選手の原田や船木の登場を、今やおそしと待ちわびていた。
いよいよ本番。 1本目のジャンプは原田雅彦選手がやってくれました。 最長不倒、K点越えの91.5mでトップに立つ。 
飛び終えて、満面の笑顔で歓声に応える原田選手。 
次に飛んだドイツのトーマが84.5m。最後に飛んだ船木和喜選手はやや伸びを欠いた87.5mのジャンプに終わり、原田選手が断然トップで折り返した。 1本目を終えて1位が原田選手、そのほかの日本選手は船木選手が4位、葛西選手が5位、斉藤選手が7位である。 一本目は真さに期待通りの強さであった。 

空は本当に気持ちよく晴れ渡り、さわやかなそよ風(ジャンプ台には向かい風)が吹く絶好のコンディションで、誰もが、もう原田選手の金メダルを信じているようである。 
2回目を待つ間も会場は大興奮!
しかし、・・あああ、これは神様のいたずらか・・! それでも原田は主役であった。
 

2本目の競技は、1本目の上位30人が出場し、下位の選手から順番に飛んでいく。 
船木が登場したのは勿論最後から4人目、満員のスタンドが歓声とともに大きく揺れた。
飛距離は90.5m、2本の合計ポイントは233.5点、フィンランドのアホネンを合計ポイントで2点上回りトップに立つ。 
残すは3人、1人でも船木に及ばなければメダルが確定する。 船木の次に飛んだのはオーストリアのビドヘルツル、飛距離は船木選手と同じ90.5mまで伸ばした、ビドヘルツル選手は1本目88mを飛んで3位、ああ、抜かれてしまうかという不安を抱きながら見守る。 でも合計ポイントは232.5点、船木には届かない、大歓声が起こる、船木のメダルはもう確定した。 
飛距離の合計では船木を上回ったビドヘルツルであったが、世界一美しいといわれる船木のジャンプは、飛型点を多くかせいでわずかな差を守った。
これで原田選手が「自分のジャンプ」をしてくれれば、日本が金銀のメダルを獲得できる可能性があった。 次はフィンランドのソイニネン、見事なジャンプで89mを記録した、ソイニネンが着地した瞬間、「ウオオオ」という声があがつた。 船木が逆転されたのである。 
なんにせよ、これで原田選手が「ちゃんと飛んで」くれさえすれば原田が金メダル、船木が銅メダル・・、最高の成績である・・?。

いよいよ最後のジャンパー、原田の番がやってきた。 
白馬の山を貫くような大歓声が起こる、いよいよ原田がスタートした。
そして、結果は・・、原田はやっちゃいました。飛距離は84.5m、合計ポイント228.5点で5位に転落してしまったのである。 
「ああああああ・・!!」、着地した位置を見て、やけに長いため息が渦巻いた、あのリレハンメル・ オリンピックの団体戦、最後のジャンプで失敗したシーンが頭をよぎる。
 

残念ながら、日本選手の金メダル獲得はならなかった。 
それでもバーンを滑り降りてきた原田は、終始笑顔を崩さず、手を挙げて歓声に応えた、ヘルメットを取り、周囲のスタンドに何度もおじぎをしている。 
きっと「応援してくれたのに、金メダルが取れなくてすみません」という意味なのだろう。 悔しさに顔をゆがめていいはずなのに、観衆を気づかい、取り囲む報道陣の質問にもていねいに答えている原田選手の姿。 
観衆の誰も、原田を責めるような声を飛ばしたりはし、むしろ「ラージヒルは期待してるぞぉ!」という声があちらこちらから聞こえていた。 
  

ジャンプ・ラージヒルの日、1998年・平成10年2月15日、天候は雪である。 
競技の前にトライアル(試技)と言う練習ジャンプがあり、飛んだ原田は108mの失敗ジャンプ、船木は着地でバランスを崩して転倒してしまい、あやうくフェンスに激突しそうになった。

ともかくも、1本目の競技が始まった。 
岡部の1本目、飛距離はなんと130m!大差をつけて、まず首位に立つ。 原田がスタート地点に姿を見せると、満員のスタンドから大歓声だ、ノーマルヒルでの屈辱を晴らして欲しい。 原田の飛距離は120m、失敗というわけではないが、風に恵まれず、やや不本意の5位。 
そして1本目の最後に飛んだ船木の飛距離は126mで4位につける。

1本目が終わり、2位に岡部、4位に船木、ややポイント差はあるものの6位に原田が続く。
ファイナルラウンドは1本目の上位30選手だけで争われる。 風の条件がよくなったのか、1本目より飛距離を大きくのばし、K点を越えるジャンパーが続出する。 

25人目、いよいよ原田の2本目、地響きのような歓声があがる。 
そして、原田がやってくれました。 NHKの工藤アナウンサーが「・・・さあ、原田スタート・・、ン・・高いぞ・・どこまで行くのか・・立て、立て、立ってくれ・・立った・・!!」の絶叫口調が耳に残る。
そして、135m地点を越える大ジャンプ。 見ていても伝わってくるような衝撃に、足と両手を大きく広げて転倒しそうになるのを耐えきった。 まさに奇跡・・、歓声が爆発音のように激しく原田を祝福する、これでメダルに手が届く! アップの画面でスタンドには、もうすでに泣いている人がいるようだ。 

ところが、会場の電光表示板には、いつまで待っても「HARADA」の飛距離やポイントが表示されない。 
白馬のラージヒルのジャンプ台では、ビデオを使って飛距離判定をしているが、カバーしているのは135m地点までで、原田は、その135m地点をはるかに越えて着地してしまったのだ。 

測定ビデオのないところまで飛んでしまったために、測定されないまま次の選手がスタートしている、「原田はどうなんだ?」、観戦諸氏はヤキモキ・・、すばらしいポイントをマークしたのは間違いないが・・?。 競技は進む、そして、続いて船木がやってくれた。 原田の大ジャンプの興奮もさめやらぬうち、またまた130mを越える大ジャンプを見せた。 飛距離は132.5m、しかも、テレマーク姿勢もぴたりときめて、飛型点は審判全員が20点満点というずばらしいジャンプであった。  
残るは2人になって、1本目2位の岡部が登場、この時点で船木が1位、原田のポイントはまだ発表されないが、残念ながら岡部の飛距離は119.5m、最終的に岡部は6位。 
いよいよ最後のビドヘルツルである、この時点でトップは船木、もし、ビドヘルツルの飛距離が伸びなければ、船木選手が金メダルである。
スタートを切った。 我々日本人は「落ちろー!」と心の中で叫んだに違いない。 それが通じたのか、飛距離は伸びなかった、120.5m。 
原田のポイントはまだ表示されないままであるが、船木が1位であることはもう間違いない、船木の金メダルが確定した。 ラージヒルでは会心の金メダル、観衆に向かって大きく手を上げて喜びを表現している。 

競技はすべて終わった。 でも、原田のポイントはなかなか表示されない、一度は観衆の声援に応えた船木が、少し心配そうに原田に歩み寄る。 そして、電光表示板に「HARADA」の名が浮かび上がった、3位である・・!。 
飛距離は136m、白馬の山が割れるような大歓声が起こる。 
金メダルの船木選手は本当にすばらしい、でも、原田の銅メダルは、見ている者にとって、金よりも輝いていた、オメデトウ・・日本、次は団体である。

ここでは何と言っても原田の2本目のジャンプが注目された。 白馬の冬のバッケンレコード131.5mであるが、それを4.5mも上回る大ジャンプであった。 
この辺りの地面(雪面)はほぼ水平で、着地した瞬間は、物凄い衝撃が全身を打ったはずである。 後日談で、この136mジャンプの着地の際、あまりの衝撃の大きさで原田のスキー板にヒビが入ってしまったという・・、凄い・・!!。 


次回は、「ジャンプ団体




 
 
 
 

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                   奉納された「御柱・心柱」



日本周遊紀行(5)諏訪 「御柱祭」


諏訪にまつわる「御柱・心柱」の意外性・・、

その諏訪大社の数ある神事の中で,最も勇壮で熱狂的な祭りが「御柱祭り」である。 
天下の奇祭・大祭として広く全国に知られている。祭りは寅と申の年にあたる7年目毎に、諏訪地方の6市町村、凡そ20万の人々がこぞって参加し執行する大祭である。 
上社は八ヶ岳の御小屋山社有林から,下社は霧ヶ峰東俣国有林から,直径2m,長さ約16m,重さ約20tにもなるモミの巨木を8本づつ切り出す。 
上社は約20km,下社は約12kmの御柱街道を独特の木遣り唄に合わせて人力のみで曳き,各神殿の4隅に建てる。
祭りは4月の・山出し祭りと5月の里曳木祭り・秋には小宮祭りが行われ、山出し祭りでは、急坂を下る「木落とし」、川を越える「川越し」などの壮観な見せ場がある。また里曳木祭りでは騎馬行列や長持ち、花傘踊りなど時代絵巻が繰り広げされ、2ケ月にわたって諏訪地方は祭り一色に染まる。秋に行われる小宮祭りは主に子供祭り(全国各地の諏訪大社系神社の祭り)で,全国の市町村にある諏訪神社の御柱まつりで、大社同様に神殿の4隅に御柱を建てる。基本的には4月に執り行われる御柱祭りの分社祭りである。
天に抜けるような澄んだ声で響わたる木遣リ唄,風にたなびく彩り豊かなおんべ(御幣・角材を鉋(かんな)で薄く削り、束ねて棒に繰りつけ、頂点部分から垂らした指揮棒のようなもの)、勢いをつける御柱ラッパ,そして晴れやかさと誇りに満ちた諏訪人の顔・・、心震わす天下の大祭が御柱祭である。

この天下の奇祭といわれる「御柱祭」は如何なる起源によるものか・・?史に興味のある御仁は尽きないところであるが。
古代人が神を祀るには二つの大まかな形があるという。一つは岩に出現させる岩座(いわくら)信仰であり、一つは木に神を下らせる「ひもろぎ」(神籬:神事で神霊を招き降ろすために、清浄な場所に榊(さかき)などの常緑樹を立て、周りを囲って神座としたもの。古来、神霊が宿っていると考えた山・森・老木などの周囲に常磐木を植えめぐらし、玉垣で囲んで神聖を保ったところ)信仰があったといわれる。
 「ひもろぎ」信仰が発展し、人々は森の中の大きな木を神祀りの社として神社の原形をつくったという。 地鎮祭などで神官が中央に一本の青木を立て、天に向かって声を上げるあのきわめて自然な祭りの形が御柱に通じるともいわれている。
古代縄文期には、「大型掘立柱建物」というのがあり、青森の三内丸山遺跡で著名であるが、高さ約20m以上の建物であったとも推測されている。 超高床の建物はどのような目的で使用されたのかは明確でないとされるが、「物見やぐら」や「灯台」ともいわれるが、主目的は「祭殿」などの施設を想定することができるという。 

諏訪大社の本家は出雲大社であるが、その本家・本殿の高さが威容なのである。
現在の出雲大社の本殿は24mであるが、一時は48mとも96mとも言われ、雲を突くような超高建造物で、その本殿造営に関係しているのではないかとの見方ができる・・?。 
諏訪大社は上下あわせて四社あり、それぞれの四本の柱は本社:出雲大社を模写したもので、本社に崇敬の念を表したものであると。 本殿へ至る長い階段、そして階段と本殿を支える強靭な柱、重塔を除いた単一の建物としての最大の建物は、当然、大柱、心柱が必要なのである。
大柱は、切り出し、運搬、加工、据付と多数の人力、高等な技術が必要であろうことは言を待たない。
御柱祭りの行事は、社殿の造営様式と御柱曳建様式とに分かれ、主祭りは御柱曳建祭といわれる。これら諸々の造営工事関わる事象が祭事化したものであろう・・?。 祭りでは、それぞれの社に四本の柱を建てるので、計十六本の大木を建てることになる。
柱は、神の依代(よりしろ)である。 御柱祭の起源は諸説あるが、四本の柱は宮殿を表すなど、諏訪大社では、本家・出雲大社の大柱の造営技術を受け継ぎ、自らの社殿の造営に生かしたものが現在の「御柱祭」となって継承し残されているとも・・想像できるのである。

日本建築で秀美なものの一つに「五重塔」がある。
五重塔は元来、仏塔の形式をとっており、内実はインドや中国の仏教によるものであるが、建築様式は日本独特の手法をとっている。日本では仏教的内実に併せて、”心柱のために造った建築物”であるともいう・・。
それは五重塔は主に2階部分に仏舎利、既仏像が安置されているが、3階以上の高層部は構造物のみで、それらは支柱が支えている・・、その心柱が天空にとどいた処に賑々しく相輪が施してある。ただ支柱や塔屋の構造物としての役割はあくまでも副的なもので、「心柱」が本来の目的であり、相輪(塔の最上層の屋頂に載せた装飾物)を飾り、支えるものであると・・。つまり柱が重要視されいて、柱は聖なる「心柱」であり、「塔」そのものであって、構造物である塔屋は「心柱」を保護する為のものという。
先に神の依代である「神籬(ひもろぎ)」のところでも記したが、古来、高い神木には神が宿るという思想に基づき、「心柱」は高いものでなければならない。高い所に神が宿り、高い垂直物(木)は神と人間とを結びつける桟(かけはし)であった。
柱は、神と俗界、即ち天上と地上を繋ぐものと考えられていて、それが為に「神」の事を一(ひと)柱、二(ふた)柱と数えることでも頷けるのである。
我が国の巨木信仰は仏教伝来期より、遥か以前の縄文時代に遡る。
かの「出雲大社」は24mの高さがあるが、その昔は48mとも96mとも伝説がある。出雲大社の主人公の一つは『柱』なのである。 又、かっては東大寺には東塔、西塔があり七重塔ともいわれ、総高が100mもあったと言われている。
仏教伝来以来、神仏混交が盛んになるが、その都度、高層の仏塔も数多く建てられる。その建物、構造物の多くは神仏混交の象徴的建物であったのかも知れない。

序でに、木造の五重塔や多層塔は地震に強いといわれる。1,995年の阪神・淡路大震災でも、兵庫県とその周辺にある高塔は一つも倒れなかったという。
建築方法の一つに「積み上げ構造」という「柔構造」の方法があり、五重塔などは正にそれであった。五重塔に見られるような、その揺れによって地震力を吸収する柔軟構造の理論は、近年、日本はもちろん世界の超高層建築に採用されているという。
古代からの伝統的な木造建築である「心柱建築手法」の知恵は、最先端の建築技術に生かされているのである。

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日本周遊紀行(8)姫川 「稗田山崩れ」


「日本三大崩れ」、というのをご存知であろうか・・?。

北アルプスの北端と妙高山系・雨飾山の山峡の狭い空間を一級河川の「姫川」の急流が流れている、そして、その河岸に道路、鉄道、民家がひしめきあっている。
姫川の源流域は白馬連峰に端を発する支流の松川・平川の扇状地が分布し、平坦な盆地(白馬盆地)を形成しているものの、流域の大半の地形は白馬岳をはじめとする標高2000mを超える山々が連なり非常に急峻である。 
水源は白馬村の親海湿原湧水群(日本100名水)といわれるが、元々の水源は青木湖であったとされ、佐野坂の地すべり堆積物によって堰き止められたと考えられている。 そのため、親海湿原の湧水は青木湖からの浸透水であるとの説もある。
全長わずか58キロで平均勾配1000分の13という急流であるため、度々洪水におそわれている。 
近年では平成7年(1995年) の大洪水の災害で姫川温泉が甚大な被害を受け、国道、JR大糸線がかなりに亘って流失寸断され長期不通となった。 又、翌年にはこの災害復旧工事中に土石流が発生し作業員14人が死亡している。
尚、この年に息子と白馬の大雪渓を登ったとき、あの白馬大雪渓が例の大雨の影響で完全に土砂で埋まっていたのを思い出した。
元より、日本は国土の約70%が山地であって、これらの山々は地質的にも脆弱な山域が多く、 火山や地震で大規模な崩壊を起こす山も数多くあるという。  主な大規模崩壊地としては、富山県「鳶山崩れ」、山梨県と静岡県の分水嶺・安倍川の 「大谷崩れ」、そして長野県「稗田山崩れ」を三大崩れと言うらしい・・。この崩壊は20世紀の日本における最大の崩壊ともいわれるという。
姫川中流域にある「稗田山崩れ」は、明治44年(1911年)、稗田山(ひえだやま・コルチナスキー場の北側)北側斜面が大崩壊し、大量の岩石土砂が支流の浦川を急流下して姫川河床に堆積し、高さ60m〜65mの天然ダムを形成してしまったという。 堰き止められた姫川は「長瀬湖」と呼ばれる湖を出現させ、川沿いの集落で死者23名、負傷者・水没家屋多数などの甚大な被害を与えた。
この辺りの集落であった来馬地区の川原の下には、明治時代当時の宿場町が、今でもそのままの形で埋まっているといわれる。 
その前後の江戸期、昭和期のおいても数回に亘り浦川上流地区の稗田山系において土砂崩落があり、被害を出している。この辺りは、糸魚川・静岡構造線の断層地帯に含まれる、そのため脆弱な不安定な地形を形造っているという。 

この忌まわしい現場を1976年(昭和51年)、「幸田文」氏が72歳にして「稗田山大崩れ」を視察、見学している。 文氏は明治の文豪・幸田露伴の次女で、大沢崩れをはじめ全国の山河の崩壊地を訪ねて一種のルポルタージュ文学として『崩れ』を紹介している。72歳にして「崩れ」に興味を持ち、時には人の背を借りながらも取材を続け、文学者らしい表現で荒々しい崩落地の様子を記述してある。
普通、このようなつかみ所のない自然現象を文学者が書くとは想像し難く、老文学者で高齢の女性を掻き立てたエネルギーは何なのだろうかと。 生まれつき好奇心が強く、たまたま始めて見た崩壊地点の壮大さ、恐ろしさ、神々しさに気を取られたのかとも思う。 そして、あのお年でなお、あそこまで執着できたのかと尊敬する次第である。
「稗田山崩れ」の現場の途中には、幸田文による「歳月茫々脾」が、遭難稗と共に建立されている。

幸田 文氏の『崩れ』、「歳月茫々・・稗田山崩れ」の断片
 『この崩壊は稗田山北側が楕円形に、長さ8km、高さ河床から約300mのところまで、ほぼ1kmの厚さですべる落ち、その莫大な量の土砂が大音響とともに浦川の谷に落ち込み、浦川はたちまち埋め尽くされて新しい平原となり、稗田山はその北半分を失って全く原形を姿を止めぬ姿になってしまった。
更に、この新平原は下流に移動し、行く手にあるものは田畑も人家人命も、全て押しつぶし呑み込み、下敷きとしつつ、姫川本流へと直角に殺到し、勢いのあまり対岸の大絶壁に打ち当たると左右に分かれて堆積し、堆積のの長さ凡そ2km、高さ65mのも及び、ために姫川は堰きとめられて、冠水の長さ5kmという大きな湖を現出し、橋を壊し人家耕地を浸した。
 そのままにしておけば渦は上流へ拡がるので、水路を切って水を落したところ、まずい事に土砂交じりの濁水は沿岸を削って流れ、下流に氾濫し、町も美田も潰されて、惨憺たる河原へと変じた。(以上は村人による「小谷ものがたり」より)。
崩壊が始まって2度、3度しつこく続けられた災害である。破壊家屋27棟、失われた人命23人、10kmに亘って変貌した土地・・。 今この村を、集落を訪れても昔日の面影はない・・が、あの時埋まってしまった家々も、その家の人達も、今もってそのままになっています。 掘り起こす事の出来ないほどに、深く埋まったのです・、と村人が言う。
連れ立って話してくれる村の人は実直に、事の起こったことに対し「・・という話です、・・だそうです、・・らしいけれど 」という。 道野辺に生い茂る夏草は、いきおいよく鮮やかに青く、まことに歳月茫々の思いに打たれる。
だがここのそうした想いを、からりと晴れ上がるような、これまた感動の強い話を聞いた。 聞けばこの人今66歳、災害の時はお母さんの胎内の中、だったという。
稗田山の崩れは午前3時でまだ真っ暗、眠っていたお母さんはたぶん、ゴーッという土石流の轟音で驚いたろうが、その時はもう何が何だかわからないまま、その恐るべき土砂の流れに乗せられていた。 どういうわけでそうなったかわからない。ただ、土石流の上に乗ったまま流されて、対岸に打ち上げられ、無事みごとに助かったのである。 なぜ転々する土砂の上で、土中に巻き込まれる事なく、ふわふわと上表にいることができたのか、万雷のような大音響の流下の中でどうして錯乱もせずに無事にいられたのか、気丈でもでもあろうし、稀有な好運、奇蹟でもあろうか。
こんな怖い目にあったのは非運だが、それでいて無事に助かったのは、たいへんな隆盛運ともいえよう。 凶が吉に転じるのを、この母と子はいのちをもって体験したのである。
ここにこうして稀有の天助をうけた一人の人が、静かに落ち付いた暮らしを続けていると思うと、崩壊と荒涼と悲鳴ばかりを見歩いてきた私には、なにかしきりに有難くて、うれしくて、ほのぼのと身にしむ思いがあった。
 「 あの山肌からきた愁いと淋しさは、忘れようとして忘れられず、あの石の河に細く流れる流水のかなしさは、思い捨てようとして捨てきれず、しかもその日の帰途上ではすでに、山の崩れを川の荒れをいとおいくさえ思いはじめていたのだから、地表を割って芽は現われた、としか思えないのである・・、 』

後日であるが、幸田 文氏の『崩れ』を読み・・、そして、別宅・白馬の近くでもある、その現地を訪れてみた。
崩壊地手前の耕地の一角には崩壊に関する説明碑、幸田文氏の「崩れ」の碑文が在り、又、平成7年の大洪水の被害に関する記念碑も立っていた。
更に、山間の奥まった所、吊橋から稗田山塊と思しき上空をを見上げると、垂直の岩肌がいかにも陰惨に見える。 切り立った崩落部分は一山全山が崩れ落ちたのだろう、と想像させる程、周囲が大絶壁、断崖となって岩石というよりも茶色の土が露出しているのである。 見渡しても、何しろ視界の180度以上の山塊が崩壊しているのである。 撮影に際しては空から撮るか、よほどの広角レンズでもないと、まとめて撮れないくらいである。 自然の脅威に圧倒されるばかりであった・・!!。
吊り橋の手すりに寄りかかり谷底を見ると、余りの高さに怖さで身体が縮む想いであった。 
ところでこの吊り橋は、その後の日本列島に長大型橋の時代を迎えるが、その横浜ベイブリッジや瀬戸大橋を初めとする吊橋架橋の礎(もと)になったともいわれる。

次回は、「糸魚川」



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           白馬村より白馬連峰の白馬三山をのぞむ(左はジャンプ台)



日本周遊紀行(7)白馬 「塩の道・謙信と信玄」

我が第二の故郷になった「白馬村」について・・、
白馬村は信州・長野の最北部に位置し、西側山岳部は三千米級の北アルプス北部が連なる。 名峰「白馬岳」の、五竜岳、唐松岳などに代表される山並みは、全国から登山者が耐えない。 又、そこから伸びる八方尾根、遠見尾根、岩岳などの山腹には、わが国を代表するスキー場が南北に並ぶ。

その白馬村の中心を、今は副道となった「塩の道」が通っている、昔の国道である。
信州には、塩の道と呼ばれる街道がいくつか存在する。三州街道(伊那街道)とも呼ばれ、三河方面(赤穂事件の吉良家の領)から塩や海産物を信州方面へ運ばれた。又、秋葉街道(南信州街道)は太平洋側の相良から、その名も塩買坂を通って信州へ到った。
そして、こちらは松本から新潟・糸魚川市へ至る凡そ120kmに及ぶ街道で「千国街道」と呼ばれた。松本からは敬意を表して「糸魚川街道」と呼ばれ、越後・糸魚川側からは「松本街道」と呼ばれた・・、これを通称「千国・塩の道」といっている。
日本海側から塩や海産物を海の無い信州に運び入れるために、又、信州側からは麻、タバコ、米など、中世〜昭和初期まで主として使われた生活の道である。 こちらの特徴は、大名家などの武家による参勤交代などはなく、庶民によるボッカ(歩荷・人々が歩いて物資を運ぶ)や牛馬が通り、道路は蹄(てい、ひづめ)で踏み固められた生活物資の生活用流通路であった。
又、この街道は、「敵に塩を送った義塩の道」としての逸話が有名で、上杉謙信が敵将・武田信玄に塩を送るために通った道としても知られる。
武田信玄の本拠・甲斐は内陸地で、塩を他国からの輸入に頼っていた。
戦国期は、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、駿河の北条・今川義元(氏真)の時代である。 上杉謙信と武田信玄(信州松本は信玄の支配下であった)が川中島で争っている時、同時期、武田は南の海に面した駿河・今川とも衝突してしまう。そのため今川氏真は1567年、甲斐と駿河の国交を断絶し、往来を禁止をしてしまう。氏真は信長に桶狭間で倒された今川義元の子である。 
このため駿河・今川から求めていた塩が甲斐に入ってこなくなり、信玄は本当に困り果ててしまう。おまけに氏真は越後の謙信にも謀って、信玄に塩を送らないように依頼する。ところが謙信は「そのこと卑劣なり・・!」と申し出を拒否し、更に戦闘中でもあるライバルにむかって、上杉謙信は「貴公とは弓矢を交えても、塩を絶ってまで甲斐の人々を窮乏に貶めようとは思はない。今後は越後から好きなだけ塩や物資を送るので輸入してほしい」と信玄にしたためたという。

ところで、地形的に信州から甲斐の国は南北に長い。
 駿河から甲斐へは富士川を遡ると平坦で短いが、逆に越後から信州松本までは国内でも有数に海から遠い距離にある城下町であり、しかも険しい山中が大部分を占めている。
武士道精神にたった謙信の取り成しに、信玄が感服したのは言うまでもない。信玄公は「我が亡き後、国危うければ越後に託せ、謙信は頼りになる男だ・・!」と言い残している。 実際に、多くの武将は武田家滅亡の後、越後に向かったという。
改めて上杉謙信の偉大さに敬服するのであるが・・、実際、謙信が信玄に塩を送ったという話は歴史的に確証はされていないとも言われるが・・?。
因みに、現在、NHK大河ドラマ「風林火山」が放映中で、昨今の放送では謙信、信玄が遂に「川中島の合戦」へ突入したようである。
ただ元より、信玄がまだ信濃攻略以前の甲斐しか治めていなかった頃は、謙信はライバルとしての意識はしていなかったようである。 謙信が信玄を敵視し始めたのは、信濃の主・村上義清が信玄に敗れて謙信に頼ったときからで、義清が前の領地を取り戻したいという、願いを受け入れて謙信は武田家と戦う意思を固めたのである。このときの最初の戦が「川中島の戦い」で、それから10年ぐらいをかけて信玄とは川中島の戦いを5回も行うことになるが。
この戦いを謙信自身は「義の戦いなり」と称している、つまり、領土的野心のある戦ではなかったのである。ここにも謙信の「人となり」が表れているし、“義の人”のイメージが見えてくるのである。

余計だが、我が別宅はこの白馬「塩の道」に面している。 そして毎年五月の初旬(連休)には、往時を偲んで「塩の道祭り」が行われ、大勢の人が練り歩く、中には当時の服装、仮装をして参加している人もいる。

次回は「姫川」



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信州・「松本城」 


日本周遊紀行(6)信州松本 「松本城」

西に北アルプス、東に美が原高原を望む信州松本平・松本市、その市街の中央に”平城”として厳然と聳え建つている。 黒城とも言われる「松本城」は周囲の水堀に映えて、どの方位から望んでも実に優美である。
昔は「深志城」と呼ばれ、又、別名黒城、烏城とも呼ばれ、城は戦国時代の戦闘城として今もその形を留め残っている。
薄暗い板敷きの中に入ると、各層がかなり急な階段で結ばれ、各所に敵の侵入を防ぐ石落[いしおとし]や鉄砲狭間[てっぽうざま]といった防護策を施してある。
明治中期には天守閣は荒廃に任せ、倒壊寸前の状態であったが、有志により大改修が行はれ、その後も改装、復元を行いながら現在の姿になった。
 築城は戦国期、家康の名参謀と言われ、後に家康を見限って豊臣秀吉の下に出奔した「石川数正」と長子・康長によるもの。 犬山城、彦根城、姫路城とともに国宝に指定されている名城である。

ここで「石川数正」について・・
若い頃に読んだ、山岡荘八の大長編「徳川家康」に石川数正が多く登場し、かなり印象に残っている・・、内容は忘れたが。 
「徳川四天王」は酒井、本多、榊原、井伊と言われる、石川の名は無い。
徳川隆盛期の頃は家康参謀として、西に石川数正、東の酒井忠次の両名が主軸を成していた。 石川数正は幼い日の家康(松平竹千代)と駿府の人質の頃に苦渋の生活を共にしていた仲で、家康は「数正は随一なり」と評した程で、いわば竹馬の友であった。 三河武士団の中にあって、智謀と外交の冴えで家康の地位を固めていく。
この頃、天下の覇権を掌中にした豊臣秀吉と関東に勢力を置いた徳川家康との間に微妙な力関係や諸問題が発生する。 この間、数正は交渉役として徳川家の外交折衝を務めた。
しかし1585年、突如として家康のもとから出奔して秀吉のもとへ逃亡するのである。その訳の凡そは、秀吉に言い寄られ、次第に懐柔され、果ては周辺では既に親方・家康を裏切っているとの噂が立ってしまう。
 その頃、家康は本拠を浜松に移し、いわゆる四天王がその中枢を固めていた。 数正はというと岡崎城でいわば左遷された形で、西に秀吉、東に家康の様子を伺いながら、悶々とした日を送っていた。
外交通の数正も、交渉を重ねるうち「人たらし」といわれた秀吉の前に次第に傾注してゆき、遂に苦渋の選択の中、不忠の汚名を負いつつ秀吉のもとへ出奔して行ったとみられる、家康に謀反をおこしたのだ。
石川数正の真の狙いは何か・・?、真実は今でも謎とされているが・・。
秀吉の家臣となった数正は徳川家康が関東に移ると秀吉より信濃松本に加増移封されているが、秀吉の死後は当然ながら家康より冷遇されたという。

次回は、我が第二の家:「白馬」


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