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日本周遊紀行(30)長島 「三川合流地の因縁」
長良川、揖斐川を仕切っている堤防の「千本松原」と記念碑 壮絶な「治水工事」の歴史的事実 名古屋城からは都市圏の高速道を利用し、そのまま湾岸道から三重方面を目指す。 弥富を過ぎると「木曽川」の長い橋梁を渡り、中州の・・?の長島地区から今度は揖斐川(長良川)の大河を過ぎる。 長良川、揖斐川は一体のようであるが、実際は中州の仕切りがしてあり、この中州は、この辺りから上流へ向って「千本松原」が緑豊かに延びている。 昨日通って来た駿河の原海岸に在る「千本松原」もそれなりの歴史があったが、こちらはそれのも増して過酷な重い歴史を背負っていた・・!!。 この三つの大河川は、濃尾平坦地で複雑に絡み合っているのが実情のようだ。 先ず、木曽川は長野県木曽郡木祖村の鉢盛山(2,446メートル)南方を水源とし、南西に流れている。 下流域ではかつて揖斐川、長良川と急接近し、合流・分流しながら伊勢湾に注ぐ。 長良川(ながらがわ)は、岐阜県郡上市の大日ヶ岳に源を発し、三重県を経て揖斐川と合流している。 又、揖斐川は岐阜県揖斐郡揖斐川町の冠山に源を発し、おおむね南流しながら、途中一部木曽川、長良川と平行して流れ、河口附近の三重県桑名市で長良川と合流、そのまま伊勢湾に注ぐ。 揖斐川及び長良川とも、河川法上では木曽川水系に包括されていて、水系全体の流域面積は全国5位の広さに相当し、長野、岐阜、愛知、三重、滋賀の5県にまたがっている。 なお、揖斐川と長良川は河口直前で合流し、揖斐川の名称で木曽川とは別に伊勢湾に注いでいる。 河川は、江戸期以降何度となく改修工事が繰り返され、現在では分離・分流されて伊勢湾に注いでいるが、その中で所謂、輪中(水災を防ぐため一個もしくは数個の村落を堤防で囲み、水防協同体を形成したもの。岐阜県南部の木曾・長良・揖斐の三川の下流平野に形成されたものは有名)と呼ばれる集落も発達した。 輪中の代表格が三重県の長島輪中、他に上流部・岐阜県側の高須輪中、大垣輪中、墨俣輪中などがある。 この木曾三川と言われる大河川は、下流部においては急接近して流れていたため洪水が絶えなかった。 そのため、江戸時代から明治時代にかけ歴史に残る大掛かりな治水工事が行われたことは歴史上有名である。 特に、「宝暦治水」と「明治の改修・三川分流」の改修工事が有名で、「宝暦治水」というのは、歴史にその名を残した壮絶な工事であったという。 木曾三川の治水工事は、豊臣の時代に木曽川の尾張藩側に先ず堤防が造られ、慶長年間には尾張・徳川家によって50kmにも及ぶ堤防が築かれた。 この堤防は、尾張藩を囲む形であったので「お囲い堤」と呼ばれ、洪水対策とあわせて西国大名の侵入に備える軍略上の意味あいが強かったともいう。 そのため、美濃地方の諸藩の堤防補強は尾張藩の過酷な使役条件に縛られるし、地理的な要素も加わり輪中地帯は洪水のたびに水害に苦しめらた。 1753年(宝暦3年)12月の大洪水の後、徳川幕府、並びに同御三家の尾張藩は水害に苦しむ人々の声を聞き、幕閣の間で合議の結果、三川分流計画を基本にした一大治水工事の実施することを決定した。 そして、この木曾三川下流治水工事を、九州・薩摩藩一藩で行いよう命じたのである。 この工事は西国大名の筆頭である薩摩藩の勢力を弱めるという他の目的もあったようで、それは薩摩藩は関が原合戦において西軍に付き、徳川藩祖の家康を不安に落しいれ、尚且つ70万石の領土を安堵してしまったことでもあった。 尚、幕府の放つ「薩摩飛脚」の情報では、薩摩は琉球との密貿易で資金を溜め込んでいると思われたためともされる。 薩摩藩では賛否両論の飛び交う大評定の結果、1754年(宝暦4年)2月、平田靱負(ひらたゆきえ)を総奉行として、この難工事に着手することになった。 薩摩側から出した人数は家老以下947名、これに土地の人夫等を加えると2000人にも及び、この費用は約40万両の巨費に達する大工事であった。 幕府の資金は1万両のみで、当初見積もりは10万両とされたが、工事は幕府の方針変更によって計画がたびたび変更され、また大雨により工事のやり直し等が発生したりで、工事は困難を極め、併せて費用も嵩み20、30、そして40万両という多額の出費を余儀なくされたのであった。 この間、同地の尾張藩に至近で常時見張られ、幕府からの嫌がらせもあり、又、薩摩は幕府方に専門職人を雇うよう依頼したが一切受け付けられず、資金も全額薩摩負担となり藩は困窮を極めたという。 平田靱負は御用商人らに多額の借受を藩ではなく、平田個人名義で行い返却できるはずの無い借金を重ねた。 平田は自らの死を担保にしたのでる。 工事の最中、特に油島新田締切堤(千本松原の北部地区)と大榑川(おおぐれがわ)の堰工事は予想を越えた難工事となり病死者も33名を数えたという。 工事期間中に幕吏からの度重なる嫌がらせや妨害工作にもあって、幕府に対する抗議の自害者、自殺者は53名にのぼったという。 そして2年越しの1755年3月(宝暦5年)遂に完成するに至った。 この治水工事は、幕府の役人も「 日本の内は申すに及ばず、唐にも是ほどのことは有るまじく候 」と賞賛し、諸国からの見学者が後をたたなかったといわれる。 工事完了後、総奉行の平田靱負は、53人の自刃者と33人の病死者を出し、多額の借金を残した責任を一心に負って、同年5月25日早朝・・、 『 住みなれし 里も今更 名残にて 立ちぞわずろう 美濃の大牧 』 の時世の歌を残し自刃している。 平田靱負という人物も水と戦った一人であるが、この人は治水に関する技術・能力を買われて招かれたのではなく、どちらかといえば命令されて仕方なく赴いたという背景がある。 現在の「千本松原」(岐阜県海津町油島)は、油島堤ができあがった後に、その堤の上には地元薩摩のシラス台地に育った「日向松」を持ち運んで植えたものと伝えられている。 昭和13年、長くその精神と偉業を尊び称えるため地元の人々によって、平田靱負と薩摩義士84名を祭る治水神社(岐阜県海津町油島)が建立された。治水史上、最大の難工事といわれたこの工事を称して「宝暦治水」と呼んでいる。 岐阜県海津町、平田町は、その木曽川、揖斐川に挟まれたやや上流部にある。 輪中の町として小学生の社会科の教科書に出てくる有名どころであり、昔から、木曽川・揖斐川・長良川が流れ、風光明媚な土地柄であるが、昔から水と戦い、水害に悩まされ続け、そして、壮絶な人間模様が展開された地域でもあった。 ところで平成17年に合併して成立した海津市は海津町と南濃町、そして平田町が合併してできた市である。 平田町は昭和30年に今尾町(大字平原を除く)と海西村が合併して成立した新しい町だが、その平田の名は当然ながら平田靱負正輔に由来している。 地名をとって名字にする例はよく聞くが、功績のあった人物の名をとって地名とする例もないわけではないが珍しいという。 ここからも長きにわたってこの人物が地元の人々から慕われていた事を窺い知ることができるだろう。 しかし、平成の大合併で又しても歴史に名を残した由緒ある地名が消えてしまったのは残念である。 せめて、平田海津市くらいにはして欲しかったが・・?。 尚、遠く離れた鹿児島県と岐阜県とは、苦難を極めた薩摩義士の偉業を讃えるとともに、この絆を深めるため、昭和46年7月、姉妹県の盟約を結んでいる。 木曽川、揖斐川を渡ると桑名である。 平成16年12月、海岸温泉の長島町と歴史の町・多度町が桑名市と合併し、新桑名市に成っている。 この辺りから右手に鈴鹿の山並が遠く望める、あの頂きは御在所岳であろうか・・?、麓に湯ノ山温泉があるはだが。 左は四日市の石油コンビナートが目に入る、中京工業地帯有数の工業地域で、名古屋港にならぶ貿易港でもある。 1960年代にかけて発生した大気汚染による公害・「四日市喘息」は世間の注目をあびた。 硫黄酸化物による集団喘息障害であり、日本の四大公害病(水俣病=熊本・有明湾の有機水銀による生体異変、第二水俣病=新潟・阿賀野川の有機水銀中毒、イタイイタイ病=富山・神通川下流域でのカドミウム汚染・骨の異変、)の一つとされて、現在における大気汚染防止法等、日本の環境政策の拡充に大きな影響を与えたといえる。 四日市の南に日永という地区がある。 ここは京に向かう東海道と伊勢に向かう伊勢街道の分岐点にあたり「日永の追分」といわれる処である。 追分とは道が二またに分かれるところで、伊勢神宮への桑名の一の鳥居に対して、この地に、二の鳥居が建てられている。 市名は四のつく日に市がたったことに由来すると言われる。 御在所山麓の湯ノ山温泉は四日市の奥座敷といったところか。 次回からは近畿道で、先ず「関の鈴鹿峠」
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静岡県、愛知県
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日本周遊紀行(29)名古屋 「名古屋城」
これは珍しい、天主に「金鯱」が無い。(理由は下記へ)
通常の「名古屋城」 「セントレア」の構内施設、出発口、到着口等を車で巡って、そのままセントレア連絡高速路、知多半島高速路で一気に名古屋市内へ向かった。 市内へ入って都市環状線を名古屋駅付近より丸の内のランプで一般道へ降りる。 あとはナビに従って名古屋城へ向かった。 官庁街のビルの谷間を一刻走ると、名古屋城前から二の丸の信号があり左折すると、緑に囲まれた園地の一角に路駐スペースがあった。 城の係官らしき人がいたので、 「 お城の入口はどちらですか、30分位、車は大丈夫ですかね・・? 」、 「 ああ、いいよ、150mくらい行った所に正門があるよ 」 勇んでカメラ片手に出かける。 しかし、入城は有料だった。無一文の小生、又しても駿河・東照宮の轍を踏んでしまったのである。 外部より天守閣を望める場所を聞いて御堀端の方へ進む、確かに西側のお堀端から城内の森に囲まれながら城郭・天守閣の上半分が鮮明に見渡せた。 白漆喰の壁に、やや緑がかった瓦屋根が各階層に優美な姿を見せている。 気がつくと、やはりというか天守閣の屋根には本城の象徴的名物である、燦然と輝く「金の鯱(しゃちほこ)」は見ることは出来なかった。 金鯱は、平成17年(2005年)3月24日に開会した日本国際博覧会・名古屋(愛称=愛・地球博)の開会式典で展示されるためと。 愛・地球博に併せて開催された名城公園内の[新世紀・名古屋城博]のために降されていたのであった。 金鯱を天守閣から取り外して公園外の外部施設での展示は、名古屋城が1959年に再建されて以来、初めてのことだったという。 黄金のもつ不変的価値は古今東西変わることはない。 400年前の江戸開府時における徳川家康は、豊富な「金」を蓄えていた。秀吉も広く天下の金鉱を求め、採掘を奨励してた。いわゆる当時は日本のゴールドラッシュ期であった。 名古屋城の小天守閣は、尾張・徳川家の「金蔵」であったともいわれる。 これらの黄金を材料にして金鯱は鋳造されたといえる。 ところで大阪城は、名古屋城に先立つこと20余年前に築城されたが、太閤秀吉の豪奢な派手好みにもかかわらず、金鯱を飾る事はなかった。 江戸城にしても、家康は金鯱を飾る思い付きはなかったらしい・・?。 しかるに家康は名古屋城にのみ思い切った大金鯱を飾りつけた。 この時期になって家康の天下統一が不動のものとなり、日本の中央に位置する尾張にて天下の名城を築城し、尚且つ頂部に大金鯱を飾りつけることによって、徳川家の大いなる威勢を示したものといえる。 結果として家康晩年の最高傑作でもあり、日本築城芸術の頂点といえるものを造りだしたのである。 因みに金鯱にも雌雄があって、雄が北側で雌が南側であり若干、大きさや形が異なっているという。 『 天下様でも かなわぬものは 金の鯱ほこ あまざらし 』 (東海道を行き来する旅人が、豪華な金鯱を雨ざらしにしている尾張様のご威光に感激した歌) 『 宮の浜には 魚が寄らぬ 金のしゃちほこ 陽に光る 』 (宮の浜とは熱田のことで、北の空に金鯱が光っているため魚が寄り付かないと唄われた歌) 金鯱が飾られた理由は美観を発揮し、城主の威厳を示すためでもあり、名古屋城は「尾張名古屋は城でもつ」と言われるほど天下に知られた名城である。 そのシンボルである金鯱は、江戸時代の旅人がその豪華さを称える歌を残しているほか、金鯱が光っているため熱田の浜には魚が寄らないなどと歌われた。 ところで、俗人の思惑で、金鯱に使われている金の価値は一体どの程度のものか・・?。 文献によると、江戸初期の「慶長大判」を1940枚使用したとされている。 大判は本来、恩賞用、献上用として使用された特殊な金貨で、小判のように通貨としては流通してはいない。 その慶長大判は、小判10枚分(10両)に相当するという。(等価ではない) 10両は重さの単位で44匁・モンメで、グラムにすると165g(安土桃山時代頃には、ほぼ全国で1両は4匁4分 ≒金16.5グラムで統一された。実際、慶長小判では小判1枚に1両分の金が使用された、小判の額面も1両とされた。)を意味する。 慶長大判の金位は68%であるから、1枚に金が112g(165×0.68)使われている。 これが1940枚で、金鯱全体で217.3kgの金が使われた計算になる。 現在の金の価値で1g=1500円とすれば、時価約3億2600万円の金が使われたことになる。 現在の金鯱は大阪造幣局で復元された物で、88.08kgの金が使われているとという、同様の計算で時価1億3200万円の金が使われていることになる。 初代のものに比べると大分価値が劣るが、それでも凄い・・!!。 名古屋城は大阪城、熊本城と並ぶ日本三大名城の1つで、伊勢音頭にも・・、 『 伊勢は津(港)で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ 』 と歌われた名城でもある。 戦国期、駿河の今川氏親が尾張進出のために築いたのが最初といわれ、現在の名古屋城二の丸一帯にあったとれる。 織田信長が勢力を得ると清須城として改築している。 江戸時代、清洲城の地形の悪さ(水害に弱い等)から那古野の台地に、徳川家康が九男義直の尾張藩の居城として城を築くことを指令する。 普請奉行(室町・江戸幕府の職名。基礎、石垣や上水などの土木関係を管掌)は加藤清正、作事奉行(鎌倉・室町・江戸幕府の職名。幕府関係の建物の造営・修繕などを統轄した)は小堀政一、縄張(縄を張って境界を定めること。建築の敷地に縄を張って建物の位置を定めること、実際には軍事的意味合いを含めて、地勢や地形を計り、城郭の基本形を決める主要な業務)は藤堂高虎によるとされる。 慶長17年(1612年)には大天守が完成する。 築城成った新装の名古屋城へ清洲から移る時は、名古屋城下の地割・町割を徳川義直が直接実施したといわれ、この移住は「清洲越し」と称され、家臣、町人はもとより、社寺3社、城下の町並み、清洲城小天守も移るという徹底したものであったという。 明治維新後、14代藩主の徳川慶勝が新政府に対して、名古屋城の破却と金鯱の献上を申し出る。 しかしドイツの公使マックス・フォン・ブラントと陸軍第四局長代理の中村重遠大佐の訴えにより、山縣有朋が城郭の保存を決定し、天守閣は本丸御殿とともに保存された。 この名古屋城は戦国期より昭和初期まで、戦乱による直接的、破壊的攻防は無かったが、昭和20年5月の太平洋戦火の名古屋空襲の際、本丸御殿、大天守、小天守、金鯱などに焼夷弾が被弾して焼失してしまった。 現在の天守閣は昭和34年に再建され、復元された金鯱とともに名古屋市のシンボルとなっている。 又、この尾張地方は、戦国期の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の出身地で、お互い群雄割拠し覇権を争った地柄であることは周知で、名古屋は、関東、関西の中央地であるが、この地から日本の代表的人物達が輩出したことは良く知られている。 名古屋:愛・地球博 名古屋市街の東方に長久手町がある。 長久手町は家康、秀吉の両雄が戦った「小牧・長久手の戦い」の舞台となった場所で、日本三大古戦場の一つとされる。 1584(天正12)年、尾張の小牧・長久手で戦われた豊臣秀吉と徳川家康の戦いは織田信長の死後、秀吉の勢力増大に対抗し、家康が信長の子、織田信雄(信長の次男)を味方にして起こした戦いである。 家康は小牧山に本陣を構え秀吉軍と対峙、三河への侵入をはかった羽柴秀次(豊臣秀吉の甥(姉日秀の子))軍を長久手にて破る。 又、秀吉方の部将池田信輝(勝入)・森長可らが長久手で討死にするなどしたが、大勢は動かず膠着状態となる。 翌年、信雄と秀吉が和睦、家康はお義丸(結城秀康・家康次男)を秀吉のもとに人質として送り講和を計った。 この戦いは、戦術的(実戦)には家康の勝利であったが、戦略的(政治、政略)には秀吉の勝利といわれる。 「小牧・長久手古戦場」の東側が、本年行われている愛知万博会場である。 2005年日本国際博覧会、開催地の名から「愛知万博」、愛称は「愛・地球博」と称している。人と自然が如何に共存していくか、というテーマを掲げたうえで、「環境万博」を目指しているという。 2005年3月25日から同年9月25日までの半年間、愛知瀬戸市(瀬戸会場)および同県愛知郡長久手町(長久手会場)2会場で開催されている。 入場者は当初は主催者側の各種規制があったりして、暫くは伸び悩んだようだが、これらの規制も緩和され、5月のG・Wあたりからは相当盛り返し、8月には博覧会協会の当初の目標総入場者数である1500万人を突破、想定より1ヶ月以上も早い達成となったらしい。 その後も客数は順調で9月のの閉会時点では200万人突破も夢ではないかも・・?と嬉しい予想もしているとか。 会場ではリニアモターカーが大人の人気とすれば、子供達には(大人も・・?)宮崎駿監督のアニメ映画「となりのトトロ」に登場する、昭和30年代の家を忠実に再現した。 あの真っ黒クロスケが出てくる「サツキとメイの家」が超人気だとか。 又、地元のトヨタグループ館、日立館、三菱未来館、三井東芝館とお馴染み企業グループ、地球市民村、アフリカ共同館、長久手日本館等人気があるらしい。 小生も折あらば訪ねてみたいと思っているが果たして・・? 名古屋は東京、大阪の中間に在り、地理的にも日本の中心に近い。 世界に誇るトヨタ(小生はニッサン系の地域にいる)を筆頭に製造的な業種は日本一らしい、もっとも製造業は世界に誇る日本であるから、その中心はやはり名古屋と言える。 近頃のニュースで「トヨタ」が、自動車製造世界一、製造産業世界一になる日も近いのでは、といわれているが・・?。 名古屋に関する面白いH・Pを発見したので紹介しよう。 キーワード 「 名古屋はええよ!やっとかめ」 http://www.geocities.jp/momo_harumi/yatokame2004/
いずれにしても「セントレア」といい、「愛知万博」といい、近年は尾張中京地区が日本の景気のリーダー的役割を果たしている事は疑いもない。 次回は、長島 「宝暦の治水工事」 【小生の主な旅のリンク集】
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《山のエッセイ》 「上高地雑感」 「上越国境・谷川岳」 「丹沢山塊」 「大菩薩峠」 《スキー履歴》 「スキー履歴」 . .
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日本周遊紀行(28)常滑 「焼物とセントレア」
焼き物の町「常滑」に巨大施設が出現 国道247は常滑市へ向かう。 三河湾の蒲郡を起点としたR247は湾岸沿いから知多半島をグルッと一周して、ここ常滑の原松町が終点となる。 常滑は、古来「常滑焼」で知られるが、ここは「陶郷町」というから、その名のとおりで、常滑焼のふるさとである。 常滑市陶磁器会館、登窯広場・展示工房館、INAX窯のある広場・資料館、INAX世界のタイル博物館、常滑市立陶芸研究所、常滑市民俗資料館、常滑焼・卸団地(セラミック・モール)等々の観光展示資料施設が集中している。 焼き物散歩道の象徴ともいえる「土管坂」 今も高くそびえる十本煙突や楝瓦の登り窯やなど見所も多く、陶磁器会館をスタートする「焼き物散歩道」の途中には、土管や焼酎瓶の瓶などを土留めとして埋め込まれた坂道が在り、「土管坂」と称して名所の一つにもなっている。 常滑焼は、日本の六古窯(常滑・瀬戸・信楽・丹波・越前・備前)の一つといわれ、平安時代には常滑を中心にして知多半島の丘陵地のほぼ全域に窯が築かれ、当時の六古窯の中では最大級の生産地であったという。 室町時代に入ると、窯は常滑地区に集まり、生産品も大型化する、その大型化したカメや壷は交通の要衝である知多半島の各港から船で日本全国に運ばれた。 現在では製品も、花器・茶器・招き猫等の置物・ガーデニングなどに使われる園芸鉢・茶碗等の和食器・フリーカップ等の洋食器等、多種多様の焼き物が生産されている。 今も小生宅で使用している赤褐色の急須は、朱泥焼(中国江蘇省宜興窯に産する赤褐色で無釉締焼の陶器のこと。土質緻密、セツキ質になるまで焼いたもので多くは茶用の急須にする)の技法といって常滑焼の代表的な製品になっているとか。 常滑市は最近、もう一つ巨大な施設が御目見えした。 原松町の信号を左折して陶磁器会館の前から海岸に近ずくと、新装なった高速路に出る。 高速にのってそのまま海上方向に行くと、海峡大橋から海に浮かぶ巨大な地域が目に入ってきた。 空港島「セントレア」である。 セントレア・・?? 実は、この海峡大橋もセントレア大橋という・・!!。 中部国際空港(ちゅうぶこくさいくうこう、Chubu Centrair International Airport)で、愛知県常滑市沖の伊勢湾海上にある第一種空港である。 セントレア(Centrair)は中部(Central Japan)と空港(Airport)を組み合わせた造語の愛称で、同空港管制の無線呼出名称(コールサイン)であるとか。 因みに、第一種空港とは、東京,大阪等我が国の航空輸送ネットワークにおける基幹空港・国際空港のことで、第二種は主な地方空港、第三種は一般地方・島部空港等である。 中部国際空港の開港は、2005年名古屋における日本国際博覧会と並ぶ名古屋圏の二大事業として話題を集めており、開港と同時に開業初日である2月17日には10万人が押し寄せたという。 そのため利用客や見学客で商業施設、その他が大変混雑し、飛行機利用者の中から不満の声も挙がったという。 混雑の理由に、空港以外の機能も充実していることや、「 飛行機を利用しない方も大歓迎します 」という空港側の宣伝効果も挙げられたという。 空港の立地形態は大阪湾に浮かぶ「関西国際空港」と類似しているようだ。 そして、「南セントレア市」という行政地域名・・?、 ところで、「平成の大合併」のことは、この項で何遍も記したが、最近、話題をにぎわしたのは幻の「南セントレア市」騒動であろう。 「南セントレア市」は美浜町と南知多町の合併後に予定された新市名であった。 この名称は合併協議会が、無論、中部国際空港の愛称「セントレア」にちなんで決めたものであろう。 ところが、この新市名が発表されると、「外国の地名のようだ」、「こんな田舎にはふさわしくない」、「恥ずかしい」など、町民からは当惑や抗議の声が上がり、協議会も再検討せざるを得なくなった。 そして、協議会が合併の賛否を問う住民投票と新市名についてのアンケートを実施したところ、住民の反応は合併も地名も「ノー」であったという。 ところで、地名にはその地域の歴史や文化が染みついている。 その地にふさわしい常態を表す「日本語」による漢字が、やはり適切で妥当だと思われる。 小生の実家・田舎は「いわき市」と称し、ひらがな文字をつかっている。 これも余り好きでは無く、感心しない呼称ではある。 ともあれ、美浜町と南知多町は新市名について混乱が生じた為に合併まで影響を被り、名前のために合併そのものが頓挫してしまった形となったようである。 次回は、名古屋 「名古屋城とイベント」
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日本周遊紀行(27)野間 「縁と因縁の地」
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野間灯台
野間は、「縁と因縁」の今昔の地 内海を過ぎて間もなくすると道路のすぐ横の海岸に、いきなり灯台が現われた。 「野間灯台」と記されていた。 ほぼ渚の磯の上に立つ白亜の灯台は、伊勢湾を航行する船舶のよき道しるべとなっていて知多半島のシンボル的存在であろう。 しかし何故か、この灯台の周囲は鉄のフェンスで囲ってある。 このフェンスを良く見るといろんな形の錠前(主に南京錠)が多数引っ掛けてある、しかもその錠に男女のカップルの名前が記され、何事かメッセージが書いてある。 何のことはない、ここは恋が成就する願掛けの灯台だったのである。 以前、ある週刊誌に興味本位に描かれたのをきっかけに今年になってどんどん増え、しかも町が広報誌で宣伝したから、なおさらブームにもなっているとか。 野間灯台の明りに照らされ、錠(情・・?)でしっかり結ばれて離さない。 何とも男女間の機微、情の景は理解できるが・・?。 この先の奥田の山中に「恋の水神社」というのがある。 多くのカップルや若者がお参りに来るという祈願社で、あらゆる病気、特に「恋の病」に効くといわれ、そこには「恋の水」が湧いているともいう。 美浜町は名称からしても、何ともロマンチックな街のようである。 http://2.bp.blogspot.com/_JRQjJgXjLT8/TMTkE52iOnI/AAAAAAAAA5I/WMuJ6SxUMBI/s400/%E5%A4%A7%E5%BE%A1%E5%A0%82%E5%AF%BA.jpg
http://2.bp.blogspot.com/_JRQjJgXjLT8/TMTkW3GPvSI/AAAAAAAAA5M/duLJcC9ZTi0/s1600/%E5%B0%8F%E5%A4%AA%E5%88%80.jpg
大御堂寺(野間大坊)の本堂, 源義朝廟と小太刀の奉納
こちらは往時の因縁の地でもあった。 源義経、頼朝公の実父「源義朝」はこの野間の地で命を落としている。 義朝は京都六波羅の合戦である「平治の乱」で平清盛に破れ、この野間の地に落ちのびてきた。 ここで家臣の長田忠致、景致親子による裏切りで入浴中に謀殺されている。 丸腰だった義朝は「我に小太刀の一本でもあれば討たれはせん」と言い残して果てたという。 国道の奥まったところに7世紀に創建された古刹「大御堂寺」があり、源義朝公御廟がここに祀ってある。 嫡男・頼朝公は鎌倉幕府、開府直前にこの地に参り、父義朝公の法要を執り行い、境内の様々な伽藍建立されたという。 その後、秀吉、家康の庇護を受け更に繁栄し、現在尾張地方随一の祈祷寺として人々に広く信仰を集めているという。 家臣の謀反により殺された義朝公の墓には、その霊を弔うため今も有志者によって木太刀が多数供えられている。 あの時、「小太刀の一本でもあれば・・」と無念の想いを託して奉納するのであろうが、木太刀は廟のすぐ近くで、サイズをいろいろ取り揃えて販売されているようである。 寺社関係者の商魂逞しき・・、と言いたいところだが。 野間灯台の錠前、義朝廟の木太刀といい、これらを持ち寄って信仰の意志を伝える日本人的精神活動には、何かの共通点が見える気もするが・・?。 この大御堂寺には、もう一つの因縁事件があった。 戦国期の本能寺の変(1582年、織田信長の重臣・明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺において主人信長を討った事件。天下統一を目前にした織田信長は命を落とし、日本の歴史を大きく変える出来事となる)の後、織田信孝(信長の三男)は光秀を滅ぼしたという功績にも関わらず、清洲会議で織田家の後継者は羽柴秀吉によって三法師君(幼少・信長直系の孫・秀信)に決められてしまう。 この処遇に不満をもった信孝は家老の柴田勝家らと結び、秀吉に対して挙兵するが、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れて信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺に送られ蟄居させられる。 後に秀吉に切腹を強要され、この地で自ら自害して果てた・・、享年26。 辞世の句に・・、 『 昔より 主をば討つ身(内海)の の間(野間)なれば 報いを待てや 羽柴筑前 』 自分の身を、家臣に裏切られ殺害された源義朝になぞらえ、羽柴筑前(秀吉)に対する憎悪を剥き出しにした壮絶な歌である。 美しき知多の浜において昔、壮絶な人間模様があったようだが、今は男女の色模様で賑わいを見せている。 そんな事を知ってか知らずか、今も伊勢の海はキラキラと輝いている。 次回、常滑の「焼物とセントレア」 【小生の主な旅のリンク集】
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日本周遊紀行(26)知多 「羽豆岬」
知多半島、「羽豆岬」の今昔 河和を過ぎたあたりから、海の青が濃くなったような気がした。 外海が近くなったせいかと思ったが、上空が晴れ渡ってきて空の青が海の青を一層際立たせているのだろう。 南知多の先端の港、師崎港を左に見ながら岬の先端へ向かう。 立派な駐車場があったが、有料だったのでミニ公園の入口部に車を止めた、一応駐禁の場所であったが・・!。 羽豆神社の参道石段が目の先にあった。 丘の方角からあまり上手とはいえないペット(トランペット)の音色が心地よく響いてくる。社の前で一礼して、その横に中年のおじさんがペットの子犬を同伴して練習に励んでいた。 「コンチワ・・やってますね・・!、展望台へはこちらでよろしいですか・・?」 「耳ざわりでスイマセン・・、はい、今日は空気も澄んでて見晴らしは良いですよ・・!」 「どうも・・」、気さくな一声に、気さくな返事が返ってきた。 途中、緑の林を歩く。 これは天然記念物の「うばめがし」という木で、姥目樫と書くらしい。 ブナ科の常緑高木で高さ8〜9mに達し、暖地の山地や海岸に生える特性があるといい、幹は直立しないで横に伸び、葉は小形で硬い。 雌雄同株で5月頃黄褐色の小花をつけ、果実はドングリ状で渋味少なく食用になるという。 材は堅く、火力の強い木炭に適し、若芽はタンニンに富み、付子(ふし・タンニン材として薬用・染織用・インク製造用に供する。昔はその粉を女性が歯を黒く染めるのに用いたという・・お歯黒)の代用として重宝された。 この辺り一帯の社叢(しゃそう・神社の森)樹林は、国天然記念物に指定されているという。 数分の遊歩道の緑のトンネルは、別名「恋のロマンスロード」と呼ばれているらしい。 歩いていると、キラキラと輝く海が見えてきて、木々のトンネルを抜けた先に展望台が現れた。 ここからの眺望は360度、圧巻そのものである。師崎港を眼下に、篠島・日間賀島は目の前だ、東に三河湾、南に伊良湖岬・神島・鳥羽・伊勢を望み、西に伊勢湾・鈴鹿の山並みも一望される。 又、波紋のきらめく大、中、小の船の往来が長閑(のどか)である。 知多半島の先端部である師崎(もろざき)地区は昔から尾張国の支配者との関係が深かった地域である。 その象徴であるのが羽豆神社で、今は「うばめがし」に囲まれて静寂の中に鎮座している。 社の創建は7世紀、延喜式内(平安期に制定された神社の格式、序列)に列する古社で、祭神は「建稲種命」(タケイナダネノミコト)といって尾張氏の祖神に当たるという。 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が景行天皇より東国平定の命を受け、尾張国初代の尾張国造(くにのみやつこ)の子である建稲種命(タケイナダネノミコト)を副将軍として水軍を統率し東征に向かった。 東征の帰途、命は駿河の海で命を落とし、その衣服が羽豆岬に漂着したことから、それを御神体とし、岬に祀ったのが羽豆神社であるという。 この地は古代尾張水軍の拠点でもあり、江戸期には尾張徳川家累代義直、頼宣、光友、義誠、吉通などが参詣した水軍の祭神でもある。 又、神社の後方には、克って「羽豆城」があったという。 南北朝時代、南朝方の千秋昌能(せんしゅうまさよし)によって、南朝方の拠点として築城されたという。 千秋氏は藤原南家(奈良時代における藤原家の家系)季範(すえのり)の子孫で、その娘は源義朝に嫁して頼朝を生んでいる。 羽豆城は南朝方が東国より吉野に入る中継地としても利用されていたが、宗良親王(むねながしんのう・後醍醐天皇の皇子)や新田義貞など著名な武将が羽豆城に滞在したという。 羽豆城主を継いだ二男の加賀守季忠(すえただ)は織田信長の武将としても活躍するが、永禄3年(1560年)桶狭間の合戦で今川軍の先鋒隊と戦って討死している。 その子季信(すえのぶ)は、信長の命により熱田大宮司職に専念したという。 戦国期までは水軍の拠点として盛衰をたどるが、江戸期の安定期に入ると次第に重要視されなくなり羽豆城は廃されていった。 伊勢湾口の波に洗われる「羽豆岬灯台」 羽豆岬周辺の海岸線は、伊勢湾口の海上権をおさえる拠点として古代より政治的・軍略的・経済的に海運交通を統制・監視する上において地理的に重要な位置を占めていた。
そんな城は、灯火の役目も担っていたのかもしれない。 しかし現在、この地に灯台が無いのは些か不思議な気がするが・・?、気がつくと岬の先端から伸びる小島の上にチョッと地味な灯台が立っていた。 現在、城跡を示すものはの石碑の他は何もない。 先ほどのペットのおじさんに一言礼を云って、羽豆岬を後にした。 知多半島の西部海岸道は伊勢湾を見ながら実に温和で良い、この海岸近郊地域は海の楽しみもも多そうである。 内海の千鳥ケ浜は、東海随一とも呼ばれる砂の美しい海水浴場で、海水浴シーズンには名古屋方面から100万人の観光客が訪れるという。 又、温泉も在る、南知多温泉郷といって内海、山海、豊浜地区の総称をいう。 天然温泉は地下1300mに眠る化石温泉で近年掘り当てたもので、薄茶色のナトリウム・カルシウム塩化物強塩泉で切り傷、火傷、慢性皮膚病等に良いとされる。 道中、天然温泉「白浜の湯」の日帰り温泉ランドが目についたが、入館1200円とチョッとお高いので遠慮した。 道々、「こうなご」の看板が目に付いた・・、 「小さな女の子」と書いて、関東地区同様、小女子(こうなご)と呼ぶようだ。 この伊勢湾も特産地の一つで今頃(5月〜6月)が旬、獲りたてで乾燥したものを、これまた東海地方(愛知・岐阜・三重)で代表的な醤油の一種である「たまり醤油」(少量の小麦を加えるか、又は大豆のみで製造する、そのため他の醤油に比べ、うまみ成分が多く、味がまろやかで濃いといわれる)で調理し、「つくだ煮風」にして食すのが絶品らしい。 小女子(こうなご)は「イカナゴ」のことで、小さいものを小女子と称しているようで、成魚のイカナゴを大女子(おおなご)と字をあてる地方もあるとか。 名前の由来は「いかなる魚の子なりや」と問うに、何の魚の子か判らなかったことから「イカナるコか・・」が、イカナゴと呼ばれるようになったという俗説がある。 瀬戸内海の明石海峡あたりが本場らしいが、地形や汐の干満、風によって発生する潮目のところに多く産するという。潮目にはイカナゴを含めて様々な魚が集まるり、エサとなるプランクトンが豊富であることから。 因みに、似たような小魚に「ちりめんじゃこ」というのもある。 こちらはイワシの稚魚で、良く見ると頭の形が違うらしい。 次回は、野間・「縁と因縁の地」
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