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三重県、和歌山県

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日本周遊紀行(51)和歌山 「加太半島」 



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賑やかな、でもチョッと薄気味な「淡島神社」



奇態(けったい)なお宮・「淡島神社」

紀ノ川の紀ノ川大橋を渡って、加太の岬へ向う。
途中、広大な住友金属の製鉄工場群を見ながら、南海加太線が並行する。 道路脇に淡島神社という案内板があったのでチョッと寄ることにした。
加太の港町から左手の海岸線を辿ってみると、正面に大陸のような淡路島が横たわっていて、手前に友が島が浮かぶ。
間もなくお目当ての神社正面に達した、こちらは「淡島神社」である。 
淡島神社は、名の通の淡路島に関係ありそうだが、そうではなさそうで、手前の友が島を大昔は淡島と呼んでいたらしく、神社もこの島から遷座したらしい。
朱色の鳥居の向うは数件の門前市をなしていて、高台へ向う白の階段の向うに、これまた朱色の社殿が鎮座していた。

この神社は、由緒ある神社ではあろうが、実に面白くて、なかなかユニークで珍奇なのである。 
建物のいたる所にダルマさん達、七福神とか、干支の人形、市松人形、花嫁人形、お面群、境内の一角にはタヌキさんと、一面に土間であろうと、通路や階段であろうと、玄関(・・?)であろうと夥しく、数え切れないくらい安置・・?されていて、いやはや賑やかなのである。
そして今度は、社殿の中は、こと如く雛人形が満載であった・・これにもまたびっくり・・!!。
最近では人形の他に「ぬいぐるみ」なども納められ増える一方で、人形供養の名目で人形やぬいぐるみを不法投棄していく者もいて関係者を悩ませているという。 このためか、神社では珍しく夜間に参道を閉鎖し立入禁止としている。



この神社は、薬の神様とされる少彦名命を祭神とし、婦人病や安産祈願など「女性のための神様」として昔から信仰されているらしい。 現在は女性の信仰と雛流しの神事が有名であるとか。

お雛の節句とは、自分に憑いた悪気を祓う日で、けがれや災いを人形に負わせて流す風習がある。 奉納される人形を、白木の船に乗せて加太の海に流す、早春の神事が今も残っている。
神社の祭神である、神功皇后(ジングウコウゴウ)と少彦名命(スクナビコナ)の男女一対の御神像が男びな、女びなの始まりという。
余りに稀有な神社で目を白黒させながら先を目指す。


加太海水浴場の先、城ヶ崎岬付近から「友が島」群が勇壮に望まれる。 
実は友ヶ島と呼ばれる島は無く、「地ノ島」、「沖の島」、沖の島に寄り添うように「虎島」、「神島」の小さな島があり、この四島を総称して「友ヶ島」と呼んでいる。 
向こうに見えるは淡路島、紀淡海峡、又の名を「友ヶ島水道」と呼んでいる。 島々の海峡「加太の瀬戸」、「中の瀬戸」は1km足らず、沖ノ島の西端から淡路の洲本・由良港の成ヶ島までは凡そ4kmである。

淡路の南端、鳴門海峡では同時に巨大な渦潮を起こすことはよく知られるが、こちらの海峡も同様で、太平洋の大海が瀬戸内海へ向って動き出すとき強力な海流を引き起こす。 
因みに「瀬戸」とは「狭門」(セト)の意、幅の狭い海峡のことで、潮汐の干満によって激しい潮流を生ずる。 「瀬戸際」は激しい潮流に立つ:「生死の瀬戸際に立つ」である。


この地は、大阪湾から太平洋へ抜ける交通の要衝でもあり、難所でもある。 
紀伊国屋文左衛門が、大阪、江戸へ帆船を巡らしたのは加太の地でもあったとされ。
その、みかん船の帆柱が淡島神社に奉納されていて、願い事を唱えながらこの帆柱の穴をくぐり抜けると、願い事が叶うと言われている。

嘉永7年、米国艦隊司令長官ペリーが率いる黒船4隻が浦賀に来航してから1年後、紀州藩は、幕府の命により加太に友ヶ島奉行を置き、友ヶ島に藩士を常住させている。
それ以来友ヶ島は国を守る上で重要な島となった。明治21年には陸軍の用地になり、明治期に要塞、砲台が築かれてから第2次大戦の敗戦まで一般人は近づくことも禁止されていた。 
現在でも要塞、砲台の遺構が残り、昭和24年に、瀬戸内海国立公園の一部となって以後、全国的な観光地として開発が進められた。

次回からは、いよいよ大阪に入ります、先ず世に知られる「岸和田・ダンジリ



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日本周遊紀行(51)和歌山 「雑賀党」 



紀の国の鉄砲集団:「雑賀党」

中世の頃、和歌山は「雑賀」(さいか)と呼ばれる集団が、農業生産や鍛冶といった技術に秀出ていた。 又、紀ノ川河口付近を抑えたことから、海運や貿易にも携わっていたと考えられ、水軍も擁していたようである。

種子島に鉄砲の製造法が伝来すると、「根来衆」に続いて雑賀の民もいち早く鉄砲を取り入れ、優れた射手を養成すると共に鉄砲を有効的に用いた戦術を考案して優れた軍事集団へと成長する.
雑賀党、雑賀衆とも呼ばれる彼らは、大名の属臣になることを好まず、自立独立制を尊重していた。
現在でも、紀州和歌山の人々は、独立自尊を尊ぶといわれる。

戦国期の紀州は高野山を筆頭に、熊野三山・日前(ひのくま)宮・国懸(くにかかす)宮・根来寺等の大社・大寺院の勢力が強かった地域でもあった。 


紀ノ川を20kmほど遡った辺りの岩出町に「根来寺」がある。
高野真言に所縁のある寺院で室町時代になると、院98、僧坊2700、寺領70万石もの稀有壮大なる規模にまでなっていたという。 
戦国期、豊臣秀吉との攻防で寺社の殆どが消失したが、現存している国宝、日本最大といわれる木造建築多宝塔は、高さ40mで往時の面影を今に止めて聳え立っている。 
秀吉の根来攻めの時に受けた弾痕が、今でも残っているという。(5箇所)

ここに本拠をもった根来衆は、大きく分けて学侶がくりょ)方(と行人ぎょうにん)方(とに分かれるという。 学侶方は、学問を追究することを目的とした集団であり、これに対して行人方は、寺内外の雑役や防衛をその任務としていた。 つまり、普通にいう根来衆とは僧兵武装集団のことで、この根来寺行人方のことをいう。 


鉄砲と根来衆

彼らは、種子島から鉄砲生産の技術を得て、新兵器鉄砲をいち早く取り入れた。
そして雑賀党と同盟して戦国期になると、やがて織田信長や秀吉と対立してゆくことになる。
鉄砲伝来は「種子島」というのは常識であるが、殆ど同時に紀州にも伝わっていることは、余り知られていない。 

鉄砲伝来は天文12年(1543)、ポルトガル人3人が中国の船に乗って漂着したことに始まる。
数丁の鉄砲の内、種子島の当主・時堯(ときたか)は、その内の1丁を根来寺から来ていた「杉の坊」に与えた。 
時堯は、島の鍛冶師に命じて生産させ、たちまち成功する。 その生産技術は1,2年後には根来衆と堺に伝わった。
両地は、今で言うIT産業の最先端技術を保有した地域で、信長いまだ九歳だった時分であった。
こうして根来衆は、3000丁の鉄砲を持ち、1万の僧兵を擁し、和歌山の雑賀党とともに日本の二大鉄砲集団を形成していたのである。


雑賀衆と「鈴木氏」

戦国時代に紀伊国・十ヶ郷(現在の和歌山市西北部、紀ノ川河口付近北岸)を本拠地としていた土豪で、鈴木氏は紀ノ川対岸の雑賀荘(現在の和歌山市街周辺)を中心に周辺の荘園の土豪たちが結集して雑賀衆をつくり、その指導者的な立場にあったという。
江戸時代の記録から、鈴木佐大夫(重意)という人物が雑賀城主として数万石を領していたという説もある。
雑賀党の鈴木氏が本格的に歴史にあらわれるのは「雑賀孫市」の通称で知られる鈴木孫一が活躍した16世紀の中頃以降の事で、雑賀衆のほかの土豪たちと同様、鉄砲伝来から間もない早い時期に鉄砲を使った戦術を取り入れたという。


当本文、「浜松」の項でも記したが、 (「日本周遊紀行」   「浜松」)
鈴木氏は熊野三山信仰と関係が深く、元より鈴木氏は熊野新宮の出身で、元来は熊野神社の神官を務める家系であった。 
鈴木氏は熊野神社の勧進や熊野を基地とする太平洋側の海上交通に乗って、全国的に神官として分散したと考えられ、鈴木の名字は東日本を中心に全国的に広まっていったといわれる。

次回は、「加太半島



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日本周遊紀行(51)和歌山 「紀ノ川」 




「紀ノ川」の河口に架かる紀ノ川大橋(国道28号線)


紀の国の母なる川・「紀ノ川」

和歌山は神話の舞台として数多く登場することは先に述べた。
その理由には、大和盆地(奈良)に発生した古代の政権(大和朝廷)が全国を統一し、その後、国内外にまで進出する過程で大量の兵員・物資を輸送する際に大和盆地の南に位置する「紀ノ川」の水運を利用したといわれる。 
見知らぬ国から国へ、異国からの文化や不思議な話など、古代の和歌山は日本の窓口、世界への窓口の中心だったともされている。


和歌山城を少し西へ行くと、紀の国の名河「紀ノ川」が広大に、 滔滔(とうとう:水の盛んに流れるさま)と流れる。
水源は奈良県と三重県の県境をなす台高山脈の南部、大台ケ原にあり、標高1500m から1700mほどの高山地帯で吉野熊野国立公園に属している。 
この地域は、わが国屈指の多雨地帯で一日の降水量300mmを数えることもあり、この多量の水は大自然を育み、文化の交流を支え、現実に日本有数の淡水魚群を生み出しながら和歌山湾に流れ込んでいる。


有吉佐和子の大河小説・『紀ノ川』

和歌山出身の代表的作家、有吉佐和子の作に『紀ノ川』がある。
この物語は「家と女」という、日本の伝統の流れに身を任せる母、激しく抵抗する娘、そして新世代の孫娘。 この三代の血の流れを紀ノ川の流れに喩えて重ね合わせ、その情景の中で日本の女の物語が静かに編みこまれている。

小説『紀ノ川』は、花(はな)と呼ばれる主人公が、紀ノ川上流の九度山(紀の川中流域九度山町)から下流の六十谷(むそた:和歌山市北部の紀ノ川沿い・六十谷橋)に嫁ぐ朝の情景から始まる。九度山にある慈尊院で、花嫁と祖母は故郷の川をしみじみ眺めながら、その美しさを讃えている。物語はその後、花が明治の嫁として伝統に生きる姿、その母に反発する娘、花の思いを受けとめる外国育ちの孫娘などが絡む。 
和歌山の激しく、華やかな時の流れを、紀ノ川と代々連なる女性の営みに喩えたのかも知れない・・?。

又、小説『紀ノ川』は、川筋の風土とか人情が巧みに織り込まれている。
有吉佐和子は、和歌山には幼少の時分と疎開時と合わせても6〜7年くらいしか居なかったらしい。しかし、地名の使い方、土地にまつわる話や言葉使いは実にうまいと、地元の人も教えられるほど、文句の付けようがないと言いわれた。
小説「紀ノ川」は、昭和34年(1959年)に28才の若さで書いた出世作で、作家・有吉氏は惜しまれながら53歳の若さで急死している。
 


和歌山県の最北部、既に高野山の北側の登り口でもあり、大阪との府県境にもなっている地域に「橋本町」が在る。 ここは「紀ノ川」の中流域といえるところで、川は南北に分けて流れる地帯でもある。
この地は日本女性として初のオリンピック金メダリストに輝いた人物の出生地であり、紀ノ川は天然プールとしての練習場でもあったという。


『 がんばれ、がんばれ、・・・、前畑がんばれ!前畑がんばれ!・・・あと5m、あと5m、あと5m、・・・、勝った、勝った、勝った・・・前畑、勝った!勝った、勝った、前畑勝った!!・・ 』

その時、NHK・河西三省アナウンサーがデッドヒートの模様を、何度も何度も連呼した実況中継が日本中を沸かせた。
なんと、このとき「頑張れ」を、38回も連呼放送したらしい。 
当時は、今の時代とは異なり、音声だけの「ラジオ」での実況だから、聞いている人達は、テレビのように、戦いの様子を眼で見ている訳ではない。
何か、よく状況は分からないが、ただ「頑張れ、頑張れ」とだけ・連呼する声を聞いて、兎に角、前畑が大したことをやってんだと想像したもんである。
そして、勝負が決まった後に、「勝った」 を15回も言ったそうである。

第11回ベルリン・オリンピック(1936年8月11日)での競泳女子200m平泳の前畑秀子の優勝の瞬間であった。  時代は、日本が国際連盟を脱退し、やがてドイツ・イタリアと手を結び第二次世界大戦へ突入する前夜でもあった。
前畑秀子の金メダルには、そのまま日本という国の勝敗がかかっているような勢いであったともいう。
前畑は、ベルリンオリンピックの想像を絶するプレッシャーの中で、自分の力のすべてを出しきり、プレッシャーをバネにするという強い精神力が、金メダルをもたらしたのだろう。

日本女子初の金メダリスト・前畑秀子、その後、日本女子水泳競技に金メダルをもたらすのは、昭和27年のヘルシンキオリンピックの青木まゆみ選手で、実に36年間待つことになる。
1990年、日本女子スポーツ界より初めて文化功労者に選ばれた。



『 前畑優勝熱闘譜 』
ベルリンオリンピック女子二百平水泳決勝実況放送」 NHK・河西三省アナウンス。

『 切らないで下さい、スヰツチを切らないで下さい、もう予定時間ですが、切らないで待つて下さい、そのまゝ待つて下さい……強敵はスタートのよいドイツのゲネンゲルです。はじめ抜かせて、あとでぐんぐんつめるのがわが作戦です。大日章旗を揚げるか揚げないかの境目です。そのまゝ切らずに待つて下さい、スヰツチを切らないで下さい……ホイツスルが鳴りました、各選手は一斉にスタート台に並びました。たゞ今ピストルが鳴ります……跳びこみました、跳びこみました一斉に跳びこみました。これは我が前畑とゲネンゲルの競泳でございます、ゲネンゲルは未だ潜つて居ります、ゲネンゲルは未だ潜つて居ります、跳びこんだときは我が前畑嬢と同じ、我が前畑嬢と同じ、第二コース、第三コース、オランダのワールベルグは割合に出ましたが、前畑嬢僅かにリード、前畑嬢僅かにリード、オランダのワールベルグが大分出まして前畑嬢と列んで居ります、我が前畑嬢三五、三五米、ドイツのゲネンゲルと列んで居ります、ドイツのゲネンゲルと列んで居ります、第一コースのイギリスのストレー、イギリスのストレーも出て居ります、イギリスのストレーも出て居ります、大部分各選手は列んで居ります、非常に心配であります、非常に心配であります、イギリス、イギリスの、イギリスのストレーが先づ最初のターンをしました、我が前畑嬢つゞいて第二位、しかし我が前畑嬢悠々たるペースをもつてつゞいて居ります、ぐんぐんと、我が前畑嬢折返し四〇米、折返し四五、折返し四五、列んで居ります、前畑、ゲネンゲル二人が出ました、イギリスはおくれました、イギリスはおくれました、僅かに一と掻き、一と掻き我が前畑嬢はリードして居ります、ゲネンゲルよりは僅かに一と掻きリードして居ります、ゲネンゲルと前畑嬢の接戦となりました、他は大分おくれました、他の選手は大分おくれました、前畑嬢一と掻きリード、前畑嬢一と掻きリードして居ります、ゲネンゲルよりは一と掻きリードして居ります、一と掻きリード、あと五米で一〇〇のターン、あと五米で一〇〇のターン、あと二米、あと二米、たゞ今前畑ターン、前畑ターン、つゞいてゲネンゲルがつゞいて居ります、つゞいてゲネンゲルがつゞいて居ります、我が前畑一と掻きリード、一と掻きリード、まさに大接戦、火の出るやうな大接戦、まことに心配でございます、心配でございます、ゲネンゲルも強豪、つゞいて居ります、我が前畑僅かにリード、僅かにリード、一二五、一二五、一二五、僅かにリード、僅かにリード、ゲネンゲル、強豪ゲネンゲルがつゞいて居ります、地元ドイツの応援は旺んにゲネンゲルに声援をおくつて居ります、他の選手は大分おくれました、ゲネンゲルと前畑二人だけの競争でございます、他の選手は大分おくれました、前畑あと一〇米で一五〇、あと一〇米で一五〇、僅かに一と掻きリード、前畑かんばれ!前畑かんばれ!あと二米でターン、あと二米でターン、ターンしました、ターンしました、たゞ今ターンしました、一と掻き僅かにリード、前畑がんばれ!前畑がんばれ!がんばれ!がんばれ!あと四〇、あと四〇、あと四〇、あと四〇、前畑リード、前畑リード、ゲネンゲルも出て居ります、ほんの僅か、ほんの僅かにリード、前畑僅かにリード、かんばれ!前畑がんばれ!かんばれ!かんばれ!あと二五、あと二五、あと二五、僅かにリード、僅かにリード、僅かにリード、前畑!前畑がんばれ!がんばれ!がんばれ!ゲネンゲルも出て居ります、がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!がんばれ!前畑、前畑リード、前畑リード、前畑リードして居ります、前畑リード、前畑がんばれ!前畑がんばれ、リード、リード、あと五米、あと五米、あと四米、三米、二米、あッ、前畑リード、勝つた!勝つた!勝つた、勝つた!勝つた!勝つた!前畑勝つた!勝つた!勝つた!勝つた!勝つた!勝つた!前畑勝つた!前畑勝つた!前畑勝つた!前畑勝ちました、前畑勝ちました、前畑勝ちました、前畑の優勝です、前畑の優勝です、ほんの僅か、ほんの僅かでありましたが、前畑優勝、前畑日章旗を揚げました、前畑さんありがたう!ありがたう!優勝しました、女子競泳で初めて大日章旗が揚がるのです。
 今、前畑さんはプールで二着になつたゲネンゲル嬢とニツコリ笑つて握手して居ります、笑つて喜んで居ます
 』




この橋本町には、もう一人のオリンピック金メダリストがいた

前畑氏から20年後の昭和31年(1956)、豪州のメルボルンで同じく200m平泳ぎで金をとった「古川 勝」選手である。 彼の異名は“人間潜水艦”といわれ、戦後初の水泳の金メダルをもたらした。
世間は、丁度テレビがお茶の間に普及しだした時代であり、小生にもあの時の感動の映像が、頭に残っている。 
スタート直後から45メートル潜り続け、ターンするとまた潜る。 
五輪前から驚異の世界新を連発した古川は、決勝でも潜水泳法で挑み、見事2分34秒7のタイムで圧勝した。

彼は、ベルリン五輪女子200メートル平泳ぎで、前畑秀子が女子初の金メダリストとなった、その橋本市古佐田地区にある前畑家の近所で誕生している。
前畑氏同様、紀ノ川で鍛えた体には平泳ぎの天才の血が受け継がれていたのであろう。

彼の潜水泳法は、短期間で身につけ、息継ぎなしで75メートルは潜れたという。
しかし、五輪後、国際水連は、潜水泳法を禁止にし、古川のあまりの強さが禁止を早めたという。
紀ノ川」近くにある橋本市役所に前畑選手優勝70周年、古川選手優勝50周年の顕彰碑が建つ。


紀ノ川の源流学

本流は、和歌山県内では紀ノ川、奈良県に遡ると吉野川と呼ばれる一級河川で全長136km。 
その源流域は、その名も「川上村」である。 
最初の一滴が生まれる源流の村で、吉野杉という有名な木材を産出する中心地として栄えた。
この水源の村に「森と水の源流館」があり、更に「源流学」というのがあるそうだ。 
水源地の森を含めた山々を守り、源流部の森を造り、下流には森の腐葉から出る富養の水、清い水を流す。
そのためには、流域一体となった取り組みが必要であり、それも上流から叫ぶだけでなく下流域が積極的に取り組んでくれることが大事で、和歌山市もこれらに応えてくれていると。
自然や環境、そこに棲む生き物たちと、人々が一帯となった取組の学門が「源流学」と云うそうである。
尤も、紀ノ川、吉野川の源流である「大台ケ原」では、一年360日が雨といわれる。
日本最多の雨地帯であるが、日本の秘境と言われる原生林を育み、300種というコケ類を密生させ、天然のダムの役目も果たしているのである。


次回は、和歌山の「雑賀党
 
 
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日本周遊紀行(51)和歌山 「紀の国・三神」  ,



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日前・国懸神宮の一の鳥居



紀の国の三神とは

和歌山・紀の国は「木の国」から変じたものとも云われる。
市域のほぼ中央を南海電鉄・貴志川線が走る。 路線の長さが僅か10キロ少々と短いが、駅の数が何と12を数える。 
元々、この鉄道敷設の目的は、竈山神社(かまやまじんじゃ:祭神・彦五瀬命で神武天皇の兄君)、伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)の三社詣でや他の神社の参詣が目的の一つになっているといわれる。

この沿線には岩橋(いわせ)、千塚古墳群、大池遊園近くには先史時代の土器や縄文土器をはじめ、おびただしい古代遺跡が発掘されているという。 
貴志川八幡宮や大国主神社が鎮座する終点の「貴志」は、紀州の飛鳥と呼ばれるほど多くの遺跡が残されてるという。


日前国懸神宮と紀家

和歌山駅の東南、秋月地区に和歌山三社の一つ、「日前国懸神宮」(ヒノクマ・クニカカスジングウ)がある。 呼び名が少々ややこしいが、元来、古代における国造(くにずくり)の神々の呼称は難解なものである。 
形式的に伊勢神宮は内宮、下宮が一対になっているが、こちらも日前と国懸の各宮が対になっていて、地元の人は、この呼び名が煩わしいのか「にちせんぐう」と呼び、付近を通る貴志川線の駅名も日前宮駅(にちせんぐうえき)と呼んでいるという。


この神宮は、天の岩戸神話で天照大神を導き出すために作られた「神鏡」が祀られているという。
これらの鏡はいずれも伊勢神宮内蔵の神宝である八咫鏡と同等のものであり、八咫鏡は伊勢神宮で天照大神の神体とされていることから、日前宮・國懸宮の神はそれだけ重要な神とされ準皇祖神の扱いをうけていた。 

日神(天照大神)に対する日前神という名称からしても、特別な神であると考えられる。
又、朝廷遠征に際し、伊勢が大和への東の出口に対して西の出口であったため、伊勢神宮とほぼ同等の力を持っていたといわれる。
日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名ともいわれ、朝廷は伊勢神宮と同様、神格を贈らない別格の社として尊崇したとされる。
神位を授けられることがなかったのは伊勢神宮をおいては日前・國懸両神宮しかなかったという。 又、日前大神は「」の國造りの祖として伊勢神宮に次ぐ大神として崇められてきたが、そして宮司は代々「紀家」であるという。 

紀氏の家系の祖は遥かに遠く、日本で最も古い家系の一つとされて天皇家と出雲大社の千家氏と、それと日前宮の紀氏であるとされている。
紀氏の遠祖は神武天皇東征の時期ともいわれ、神話の世界から史上に足を踏み出した時には、既に大和朝廷のから紀伊国造に任じられていたという。
紀の国(紀伊の国、紀州、俗名・木の国とも書き読む)は神武・古代の時期から興ったものとされ、元を正せば「木の国」から起こったとされる。


和歌山三社のもう一つ、その名も和歌山市伊太祁曽に鎮座する「伊太祁曽神社」(いたきそじんじゃ)のことは記したが、主祭神として五十猛命(イタケルノミコト:別名、大屋毘古神・オオヤビコノカミともいう)を祀っている。

記紀(古事記、日本書紀)では五十猛命は、父・神素戔鳴尊(スサノオノミコト)と共に木種を持って高天原から先ず韓地(カラクニ:新羅国)に天降るが、その地には種は植えずに大八洲国(オオヤシマグニ=日本)に渡り、父神の命を受けて日本中に種をまき、木を植て廻り、最後に紀伊国の鎮まったとも記されている。
つまり木の神が鎮まった地、木の国であり後に「紀の国」になったともされる由縁である。

五十猛神は単なる木の神ではなく、この大地に生えている樹木のすべて、つまり木種を司る神であり、我々の周りの緑豊かな環境を作り出す植樹の神、あるいは人間がいろいろな形で生活に利用する木材の祖神でもある。
伊太祁曽神社は、紀伊国(木の国)の一ノ宮として崇敬を受け、昭和、平成の各年代、天皇陛下の参拝をも賜っているという。


和歌山三社のもう一つ「竈山神社」は、五瀬命を祀る。 
五瀬命は神武天皇の長兄にあたり、この地で戦死したとされる。
記紀には、「 天皇東征の際戦死したの兄五瀬命の墓が紀伊国の竃山にあると記されていて、当所に直ちに社を建てて斎祭したので竃山墓と竃山社とした 」とある。
相神に神武天皇をも祀る。

和歌山」という地名は、日本の古代国家の誕生を語り継ぐ記紀神話(古事記、日本書紀)の中にも、既に数多く見られるという。
和歌山は古代から伝説・伝承の時代を経て、今日まで営々と築いてきた日本人の精神や生活、文化の歴史の跡が色濃く残る地域なのである。

次回、紀州の「雑賀党と紀ノ川



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日本周遊紀行(51)和歌山 「和歌山城」 





秀吉の舎弟・秀長築城の名城・「和歌山城」


阪和道(海南・湯浅道路)から和歌山市内の和歌山城へ向うことにする。
I・Cから国道24を和歌山市街方面、和歌山駅を右に見ながら程なく和歌山城・天守閣が見渡せた。
入城口を見つけるため、そのままぐるりとお城の回りを走り駐車場を探すと市役所前のお城側に広い駐車場を見つけた、と思ったら観光バス専用である。 
観光バスが一度に、こんなに来ることがあるのかね・・?と疑念をもちながら、どうやらスペースの小さい城内の300円の有料駐車場に入れる事が出来た。 
有料にしては余り整備されてない駐車場であるが。 
石垣に沿って作られた石畳の階段を上り天守閣のすぐ下まであがった。 
ここで又、入城料350円である。 金銭をケチるわけでないが、平日の観光客相手に、いかにも小銭を収受している感じで、何やら気分を損なわせる・・?。


城郭は、三層大天守と二層小天守、二基の隅櫓を多聞櫓で結んだ連立式天守式がいい。
付属する天守曲輪本丸御殿の曲輪の二つの独立した曲輪がある。 
又、岡口門が、国の重要文化財に指定されているのをはじめ、石垣、堀、門・・,等の遺構が残る。 
表側にお堀端を構え、こんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に白亜の天守閣がそびえる威容は、さすがに御三家にふさわしい風格を醸し出してる。 
残念だったのは、一般の入場口が裏坂や新裏坂といった脇道にあたり、お城の顔とも言うべき「一の橋大手門」から入場、退出が出来ない仕組みに成っていた事であった。


ナンバー2の名補佐官・豊臣秀長の生涯

和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の「豊臣秀長」に築城させたのが始まりである。 
豊臣秀長というと戦国時代としては表舞台に出ず、馴染みが薄いように思われるが、秀吉が天下を掌握した第一の功労者で天下の名補佐役といわれ、生涯ナンバー2を守り抜いた人物である。

戦国期、陽に陰に激しく抵抗した紀州一円を平定したのは、秀長の武力はもちろん才覚と人格によるところが多いという。 
彼が果たした功績は非常に大きく、握った権限は著しく強かった。 特に、後半生は眩いばかりの栄光に包まれている。 116万石の大封を得、従二位権大納言の高位に至り、天下の政事の中枢に深くかかわり、百戦不敗の武功を誇り得た。
そして、生涯の絶頂期に永い病の末に生涯を終えて、自らの大封を養嫡子に譲ることが出来た。 つまり、この人は功績を積み、出世を重ね、至福のうちに天寿を全うしたのである。

戦国期、英雄人傑が輩出し一家一国を築いた数多(あまた)の中で、天下人と呼び、余りに著名な信長、秀吉、家康の三雄に次ぐ英傑であるとも言える。
このような豊臣秀長により築城された和歌山城ではあるが、本人は中央中枢で多忙を極めていたため、城代として桑山重晴(秀吉直参の秀長家老)が勤めていた。


徳川御三家の紀州・和歌山

江戸期・徳川幕府が成立してからは、加藤清正の息女を正室とする家康十男・「徳川 頼宣」が紀伊国・和歌山55万5千石に転封され、紀州徳川家の家祖となって徳川御三家が成立している。 
第五代紀州藩主「吉宗」の時、徳川将軍家の血筋が途絶えたことが因で、江戸幕府八代将軍へと抜擢、就任している。
紀州・和歌山は、将軍・吉宗も出所した徳川御三家の一つとして知られる城下町である。 


和歌山城を中心にして、町は放射状に発展してきた。 
和歌山は、温暖な気候で海は万葉にも詠われた「和歌の浦」と川は「紀ノ川」であろう。 そして、和歌山市内及びその隣接地域には、数多くの神社仏閣が存在する。 
数多くというが唯の数ではない、市域の地図を広げると数えるだけで60〜70位にもなり、小さめの地図だと名称を記載するだけで、その面が埋まってしまう程である。 
市内を数分歩くと何れかの神社・仏閣に行き当たる、こんな具合であろう。 
和歌山市は、多様な神の町なのである。

次回は、和歌山 「紀の国の三神



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