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徳島、高知県

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日本周遊紀行(74)足摺 「38番霊場・金剛福寺」   ,




三十八番霊場・金剛福寺



奥の院・石鎚神社、足摺岬に縄文前期の縄文人が在住・・?、

次に金剛福寺に向かおう。
窪川町の37番霊場・岩本寺からは、中村、土佐清水などを経て100kmを超し、霊場と霊場の間の距離は八十八力所中一番長い札所であるという。
しかも、道程は深山的難所が多く 足摺半島岬などは往時は陸の孤島とでもいえる所であったろう。 しかし、ここは四国の最南端の地であり、すぐ前は広々とした大海原を望むところから、観音様の理想の土地(補陀洛)だともいわれる。

補陀洛とは、観世音菩薩が南海上の彼方に住むという信仰で、補陀洛渡海(紀州・勝浦の項に記載)といって補陀落を目指して信仰者が小舟で単身海を渡り入仏することで、中世、熊野(補陀洛寺)や足摺岬から試みられたという。

38番霊場・金剛福寺は、こんな明るい風景の岬の頂上にが建っている。 
仁王門をくぐると正面奥に立派な本堂が迎える、右手には清和天皇を祀り、源満仲(清和源氏の嫡流)が建立したという多宝塔がそびえる。清和天皇、源満仲は源家の創始者であり、武将たち、とりわけ源氏一門との縁が深い寺院であるともいう。 
境内は広く、ゆったりと造作してあり、霊気漂う雰囲気が充分に感じられる。左手に大師堂、弁天堂、愛染堂、鐘楼等が建ち並んでいる。 弘仁13年(822年)、弘法大師はこの地を訪れ、千手観音像を納めて「月輪山・金剛福寺」と号して第38番の霊場に定めたといわれる。

『 ふだらくや ここは岬の 船の棹 
      取るも捨つるも 法のさだやま
 』  御詠歌

御詠歌とは巡礼または仏教信者などがうたう和歌のこと。


自然の造形と人間の造作に心洗われ、足摺岬を後にする。 
先刻と通ってきた岬の東海岸は、遠慮がちに小さな港があり、人家も疎らで車も難渋がちに通るほど未開発の地で自然十分ところであった。
ところが対照的に西側に面する沿岸は高層の建物や人家が並ぶ賑やかな地域である。 尤もで、この辺りは足摺観光の拠点、大きな資源でもある「あしずり温泉郷」が控えていた。 白装束のお遍路さんは勿論、観光客も人汗流すには申し分ない所であろう。

この“あしずり温泉郷”は、古くて新しい不思議な温泉だと言われる・・?。
今から凡そ1200年前、当時極楽浄土に一番近いとされていた最果ての地・足摺村(足摺岬) に弘法大師が金剛福寺を建立したが、その頃より湯が湧き出し、疲れを癒したという言い伝えがある。
ところが150年前、「虎年の大変」と言われる日本で最大級の地震があり、(七日七晩揺れ続けたと言う)その地殻変動により温泉が閉じられてしまったという。
その後、平成の世に至って採掘した所、ラドン含有の良質の温泉が再び永い眠りから醒め、噴出したらしい。 ということで入浴の効用は無論、他にも御利益ありそうな温泉である。


帰路は、「足摺スカイライン」を行く。
足摺観光は概ね、この観光道路を利用しているのが普通であり、観光バスをはじめ車の往来も盛んである。 
今思うと往路では、静かな趣のある東海岸道から向かってきたことに納得するのであった。

スカイラインは、アップダウン、曲折が多くあるが、道はさすがに良好で、標高も400m程あり時折、視界180°の海が見え、これはこれで素晴らしい。
右手にこんもりした山塊が見えている、半島の高峰「白皇山」(433m)である。 
山頂付近に38番霊場・金剛福寺の奥の院でもある「石鎚神社」があった。今は、さびれた神社のようであるが名称の如く、山腹には巨石群があり、石鎚神社という名称は納得でアル。 

ところで、石鎚神社というのは、四国の名峰・「石鎚山」があり、この山を神体山(神しずまります山)とする御社の名称でもあるが、こちらの神社とは何かしら繋がりがあるのだろうか・・?。
又、この近くに「唐人駄場遺跡」といって、巨石を利用したと思われる「巨石遺跡群」(現在公園施設)がある。 かつては、直径約300mもの世界最大級のストーンサークル(環状列石:巨石記念物の一種、柱状または板状の石を環状に立て並べたもので、新石器時代から弥生時代の祭祀・埋葬に関連する遺構。ヨーロッパ・アジアに広く分布し、イギリスのストーンヘンジはその代表)があったという。 
残念なことに遺跡公園の造成中にほとんどの石は移動し、埋められてしまったというが・・、チョッと間の抜けた話である。

遺跡は、縄文時代前期:紀元前5000年頃に、南方から黒潮に乗ってきた古代人が最初に辿り着いた場所ではないかともいわれている。
石鎚神社は、金剛福寺の奥の院であり、古くから修験の中心地とされ、補陀落渡海の地だったとも云われる。
幕末維新に通訳として日米交渉に活躍したジョン万次郎のことは先に記したが、太平洋を流れる黒潮は、四国の足摺岬が接触点でもあり、黒潮という異界の海上の道は、多くの人やモノを交流させている。 同時に古代の人々も、この海の道によって現代人以上に交流していたのかも知れない。


クネクネと曲がりクネったスカイラインの道も、やがて下りきって元の国道321号へ合流した。
清水の街を抜けると、コバルトブルーの大海と岩礁折りなす美しい海岸線が延びている。この海岸道は別名「足摺サニーロード」と言われている、土佐清水の下の加江から大月町に到るまでのシーサイドロードで絶景が連続する。 
道は「日本の100名道」にもなっていて、私的選者である須藤英一氏によって選ばれたという。

日本の百名道とは、
彼はフリーカメラマンでツーリング写真を主に日本の道、風景を撮りつづけ、取材経験をもとに「日本百名道」(大泉書店)を出版している。
彼に言わせれば「道はただ単に走るだけの場所ではなく、移動するための通過点でもない。クルマで旅するとき、“あの場所に行く”ことだけが目的ではつまらない。途中には日本には美しい景色や風景が沢山在る。これらの風光を目出ながら、味わいながら走る道が沢山あるのです
 
日本100名道 リンク; 「日本の百名道」 

因みに、須藤英一氏による日本の百名道のうち、小生がこれまで走破したのは凡そ6〜7割に達しているようで、特に大自然の北海道は全道、走行しているようであった。

竜串(たつくし)という、風光明媚な海の観光地へ来た。 日本ではじめて一帯が海中公園に指定された地という。 
黒潮暖流の影響を受けて造礁サンゴや熱帯魚が生息する海の宝庫で、中でも「見残し湾」のシコロサンゴ群落は国の天然記念物に指定されている。 
周辺の岩場は、海食による奇岩怪岩が乱立していて一層、自然美を際立たせている。
トンネルが連続するあたりの先端岬・叶崎灯台が白く輝いて見えている。 この辺の海も実に最高である。


大月町の道の駅「ふれあいパーク大月」で一服入れる。 
公園内には桜の広場や梅林、子供達の遊具やアスレチックがあり、そして広大な公園全体を覆うツツジ(アケボノツツジ・・?)が名所のようだ。広い区域の物産センターの一角に、テント張りの数件の店舗が目に付いた。
美しくエレガントなサンゴ製品のお店であった。 ここ大月町は、古くから高級な桃色珊瑚の産地で、珊瑚の製造・加工・販売が盛んな地でもあるとか。
 

高知の西端にあたる宿毛へ向かう。
宿毛市街のすぐ手前、国道321号に沿って道の駅・「宿毛サニーサイドパーク」があったのでちょっと一服。 
道の駅は松田川の河口部でもあり、宿毛湾に出臍のように出ばったところに在って何より海の景色がいい。海はハワイか沖縄か?と思われるほど澄んでいて心洗われる。

宿毛」と書いて、恥ずかしながら読み方を知らず、“やどげ、しゅくげ、しゅくもう”、などと勝手に想像したが、みな外ずれて正しくは「すくも」と読む。
宿毛は清流・松田川の河口に開けた街である。太古の昔は遠浅の海であり、大湿原には一面に「葦」が生い茂っていたという。この枯れた葦のことを「すくも」と言い、宿毛の名前の由来はここからきていると言われている。

この地方は、宿毛貝塚といわれる遺跡が発掘されていて、既に、縄文中期(5千年前)頃から人跡が確認されているようで、古い土地柄でもあるようだ。 遺跡は国の史跡にも指定されてもいる。
それに、宿毛の幡多地方には、チョッと変わった名所があった。
幕末から明治にかけて、各村の要所々々に泊屋(とまりや)といって若い衆が宿泊する風習があった。 未婚の若者たちが火事などの見張りや災害に備えて泊り込み、救助に出動する慣わしになっていた。今でいう火の見櫓の番小屋のようなものであろうか・・?、
建物は二間四方の木造高床式の平屋建てで、屋根は入母屋造りのどっしりとした風格のある建物である。
当時の一般家庭の住居は殆どが平屋建ての建物で、平地ならこの高床式の泊り屋からは一望の下であったろう。 高床式の風格のある独立家屋は、多いときで百数十ヵ所も設置されていたといい、当時の、この地方の文化と治安状況が如何であったかが想像できる。
各集落にあった古風な泊屋も、今では大部分は破壊され、残っているは芳奈地区の4軒のみであるという。現在、国の指定をうけ、宿毛屈指の観光名所ともなっているという。

次回は、愛媛の「愛南町」 

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日本周遊紀行(73)土佐清水 「足摺岬とジョン万次郎」   、



イメージ 1
足摺岬と灯台

イメージ 2
足摺岬に立つジョン万次郎の像



足摺岬に「ジョン万次郎」の勇士が立つ 、

河口付近で国道321は四万十川と別れ、一路、足摺岬を目指す。 
山域に入り伊豆田峠のトンネルを抜けると土佐清水に入る。 
川沿いを緩やかに下ってゆくと、加江という所で再び海岸に出る。 こちらも見晴らしの良い快適なドライブウェイである。 
間もなく足摺半島の付け根部に当たる以布利でR321と別れ、県27(足摺岬公園線)にて足摺の岬を目指す。 

今度は、いきなり細い曲がりくねった道で、些か閉口しながら上り下りを繰り返す。 すぐに二車線の広い道に出たようであるが、これは足摺スカイラインに通ずる内陸への道のようである。小生はこのまま沿岸道を目指す。 海岸の高目を道が延びていて、土佐湾の見晴らしも良く快適である。

窪津の小さな港・漁港に着くと漁船の傍らに年配の婦女が数人タムロしていて、水揚げされた魚類を選別しているようである。
うらぶれたような地域だけに、妙に印象的な風景である。 
この先を登りきった所が窪津埼で、突端に白亜円形の灯台が立っていた。 灯台は草生した、誰も訪れる人がないように、孤高に海に向かって立っている。 
海面より50mの高さであろうか、約30km先の海洋を照らしているという。 

鄙びた漁港のすぐ上に投光があり、漁船・漁民にとっては、かけがえのない「安心の光」であろう。 
周辺は、南国の日差しはとても暖かく、灯台の周辺は色とりどりの花が咲き、蝶も舞っている。 
灯台のすぐ下は断崖絶壁で、海岸には岩礁が発達し、岩場が点々と大洋に延びている。 
太平洋の紺碧の眺めは雄大で、窪津の漁船であろうか・・?、のんびりと・・?漁をする船の姿も散見される。

孤高の灯台と対比させながら、人影一人と無いこの地に立って、長閑で、大らかで、心が伸びやかになるのを覚える。
孤独の味」を味わいながら、それでも旅に出て良かった、としみじみ実感する瞬間でもある。 
チョット、センチになった気持ちを入れ換えて、更に前進する。
ダートのコースではないが、細く、曲がりくねった道が暫く連続する、時には南国の樹林帯の中を潜るように、くねって、くねって。 
忘れかけたような小さな集落を目にしながら、こんな僻地にも人が住んでいるのか、と不思議に感じながらも、その民家の庭先とも思えるような道を遠慮がちに通過する。

時折、チラッと左手に大洋を望みながらも、緊張感で何の感慨もなく、ただ、ひたすらに目の前の道をめがけて突き進む。 
時折、二車線の新装なった綺麗な舗装道路に出るときもあるが、又、再び鬱蒼とした林の中のクネクネの一本道である。 
白装束のお遍路さんとすれ違う時など、遠路の安全を祈らずにはいられない、やはり四国らしさを感ずる。 
幾つかの部落を通り過ぎて、明るい開けた、見通しの良い地の岬に達したようだ。

更に車を前進させると、今迄とは、うって変わって明るい賑やかな広場に達した。
ざっと見渡しても右手に第38番札所の「金剛寺」が有り、道路をはさんでお寺の前の駐車場近くには、「中浜万次郎」の大きな像があった。
一帯が広場になていて、公園風によく整備されている、区画された駐車場の横には数件の御土産屋さんも並んでいる。 
舗装された遊歩道は、岬の先端に延びてて、足摺灯台へ達しているようだ。


ところで、土佐の高知は、大きく弓なりの土佐湾を東西で室戸半島(岬)と足摺半島が挟むような姿である。
この足摺岬が高知は無論、四国の最南端に当たり、強いて言えば土佐湾と太平洋を隔てている。 そのため足摺周辺は黒潮の影響も強く受ける温暖なところでもあり、ビラン、アコウ、椿など亜熱帯性の植物も繁茂している景勝地である。
この地域一帯は足摺宇和海国立公園にもなっている。 

先刻、室戸岬を訪れた時は、名前のわりには人の手が加わらず、自然のままの姿が印象に残っていた。 だが、この岬はよく手が加わえられ整備されていて、室戸とは好対照なのが面白い。
早速、灯台へ向かおう。
自然遊歩道に従って行くと、うっそうとした椿のトンネルがあり、散歩気分で程なく高台の草原に立つ「足摺灯台」が現れた。
四国の最南端の突端に立つ、白亜でロケットをイメージした灯台は、ひときわ大きく目立って佇立している。 
標高(平均海面〜灯火)が60m(地上から塔頂までは18m)、光達距離は約40kmといわれる。残念ながら内部の一般公開はさていないようだ。 
断崖絶壁に立つ灯台の周囲は展望台にもなっていて潮風が強く、岩礁に砕ける白い波頭や無際限な太平洋の風景は実に圧巻である。自然遊歩道沿いには、「足摺自然七不思議」なる物があるそうで巡ってみたいが、時間の都合もあり遠慮した。


戻って、広場に立つ「中浜万次郎」(ジョン万次郎)の前に来た。  
高知を巡って何れの偉人像もうであったが、四角い台座に大洋を見ながら堂々と立つ。 
『 万次郎は不思議な人だ、大名とも話すし、乞食とも話す 』、中浜博(ジョン万次郎のひ孫)「私のジョン万次郎」より。

当時、海外渡航は国禁だった。 
米国へ渡った万次郎は、日本人としては最高の英語の使い手であり、この「必要性」が封建時代を支えてきた身分制度を突き崩したのである。
万次郎のことは先にも若干記したが・・、
この地・土佐の国・中浜村(現在の土佐清水市)の漁師として生まれている。 14歳の時に漁に出て遭難し、奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島の鳥島に漂着した。 そこでアメリカの捕鯨船に仲間と共に救われるが、日本は当時、鎖国であったため、万次郎はアメリカへ護送されることになる。 「ジョン」という愛称はこの時の捕鯨船の名前ジョン・ホーランド号とって付けられたという。 以降、鎖国中の日本には帰らず、船長の家(ホイットフィールド船長)で養子となって約3年半のアメリカと生活となる。その間、万次郎は学校にも通わせてもらい、個人教授を受けて英語を完璧に話すようになり、名門の学校にも通って基礎的勉学も身に付ける。航海術、測量術も修め、再び捕鯨船に乗って働き、やがて米国船の副船長にも選ばれて太平洋・大西洋・インド洋を巡航し、鎖国時代の日本人としてはめずらしい世界体験をしている。 世界の各地を航海した万次郎は、その後、船を購入しハワイに寄港、1851年に日本への帰国を果たす。帰国は鹿児島に上陸しているが、直ちに故郷には帰れず、長崎で鎖国中の幕府から尋問や取り調べを受け、一時、牢屋にも入っている。そして遂に、嘉永5年10月(1852年)、故郷土佐の中村に帰ることが許された。

この時期の日本は、黒船の出現など対外国の圧力が強まり、政治的にも世情騒然、分明開化の嵐が吹き荒れる最中であった。 万次郎は土佐藩に西洋技術を教えるなど才能を買われて土佐藩士となり苗字帯刀をゆるされる。(武士になった)この際、生れ故郷の地名を取って「中浜」の姓が授かっている。

幕府は、ペリーの来航によってアメリカの知識の重要性を認識していたことから、万次郎を26歳の若さで幕府に直参旗本という前例のない待遇で召し出した。  
江戸では通訳も務め、またアメリカで身につけた学問を基に各地で講師としても活躍する。 地元高知では、坂本龍馬も万次郎から聞いた世界観に影響を受けたと言われる。
ところで、アメリカ合衆国は20世紀の一時期、日本と戦火を交えたが現在の国際化時代、日本と最も友好関係にある国といえる。 
アメリカは150年前の国の歴史に、おそらく日本人として一番最初に名を留めた人物はジョン万次郎であったろう。 太平洋、遥かなアメリカに影響を直接受けたジョン万次郎が、大洋に向かって立っている姿は、至極、納得させられるのである。


足摺岬』 唄・鳥羽一郎  詩・星野哲郎 
海が裂ける 岩が吠える       虹をつかみ 雲にのって
足摺の 荒ぶる岬に立てば     足摺の 波立つ岬を廻りゃ
小さい世間は 吹っ飛ぶぞ     若い竜馬の 声がする
俺も行きたや 万次郎さんの    命惜しんじゃ 何も出来ん
花と嵐の 人生を         捨てて勝つ気が 明日を呼ぶ
波に浮かべて わだつみの涯て   海に貰うた 度胸の宝

次回は三十八霊場・「金剛福寺
 
 


 
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日本周遊紀行(72)中村 「四万十川」  ,



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写真:四万十川の「遊覧船」;澄んだ水の青さに季節によって顔を変える四万十川、この船で食事やお酒を飲みながら遊覧する。



日本最後の清流と言われる「四万十川」

中村市」、とはいっても旧中村市のことで、本年4月に北部・山間地、西土佐村と合併し新市「四万十市」として発足したばかりである。 
四万十川の町として知られる土佐中村は、河口よりやや内陸に入った河畔、四万十川と支流河川の中洲に広がる町並みである。

中村の町並みは、15世紀半ばの室町期、朝廷の関白家の一条氏が応仁の乱の混乱を避け、所領であった土佐幡多の荘(現在の中村・四万十市)に京都から下向してきたことから始まる。 一条氏は、雅やかな京都に対する思慕の念から、この土地に京風の町造り、町並み造りを実施し、中村御所(現在は一条神社)を中心に碁盤目状の街並みや祇園神社、東山、鴨川といった地名を残している。
又、前関白という身分の高さもあり一条氏は土佐の人望を集め、国中の豪族もこれに臣従し「中村」は土佐の小京都とも呼ばれるほど、一方ならぬ賑わいを見せたという。
以降、土佐一条氏は新興勢力、長宗我部氏が幡多に侵攻するまで続くことになる。

実は、中村という名称は、長宗我部氏から始まるという。
土佐中村城は、土佐くろしお鉄道の中村駅から西北に3kmのところ古城山とその山麓を占めるところにある。
この城郭は現在、郷土資料館になっているが、当地は昔から交通の要衝であり、かっては、この地方の豪族、為松氏が城を造り居城としていた。 後に、為松氏は土佐国司となった一条家の家老として仕え、為松城は中村御所の詰の城として整備された。中村御所跡はいま中村一條神社となっている。


町並みを過ぎて、四万十川の渡川大橋を渡り、そのまま西側の河畔土手を走る、成る程、その名に聞こえた清流である。
川幅は1kmもあろうか、草生した洲だまりもあるが、広くは流水部が占めて悠々と移流している。 合流河川の所はさらに川幅は広くなり、雄大さを誇る。

河口付近は、巨大な中洲も発達しているようである。 
川岸に造形された船着場に、数艘の屋形船が着岸している。
中央の川面に漁であろうか・・?一艘の川船が佇んでいた。 四万十川らしい風景と雰囲気を感じ、思わずシャッターに手が延びた。 
川岸に沿って「四万十屋」や「うなぎ」と銘うった数件のドライブインと御土産屋があり、「遊覧船乗り場」の大きな看板も目につく。 各所に四万十川らしい生活景観を厭味無く演出しているのである。 

風物詩等テレビでお馴染みであるが、四万十川は特に生活に密着した川である。 
古くから独特の漁(りょう)が盛んに行われて、天然ウナギ、ゴリ(ハゼ類の淡水魚、チチブの方言)、ツガネ(モクズガニ)、テナガエビなどの魚介類のほか、青海苔の産地として知られている。
川漁で生計を立てている人が多いことでも、日本有数の河川といえる。

全長196km、吉野川に次ぐ四国第二の川で、本流に大規模なダムなどが建設されていないことから、「日本最後の清流」と呼ばれている。 
四万十川には、中上流域、支流も含めて47もの名物・沈下橋(もぐり橋)があり、高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定している。

もぐり橋(潜水橋、潜没橋、潜流橋、沈み橋、潜り橋などともいう)とは、橋の上に欄干が無く、水面からの高さが高くないことが特徴である。
これは、増水時に、橋が水面下に没するようになっており、流木や土砂が橋桁に引っかかり橋が破壊されたり、川の水が塞止められ洪水になることを防ぐためでもあるという。
また、壊れても再建が簡単で費用が安いという利点もある。 その構造から建設費が安く抑えられるため山間部や住居の少ない地域など、比較的交通量の少ない地域で生活道路として多く作られた。 
しかし現在では山間部でも広い道路や本格的な橋が造られることから徐々に姿を消しつつあるという。

先にも記したが源流部は県内の東津野村(本年・2005・2月、葉山町と合併し津野町として発足している)の布施坂付近で、この辺りの水域は日本名水100選にも選ばれている。 その後、蛇行を繰り返しながら南下し、窪川、大正、十和の町村を西へ移行しながら、更に四万十市(西土佐村、中村市)を潤して南下し、土佐湾に到る。
本流は珍しく、高知一県のみを流れる一級大河川で、一つの都府県のみを流域とする河川としては、山形一県を流れる最上川本流(224km)に次ぐ長さであるとか。
 
次回は、土佐清水から足摺へ


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日本周遊紀行(70)横浪半島 「武市半平太」   、




高知・横浪黒潮ラインに立つ「武市半平太」の像


至誠の人・武市半平太の像が横浪半島の丘に立つ 、

桂浜を後にして、海岸沿いの快適な県14、県23号線の通称「黒潮ビーチライン」を行く。 海岸のコンビニで大洋を眺めながら、チョット遅い朝食を摂る。そこからは、わずかに孤形を帯びた宇佐漁港、朱色の宇佐大橋、そして横浪三里といわれる景勝地の横浪半島が右手に見えている。

紀州・和歌山の項でも述べたが、宇佐漁港は「鰹(かつお)の漁法」、「鰹節」の発祥の地である。 
元々、紀州の印南町が鰹漁と鰹の一本釣りの発祥地といわれる。
かつては廻船問屋や漁船の基地として知られ、印南の漁夫たちは日本でもトップクラスの鰹漁の技術を持っていた。 ところが鰹船団で財をなした豪家、角屋甚三郎が、ある事件をきっかけに船団を率いて、土佐へ移ってしまったのである。 その地が「宇佐」であった。

カツオの漁法とともに、鰹節(熊野節)の製法を土佐国に伝えたのを、きっかけに土佐藩は鰹節を藩の貿易品にしようと考え、その製法を積極的に取り入れた。 
息子・甚太郎は焙乾(燻乾)の創始者でもあり、江戸中期の頃までに大きな改良が行われ、煮熟・焙乾・カビ付けに取り組み、これが改良節、土佐かつお節と呼ばれている。 
更に、宇佐在住の印南の職人が伊豆や薩摩に招かれ、作られたのが伊豆節、薩摩節といわれる。 明治時代に入って、伊豆節が目覚しい発展を遂げ、土佐節・薩摩節・伊豆節が三大名産品と称されるようになった。

日本沿岸で多量に捕れるカツオは干しカツオにし、さらに焙乾法の出現により鰹節に引き継がれ、日本人の保存用タンパク源、調味料として不動の地位を確立していくのである。
宇佐漁港は、現在、クジラ・ウォッチングの出航地として人気があり、また幕末、ジョン万次郎(中浜万次郎)が船出したという港でも知られる。 

万次郎は、土佐中浜に生まれ、その数奇な運命と独自の才覚によって、近代日本の夜明けともいえる時代に日米の架け橋となる幾多の業績を残した。 あの坂本竜馬にも多大に影響与えたという。「ジョン」という姓は、捕鯨船・ジョン−ハウランド号に由来するという。
万治郎は故郷へ錦を飾った後、地元の名を付けて、中浜万治郎(1827〜1898)と名のった。アメリカで学んだ英語力を活かし、威臨丸に通訳として乗り込み、勝海舟、福沢諭吉らとともにアメリカに派遣されるなど活躍、維新後は学校の教師など、日本の英語教育の確立に貢献する。


宇佐漁港の外れから昭和49年に華美な橋が開通した。
その「宇佐大橋」を渡って、対岸の島のような横浪半島へ行く。 
すぐに36番霊場「青竜寺」があった、堂々たる山門をくぐり、長い石段を登ると正面に本堂、その左に大師堂、 右に薬師堂が並んでいる。
潮風を受ける本堂の軒下には宇佐の港にも象徴される、多くの船を描いた絵馬が奉納され、船人たちの本尊・波切不動明王への厚い信仰が伺える。

因みに、「不動明王」とは・・?、
仏教で云う「大日如来」とは、森羅万象全てを創造した宇宙の根本仏のことで、仏像には普通、大日如来を真ん中にして右側に観音様(壷を持つ=凹=水)、左側に不動明王(剣=凸=火)を配置するという。 つまり、観音様は肉体で、「不動明王は精神を現す」といわれる。 これは、人の腹、首、頭の三位一体を教えているともいう。

不動明王の精神は、仏道に導くために煩悩を打ち砕き、悪魔を下し、邪物を畏怖せしめ、菩提の心が揺るがないことから不動という。 押し寄せる大波(煩悩)を粉々に打ち砕く不動様を特に「波切不動明王」と信じ、この不動様を拝めば、どんな嵐でも船は安全であり、
大漁もまた間違いなしといわれる。  
朱色が鮮やかな三重塔が石段の途中の左側にある。




青龍寺・三重塔


青龍寺」は、弘法大師が唐の都・長安のにちなんで建立したという。  また、平成の大横綱と形容されるモンゴル出身の「朝青龍明徳」という「しこ名」は、四国霊場・青龍寺に因んで名づけられた。 明徳の名は、同寺の近くにある出身校であり、高校野球でも有名な明徳義塾高校の名をを付けたもの。
因みに、「朝青龍」の所属するの高砂部屋は現、若松親方(元大関・朝潮太郎)で、出身は室戸市である。


横浪スカイラインへは、更に屈曲した道を登り、細長く伸びる横浪半島を縦走する。
高知県内一番の人気のドライブウェイというが、小生にとっては見慣れた風景でもある。 南に荒々しい太平洋、北には四国山脈と南国の保養地・入江三里といわれる鏡のように穏やかな内海(浦の内)を望め、半島全体が深緑におおわれて目にも優しい。 
横浪黒潮ライン途中に休憩所があり、ここに、龍馬と同じく土佐藩の幕末志士の一人、武市半平太(瑞山)の堂々とした像が立つ。

至誠の人・武市半平太瑞山(1829年〜1865年)は桂浜、浦戸湾の近くで生まれている。
幕末・安政期、桜田門外の変(大老・井伊直弼の暗殺事件)の後、半平太は土佐藩の下級武士を集結させて土佐勤王党を結成する。龍馬も加盟するものの、早くから自らの土佐藩に見限りをつけ脱藩し、半平太と進むべき道を異にしたのである。龍馬の脱藩を知ったとき半平太は「土佐にはあだたぬ (狭い土佐にはおさまりきらない)奴よ」と言ったという。
半平太は、その後も土佐藩を勤王思想・尊皇攘夷で統一しようと活動を続け、一方の龍馬は勝海舟と出会い、開国論に目覚める。 二人は、其々違った道で世の変革を求めるが、半平太は公武合体派の山内容堂の弾圧にあい投獄され、慶応元年(1865)、道半ばにして36年間の生涯を閉じている。



辞世の歌は・・、
『 ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 
           今は惜しまぬ 身となりにけり
  』

維新後、山内容堂は武市を殺してしまったことを何度も悔いていたという。 しかし、維新後、木戸孝允は旧土佐藩主山内容堂との酒の席で酔い「なぜ武市を斬った・・?」と容堂をなじったが、容堂は「藩令に従ったまでだ」と答えたとも言う。

勤王党仲間内でも、一死君国のため脱藩した志士達も、お互いを呼び合う時は全部土佐弁丸だしでオンシ、オラを使い、年齢の後先はなかったという。身分の上下を越えて、みんなオンシ、オラで、このオンシ、オラは勤皇志士の合言葉でもあった。ただ、武市瑞山は別で、一枚上であったという。皆は瑞山先生とか、武市先生とか呼んだという。「瑞山」とは号(ごう)で、武市を称える名称でもある。

「維新土佐勤皇史」には、次のような記述がある・・、
『身長は2m近い。すらりとした長身。顔は青白いといっていいほど白く、鼻が高く、顎の張った骨っぽい表情。その表情は、滅多なことでは動かず、目に尋常ならぬ鋭い輝きがある。ひとたび口を開けば、音吐高朗、人の肺腑に徹する。人格、また高潔、一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった。』
武市の人格を評するには「人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する人材」といった言葉が残されている事からも、高潔な人物であったことが伺える。

坂本龍馬と半平太の出会いは、龍馬が初めて江戸へ剣術修行(千葉道場)に出たとき、土佐藩下屋敷で一緒になったのが始まりで、半平太は龍馬より6歳年上、このとき龍馬は19歳、半平太は25歳であった。 
半平太は、城下でも謹厳実直できこえる器量人で、しかも几帳面。龍馬とは正反対のタイプで考え方においても、事あるごとに二人は対立したようであるが、どこかでウマが合い、竜馬を弟のように思い、仲が良かったと言われる。 尤も、龍馬とは遠縁にあたるともいう。

次回は、窪川町の「あぐり」・・?


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日本周遊紀行(69)高知 「いごっそう・龍馬」  ,




写真:土佐の高知の「桂浜」


桂浜から大洋を見据える「坂本竜馬像」



“いごっそう” 土佐の龍馬は、政治家より経済人を夢見ていた・・! 、  

一旦、はりまや橋の大交差点に戻り、今度は右折して県道34号線を、やや浦戸湾に沿いながら「桂浜」へ向かう。途中、「横浜」という地名に出会った。 神奈川に住む小生にとっては懐かしい名前である。
思えば、東日本を周遊している時、青森の下北半島の付け根部分にあたる所に「横浜町」というのが在った、たしか、日本一の菜の花の名所と記憶しているが。 もっとも、横浜という名称はありふれた名で、浜の近辺なら何処にあってもふしぎではないが・・! 

横浜から瀬戸の住宅地を抜けると、突然、太平洋へぶち当たった。標識に従って、左折し、清々した海岸を行くと、間もなく高台の曲がりくねった道より大駐車場へ出た。
桂浜の駐車場で近くには、土産、物産の販売所がある。 
本日、土曜日であるが、朝まだ早いことから車や人影は殆ど無い。岬の先端の石段を下ると、箱庭のような桂浜の風景が目の前に広がった、土佐を代表する名勝・「桂浜」である。

大海原と青くこんもり突き出た岬(上龍頭岬)との配置景観が実に良く、ハートに響く・・!、満月の夜景を想像しながら「月の名所は桂浜・・」に納得である。 
砂浜に整備された遊歩道をゆく、高台の竜頭岬には土佐を代表する志士「坂本龍馬像」が遥か太平洋を望んで、堂々と建つ。

1866年(慶応2)、京都・薩摩藩邸、奥座敷の一室に長州藩代表の桂小五郎(木戸孝允)が控える。 別室に薩摩藩代表小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通が着座して居る。 竜馬が駆け込んで、西郷に向かって「おはん等、未だ思案しちょるんか、くだらん意地でこの同盟を、この日本を、だめにしてしまうんか・・!!」 大きな目を正視していた西郷は、一時して「分かりもした・・」と言って立ち上がり、別室の桂に歩み寄り、深く頭をたれて「よろしゅう、おたの申す・・」と、遂に、ここに坂本竜馬の努力によって薩長同盟が結ばれ、これが歴史の流れの大きな分岐点となり、倒幕・維新革命への大きな流れを起こすことになる。
後に竜馬は、西郷のことを「西郷は馬鹿だ!!しかし、馬鹿さの幅が分からない、小さく叩けば小さく響く。大きく叩けば大きく響く・・」と言わしめた。

坂本龍馬は、高知の城下町に住む郷土(※1)の次男として生まれ(1835年)ている。 青年時代江戸に出、千葉道場(千葉周作)で北辰一刀流を学んだ剣士でもある。
武市半平太(瑞山)卒いる土佐勤王党(※2)に参加し後、脱藩して勝海舟に師事して海軍建設を計画し又、長州・木戸孝允、薩摩・西郷隆盛を説いて、慶応2年(1866年)薩長両藩の同盟協約を成功させる。
龍馬は、この薩長同盟の勢力に土佐藩を加え、これを背景とする王政復古(天皇制)を考え、土佐藩の参政、後の藤象二郎を説き、立憲的な議会制度を基とする新政府の出現を期した。
主君・山内容堂(15代土佐藩主)は、後藤の提案を受け入れて慶応3年将軍徳川慶喜に大政奉還を建白した。 将軍も時勢を察し、京・二条城において、政権返上を朝廷に上奏した。 
龍馬は、これを喜び新政府創立に奔走したが、11月15日京都河原町「近江屋」で幕府方の刺客に襲われ、同志・中岡慎太郎とともに凶刃に倒れた。
時に龍馬は33歳、慎太郎は30歳であった。

海援隊を組織し、海事貿易も行っていた竜馬が、もし殺されずに明治時代を生き抜いていたら、岩崎のかわりに坂本家が日本一の財閥になっていたのでは・・?とも云われる。
元々、竜馬は国内の政治家としての立身は望んでいないようで、ゆくゆくは外国貿易に見え置き経済人として望みがあったともいわれる。 
それが大洋(外国、太平洋の先にはアメリカがある)に目を向けて建つ「竜馬像」の姿であり、志であった。

※1 長宗我部時代、一領具足という半農半士の制度を制定する。このことが上下関係のない自由で闊達な土佐人を生んだ。山内一豊が入府してからは、山内侍(上士)と旧士との間に区分が生まれ、旧士は上士に差別され、侮蔑され、馬鹿にされた。 そのうっ憤は、自然と文武両道の錬磨に打ち込み、旧士達は長年の間に土佐の反骨精神を高め、幕末維新の立役者となる原動力を身に付けたのであった。一般に土着の長宗我部時代の遺臣を郷士と称している。

※2 一藩勤王を唱え、攘夷に立ち上がるため、武市半平太(瑞山)が文久元年(1860年)8月に結成した結社。 坂本龍馬、中岡慎太郎といった面々も含め、190余名が加盟。そのメンバーのほとんどが郷士、下士、庄屋といった下士層で構成されている。武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎は土佐勤王党の四天王といわれた。
 
『 みよやみよ みな月のみの 桂浜 
          海のおもより いづる月かげ
 』 

土佐出身の大町桂月が詠う。


裏山の浦戸城趾は戦国の昔、長宗我部元親の居城として四国統一の中心となったところである。また、山頂には国民宿舎桂浜荘、坂本龍馬記念館がある。 
桂浜を望む龍頭岬の北側対岸は、浦戸湾口を跨ぐ巨大な浦戸大橋で結ばれ、種崎の岬に到っている。
歌でも知られる「浦戸湾」は、入江状になって高知港を形成している天然の良港であるが、現在の浦戸湾は広範囲に埋め立てられ、かなり縮小しているといわれる。 だが、昔は高知の市街地を含んだ広大な湾域であり、流入河川も多く半汽水湖を形成して、魚の種類も多かったという。
「よさこい節」に言われる・・、

『 言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ
                 潮吹く魚が泳ぎより
』 

回遊する土佐湾名物の鯨が浦戸湾に入り込んできて、暫しの休息をしながら,多くの餌魚を漁っていた、こんな風景は、まんざら作り話しでもなさそうである。

次回は、宇佐、「横浪の道



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