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四季*おり*オリ*の散歩道で♪
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琵琶懸城址

琵琶懸城は、今から約800年前の仁安2年(1167年)、本間義秀が平清盛の命を受けて築城したのが始まりといわれています。本間義秀はのち源氏に仕え、源義経が兄の頼朝に追われて奥州へ下る途中、この城に立ち寄り城を焼き、義経に従いこの地を去ったといわれています。
鎌倉時代の終わり頃、上州・新田氏が魚沼地方を支配するようになると、新田氏の一族の羽川氏がここに居舘を構えます。
やがて南朝が亡び、上杉氏が越後を支配するようになると、この城は関東進出への大切な足場になり、長尾景広が城主を命じられました。
この場所は、頚城地方から関東への街道に沿った、しかも信濃川の船渡場をおさえる交通の要地で、南と西は信濃川の浸蝕によって出来た深い断崖に守られ、津南から川西方面を一望出来る景勝地でもあります。
天正6年(1576年)上杉謙信の死去に伴う御館の乱の前後になると、上杉景勝の家臣である金子二郎右衛門が城主(城代)に任じられます。廃城の時期は不明ですが、慶長3年(1598年)の上杉景勝の会津移封に伴い廃城となったと思われます。

上杉謙信が関東遠征の際、1日目は直峰城。 2日目は犬伏城
そして3日目。。。標高350mの薬師峠を越え、鎧坂を下り、対岸の高島城で小休止した後、舟で信濃川を渡り、1日の工程としてはそう長い距離ではない12kmという道のりを移動し到着するのが、3日目の宿である琵琶懸城でした。
城の総面積約8反歩(1反歩=300坪)という、郡市内最大の規模をもつ平城で
戦国時代の名残をよくとどめています。
周辺には駐車場が無いため、細道をぐるっと車で移動し、その後、徒歩にて登城。
辿り着いた場所が、東南隅、城の大手側(推定)だったのは幸運でした。

竪堀跡          馬出し付近       馬出し振り返って


城域へ入る手前、現在道路になっている部分は、竪堀の跡ではないかと思われました。東南側虎口の手前には、馬出しがあったようです。現在では民家が建っているため、鮮明な遺構はわからなくなっています。

空堀・左側        南東側虎口       空堀・右側


東南側虎口の様子と、手間にある左右の空堀の様子。旦那とちびが写りこみ、土塁の高さがわかると思います。城内に入ると二の郭です。

二の郭から見る主郭への通路  主郭虎口       虎口手前の空堀


二の郭の奥側(城域南西部)が主郭ですので、そのまま真っ直ぐに進み主郭へ向かいます。主郭と二の郭は空堀と土塁で仕切られていますが、主郭の虎口は何の変哲も無い平入り虎口でした。

祠と主郭土塁       主郭全容         鳥居・祠・土塁


主郭は南北45m、東西35mの広さで、その周囲には高さ2メートルの土塁と、深さ6メートルほどの空堀が巡っています。主郭西側、南側は崖になっていますが、何かの事情で崩れた可能性も考えられ、本来はもう少し広かったかも知れません。

二の郭          二の郭東側土塁      二の郭櫓台跡


二の郭、三の郭は耕作地に、四の郭は神社や墓地へと姿を形を変えていますが、良く見ると当時の面影を見つけることができ、何とも楽しいです。南東の虎口から続く土塁上には、南東側虎口監視用だったと思われる櫓台跡の場所に小さな石仏が祀られています。   
城域内、至る所にこのような石仏や塚が置かれていました。ある塚の中からは、室町時代のものと推定される鏡が出土し、歴史の古さを証明しています。城址の片隅に『秘密院殿』と刻まれた石碑があるそうですが、土地の古老によると南北朝時代の城主・羽川刑部公の供養塔だと言い伝えられているそうです。

北東側から見た三の郭の様子 主郭・三の郭間の様子
二の郭、三の郭の境は現在ではわからなくなっています。
しかし、主郭と三の郭の間には深い空堀が鮮明に見られます。

堀跡(推定)       堀跡           断崖


三の郭西南隅から見た様子です。現在耕作地になっている部分に、空堀の名残らしい埋め残しの段差を確認できます。堀跡の先は断崖絶壁になっています。もともと河岸段丘という不安定な地質のうえ、大きな地震に何度も見舞われ、斜面が崩れ落ちてしまったのだろうと思われます。

東側から見た三の郭の様子  三の郭東側土塁・手前は空堀跡(?)
三の郭反対側からも堀跡が少し蛇行したかたちで存在していた様子が伺えます。
三の郭北東隅の土塁は四の郭との境がクッキリとわかるようなかたちで折れ曲がり残っています。
この周辺も、幾度もの戦場になった場所。。。最近まで、付近の耕作地の中から、折れた刀や槍の先などが出て来ていたという話しです。

三の郭・四の郭間の通路  北側にある水濠      北側虎口


四の郭東側にも、しっかりとした土塁が残っています。その上から下を見ると、深い堀跡を確認できます。三の郭、四の郭間に通路が見られるのですが、この規模の平城に、大手、搦手以外の出入り口は敵の進入経路を増やすだけで不必要に思います。(ここを虎口と捉える人も多かったのですが。。。)奥に民家が見えること、現在、城域内が耕作地や墓地になっている事から、現代の住民の生活用通路なのでは?と思いました。
同じ土塁上(ちびがいる場所)を歩きながら北側へ進むと、僅かに水が残る水濠跡がみられます。四の郭、琵琶懸観音堂の祀られている前付近が、北側虎口(推定搦手口)です。

四の郭内         四の郭櫓台跡       舟着場(推定)付近


観音堂の隣は墓地となり、そのため一部土塁も壊されている四の郭。北側には、眼下の舟着場を監視すべく、櫓台跡が残っています。

写真は、主郭から見た様子です。
現在は河川改修され、河道もすっかり変化してしまった信濃川ですが、城が機能していた頃は河川の幅もずっと広く城域直下を流れて、天然の外堀の役目を果たしていたと考えられます。

対岸には高島城があり、そこで僅かな休憩をとった上杉軍は舟で信濃川を渡り、この琵琶懸城へと入って来たと考えられます。
北側櫓台跡からは、ほくほく線の様子も良く見えます。
たまに通る列車は新型で、撮り鉄さんにも嬉しい眺めですよ。

訪城日 : 2012年10月14日(日)



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    琵琶湖城址

    素晴らしい所ですね〜初めて拝見いたしました

    歴史的に勉強になりました・

    有り難うございました。

    ナイス

    [ とし ]

    2012/12/27(木) 午前 8:43

  • いにしえの兵どもが夢のあと・・・、そんな感じですねえ。

    遊太郎

    2012/12/27(木) 午前 11:22

  • こんばんは(*^_^*)

    歴史の事を語れば、ちぇるしーさんは神様です(^−^)
    凄いスキルだと思います。
    ナイス☆彡

    ほくほく線のはくたかが気になりますね〜←実は…ピサロ鉄だったりして…(笑)

    ピサロ♪

    2012/12/27(木) 午後 7:32

  • アバター

    びんせんさん♪
    ここも謙信公ゆかりの城址です。
    現代の人が使用しながら、遺構が残されている事に感謝です。
    いつもナイスありがとうございます。

    ちぇるしー

    2012/12/27(木) 午後 8:42

  • アバター

    遊太郎さん♪
    現状を見ると、ここで戦が。。。なんて想像も出来ないですもんね。

    ちぇるしー

    2012/12/27(木) 午後 8:43

  • アバター

    ピサロさん こんばんは♪
    実は、学生の頃勉強しなかったので、今頃になって勉強してるんですよ。
    机の上での勉強でなく、実際にお城を見ながら散策するのは楽しいですから。
    いつもナイスありがとうございます。

    ちぇるしー

    2012/12/27(木) 午後 8:47

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