ここから本文です
四季*おり*オリ*の散歩道で♪
長きにわたってお世話になり、誠にありがとうございました。m(_ _)m

書庫過去の投稿日別表示

全1ページ

[1]

----- Monday, December 24, 2012 ----------
クリスマスの時期に合わせ、休日にライトアップイベントを開催している国営越後丘陵公園に遊びに行って来ました。

予定していた用事が早く済み過ぎて、会場入りしたのは午後の3時。
ライトアップ開始まで、まだ1時間はあるので、“花と緑の館”内を散策しつつ、誰でも参加出来る工作物を見つけ、ペットボトルに絵を書いて飾りつけ。。。
イメージ 1
その後は“暖の館”に移動し、ころりん工房でおやつにピザを!
「店長きまぐれピザ」を選んでみましたが、季節の長岡野菜をふんだんに使ったヘルシーピザでした。
白い塊はジャガイモ。。。と思ったら、なんとカブでした。カブは焼いても美味しいんですね!


おやつを食べ終えると“暖の館”内で、終日ライトアップされている“光のおもちゃ箱” の部屋を見学。

サンタの部屋でサンタさんと2ショット撮影。
「プレゼントもよろしくね!」byちび 




午後4時になると、全館のイルミネーションがカウントダウンと共に一斉に点灯します。
私たちは、毎年メインになっている“ペットボトルツリー”のある場所で、場内の人と共にカウントダウンしました。















高さ7.5m。
2ℓのペットボトル容器1,500本を使用して作られたツリーは、音楽に合わせ、七色に変化して綺麗でした。



“花と緑の館”の入り口脇の白壁には、外と同じように、ハラハラと雪の舞う照明の演出もありました。






そして、今年初めての試みが“シャンパングラスツリー”
7,000個のシャンパングラスを使用した高さ6mのツリーです。






こちらも七色に変化し、見る角度によって様々に見えるので、とても不思議な空間に迷い込んだようでした。





各部屋を繋ぐ廊下部分にも、各種電飾や工夫を凝らしたイルミネーションアートが飾られています。
これは、空き瓶を利用して作ったツリーに、その足元をプラレールが走るというもの。
男の子が釘付けで、走るおもちゃの列車から離れなかったので、一緒に撮っちゃいました。

ちびも、プラレールは見ていたけれど、先ほどの男の子ほどの執着はないようで次の部屋へ。。。

“鏡のイルミネーション”
四方鏡張りの部屋の中にあるイルミネーションなので、無限の映り込む電飾で満たされたとても不思議な空間です。

そんな幻想的な室内にあった2種類の電飾を、丸ボケだけで写してみましたが、如何でしょう?


各部屋を廻り、撮影に夢中になっているうち、日没の時刻も過ぎ、室内もイルミネーションの灯りだけが際立つ時刻になっていました。
ここからは屋外に出て、外のイルミネーションを楽しむに良い時間です。
公園のシンボルツリーである大ケヤキが、浮かび上がって綺麗です。
雪国なため、丘陵公園の屋外イルミネーションは、本来、真夏がシーズンなのですが
(夏はこんな風  サマーナイトプレゼンツ20092010201
今年は、雪上イルミネーションも楽しめるようになっていました。

4時30分の点灯時刻前には、係りの人たちが雪に埋もれてしまった電飾を掃除(雪かき)する場面も見られ、そんな人たちの苦労あって、楽しめる屋外イルミネーションでした。


来た時には見られなかったイルミネーションの風景を楽しみながらゲートへと戻りつつ、何度も振り返って撮影。


気温はすでに氷点下のようで、外の電飾にはツララがぶら下がった状態で点っているんですよ。
外はこれからの時間帯がイルミネーションに向く時刻。。。
しかし、私たちは家で夕食なので、そろそろ帰らなければなりません。

喪中なのでクリスマスツリーは飾りませんでしたが、その分ここで楽しみ、夕食時にチキンと小さいケーキだけは食べ、ちびにもサンタさんがプレゼントを置いていってくれた2012年のクリスマスでした。



(C) 2005-2012 四季*おり*オリ*の散歩道で♪ All Rights Reserved.

開くトラックバック(3)

犬伏城址

鎌倉・室町・戦国期に“松山保”と呼ばれたこの地は、在地勢力の松之山氏が支配していましたが、南北朝期には南朝に組した風間信濃守(直峰城主)の勢力下にあったとされます。その後、南朝勢力が衰退し、鎌倉時代には執権職 北条義時の支配下となり、建武4年(1336年)には、仁木弥太郎義が有地頭となっています。室町時代になると、観応年間(1350〜52年)には原田喜太郎が犬伏城を拠点に南朝方と交戦。その後の貞治年間(1362〜68年)には、上杉憲顕家臣・丸山弾正の居城となり丸山氏が数代に渡って居住しました。
永正4年(1507年)8月2日 守護代・長尾為景は、守護・上杉房能と対立し府中の守護館を急襲。房能は関東に逃れる途上に直峰城に立ち寄りますが、為景軍の追撃を受けて松之山に逃れ8月7日に天水越で自刃します。その際、犬伏城主の丸山左近入道信澄もまた房能と共に自刃してしまいます。
上杉謙信の時代には清水采女正が城主に任じられ、謙信の関東遠征時の中継点とされます。(針生久吉、大熊朝秀が字頭、宿将となる。)天正6年(1576年) 上杉謙信が死去に伴い起こった御館の乱では犬伏城は景勝の影響下にあり、景勝は、犬伏城主毛利秀広・吉益伯耆守・荻田三左衛門・長尾筑前守らを妻有(十日町)に派遣し、小森沢政秀・金子次郎右衛門らを救援させています。
慶長3年(1598年)上杉景勝が会津に移封されると、代わって堀秀治が春日山上に入り犬伏城も堀氏の支配下に入ります。慶長15年(1610年)堀忠俊が改易され、その頃に廃城となったものと思われます。

上杉謙信関東遠征の際、春日山城を出立し、1日目の宿が直峰城。そして、2日目の宿泊地が、今回の犬伏城でした。
犬伏城の麓には、上杉軍道とも呼ばれる松之山街道が通っています。

古道「松之山街道は、薬師峠より菅刈集落入り口までで、犬伏集落は中間地点にあたります。
中世に松山保の地頭が居館を建てた頃は、この土地に住み
周囲を流れる渋海川が天然の水濠となり、戦の際は山城と共に天然の要害の地でした。
江戸時代の初期からは、高田「札の辻」と三国街道の塩沢を結ぶ街道として整備され松之山街道と呼ばれました。

松之山街道脇にある石碑           耕作地を過ぎると今も残る古の道


登城口          大手口にある城址碑    切通しの道


犬伏集落の南西隅にある登り口。ここから集落を右手に山を進むと、山麓に入り込んだ上杉軍道と交わる部分に大手口に城址碑が見られます。そこから続く最初の城道は、堀底とも思える切り通の道でした。

横堀           最初の郭付近       沢


切り通の道は、最初の郭で突き当たりとなり、そのまま郭に沿うように左へ。最初の郭は自然地形に近く、削平が少し甘いものの、大手道が監視出来る位置にあります。さらに進むと、生命線となる水源であり、天然の竪堀の役目をしてくれそうな沢が。現在も水が流れています。この沢により、城域は北側の峰と南側の峰に二分されています。

急坂の城道    郭Ⅵから見上げる段郭     郭Ⅴ方向


沢を渡ると、ロープの付いた急坂道に差し掛かり、いよいよ北側の本城中枢部に入った事を感じます。郭Ⅵ、郭Ⅴ周辺は、段郭が幾つも見られます。


規模の大きな郭に突き当たりました。
僅かながら、石が埋まったような様子が見られます。


二重堀のように見える遺構。
堀底道のようですが、何処を進めばいいのわからなくなりました。



二者択一で上ってみると郭があり、階段が付いた道を見つけたので道は間違いないようです。堀の少ない城ですが、小さいな規模の堀は確認出来ます。

郭Ⅱ〜Ⅲ付近は、城内最大の郭群が続き、城の中枢部であると思われます。
郭Ⅱから実城に至るまで、痩尾根を分断する空堀が連続します。実城直下の空堀が最も大きく見応えがあります。


城道           兜清水          実城下の帯郭


主郭の切岸下にある兜清水。沢があることからも、水の豊富な山であることが伺えますが、篭城の際には生命線ともなる大事な水源です。

大手道          虎口           実城


切岸により枡形の構造をしている虎口を抜けると、犬伏城実城へ到着です。実城はさほど広くはなく(15×30m程度)東から南にかけて帯郭が通路状に巻かれています。

実城の祠         松苧神社を望む      松代城方面


実城からは、先に訪れた松苧神社が目の前に見えます。この周辺の地名にもなっている「松」の字は、北五葉松に囲まれた神域にある「松苧神社」が信仰の中心であることから起きた地名です。謙信はしばしば松苧神社に参拝し、戦勝祈願をしていたようです。松苧神社には謙信寄進の軍配と小刀が残されています。

搦手虎口        虎口振り返る  細長い郭   痩せ尾根


実城西側から伸びる搦手道は、いきなり10m近く急坂で落ち込む坂虎口になっていました。そこから先は、大人1人が通れるだけの細い痩せ尾根道で、それが切れると
再びガックリと10m近く坂を下らなければいけない構造になっています。現在は整備され、階段が儲けてありますが、当時ははしごをかけて登ったのか。。。(?)下にある集落へ急ぐには、滑り下りればいいので楽でしょうが、登って攻撃は体力的にも不可能でしょう。

最後の急降下の道 ようやく平坦な場所に        


道が平坦になった場所には案内標識があり、城址、菅刈集落、松之山街道との分岐点を示すものでした。街道は、今通って来た痩せ尾根道に比べ、人と馬が並んで通れるほどの幅があります。謙信公も、この道を通って犬伏宿に入ったのかと思うと、同じ道を歩くことが嬉しく感じました。

上杉軍道(松之山街道)を
気持ちよく歩いている時に見つけた石仏群。
こちらの記事でも触れていますが、この付近は雪崩の多い場所で、文化14年(1817年)12月17日(新暦では1月)他村から犬伏村へ嫁ぐ花嫁一行が到着寸前に雪崩に遭遇。その6人のための供養塔でした。
ここを過ぎた後、山の斜面に不思議な穴を見つけました。十日町市観光協会の城址案内を見ると「武将が隠れていて攻撃を仕掛けたという「穴跡」が確認出来る」とあります。見通しの良い街道ですので、攻撃に備えた穴の名残だったのかも知れません。

最初に見た城址碑      郭  


松之山街道は、最初に見た
城址碑のある場所で交わりました。
改めて周辺の様子を見ると、上から監視できるような小規模な段郭や、石積みもみられ、この付近が集落からの最初の関門(木戸口)だったのだろうと思われます。

犬伏宿の様子       渋海川
関東遠征2日目の行程は、直峰城から犬伏城までの約22kmの道のり。
犬伏宿が見えてくるこの場所からの眺めで、一息つけたことでしょう。
天然の外堀の役目をしていた渋海川。落ち込む20mほどの断崖絶壁も険しい雰囲気です。

高札場
犬伏集落の丁度真ん中辺りで見つけた高札。
書かれているのは、天和2年と慶応4年の「お定め書き」。復元されたものでしょうが宿場町らしい雰囲気を感じることができます。

訪城日 : 2012年10月14日(日)



開くトラックバック(1)

全1ページ

[1]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事