|
マヤ遺跡では石碑を見かけることがあります。地方と時代によってこの石碑の量にはかなりの違いがありますが、例えばTIKALやCOPANのものは有名です。ユカタン半島では手頃に観光客がいける場所で、EK BALAMやCOBA、UXMAL(入り口博物館)などで見られます。有名でアクセスのいいチチェン・イッツアではほとんど見ることはできません。おそらくそれは、地域的にもマヤ文化圏では、北端に位置するチチェン・イッツア、また繁栄した時期には石碑を建立する習慣がほとんどなくなっていたためのようです。
古典期(西暦200−90〇年)といわれる時期、いくつかの大都市では、カトゥンといわれる20年ごとに石碑を建立し、また他の都市と戦争して勝つ、とまた石碑を建立し、そしてまた王位継承についてを石碑としたりしていたようです。
現在これらの文字の解読が進み、例えば、「426年 COPANから独立してキリグアという都市が創設された」、ところが、「738年 キリグアの王は、COPANに反乱を起こし、COPAN王を捕虜にして生贄として捧げた」そして、ついには「同年 738年 キリグアはCOPANと倒した」。つまり国家同士の裏切り行為がここに見られます。
また「643年 DOS PILASは、カラクムル(メキシコ、カンペチェ州の巨大遺跡、世界遺産)に攻撃された」「677年DOS PILASはカラクムルの同盟国となった」。ここでは一度はカラクムルに倒されたものの、ある利害関係で後にはカラクムルの同盟国についたDOS PILASの動き読めます。
「657年 カラクムルは、TIKALを攻撃し、TIKAL王を退かせた」、「695年 TIKALはカラクムルを打ち倒した」。またカラクムルに一度は負けたTIKALは38年後に復讐を果した、ことがわかります。
(雑誌 ARQUEOLOIA MEXICANAより)
日本の戦国時代のようでじゃないですか?!
あのジャングルの中、星の動きで予言をしたり、このような激しい戦争などを繰り返してきた古代マヤ人、現在ののんびりしたおとなしいマヤ人の末裔とは一見似ても似つかない気もします。
マヤ文明はロマンだ〜。
|