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NATIONAL GEOGRAPHICのDAILY NEWSによると、昨年から行われたNASAの協力によるレーザー光線調査を含め、密林のなかのカラコル遺跡の巨大な都市がクリアにされつつあるということだ。数千の建造物、11の道の跡の発見、177平方kmにわたる巨大都市のベールがはがされようとしている。
http://s.ngeo.com/wpf/media-live/photos/000/207/cache/ancient-maya-city-belize-lidar-overall_20702_600x450.jpghttp://s.ngeo.com/wpf/media-live/photos/000/206/cache/ancient-maya-city-belize-lidar-temple_20698_600x450.jpg
西暦550ー900年が最盛期で、ピーク時の人工は11万5千人に上ったと考えられる。895年に戦争で焼き払われ、完全に都市が放棄されたのが1050年だと考えられる。
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マヤ文明
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メキシコ考古学雑誌、2010年5―6月号のテーマはマヤの予言、2012年についてだった。権威ある考古学者や人類学者がマヤ人の予言、彼らの時へのこだわり、暦のサイクルについて記事を書いている。
いくつかの記事の一部が以下のようなものだ。(訳はortizなので勝手に引用して恥をかいても知りません!)
NIKOLAI GRUBE 「まず最初に重要なことを確認しよう、マヤの古文書に、2012年のこの世の終末についての予言は全くない、ということだ。3つのマヤの古文書のなかに碑銘学者たちはある特定された日の終末予言の痕跡を全く見つけていない。秘教的な意見をもつ人々が、マヤの古文書に終末予言の証拠を発見しようとすれば、皆がっかりしてしまうだろう。」
「ここで明らかなのは過去の出来事が予言に使われていたことだ。古代マヤ人にとって予言とは過去の歴史のテオリーだったのだ。マヤの知識階級層や神官たちは、未来について知るために、過去を調べなければならなかった。カトゥン(20年周期)の予言だけが、過去の歴史の分析として神官に行われたのではなく、暦のその他の期間、例えば、トゥンという360日周期、金星の584日周期のような天文的なサイクルの期間も、未来を予言するための自然のシステムの要因と考えていた。予言とは、歴史が未来についての安全を確保するための手段になるためのものだったのだ。」
MERCEDS DE LA GARZA 「古代マヤ人たちは時を宇宙自体の活力のように捉えていた。それは、彼らの宇宙観の軸であり、人間が存在する場所においても軸であった聖なるものの動き、すなわち太陽(KIN、日、時を表す)だった。」
「植民地時代のマヤ人はこれらの出来事の日付を正確に記録しなかったが、LINDA SCHELEやDAVID FREIDEL、そして「POPOL VUH」の解読で、キンタナ・ロー州のコバー遺跡の3つのテキストに世界の始まり、あるいは現世は創生された日付が13.0.0.0.0、4ahau、8cumkuの日、すなわち紀元前3114年8月13日で」あることが解読された。そしてこの日付はグアテマラのキリグア遺跡の石碑C、チアパス州のパレンケの十字の神殿、その他の場所にも見つかっている。これらのテキストから、マヤ人の宇宙進化論の記録は古典期(西暦200―900年)からあったことがわかる。」
GUILLERMO BERNAL ROMERO 「パレンケの碑銘の神殿の13節は、未来のヴィジョンへと移っていく。しかし、今度は最近の歴史的出来事と遠い昔の神話的な出来事がミックスされている。短い正確な暦の書き込みのあと、現在の暦の西暦4772年10月14日!!(マヤ歴1.0.0.0.0.0、10ajaw、13yaxkin)に起こる最初のPIKTUNの終わりについて書かれている。」
「現在秘境的な作家たちが、マヤの暦では2012年12月23日に終わるといっているが、13バクトゥンが終わるという意味からマヤ人が世界終末を予言したと推論しているに過ぎない。それは、マヤの記録から数学的に全くの偽りなのだ。13バクトゥンが終われば14、そして15が、そして20バクトゥンまで続くのだ。そしてそれがPIKTUNであり、またさらに20バクトゥンの次のサイクルがおとづれるのだ。」
ANTHONY F. AVENI 「世界創生の最後のサイクルについてのマヤの記録は何を意味するのか?長期計算法の暦の始まりは紀元前3114年8月11日とされる。13バクトゥンが経つとまた次のサイクルの始まりが来る。これが2012年12月21日である。それでは次に8月11日という日を考えるとこれは、マヤ文化圏の位置では一年に太陽が2回一番高いところにくるが、そのひとつの日に当たる。(マヤ文化圏は北回帰線より南で赤道より北なので、日本のように夏至が一番太陽が高くなるのではなく、太陽が北回帰線に行くとき、また帰るときに一番太陽が高い地点に来るということだとortizは思う)マヤ人にとって太陽が一番高い位置に来ることは重要だった。また12月21日のほうは、冬至の日にあたり(冬至という言葉はスペイン語では「太陽が止まる」という意味)、太陽が一番南に来る日である。つまり理論的に考察すると、長期計算法の暦は故意的に一年の太陽のサイクルを意識してはじき出された日だと思われる。」
ERIK VELASQUEZ GARCIA 「先スペイン期、植民地時代のマヤ人たちにとって、未来は過去に記録されたものであった。それゆえ、不確実な未来に向かい合うため、彼らは過去の出来事に注意を向けたのだ。実際過去に起こったことは知られておりわかっているので「前」のこと、ところがこれから訪れる未来は見ることができない、それはつまり「後ろ」のことだった。運命に立ち向かう方法は、時と空間のサイクルというコンセプトに基づいていた。」
以上、いくつかの学者の意見を抜粋してみた。驚くのは2012年どころか、4772年のことを書いているマヤ人のなんというか、計算好きさだ。また時と空間はサイクルであり、過去は未来に繰り返されるというった考え方もなんとなく、う〜むと考えさせられるフィロソフィー・・・。
マヤ人の時をサイクルとして捉えた考え方は、 雑誌の中の図解を見るとわかりやすいかも。赤の矢印は暦の始まり、緑の矢印が2012年12月21日、青の矢印まで暦は続き、20バクトゥンは終わるが、その後ピクトゥンという周期がやってくる・・・・。
さあこれで皆さん、2012年を迎える元気が湧いてきたであろうか?!天文学的に2012年に何が起こるかはわからないが、少なくとも古代マヤ人はこの世の終わりを予言しているのではないようだ。 |
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メリダの考古学博物館などで見られる古代マヤ人の頭蓋骨です。
故意の変形された頭蓋骨、でもよーく見てみてください。前歯にヒスイが埋めこまれています。
奥歯に詰め込むのとは違ってかなりの技術が必要と思われる仕上がりです。もちろんエリートだけに限られたおしゃれだったのでしょう。
素人目に歯も結構きれいなように見えます。エク・バラムの遺跡で発掘された王は歯がかなり悪くその感染症が原因で死亡した可能性もあるとか。
古代マヤ人にも歯が良い人悪い人、歯磨きを十分にする人しない人(チクレが歯磨きだったという説もあり)いたのでしょう。
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メキシコ料理といえば辛いイメージが付きまといがちですか、確かに唐辛子類を料理に入れることは非常に多く、各唐辛子によっていろいろな料理に独特の味を加えているのは間違いありません。 唐辛子の生産では中国、スペイン、トルコ、ナイジェリア、インドに次いでメキシコは6位だそうです。 ARQUEOLOGIA mexicanaという考古学雑誌の今回の特別エディションは「チリ特集」! 左からチラカ、マンサーノ(下)、ウエロ、セラノ、ピミエント・モロン(下)、ミラソル、ハラぺーニョ、チレ・デ・アルボル、チポトレ、アバネロ(下)、ピキン(下)、ポブラーノ。 同じ唐辛子でも乾燥させたものは名前もかわったり用途も味も変わります。 辛さの順序ではなんといってユカタン原産のアバネロ!辛さを示す表示では150000−325000スコヴィル、有名なハラペーニョが2500−10000スコヴィルという数字に比べると、アバネロのほうが15倍以上も辛いということになります! 先スペイン期よりチリは薬として調味料として、ときには子供のおしおきにこのチリを利用していました。下の絵は古文書CODICE MENDOZAに描かれたものでスペイン人がアステカ人の習慣を記録したものです。11、12歳の子供のおしおきにチリの煙のなかで呼吸させるというものです。
16世紀にメキシコを征服したスペイン人エルナン・コルテス一行に地元料理が供されたとき、「辛い」という評価は残っておらず「少し辛いがおいしい」という評価が残されています。 このチリ類、カボチャ、カカオなどでスペイン人の食卓が豊かになったことはまちがいありません。また逆にスペイン人侵略により、このメキシコに豚、牛などの肉類や小麦などが加わり、料理法も先住民文化とスペイン文化の融合で、超バラエティに富んだ現在のメキシコ料理が作られていったと言えるでしょう。 今回の記事の多くと二つの写真は、ARQUEOLOGIA mexicanaからのものです。 |
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マヤ遺跡では石碑を見かけることがあります。地方と時代によってこの石碑の量にはかなりの違いがありますが、例えばTIKALやCOPANのものは有名です。ユカタン半島では手頃に観光客がいける場所で、EK BALAMやCOBA、UXMAL(入り口博物館)などで見られます。有名でアクセスのいいチチェン・イッツアではほとんど見ることはできません。おそらくそれは、地域的にもマヤ文化圏では、北端に位置するチチェン・イッツア、また繁栄した時期には石碑を建立する習慣がほとんどなくなっていたためのようです。 |



