大和の城と砦

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宇陀・松山&秋山城

平成24年10月8日()気分のいい晴天でした。少し歩くと汗ばむ感じの一日でした。体の調子も徐々に良くなり人並みに歩ける程度まで回復してきました。まだまだ、無理はできませんが、以前から行ってみたかった宇陀松山・秋山城へ出かけました。本丸付近が整備されてなく、何か城に関係なさそうな碑が立っていて、もう少しお城の説明があればと思いましたが、山頂からの眺めは最高です。
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春日大社の入口のあるお城があった当時の門の石垣です。
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残されている石垣、ここまでくりた直ぐそこが頂上です。
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頂上は結構広い平坦があります。これからも大きな櫓があったことが想像できます。

小山 三箇城

平成24年5月日曜日五條市内の今井町で見つけたお城
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龍王山城

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平成22年12月12日快晴以前から行きたかった龍王山城へ麓の景行天皇陵近くに車を止めて歩いて2時間、途中何度もやめようと思いましたが、やっとの思いで頂上の北の城跡へたどり着きました。最高、頂上で食べる弁当も美味しかった。イメージ 2
イメージ 3大和盆地がとてもきれいに見えて疲れがとれました。ここに登る手前の道がとても急な坂道ですイメージ 4途中で見つけた不動明王イメージ 5かわいいお地蔵さん

椿井城

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本日、意を決して島左近の椿井城に行くことにしました。この城は、信貴山城・西宮城・片岡城・龍田城と巡れば当然行かなくてはならない城と以前から決めていました。ですが、事前の調査では城の堀は残っているが、頂上に向かう道が無いとの情報で行くことに相当思案したのですが、天候(絶好の好天)を見て行くことに決めました。

1枚目の写真は、椿井城を西から東に撮影(信貴山城・西宮城方面)

2枚目の写真は、椿井春日神社の境内から入る山道を撮影、私もここから上ることにしました。この道は本来、城の大手通という情報に基づきこの道から入りました。

3〜4枚目の写真は上り始めの道です、このころはまだまだ元気もあり道も何とかあったので上れましたが、頂上の手前にくると全く道が無くなり、よっんばいになって、はうようにして上らなければならない状態でした。(注意・頂上付近で右に旋回すれば大きな堀にでる。この道を上れば幾分ましです。)

5枚目の写真は、とうとう大通りを上りつめ頂上から、西宮城(西方向)を撮影しました。あ〜〜しんど
実感です。

頂上は事前調査では、削平地になっているということでしたが、そういわれればすうかという感覚でした。

6枚目の写真は、写真ではうまく伝わらないのが至極残念・・この場所まで行くのに、笹・野バラ等々道無き道という感覚で、頂上から北へ向かったところ、この写真6で残念しました。

それは、写真では分かりづらいでしょうが、写真は堀を上から下に向かって撮影しているのです。ですから、これ以上北に行くためにはこの堀を降りて又上る必要があったので、この場所から北に進のを残念しました。


写真7〜8は、頂上から南に進と大きな堀に突き当たります。それがこの写真です。写真でも分かるように、堀は大きな堀で高さ10メートルはあるのではないでしょうか、堀を越えて更に南に進と又小さな堀がありました。

今回の調査はここまで、残念・・・・北の丸付近にある井戸まで行きたかったのですが、残念でした。次回機会があれば別ルートで調査したいです。

多門城

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 1枚目の写真は、多聞城のあった丘陵を南から北に撮影しました。多聞城のあった場所は現在若草中学となっています。1枚目の写真の手前に橋が見えますが、ここは佐保川です。この川も城の防備の為に利用されたのでしょうね。

 4枚目の写真は、若草中学を建設するにあたり、この丘を開発したら写真の石仏等が出土したとも事です。多分久秀が多聞城を築城するのに大和国内から石仏を集め石垣に利用したのでしょう。

 4枚目の写真は若草中学の校門付近です。校門を入り直ぐの右側です。

多聞城について
 多聞城は下克上の代表的人物といえる松永久秀が永禄3年(1560)に大和国北方の佐保丘陵に築城したもので、京をうかがう姿勢さえみせた。
 
 松永久秀は足利幕府の管領細川氏の被官である三好氏の家臣で、三好氏が細川氏を凌いで機内を支配するようになると、久秀も大和一円に勢力を張るようになる。
 
 永禄7年(1564)三好長慶が亡くなると、永禄8年(1565)には室町幕府十三代将軍足利義輝を殺害するなど久秀は専横を極めた。
 
 永禄10年(1567)松永久秀の大和侵出によって大和北方から追われた筒井順慶は三好三人衆と結束して多聞城に攻め寄せたが、久秀は東大寺大仏殿を焼討ちにするなど、奇襲に奇襲を重ねてこれを撃退。
 
 永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、機内の形勢は一変。松永久秀は信長に属し、大和一国の所領を安堵された。
 
 しかし、元亀2年(1571)久秀は辰市の合戦で筒井順慶に大敗し、順慶が信長に帰順するとともに久秀の勢力は次第に衰退。天正元年(1573)織田信長に多聞城を明け渡し、久秀は信貴山城に退いた。
 
 以後、多聞城は信長配下の明智光秀、佐久間信盛らが城番として兵を置いたが、天正4年(1576)には信長が安土城を築き、大和一国は筒井順慶に与えられた。
 
 翌天正5年(1577)信長の石山本願寺攻めの最中、松永久秀は突如反旗を翻したため、信長軍に攻められて信貴山城は落城し、久秀も自爆。多聞城は信長の命を受けた筒井順慶によって完全に破却された。

 一口話  多聞城は壮大な城郭で、永禄8年に多聞城を訪れた宣教師のアルメイダは「世界にかくのごとき美麗なるものありと思われず」と感嘆。信長が安土城築城の参考にしたとも伝えられている。
 近世のどの城郭にもみられる「多聞櫓」の名称は松永久秀が築いた多聞城に由来している。
見どころ  佐保丘陵を切り崩して築かれた多聞城は四層の天守を中心に、白壁の櫓を城の周囲にめぐらした壮大・華麗で新奇な城郭であった。
 

 現在、多聞城跡は市立若草中学校の敷地となっており、正門を入ったところに多聞城跡の石碑が建っている。
 若草中学校の西に隣接して聖武天皇陵・仁正(光明)皇后陵があるが、一説によると、この御陵も多聞城に取り込まれていたという。いかにも下克上の時代らしい。
 

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