牡丹亭と庵の備忘録

映像業界人の某が日々のあれこれを興に乗せて語る茶席風

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65年前の今日…

私の父親は広島で原爆に遭った。
当時、陸軍の主計少尉として当地に赴任していて、爆心地2キロで被爆したのだ。
軍人としては当然、地獄図の広島の町中を被災市民の救援にあたった。
中でも「水が欲しい」と乞う若い母親に水筒を与えたところ、
「熱かったじゃろう」と、死んだ幼子に水を含ませ、
直後に息絶えたという話を、子供のころに聞いた鮮烈な記憶がある。
 
九州の実家の両親(私の祖父母)は、
広島壊滅の報に、息子は十中八九死んだものと諦めていたらしい。
だから敗戦から数週間後、その長男がひょっこりと家の玄関に立ったときには、
一瞬亡霊かと驚いたという。
 
こうして生き残った父親は、原爆症の恐怖を抱えながらも、
当時の花形産業だった炭鉱に就職し、そこで私の母親と結婚した。
長崎県の崎戸炭鉱、その炭住の一角で間もなく私は生まれた。
そう、あの井上光晴氏が描いた、戦後の縮図のような炭鉱の島である。
 
ほどなく、佐賀県の小城炭鉱に移った父親は、そこで若くして会計課長を務めた。
折しも、石炭業界は不況の真っ只中、奈落の底へと落下していたころである。
私が住んでいた家にも、「給料を払え」と談判する強面の男たちが、
ピストルとドスを懐に呑んで、たびたび訪れていたことを今も思い出す。
 
間もなく、父親は先行きのない石炭業界に見切りをつけ、
先ごろ仕分けの対象になった、労働福祉事業団に新しい職を見つけた。
その有為転変の中で、私は小学校を五回転校することになるのだが、
当時はそれが少年にとっての日常であり、いささか変則的な生活だった
いうことを実感するのは、もっとずっと後になってからである。
 
その父親が癌を患い、あっと言う間に世を去ったのは、
時代が平成に移ろうという端境期のことだった。
 
彼が被爆者であることを告げる私に、
担当医は「それは関係ないと思いますよ」と軽く一蹴したが、
あまりの症状の激変ぶりは、今でもそれが原爆の後遺症であったことを
疑わせるに十分なものだった。
 
私の血のなかにも、六十五年前の今日、広島の空の上から降り注いだ、
閃光と放射線の残滓が確実に流れている。
当時はまだ、俗に言う煙にもなっていなかった私だが(笑)、
そんな身体のなかにも、戦中から戦後へと激動の昭和史を背負った血が
流れているのだと、毎年この時期になると思いを新たにしてしまう。
 
昔、『戦争を知らない子供たち』という歌が流行って、
団塊の世代が生んだ和製フォークの名曲だともてはやされたとき、
ノーテンキな歌唄ってんじゃねえよと、一人腹立たしかった原因は、
そんなところにあったのかもしれない……。

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