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シューベルト「冬の旅 op.89,D.911」(1827)

「冬の旅」の詩を書いたヴィルヘルム・ミュラーとはどのような人物か。
はたして疎外感を感じていたのだろうか。

ミュラーの生涯を見てみる。
三宅幸夫著「菩提樹はさざめく」(春秋社 2004)と南弘明・道子著「冬の旅 対訳と分析」国書刊行会 2005)を参考にした。

1794年10月7日

デッサウで仕立屋の親方レオポルト・ミュラーと妻マリーエ・レオポルディーネの7人の子供の第6子として生まれる。
3歳になる前にすべて他の子供は他界し、子供はヴィルムヘルムのみとなる。
その後職人階級にふさわしい国民学校ではなく、大学進学への道が開かれた本過程学校に入る。

1808年(14歳)

母親が亡くなる。
父親が再婚し経済状況が好転。

1812年(18歳)

ベルリン大学に入学。
この年ナポレオン軍大敗、プロイセンではフランス占領軍に対する解放戦争が始まる。

1813年(19歳)

2月、対ナポレオン軍に参加、秋からはブリュッセルの司令部に配属。

1814年(20歳)

ブリュッセル滞在中にテレーゼという女性と恋に落ちる。
恋愛沙汰が発覚し、軍の規律と名誉を汚したと後ろ指を差された可能性がある。
11月18日ブリュッセルを離れる。「冬の旅」の原型がこの帰郷への旅とする説もある。
初めての連作詩集『美しき水車小屋の娘』が書かれる。

1815年(21歳)

10月ベルリンに戻り、若い画家ヴィルヘルム・ヘンゼルと交流、その妹ルイーゼに関心。
ベルリン大学の専攻は古典言語学と歴史学、そして英文学と独文学を学ぶ。
グリム編『子供と家庭の童話集』、『子供の不思議な角笛』が当時の独文学研究の主流で、それを自身の詩作の規範とした。
「真にドイツ的な」「古いドイツ」を追い求め、中世のミンネザングの現代語訳集を出すに至る。
詩集『同志の華』出版、対ナポレオン戦争従軍中の愛国的な詩が多い。

1817年(23歳)

プロイセンのアルベルト・フォン・ザック男爵のギリシア・オリエント旅行に同伴することになる。
8月20日ギリシアの亡命知識人が多く住むウィーンに発ち、二か月余滞在、ギリシア解放運動の意味を学ぶ。
コンスタンチノープルでペストが発生したため、11月6日イタリア経由でギリシアに行くことになり、ウィーンを発つ。
イタリアの生活文化に熱中し数ヶ月間イタリアに滞在、ザック男爵と不和になる。
イタリアにボヘミアンとして集まっていた、ドイツの反動主義的な傾向に失望した画家・詩人・建築家と交流。

1818年(24歳)

8月ローマを発ち、デッサウに帰郷。
「祖国は霜と雪と霧で、私を迎えてくれた。それだけなら、まだ耐えられるのだが、あの俗物根性ときたら…」と幻滅。

1819年(25歳)

旅行から学術的な成果もあげられず、大学から学位を得たわけでもなかったためベルリンで職を得られなかった。
故郷デッサウでラテン語、ギリシア語、歴史、地理の助教員となる。
アンハルト公爵の図書館でも働く。
国民主義・自由主義を弾圧するカールスバード決議がなされる。

1820年(26歳)

アンハルト公爵の図書館の正式な司書になり、執筆活動の時間を持てるようになる。
雑誌「アスカニア」創刊、さまざまな執筆活動を行うようになる。
父が他界。
『ローマ、ローマ男たち、ローマ女たち』を出し、幅広い読者層を獲得。
〔この春の詩は冬に読むべし〕と断り書きのついた『美しき水車小屋の娘』が含まれる最初の詩集『旅するヴァルトホルン吹きの遺稿から七十七の詩/第一冊』出版。(カール・マリア・フォン・ヴェーバーに献呈)

1821年(27歳)

『ギリシア人の歌』第一巻を出版、有名人になる。
ギリシア独立運動とトルコに対する解放戦争を支持、同時にドイツの現状に批判。
『ギリシア人の歌』六巻(1821〜24)により、「ギリシアのミュラー」と呼ばれることになる。
5月、教育者の家系のバーゼド家のアーデルハイトと結婚、社会階層を一段登る。
暮れ「冬の旅」前編12篇を作る。

1822年(28歳)

この年の初め、雑誌『ウラニア』に『冬の旅』前編12篇を送る。
娘アウグステ生まれる。
十巻からなる『一七世紀ドイツの詩人双書』の編纂が始まり、バイロンの著作の研究も始まる。

1823年(29歳)

息子フリードリヒ・マックス生まれる。
さまざまな文学者との接触を計る小旅行。
雑誌『ウラニア』で『冬の旅』前編12篇発表。
さらに文芸雑誌『詩、文学、美術、演劇のためのドイツ新聞』に『冬の旅』後編の10篇の詩を発表。

1824年(30歳)

宮廷顧問官に任命される。
『郵便馬車』と『まぼろし』の二篇を加え、全二十四篇の『冬の旅』を含む『旅するヴァルトホルン吹きの遺稿からの詩/生と愛の歌』第二冊出版。
『ホメロス入門』上梓。

1825年(31歳)

翻訳『現代ギリシア語による民謡』編纂。
ベルリン、リューゲン島、ドレースデンを訪れ、メンデスルゾーン、ティークと交流。

826年(32歳)

この年から病気がちになり、重い百日咳で療養。
療養からの帰り、バイロイト、ニュルンベルク、バンベルク、ヴァイマルを訪れ、ゲーテと対話する。
デッサウの劇場で演劇の演出。

1827年(32歳)

詩集『抒情的な旅行と寸鉄詩ふうの散歩』、小説『十三番目の男』を出す。
7〜8月にライン旅行、ボンでシュレーゲル、ヴァインスベルクでケルナー、ウーラント、そして後にミュラー作品集の編者となるグスタフ・シュヴァープと会う。
デッサウに戻り、著作を続行するが、10月1日脳卒中で他界、33歳の誕生日前だった。

生涯を見渡してみると、「冬の旅」の作者は、かなり裕福だったことがわかる。
そして「冬の旅」は、ミュラーの結婚後、娘と息子を授かったころ、傍からは幸福の絶頂期と見える時期に書かれている。
ミュラーは表面上、しっかり社会の一員になっていてアウトサイダー的要素は感じられない。
仕立て屋の階級だった者が、上流階級の中で窮屈さや退屈さを感じたのだろうか。
「冬の旅」の第12曲目「孤独」のところで、三宅幸夫氏はこう言う。

とりわけ最終行「こんなに惨めではなかったのにWar ich so elend nicht」は『冬の旅』の中でも最も衝撃的な箇所のひとつといえよう。「嵐が吹きすさんでいたときに」には「とても惨めだったWar ich so elend」と読んでいくと、最後に置かれた否定詞nichtが、これを根こそぎひっくり返し、「嵐が吹きすさんでいたときでも/こんなに惨めではなかったのに」と真意を明らかにするからである(正しい語順はWar ich nicht so elend)。ちなみにドイツの研究者の中でも、なぜミュラーが人生の最も幸福な時期に『冬の旅』のような暗い詩を書きえたのかという素朴な疑問を呈する人が少なくないが、それは『冬の旅』の読解が浅いからだろう。その疑問に対する答えは、まさに「孤独」の最終局面における「どんでん返し」に込められているのである。(p144)

イメージ 2傍から見ると幸福の絶頂期であるからこそ、疎外感が高まったのだと言っているのだろう。
しかし私にはまだわからない。
ミュラーの疎外感とはいったいどのようなところに根を持っていたのだろうか。
詩を書くということ、それ自体感受性の強い性格であったことはわかるのだが。
そして生涯その疎外感は解決されなかったのであろうか。
結婚や家族を持ち、地位を持ったとしても。
さすらいを宿命に持つものはさすらいの中で死ぬのか。

←デッサウのミュラーの胸像

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「天国(極楽)も地獄も私たちのこころの中にある」この言葉は、いろんな宿命や環境がある中で、それをどう受け取るかは私たちのこころ一つだという仏教での考え方です。自分の受け止め方が変わってくると、不思議に環境や運命も変わってくるものですね!!

2007/5/9(水) 午後 5:00 [ maskball2002 ] 返信する

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富める者は富みの中で幸せと感じ、貧しいものは貧しさの中で幸せと感じる。アウトサイダーとなった者はインサイダーの価値基準を引きずるなということですね。第21曲「宿」は、死を憧れていた主人公が、さすらいという宿命を受け入れて生きるという価値転換が行われますが、まさにその受け止め方が変わったことを音楽で聴けるところです。宿命を受け入れて乞食の辻音楽師とまるでボリスや「愛しのサヴィシナ」に出てくるようなユロジヴィとして旅するのは私としてはあまりにも寂しく感じます。

2007/5/9(水) 午後 8:55 [ otheR wind ] 返信する

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