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「やがてぬかるんだ大地は私の体を飲み込み始めました。それは恐ろしくゆっ くりと私を飲み込み、やがて私は闇の中へ引きずり込まれていきました。その 闇の中で足下に埋めた青白い手だけが唯一淡い光りを放っていました。」 「全ては夢の中の出来事だ、私もそう信じたいのです。目覚めると私は自分の 家の自分の布団の中にいました。それならば全て夢で片付けられるのですが、 枕元には虫かごが置いてありその中には数え切れないほどのカブトムシやクワ ガタがぼくを見詰めているのです。何よりもおかしなことは、私は家を抜け出 す際に緊張と興奮で虫かごを持って出るのを忘れていたのです。訳の分からな いその夜の出来事を私は忘れ去ることに決めました。虫かごの中の昆虫を庭に 放り投げ、私はその時からその夜の出来事を思い出すことはありませんでした し、思い出そうとしてもそれは闇の中の出来事を覗き込むように不可能なこと になってしまったのです。ですから私は今日、あの夜の出来事をぼんやりとし たイメージでしか話して聞かせることが出来ません。私自身にもあの夜の出来 事は謎のままなのです。」 −終−
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ミチル坂
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「私は地面に落ちた掌を拾い上げ、足下の柔らかく湿った土に穴を掘り、その 中に埋めました。やがて空を無数の戦闘機が埋め尽くし無数の黒い点を地上へ と投げ放っていった。地上は順番に裏返り、それは悲鳴を巻き込み、あらゆる ものを飲み込み、ただ異臭だけを残していったのです。私の蹲る地面以外は捲 れ上がり黒く乾き、それは無機質な窪みへと変わったのです。」 「私は遙か彼方を見詰めていました。そこに何があるかを私は知らなかった が、地平線の向こう側を見詰めていたのです。やがて空を旋回する戦闘機はゼ ンマイ仕掛けの玩具であったようにねじが切れ、そして落下していったので す。そして無数の戦闘機は無数の黒い窪みに規則正しく吸い込まれ、その黒い 窪みは戦闘機を飲み込むと同時にぬかるんだ大地に戻り、その表面には金属 の、多分戦闘機の破片が顔を覗かせて、私はそれを見るともなく見詰め、やは り地平線の先に顔を向けていました。」
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「男の口がゆっくりと動きました。そして反射的に私は男の手に触れ、その手 を強く握り締めました。空を横切る戦闘機が轟音と共に旋回し、やがて黒い点 を地上へと放ったのです。私がそれを目で確認すると同時に大地がくるりと捲 り上がりました。光りの後にさっきの銃声の何倍もの大きな音が私を包み、そ してだいぶ遅れて恐怖が私を包み込んだのです。目の前のぬかるんだ大地は消 え、乾いた黒い土がえぐり取られたように広がり、風が異臭を空に舞え上げて いました。」 「私の手を男の不気味な手が握り締めていました。それはほんの少し前よりも 遙かに不気味な手でした。男は姿を消し、そこに残っていたのは青白い掌だけ だったのです。私は必死にその手を振り払おうとしました。しかしその手はし っかりと私の手を握り締めていました。戦闘機は先程よりも遙か彼方の上空を ゆっくりと旋回していました。それは何だか燕のようにも見えました。私は力 を込めてその手を引きはがしました。その手が私の手を離れる瞬間、私の掌に 激痛が走りました。掌にぽっかりと空いた傷口からは赤とも黒とも言える色を した液体が溢れ、目の前の乾いた土に斑模様を描いていました。」
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「男の持った銃の先の刃は赤く染まっていました。それは少年の胸を染め上げ た色と同じ色をしていました。男はゆっくりとした足取りで私が蹲っている場 所に向かってきました。男は私の前に立ち呪文のような言葉を私に向けまし た。何故か私にはその聞いたこともない言葉の意味を知ることが出来ました。 「大丈夫だよ」男は確かに呪文のような不可解な言葉で私にそう伝えたので す。男の瞳は不気味に光り、私は渇いた喉にねっとりとした唾液を流し込みま した。何か答えなければならぬと私は考えましたが、言葉は喉の手前でまるで 闇に吸い込まれるように消えてしまうのでした。男はそんな私に笑顔を向け恐 ろしく長い指をした掌を差しだし、「もう大丈夫だよ」と優しく呪文を唱えま した。」 「私は目の前に差し出された掌を暫くの間眺めていました。それはしっかりと 見れば見るほど不気味な形をしていて、私はどうしてもその手に触れることが 出来ませんでした。」
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「男はゆっくりとした足取りでしたが、駆けながら逃げる女にいつの間にか追 い付き、女は地面に倒れ込むようにして男を見上げました。男は呪文のような 言葉を口にして女に銃口を突き付けました。女は「どうか助けて下さい」と言 葉にならぬ声で叫び、それを聞いた男は優しい笑顔を浮かべました。女の頬に は泥にまみれた涙が流れ、やがてそれはぬかるんだ地面へと落ちていきまし た。母親に手を握られたままの少年は相変わらず何処か遠くを見詰め続けてい ました。そして銃声が鳴り響きました。」 「世界を振るわすようなその銃声は女の胸を突き抜け、そして泥の中に紛れ込 んでいきました。男は再び呪文のような言葉を口にするとその銃口の先に付け られた鋭い刃を少年の胸に突き刺しました。それは母親の時と違って静かに少 年の胸を貫いていきました。やがて血に染まった少年はそれでも何処か遠くを 見詰めていました。」
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