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◇ 駿府城下の碁盤の目地区の江戸期の町割です。 当然のことながらビル等の施設は現状のもので、これは単に位置関係を理解しやすくするためで、
当時とは道幅も違うこともあり、本来の位置や広さとは違います。
※この図(文章を含む)は、市民がよく使う北東の方角を北とせず実際の方角に近い駿府城を北として作成してあります。 したがって図の右手が現JR静岡駅です。 ※御覧になるときは地図右下の(+)をクリックしていただければ、もう少し見やすくなります。 ▽ 江戸期の町名は、原則として通り沿い(通りの両側が同じ町)の1丁ごとに町名が付けられていました。
(1962年に施行された住居表示制度(家屋を◯番◯号で表示)よりも、はるかに分かりやすい)
▽ 家の向きは原則として横丁(図の緑)には向いていないで
いわゆる「通り(図の赤と黄色)」に向いていたため横丁には町名が付けられていません。
▽ 碁盤の目地区では、整然と1丁(約109m)ごとの街区になっていて、「◯丁目」は文字通り1丁ごとでした。横丁でも町に準じるような箇所では玄南横丁、中之店(なかんたな)のように名前がついていたところもあります。
( したがって、呉服町を端から端まで歩けば、測らなくても650m歩いたことになる。)
▽ 中心部には江戸期の町名がかなり残っているようでも、この地図からその実態は大きく変えられてしまっていることが分かると思います。(町名改正は1940年の静岡大火後で、施行は1945年9月20日)現在、呉服町通りと平行の街路は、半丁ごとになっていますがこれは静岡大火(1940年)のあと、街区の間に設けられたものです。
(「◯◯町◯丁目」で一つの町として機能していたので、丁目は町の下位区分ではなく町名の一部ととらえるべきです。)
エ:江川町、江尻町
上石町(かみごくちょう)一丁目、上石町二丁目(丁目を削除した上石町としては存続)
コ:呉服町三丁目、呉服町四丁目、呉服町五丁目、呉服町六丁目
(呉服町一丁目、呉服町二丁目は町名としては存続していますが、江戸期とは範囲(位置)が異なります。
シ:下魚町、下桶屋町、七間町一丁目、七間町二丁目、七間町三丁目(丁目を削除した七間町としては存続)、おおむね一丁目、二丁目、三丁目は現呉服町一丁目、四丁目、五丁目、六丁目は現呉服町二丁目)
下石町(しもごくちょう)一丁目、下石町二丁目、下石町三丁目、常慶町、新谷町(しんがいちょう)
テ:寺町一丁目、寺町二丁目、寺町三丁目、寺町四丁目、
(両替町一丁目、両替町二丁目は町名としては存続しているが、江戸期とは範囲(位置)が異なります。
※ 参 考:江戸時代の駿府 新考(若尾俊平著 静岡谷島屋発行 絶版)おおむね一丁目、二丁目、三丁目は現両替町一丁目、四丁目、五丁目、六丁目は現両替町二丁目) |
駿府碁盤の目地区
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