駿府は96か町 (すんぷは96かちょう)

江戸は808町、駿府は96か町。駿府は江戸期の1丁(≒109m)四方の町割が今もそのまま中心市街地の街区となっています。

駿府96か町のいま

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四足町 その1のつづきです。
 
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四足町の町名の由来の四足御門跡です。
門はこの正面ではなく(正面には石垣があった)
左手に、名前のとおり四足の御門が東向きに建っていたということです。
(つまりクランク型に進路をとることになる。)

このあたりは、明治期から堀が埋められてしまって
写真右手の石垣手前のお堀だったところにはビルが建っています。
まあ、左手の新中町ビルから市立静岡病院玄関あたりは石垣も撤去されてしまっているので、
石垣の一部だけでも残されたのをよしとするしかないでしょう。

なお、駿府城への登城口は、追手門(県庁東側)のほか
横内御門(北街道、市民文化会館入口)、草深御門(東草深町、草深橋)と
この四足御門の4箇所だったということです。

また、このあたりには今川氏の居館があったということですが
詳しいことは分かっていないようです。
 
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本通(ほんとおり)の起点でもある中町(なかちょう)交差点から安倍川方向を見たところです。
本通は、現在でこそ幅員30mの幹線道路ですが
江戸期には東海道である新通
(しんとおり)
よりも狭かったようです。

かつて走っていた静岡鉄道の市内電車は「鷹匠町
(たかじょうまち)
〜中町(新中町ビル前附近)」は1925年(T14)の開通、
「呉服町(静銀本店のある呉服町一丁目交差点)〜安西(安西二丁目交差点)」は
1926年(S1)の開通でした。
そして「中町〜呉服町」が開通したのは1929年(S4)のことでした。
この間、どうしていたかというと徒歩連絡していたのでした。
どうしてこの短い区間の開通が遅れたかというと
この本通があまりに狭く線路を敷くことができなかったということです。

おそらく幅4mほどしかなかったのではないのでしょうか。(もちろん歩道などありません)
なお、本通や昭和通は、昭和始めに拡幅されたものです。
 
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中町といえば静岡天満宮を思い浮かべる人も多いかもしれません。
本通沿いの左手(安倍川方向を見て)の中町の町域には
この天満宮のほか、岩市
(いわいち)
そば店、農林中金静岡支店があったのですが数年前撤退、
現在は静岡赤十字病院の拡張用地として空き地となっています。

また、静岡天満宮も土地の一部が呉服町一丁目にまたがっているためか
所在地表記に呉服町一丁目を名乗っていますので
本通の左手(安倍川方向)には
土地の表記としては中町が存在しても、実質的に中町がなくなってしまっています。
 
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中町といえば天満宮と並んで、昔からこの飯田旗店があり変わらぬ佇まいがなつかしいです。
(もちろん戦後の建物でしょうが)

この旗屋さんは創業100年を超え
旗やトロフィーなどのほか、最近は、くす玉の販売に力を入れているようです。
また、日の丸と同じ素材で作られた男を上げる“ふんどし”もあつかっているとか・・・

通りかかったらのぞいてみるのも楽しいかもしれません。
四足町は四ツ足町とも表記され、本通四足町、尼ヶ崎町とも言われたようです。

本通四足町という言い方があったことからも分かるように
本通(ほんとおり)沿いの町で、本通ゼロ丁目というべく
本通一丁目の手前、現在の中町交差点から呉服町通までの
通り沿いの両側の一丁が四足町です。

と言えばお分かりのように四足町は、ほぼ現在の中町(なかちょう)の町域で
1915年(T4)に四足町という町名を中町に変更し現在に至っています。

四足町とは駿府城の四足御門(よつあしごもん)の門前であることからの命名なのですが
明治に入ると、肉を食べる習慣が一般化し
四足が4本足で歩く動物を指すことが多くなり
そのイメージを嫌って「中町」に変更されたようです。

 
 
▽ 江戸初期の四足町の位置
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▽ 現在の中町の町域(赤線内)
    この附近は住居表示制度(※1)が実施されていないため、
   武家地(※2)との界がそのまま変わらず現在の中町に引き継がれていて(※3)
    興味深いです。
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※1=隣接する追手町は住居表示地区であるが県産業経済会館がある一角は地番表示地区

※2=江戸や駿府では武家地には原則として町名は設定されていなかったため、
    1873年〈明治6〉この附近の武家地であった地域を追手町(おうてまち)と命名

※3=行政効率を主眼にした住居表示制度が実施された場合、
原則として道路が
    町界となるため江戸期の町域の痕跡はことことぐなくなってしまうのが通例

その2へつづく>
↓ ピンクの線の部分の道路がなくなってしまっている。
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↓かろうじて残った現在の御器屋町通り(地図の赤線の部分)
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駿府城下の96か町の町名は原則として通り沿いに町名が付けられており
この御器屋町もその例外ではありませんでした。

現在、区画整理で御器屋町通りの半分はなくなってしまっていて
御器屋町がどのあたりだったかが分りづらくなってしまっています。

駿府96カ町のうち、町名を失い
なおかつその通りまで失ってしまったのは、ほかには例がないかもしれません。
(新谷町(しんがいちょう)も道路が付け代えられはいますが)

御器屋町の名称がなくなってしまった理由は、以下の理由が考えられます。

1 通り沿いに付けられていた町名であるため
  町界は、当然道路ではなく背割式(家の裏側が町界)であったため
  住居表示が実施される際、障害になったこと。
 (住居表示制度では、町界を道路等の恒久的施設であることが求められている。) 
 
2 駿府96カ町の町のほとんどが
  1町が道路沿いの1丁程度の大きさであったが
  御器屋町もその例外でなく
  行政側が管理しやすいと考える町の大きさからすると小さすぎること。
 (住居表示制度の実施基準では、当初、一つの町の面積や世帯数まで
  例示されていたため、全国的に小さな町がなくなってしまった。
  東京23区では住居表示が全域完了している区も多く
  江戸期からの多くの町名が失われてしまったのですが、
  新宿区の牛込地区では、いまだに昔ながらの町名が残されているのは
  都区内では希有な地域でしょう)

3 地元で強力に反対する声があれば避けられたかもしれないが
  たとえ反対する人がいても、小さな町であったがゆえに
  大きな声に集約することが困難だったことが考えられる。

それはともかく
本通から安西通りにかけては
いまも小さな町が現存するのですが
ぜひとも御器屋町のような例にならないように願いたいものです。


↓ 御器屋町を名乗り、意地をみせる店
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浅間神社近くにあった
「御器屋町」という町名は
雅な、なかなかいい町名だと思います。
なんでも、城中に納める椀や杯などをつくる
職人がいた町だと言われています。

静岡以外では京都市の大宮通七条(西本願寺の西側)に
この町名があるようです。

残念ながら静岡の御器屋町は
1969(S44)年4月1日の住居表示の実施で
西草深町に併合され消滅してしまいました。


↓ 安西通りの延長上とも言える御器屋町の通り
  左:1889年ごろ、右:1926年ごろ(オレンジ色の通り沿いが御器屋町)
イメージ 1 イメージ 2 
こちらの上魚町からの続きです。


▽左:敷地が本通一丁目と金座町(きんざまち)にまたがる日本銀行静岡支店は
 建物の正面が本通を向いているにもかかわらず所在地に金座町を名乗る。
 ※本通は「ほんどおり」ではなく「ほんとおり」。アクセントは「高低低低低」。
▽右:同じく、中町(なかちょう)と金座町にまたがる清水銀行静岡支店も同様に金座町所在を名乗る。
 銀行にとって相性のよい町名ということもできると思われる。
 (金座町は住居表示未実施で番地表示地区)
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▽安西・茶町の製茶問屋への通り道であるこの通りは
 かつてお茶の見本缶を持った「さいとりさん(お茶のあっせん業者)」が静岡駅から自転車で争うようにここを通ったという。
 そのため自転車の修繕需要も高く自転車屋さんが多い通りだったという。
 この先、土手通りの向こう側は茶町、当然にお茶屋も何軒かある。
 (これらのお茶屋は、さりげない店構えでも江戸期からの創業もめずらしくない)
 お茶屋の隣りは金座稲荷でその前に金座跡の記念碑がある。
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▽左:マンションなどが増えつつある金座町の通り、電柱の看板にもあるようにお茶の関連産業の事業所も多い。
▽右:金座町の横丁(土手通り)にはこんな店(量り売りの味噌屋)もある。
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大正時代に静岡で初めての歩道付きの道路となり
小間物屋であった"千代鍛冶"が
勧工場(かんこうば:今日のデパートに当たる)となるなど
常に話題を提供していた上魚町が
昭和の時代となると
その繁華性をしだいに失ったのは
1889(M22)年の鉄道の開業により
町の重心が徐々に静岡駅方面に移っていったことが大きいのでしょう。

また、中心地点であるがゆえに
この地域(上魚町・旧呉服町一丁目、旧呉服町二丁目)に
銀行(安倍銀行・三十五銀行・静岡銀行など)や会社が進出し
商店街が虫食い状態のようになってしまったことも
人通りを少なくしてしまった要因として
否定できないようです。

その“上魚町”が「金座町(きんざまち)」と改称したのは
1928(S3)年11月10日のことです。

これは言うまでもなく
駿河小判をつくった金座がここにあったことにちなむものです。

家康の側近であった
後藤庄三郎光次(京都の御用調金師の後藤宗家の女婿)という人が
大御所となった家康とともに駿府へ来て
ここに3000坪近い屋敷を得
江戸と駿府の二元体制である大御所政治が終わるまで
ここで金座を統括したということです。

場所は現在の日銀静岡支店の敷地を含む
通りの南側(静岡駅方面を背にして左手)のようです。

その金座も大御所政治の終えんにより
江戸(現・本石町一丁目の日銀本店のあるところ)へ移されました。

なお、駿府の銀座は旧両替町二丁目にありました。
銀座跡の碑については
こちらの両替町二丁目をご覧ください。


▽街路樹に埋もれるように佇む金座跡の碑(1955年設置)
 昔見た記憶では、もっと立派な碑だったような記憶があるのだが・・・(笑)
 (他都市なら誇らしげにもっときちんとした掲示板など設けるところだろう。)
 なお、このちょいと先(安西寄り)に静岡市内線の「金座町電停」があった。
 子どものころ「金座町」の町名もこの電車で覚えたのだった。
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▽もともとの上魚町は土手通りから呉服町一丁目交差点までのいわゆる両側町だった。
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