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A美さん。
とうとうやって来ましたね。
そうですか。
私はあちらに逝きましたか。
どんな逝き方でしたか。
「野垂れ死にがいい」と常日頃言っていたそんな風でしたか。
少なくとも病院ではなかったですよね。
病院で死んでいたら私にとっては最悪!相当に不幸!
出鱈目やって生きていた人間の最後にはふさわしくないです。
A師とよく「最後はリヤカー引いて旅に出ようぜ」なんて言ってましたが、その可能性は薄いですね。
A師の生命量と私のそれとでは差がありすぎます。
そもそも、今 あなたがこれを読んでいるのはどのあたりなのですか?
例えば西暦でいえば どのあたり?
2020年くらい?2030年くらい?それとも もっと先ですか?
まさか2009年3月なんてことはないですよね。
それであればこれを書いている時点からほとんど経っておらず、読み甲斐がないし、私は事故か何かにあったということになる。
何しろ2009.1.12までのブログは全部あなたに読まれてしまったのですから。
あなたはこのブログを発見し(2009.1.7)、ブログ上のすべての記事を読んだ後、あなたが「今後このブログを一切見ない。少なくともあなた(私)が死ぬまでは。先に死んだら見るかもしれません」と言った数日後、この手紙?遺書?を書いておこうと思ったのです。
記憶とか思い出といったものは えてして自分に都合よくまとめるものです。
本当はそれでいいのかもしれない。
別に奥行きやディテールを必要とする訳ではない。
まして自分の中に程よい形で収まっていたある思い出が全く別の姿で立ち現れるなんて。
今まで柔らかな形をした思い出として残っていたものが、これを読んでいるうちに変形するようなら、読むことを止めるのが正しいかもしれません。
だって思い出は自分に都合よく勝手に作り直しても誰からも文句言われないのですから。
A師はどうしていますか?
といってもおそらくあなたがこれを読んでいる時点から遡ること一週間か、二週間か、一ヶ月か、おそらくそこまでは私も生きていた訳ですから、こんなことを聞くこと自体おかしいですね。
私がいなくなって一年も二年も経って「そうそう、そんなブログがあったわね」なんていう思い出し方は普通考えられないです。
全く忘れているか、すぐにアクセスするか、あるいは覚えていても関心を失っているか、そのどれかでしょうし、(まったくどう書けばいいのでしょうか)現に今これを読んでいるということは「すぐアクセスする」だったということです。
あれから(「あれから」って変ですね。何しろ今(2009.1)の私はまだ「あれから」の部分を生きていない訳です)いろんなことがあったでしょう。(ありましたね、というのが正しいのか?)
やがてここにアクセスするあなたのために(今アクセスしてきたあなたのために)一つの書庫を用意しました。
題して「A美さんへ」
この書庫には、私のブログをweb上で発見したことで、激しく傷つくこととなった類の地雷は埋めてありません。
一種の安全装置です。
ここさえ読んでいれば、目をつぶって歩いても大丈夫。
でもきっとそういう訳にはいかないでしょうね。
今(2009.1.31)は一部、非公開にしている記事があります。(これって変な話です。だってむしろ今はあなたが見ないのだから公開しても問題ないのですが、読み返してみると、もっと違う書き方があったのに、と思うからです。
もう少し書き直して公開することにします)
ああ、なんだか分からなくなってきました。なぜなら、これをあなたが読む時にはすべて書き直されたものを読んでいるわけですから。
A師にもこのブログの在り処を教えてあげてください。
本来ならあなたに向けてだけ発信すればいいのかもしれませんが、このブログ、公開してよかったです。
公開することで、僅かですがコメントを頂いたりしてとても面白いです。
一時はこのブログの存在を知り合いの誰かにみつけられたのかと思うようなコメントも入りました。
でもその方はとても丁寧に私の誤解を解いてくれました。
だからコメントも一つ一つ読んでください。
私亡き後もじっくり読むだけの時間があなたには用意されているはず。
その時代?その時期?の有りようを思い出すことでしょう。
(時系列が混乱してきたので今日はこのへんで)
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