ここから本文です
当HPは今年終了します。→https://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/48230188.html

書庫全体表示

=建武新政関連1=
1.現在、当HPにて
「空海のタントラ『仏教』とチベット」シリーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/39672281.html
を掲載している。

その記事に関連するデータをこちらの「歴史」分野に今後時々掲載することがあるので宜しくお願いしたい。

1.早速だが、いくつかのデータを以下に載せる。

○「ところで、尊治(たかはる;後醍醐天皇のこと)の場合、影響を及ぼしたのは儒教よりも仏教ではなかったかと思う。それも新興の禅宗よりも、天台・真言宗の密教とのかかわりあいのほうがずっと深かった」(参考文献p.40)。

○「即位したとき、後醍醐は、すでに三十一歳の壮年に達していた。・・
もっともスタートのときは、確かに清新な政治だった。それについては、名残を惜しみながら帝位を去った持明院系の花園上皇さえ、「現今の政治はいい。聖王の政治だ」とほめているくらいだ。この花園上皇は、後醍醐にひけをとらない学者天皇だが、まったくタイプを異にする教養派で・・後醍醐にはない冷静かつ公平にものを見る目をもっていたことは確かである。
もっとも、やがて後醍醐は、この花園を怒らせるようなことをやってのける。持明院系の領有する荘園の人事に介入したり、勝手に自分の親しい人間に荘園内の権利を与えたりしたのだ。・・これは・・両統間の大問題となった。
こんなとき、後醍醐はまず理論(当時中国から入ってきた朱子学)を振りかざす。「天皇の命令である綸旨は、院宣に優先する。なぜなら現在の最高権力者は天皇であるはずだから・・」というふうに」(同p.41-42)。

○楠木正成の出自について面白いことが分かってきた。
「和泉国若松荘というのは、もと臨川寺という寺のものだったが、これを一時、後醍醐が、道祐という僧正に与えたことがあった。これに臨川寺が文句をつけたので、後醍醐はあらためてここを臨川寺のものとしたが、悪党楠木兵衛尉がここに押し入って不法占拠して、云々・・」(同p.51)という古文書が発見されたのである(上の文章は永井路子氏によるまとめ)。
つまり、タントラ立川流の総裁である文観の弟子の道祐の部下が楠木正成だったのだ。
「つまり、正成は臨川寺側からみて「悪党」だったのである。このころの文書を見ると、自分に都合の悪い人間のことは、すぐ「悪党」よばわりするのが例だから、これもそのひとつ・・。
文観はふつう後醍醐を猥褻な妖術でたぶらかした悪僧のようにみられているが、決してそんな安っぽい男ではない。豊富な財力と巨大な組織網を駆使して・・今後の争乱の企画・演出・・プロデュースいっさいをとりしきった黒幕なのである」(同p.51-52)。

○「後醍醐親政のなかで、最初におきた血なまぐさい事件は、護良親王の失脚事件だ。彼は後醍醐が隠岐へ配流されている間も、勇敢にゲリラ的抵抗をつづけた。その意味では、楠木正成と比肩すべき功労者なのだが・・。逆に尊氏の密告によって、謀反の疑いがあるという名のもとに捕らえられ、鎌倉へ送られ、非業の最期を遂げる。・・
ひとつ考えられるのは、後醍醐の最愛の妃阿野廉子の差し金だ。護良は廉子の子ではない。・・尊氏が密告した直接の相手が廉子だという・・」(同p.61)。

○「さらにもうひとつ、後醍醐天皇については言っておかなければならないことがある。というのは、その生きた時代よりも、後に、特に明治以後、にわかにクローズ=アップされたことについてである。
それ以前の後醍醐に対する評価は、必ずしも高くはなかった。南朝贔屓(びいき)と思われる『太平記』もじつは後半になると、手きびしく後醍醐を批判している。「徳がない」「その器でなかったものが帝位についたので、失敗するのはあたりまえだ」等々・・。・・それが『大日本史』を編纂した徳川光圀が南朝を正統としたことからしだいに脚光を浴びてきた。これは光圀の大義名分論からくるのだが、明治以後はそれにもうひとつの要素が加わった。すなわち、維新後の天皇制国家が、天皇親政の原理を後醍醐に求め、いやがうえにも建武政治は理想化され、後醍醐像がクローズ=アップされたのだ。・・醒めてみれば、彼は狂信的な権力愛好者、変動期に咲いた保守反動の徒花にすぎない」(同p.75)。

お知らせ:
「(資料)空海のタントラ『仏教』とチベット」シリーズ目次は次のクリックを!
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38436024.html

参考文献:
「人物日本の歴史7」(永井路子他/1976/小学館)

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事