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=建武新政関連3=
1.北畠顕家は16才で陸奥守(むつのかみ)となり、18才で鎮守府将軍となった。同年、後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏を討つ為、数十万の東北勢を引き連れて京都にのぼり、見事に足利尊氏を九州に追い落とした。

3年後、九州で勢力拡大に成功した足利尊氏は、再び天下を取るため京都へ向かった。楠木正成敗死。名和長年敗死。新田義貞敗走。そこで急遽白羽の矢が立ち、6万騎を引き連れて先ず鎌倉を奪取。岐阜県・関が原(当時は青野が原)で足利軍を撃破した。だが兵力の不足と兵の疲労から京への突入をあきらめ、隙をうかがっているうち、高師直(こうのもろなお)軍の策略に引っかかって21才で戦死した。

1.公卿でありながら天才的な武将でもあった北畠顕家(北畠親房の長男)が、死の1週間前に書き残した陣中から後醍醐天皇に宛てた「諌奏状」(「 顕家諫奏状」1338年5月15日)が残っている。前の部分が欠落し、後ろの部分しか残っていないが、「建武新政」に対する厳しい批判が書かれている。その内容は次のとおり(参考文献p.137-138):

(1)九州と関東平定のため人を派遣し、山陽、北陸に藩鎮を置くべし
 (中央集権を批判し、全国を5分した封建制を主張している)。
(2)戦さで疲弊した民の租税を減らし、倹約すべし。
 土木を止め、奢侈を絶てば反乱はおのずから治まるであろう

(3)爵位の授与、人材登用を慎重に行うべし。
(4)公家、僧侶への褒美は働きに応じて与えるべし。
(5)臨時の行幸、酒宴を控えるべし。
 「遊幸・宴飲まことに乱国の基なり」

(6)朝令暮改を慎むべし。
(7)公家、官女、僧侶などが政治に無益に介入し、政務を害するを退けるべし。

「後醍醐や建武政権に批判的であったのは、武士層や都市民、農民ばかりではなかった。後醍醐からみれば、自分にもっとも忠実であろうと考えていた公家の中から痛烈な批判がだされた。その批判を展開したのは陸奥国府の主、北畠顕家である。・・
この顕家の全面的な新政権批判は当時の知識人の意見を代表するものであったということができよう」(同p.137-138)。

1.「顕家の父親の北畠親房も後醍醐天皇を厳しく批判している。戦前の教育を受けたような人は、親房は後醍醐のために身命をなげうって貢献したように思われるかもしれないが、事実は違っている。親房が書いた『神皇正統記』や、親房が東国の武士に宛てた書状をみれば、後醍醐がおこなった政治に強い批判をもっていたことが知られる。・・
このように後醍醐と建武政権にたいする批判は上から下まで厳しいものがあり、建武政権が三年弱で崩壊してしまうのも当然のように見受けられる」(同p.138-140)。

参考文献:
「後醍醐天皇と建武政権」(伊藤喜良/1999/新日本出版社)

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