ここから本文です
当HPは今年終了します。→https://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/48230188.html

書庫全体表示

=小室信介関連=
1.当HP「空海とチベット」分野の「空海のタントラ「仏教」とチベット」シリーズ
の為の資料を掲載する。
今回は、第3部で掲載中の「戸谷新右衛門伝」に関連し、下の参考文献の「解説」の部分から引用して、「東洋民権百家伝」と編者=小室信介について分かることを紹介する。

○「ここに復刻する小室信介編『東洋民権百家伝』は・・明治十六年八月に初帙(しょちつ)三冊を、翌年一月に・・第二帙を、同六月に第三帙を出したものであって、日本最初の百姓一揆についての、包括的な著作である。
(当時は明治時代の自由民権運動の絶頂期であり)本書は発行されるとたちまち大歓迎をうけ・・自由党が・・通俗自由講談という新しい宣伝手段を開発しはじめたところであったが、これまでフランス革命や『経国美談』のような外国の材料のみにたよらざるをえなかった自由党の弁士たちは本書のうちに絶好の資料を見出し・争って本書中の義民伝を・・講談化した。また本職の講談師、たとえば有名な開化講談師松林伯圓なども、本書中の戸谷新右衛門や文珠九助などの伝記を早速高座で演述したのであった」(p.375-376)。

刑場の露と消えていった幾多の一揆指導者の姿を詳しく調べあげ、読み進むうち次第に後の方になるに従い、一揆指導者と編者小室信介の鬼気迫る執念を感じることが出来る。

○「著者小室信介は、嘉永五(一八五二)年七月二十一日、丹後国(現在の京都府日本海沿い)宮津藩の砲術家小笠原忠四郎長縄の二男として生まれ、名は長道といった」(p.377)。この藩は幕府とのつながりが強く、藩主は第2次長州征伐の副総督であり、鳥羽伏見の戦いでも幕府方についた。その中で彼は勤皇派であり、義父の豪商・小室理喜蔵も討幕運動に加わって牢に入れられていた(p.377)。

○「明治五年(1872年A.D.)から彼は山城国綴喜郡井手村の小学校教員となり・・彼はこの仕事にきわめて熱心に従事したようである、『地球儀用法大意』『大日本夜話』『小学綴字詞(ことば)の枝折(しおり)』『日本小文典』などその頃の著作がそのことを示している」(p.378)。

○「明治八年(1875年)、宮津地方の・・私立学校天橋義塾が設けられると、信介はむかえられてその中心となった」(p.379)。その年、彼は先に述べたとおり、小室家の婿となった。その前の年、義父は板垣退助と共に「国会議院設立建白」を行っていた。小室家の援助と考えられるが、信介は翌年の明治9年上京し、慶応大学に入学。これまでの漢学の素養に加えて英学を身に付けることを始める(p.379)。

○ところが翌年の明治10年(1877年)、西郷隆盛が西南戦争を起こすと、「高知に帰る板垣らと同船して郷里宮津にかえり・・六月、土佐立志社の林有造らが西郷に呼応して蜂起しようとしたという理由で捕えられたとき、彼も同志八名とともに京都府に捕えられた。同年暮には釈放・・(明治)十一年・・再入獄したがわずか数日で釈放せられた(p.380)。

○「明治十年の末頃から彼の投書が・・大阪日報などにあらわれはじめ、十二年一月からは正式に大阪日報の社員となり、以後十五年にかけて、印刷長代理、社長、監事などの地位にあった」(p.380)。

明治十六年(1883年)、「信介は上京して自由新聞社員となり、自由党の中堅党員として活躍し、関東各地を旅行して宣伝組織工作に従った」(p.385)。この年から翌年にかけて「東洋民権百家伝」が出版された。又この当時、「義人伝淋漓墨坂(なみだのすみさか)」・「自由艶舌(えんぜつ)女文章」などの政治小説や戯曲を書いた。

○ところが、明治17年(1884年)、最大の転機が訪れる。「六月に第三帙を刊行するとまもなく、清仏戦争が勃発した。信介は特派員として八月中国にむけて出発し、十一月十一日に帰京した。その留守の間に・・自由党は加波山事件(自由党左派による武装蜂起の失敗)の衝撃によって解党しており、しかも、この十一日はまさに秩父事件の残存部隊が長野県海ノ口で政府軍と最後の血戦をこころみて潰えたその日でもあった」(p.388-389)。

この重大な時、全国の同志が注目する中で信介のとった行動は、彼の人生に汚点を残すものだった。当時、清国はフランスとベトナムの領有権を争っていた。日本は、この機会に、絶対に清国はこちらに注意を振り向けないはずだとの計算の下、朝鮮を清国から奪い、「独立」させ・近代化させ、実は日本の植民地にしてしまうと言う陰謀を企てた。当時、朝鮮国王は実権を妃である閔妃の1族に奪われていたので、実権を取り戻してあげますと話を持ちかけ、一気に閔氏1族を抹殺するクーデターを決行した(1884年12月)。

ところが計算外なことに、清国はフランスに早々と負けてしまい、ベトナムを奪われてしまったのである。そこで、朝鮮だけは絶対に手放すものかと、大軍を朝鮮に送り、これまた一挙に日本勢力を粉砕し、閔氏1族は実権を取り戻した。このことが後の日清戦争(1894-95年)の遠因である。

この時、小室信介は「朝鮮独立」・近代化・民主化の絶好の機会がおとずれたと錯覚し、わざわざ朝鮮に渡って日本政府の工作に協力するなど、易々と政府の企みに乗せられてしまったのである。こうして日本薩長政府の、国民の目を国内の民主化から外国の民主化へと反らしていく作戦は成功し、信介に続いて元自由党員が続々と日本の民主化でなく近隣諸国にケチをつけて民主化を叫ぶ有様が出現した。しかも日本政府は初めから実は朝鮮の民主化どころか、「独立」を名として実際はその植民地化が狙いだったのである。こうして一旦動き出した歯車は止まることが出来ず、自由民権運動は胡散霧消して日本は独裁と侵略戦争の時代に入り、百姓一揆を描いた信介の「東洋民権百家伝」も全く忘れられ、今日においてもほとんど知る人は居なくなっている。それを信介が知ったらどう思うだろうか?彼は翌年の明治18年(1885年)8月、「にわかに盲腸炎を病んで八月二十五日、三十四歳にしてこの世を去った」のだが(p.390)。

参考文献:
「東洋民権百家伝」(小室信介編・林基校訂/1957/岩波文庫)

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事