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=チベット密教史関連3=
(つづき)
チベット密教の各派について:
○宮脇淳子氏は言う。

「十七世紀にゲルク派がチベット仏教の代表になるまで、各宗派が長い間抗争を繰り返したのは、教義の違いからではなく、それぞれの施主である地方王権の対立を反映したものだった」(参考文献1;p.156-157)。

つまり、山口瑞鳳氏が述べているように、

「これを根にもってゲルク派はモンゴル人(の信者)をそそのかしてカルマ派の本拠ツルプを襲わせ、家畜を略奪させたりしていたのであった」(参考文献2;p.272)

といったことを各派は繰り返し、段々エスカレートしていたのであるが、それらは表面的には教義の違いを装いつつも、実はそうではなかった。そしてそこにこそ、各派の真実の違いも存在している。

○つまり、各派の最大の違いは、寺の財産(領地と農奴)の相続方法の違いにある。
・「紅教」(ニンマ派)−父子相続。
・「花教」(サキャ派)−父子相続とおじ・おい相続の混合。
・「白教」(カギュ派)−「黒帽派」と昔あった「赤帽派」以外はほとんどおじ・おい相続。
・「白教」(カギュ派)の「黒帽派」と昔あった「赤帽派」−活仏転生。
・「黄教」(ゲルク派)−活仏転生(以上、参考文献3;p.562など)。

これは何を意味するか?山口瑞鳳氏は述べる。

「各地に教団が結成されると、少なからぬ数の人々が教団に参加するために集まってきた。・・教団は多数の人々を擁したため、商業の発達をうながして、自ら地域の経済的中心としての役割を果たすようになった。さらに、これに伴って発生する利権によって、諸侯が教団の運営に関心を寄せ、食指を動かすようになった。・・彼らは元来、教団のたんなる施主・・であったが、のちには教団の所有者になり、その経営に直接たずさわるようになっていった。・・これらの諸寺では・・の諸氏が、家系を保つための嗣子以外を教団に送りこみ、その要職をしだいに独占させ、その後は出家した彼らの甥にその地位をつがせるようにして、数代にわたって教団にまつわる利権の独占体制を維持した。・・たてまえとしては師資相継ぐ形をとり、実質的には父系の叔伯父から甥に伝えるク=ウン相続が最も一般的に行われた」(同p.559-560)

では、ここに出て来る「活仏転生」とは何か?

「このような親族による支配をまぬがれながら、逆に諸氏族の勢力を利用したものにカルマ=カギュー派があった。かれらは転生者(活仏)を教団統合の主として、その候補者を有力な氏族のうちに自由にもとめ、政治的配慮によって大教団に成長した。彼らは二派(「黒帽派」と「赤帽派」)に分かれるが・・」(同p.563)。

「ゲルク派は・・転生者として・・。しかし、カルマ派を敵視する人々によってこの選択は却けられ、代わって、政治的意図も露骨にアルタン=ハンの孫スムメタイジの子を転生者に決定した。・・ひたすら青海に進出していたトゥメートの軍事力を背景にしてカルマ派を威圧しようとしたのである」(同p.582)。

お分かりだろうか?”活仏転生制”とは、次代の活仏を有力領主の子供や孫に転生したことにしてしまうのだ。すると、当然孫や子は可愛いから、大喜びだ。自分の子や孫が大きな寺の次の住職になるのだから、当然莫大な寄進もするだろう。そればかりか、「黄教」(ゲルク派)の場合は外国の蒙古に活仏が転生したことにして、武将が兵を率いて攻め込んできて、対立するセクトを武力で押しつぶし、「黄教」をチベットの支配者にして、その活仏すなわちダライ・ラマ(蒙古武将のひまご)の支配する国にすると。驚くべき陰謀である。実際そうやって「黄教」は天下を取ったのだ!

(追記:「白教赤帽派」が最近、印度で復活したとの未確認情報がある)。

参考文献:
1.「モンゴルの歴史」(宮脇淳子/2002/刀水書房)
2.「仏教史2」(玉城康四郎編/1983/山川)
3.「中央アジア史」(江上波夫/1988/山川)

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