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=R・フォード問題(1)=
1.今回は、いきなりで恐縮だがチベット現代史について述べる。
当HP「空海とチベット」分野記事
「空海のタントラ「仏教」とチベット(24)090406」
で紹介したが、1950年10月、チベットの山中の寺で5千余人の東チベット軍主力が司令官と共に中国軍に包囲され・降伏した。その中に、中国政府によると「英国スパイ」・「殺人者」の、そしてダライ・ラマ14世派に言わせれば単なる「ラジオ技師」のロバート・W・フォード氏がいた。

R・フォード氏はその後5年間拘留され、中国への不法入国・「英国スパイ」・「殺人使嗾」などで禁固10年の判決を受けたが、中国側は英国との国際親善を進める立場から1955年に釈放し、香港経由で英国に戻った。

今回記事およびあと何回かの記事で、R・フォード氏は「英国スパイ」・「殺人者」だったのかの問題を解明し、これに関連する問題を扱う(なお、氏は既に5年間服役されて罪を償われた訳だから、今更当HPはこのことを蒸し返すことが重要な問題だと考える訳ではない。只ダライ派がこの問題を利用しており、最近も氏の本が米国で再版されたためこの問題を整理する必要に迫られただけである)。

1.R・フォード氏は釈放後、’Captured in Tibet’(1958)と言う本を書いた。この本は翌年「赤いチベット」と題して日本語に翻訳された(1959/新潮社)。この本がその後、同じ訳者の近藤等氏によって1970年に芙蓉書房より出版されており、今回はこちらをテキストに用いる。以下で示す頁数はすべてこの本のものである。

1.まず、中国政府の要請でチベット地方政府に対し中国政府との平和的合流を説得するためラサに赴こうとし、途中の東チベットの中心地チャムドで暗殺されたゲダ・ラマの件だ。

フォード氏は自分の口で語っているのである。
「わたしとしては、ゲダが暗殺されたと信じるに十分な理由を持っている。誰が殺したのかも、知っているつもりだ」(p.123)。

ところが「その人が誰か、永久に発見されないことを祈るばかりである」と言う(同p.123)。しかも中国政府の取調べに対し、「捕らえられてから・・尋問のあいだ、自分の知っていることを口にしないために、わたしは大変な苦労をしたのだった。いまとなって、口を割るいわれはなにひとつない」と(p.122-123)。

ゲダ・ラマが殺されたために、チベット地方政府は中国中央政府が「食人鬼だ」などの誤解を解くことが出来ず、戦争となり多くの人が死んだのである。つまり、中国が1つになることを妨害しようとする勢力が存在した。これは単に1人の人を毒殺しただけではなく、多くの人命を奪っており、明らかに人道と中国国内法に反する行為なのだ。そしてフォード氏は犯人を知り、それを「大変な苦労」をして隠した。明らかに共犯である。

しかも、フォード氏は中国政府に対するチベット人の恐怖感を増すため、さまざまな発言を行っていた。たとえば、
「彼ら(中共軍)の武器は国民党の軍隊よりも優秀です。・・ラサと北京の間で、秘密交渉がおこなわれているといいます。・・チベット政府が平和的な解決を求めることは、有り得ることです。その条件がどんなものであるにせよ、そうなればおしまいです」・・
「コミュニストは、これまでのどんな中国政府より、もっと危険です。・・」(p.21)

このように、フォード氏は平和を求めるのではなく、戦争をしないといけないと扇動していた。これは明らかに内乱罪であり、日本の国内法では死刑である。

しかも、この時戦争をあおっていた相手は誰あろう、当時の東チベットの総督のラル・シャペであった。このラル・シャペこそゲダ・ラマ毒殺の真犯人と考えられるのである。なぜなら、

「この地方の重要な問題はすべて、総督一人が決定を下すのであって、彼の顧問たちは、その命令を実行するだけの存在だった」(同p.109)。
「総督の意志は絶対であり、彼(ラル)の命令はただちに実行に移された」(p.70)。

つまり、総督のラル・シャペしか暗殺の決定は出来ない。しかもフォード氏は、殺人犯に対し、先に見たとおり
「その人が誰か、永久に発見されないことを祈るばかりである」と言う。普通こういう言い草は常識的にも許されるものではない。余程固い絆か何かで結ばれた人であるはずだ。そしてフォード氏はいう。

「これがラルという男だ。冷静で、機敏で、固い決意を持って、恐れを知らぬ、行動の男だ」(p.74)。
「わたしたちはお互いに相手を信頼していた」。「・・いっそう彼を尊敬する念を増した・・」(p.89)。
「・・その(チベットに残る)危険の大きさを、わたしは十分に承知していた」。
「なぜチベットに残ったのか・・一ダースほども理由を並べることができる。・・
ラルを愛し、尊敬していたからだ・・」(p.54-55)。
「それから、二人とも・・親友のように話し始めた。二人は今までにないほど身近さを感じ、最後に握手を交わしたときには、感動で胸が締め付けられる思いだった」(p.164)という。

このことに関し、「チベット日記」(岩波新書/1961)の著者であるアンナ・ルイズ・ストロング女史は次のように書いている:

『一九五〇年チャムドで毒殺されたゲダラマの死体は当局により迅速に火葬されたため調べることが出来なかった。しかし中共当局はこの件については前総督ラルおよび英国のスパイ、ロバート・フォードを有罪と断じていた。解放軍のチャムド占領と同時に逮捕されたフォードは数年後釈放されて英国で彼自身の無罪を主張する本を書いた。しかしその中で彼は、「誰がゲダを殺したかも知っているつもりだ、だが私は話すわけにはいかない。」(第一部七章)と述べている。このことはフォードが大きな敬意を払っていたラルを指している。解放戦の間フォードがチャムドでラジオ送受信に従事したこと自体は良きスポーツマンシップとして英国の読者を納得させることが出来るかもしれない。しかし彼の英国スパイとしての経験はアジア人を納得させることは出来ない。』(「赤いチベット」解説で紹介されている;p.352) 

このアンナ・ルイズ・ストロング女史の結論は極めて正しいと言うべきだろう。ゲダ・ラマを毒殺できるものはラル・シャペしかいなかった。フォード氏は内乱をあおっていた。内乱を食い止めるためラサにいこうとしているゲダ・ラマを行かせないこと、さらにチャムドにとどまって地方有力者に中国の統一を説くであろうゲダ・ラマを始末することは必須の課題であった。そしてフォード氏はゲダ・ラマ殺害の真犯人を必死でかばった。内乱をそそのかし、これがゲダ殺害を生み、さらにその犯人を隠匿する。これを共犯と言わずして何をか況やだ。

しかもラル・シャペが直接毒を盛るわけではない。部下にやらせるわけだ。それがフォード氏だったのか?彼の行動はきわめて疑いの濃いものなのである。彼はゲダ・ラマと同じ建物に居住していた。とても親近感の持てぬゲダをわざわざ招待し、ケーキと茶を出した。しかも、中国当局の取調べに対し、事実と違うことを述べ、ケーキを出したことを隠し(*)、また接待した部下の名も事実と違うことを供述している。彼は思い違いしたと述べているが。ところがしばらくしてゲダは重い病気にかかる。チャムドで医者として通っていたのはフォード氏1人であった。にもかかわらず、見舞いにも、治療を助けるために訪ねることもしない。また「ゲダが・・(フォードと同じ建物に)越してきた月日についても、思い違いをしていた」(p.268)。

私は想像を排し、確実な事実だけを確認したい。そこで結論として言えることは、フォード氏が直接に手を下した下手人であるかどうかは別として、彼はゲダ殺害の一味だったと言うことだ。

(*ケーキを出したことを隠し:
このことは、フォードが茶を出してからゲダが死亡するまでかなりの期間があったことと関係があると見ることもできる。このことから、毒殺は細菌兵器によった可能性がある。だが、冷蔵庫もない所で長期に細菌の効力を保持することは困難だったろう。そこで、事件の直近に意外な人物からあるものがもたらされたことが注目される。また、細菌を茶に混ぜたとすると、確実性を増すため何倍もお代わりをさせる必要があったろう。甘いケーキがこれに関連していると言うのが中国側の推理と考えられる)。

参考文献:
「赤いチベット」(R・W・フォード/1970/芙蓉書房)

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