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=ダライ派のデマを斬る2=
○ダライ派の流している話のひとつに、1959年のダライ派の反乱は、1950年の中共軍のチベット進駐により、チベットが食料不足に陥ったことが遠因だというものがある。

「中国本土からの物資輸送道路がまだ完成していなかったので、中共軍の負担はラサ市民の肩にずっしりとのしかかってきたのです。この頃こんな歌が巷で流行りました。”奴らは箸と空の茶碗だけを持ってやってきた”」(リタンの見習い僧アタの証言;参考文献1;p.92)

これは成る程と思わせる説であり、中国側は、

「人民解放軍は、チベットにはいって以来、一粒の糧食もチベット人民に負担をかけなかった。自分たちの手で生産できるまで、内地から空輸で供給をうけた。と同時に、一八軍長張国華自ら先頭に立って、カシャ政府から買いとった荒地に鍬を入れ、糧食と野菜の自給へ踏みだした」(参考文献2;p.119)

と述べるが、正直に言って果たして数万の兵隊を食わせるだけの空輸の力が当時の中国にあったのか、私は大いに疑問を持っていた。

処が、1950年の中国軍のチベット進駐の際スパイ罪・殺人罪で逮捕された英国人R・フォードの本を読んだ処、確かに中国兵は各自が1週間分の食料をかついでやって来たし、成都からチベットに食糧を運ぶ飛行機が飛んでいたとあるのだ。

「コミュニストのやり方は巧妙だ。過去において、中国がチベットで犯した過ちをふたたび犯さないように、細心の注意を払っている。
今度は、僧院の掠奪などは起こらない。それどころか、誰に対しても、うっかり感情を損ねないように気を配っている。やがて僧侶たちは、彼らの解放を神に感謝するまでになった。中国人は、チベットの宗教に対してなんの悪意も持たないことを、はっきり示して見せたのである。チベットの民衆に対しても同様だ。彼らがひどい扱いを受けなかっただけではない。糧食の補給が困難をきわめているにもかかわらず、中国軍は現地での補給を行なおうとしない。兵士たちは、めいめい、一週間分の予備食糧を持っている。ソーセージ型のゴム袋につめられた米と肉だ」(参考文献3;p.199)。

「成都・・飛行場からは、カンツェに米を運ぶ飛行機が飛び立っている。ここはチベットへの食糧補給の最前線なのだ」(同p.230)。

このことから、100%中国軍の補給は現地からの徴発によらなかったとの結論はまだ出せないが、”奴らは箸と空の茶碗だけを持ってやってきた”と言うのは完全に嘘である。

○同じくダライ派の流している話のひとつに、中国軍によるチベットの寺への弾圧・寺の宝の略奪ということもよく耳にする。

実は、寺の宝(寺宝)とは、武器のことなのだ。チベット密教では武器を寺の宝として代々蓄えているのである。また、寺こそが武力反乱の最大の拠点となっており、僧兵は一般民兵より強力だと言う。ダライ・ラマ14世も序文を寄せている親ダライ・反中国の本の中でM・ダナム氏は書く:

「僧院も明らかに独立の流れに加わりつつあった。ミマンが次々に発行する文書、パンフレット類は僧院の印刷所で作成されたのである。印刷設備のある場所は僧院以外に存在しないのだ。
(1954年)・・正月祝い・・中に民衆の放棄は始まった。”ドップ・ドップ(僧院の警護をする戦士僧)”の自発的デモがラサ市内を練り歩き、寺院の財宝を盗み出すのを止めろと叫んだ。しかしこの”財宝”の中には僧院の蔵に仕舞ってある武器弾薬も含まれるのを知らぬ者はなかった」(参考文献1;p.110)。

「信仰を守るために戦う僧ほど強力な兵士はいない。ローウェル・トーマスはこういっている。非常に厳しく律した僧は、質素な食事に耐え、・・筋力を養い、驚くべきスタミナを発揮する。・・普通のラマ僧であっても一般市民よりずっと明確に敵の力と情勢を見通し、有効な作戦を立てることができる。良かれ悪しかれ僧院は常に潜在的軍隊なのだ」(同p.113)。

「ダライ・ラマ十三世の死後・・各僧院は二派に別れて深刻な内部抗争の泥沼・・僧同士の殺し合いがはじまり、政府の機能は麻痺・・少年ダライ・ラマ法王には何が何やらさっぱり分からず、手の出しようがなかった」(同p.49)。

何故殺人が正当化されるのか。
「文殊菩薩は片手に経典、片手に燃える剣を持っている」。
「一人の命を奪うことが何百人もの命を救い、非道の・・者を殺すことが他の生類を救うのであれば、カルマの裁量があって然るべきなのでは−。・・
チベットの歴史には、仏教が危機に瀕した時に武器を持って立ち上がった僧の例は枚挙のいとまがない」(同p.112-113)。

ダライ・ラマ14世の忠実な部下であるペマ・ギャルポ氏も次のように書いている:

「チベットには約四五〇〇の寺院があるが、デプン寺、セラ寺、ガンデン寺、タシルンポ寺が、ゲルク派の四大本山である。・・セラ寺は一四一九年ツォンカパの高弟ジャムチェン・チュージェが開いた。僧数は一般に五五〇〇人といわれているが七〇〇〇人近くいたという。一九〇四年の英国との戦闘や一九〇九年の清国との戦闘のさい、戦った僧兵はセラ寺所属の僧であった」(参考文献4;p.78)。

参考文献:
1.「中国はいかにチベットを侵略したか」(M・ダナム/2006/講談社インターナショナル)
2.「チベット−その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)
3.「赤いチベット」(R・フォード/1970/芙蓉書房)
4.「改訂新版 チベット入門」(ペマ・ギャルポ/1998/日中出版)

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