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=ダライ派のデマを斬る3=
○1951年5月23日、北京にてチベットの中国への合流を定めた「17条協約」が結ばれた。その5ヵ月後、ダライ・ラマ14世は毛沢東に手紙を送り、

「聖職者並びに一般国民と共にチベット地方政府はこの十七箇条協定を全員一致で承認し、チベットにおける人民解放軍を積極的に支持、共に帝国主義勢力をチベットから駆逐し、祖国の統一と主権を守るでありましょう」(参考文献1;p.86)

と述べた。

ところがその後ダライ派は、「17条協約」でチベット代表が押したハンコは本物ではなく、中国側の用意した偽物であったから無効であると言い出した。

「協定書の署名に当たって、中共側は代表に捺印を求めた。・・代表団が国璽も各自の印も持参していないというと・・中共側は直ちに偽の国璽と印を作って署名させた」(参考文献1;p.81)。

ところが、参考文献2の解説(木村肥佐生氏による)で紹介されているがダライ・ラマ14世の姉婿であるプンツォク・タクラ氏(当時の代表団の1人)は次のように言う。

「我々は・・チベット政府の印鑑を持参していないのでラサから取り寄せる間待って欲しいと中共当局に言った。・・中共側は「その必要はない、印鑑は当方で用意するから・・」と言った・・」(参考文献2;p.349)。

つまり中国側はことさらに偽物のハンコを押させたのではなく、親切心からハンコを用意したに過ぎないのである。

また、協定に無理やり署名させられたと言うのも事実と違うであろう。ダライ派は次のように言う。

「代表の前には・・”十七箇条協定書”が置かれていた。彼らは否応なくその文書に署名させられた。・・会談とは名ばかりで、脅迫や、がんがんテーブルをたたく罵声など、話し合いの雰囲気など微塵もなかった」(参考文献1;p.80)。

処が同じ本で次のように語られる。

「九月終わり、十七箇条を承認するのかどうかを討議するため議会が召集された。議場には・・(17か条に署名したチベット代表団団長の)アボも出席していた。彼は壇上に進み出、開口一番、自分は一銭たりとも買収されてなどいないといった。ついで滔々と述べ立てた。
「ダライ・ラマの地位、権力は十七箇条によっていささかも変わることはない。チベットの宗教、政治制度にも変更はない。議会はいささかヒステリックになってはいないだろうか?毛主席のおかげで享受することになる様々な恩恵が少しも分かっていないのではないか。僧院への寄進はこれまでにないものになろう。近代的設備を整えた立派な病院ができ、すべての子供たちは学校に通える。市内には舗装道路が完備し電気が通る。毛主席の厚意を受け入れないとは何という悲劇だ。今こそチベットが近代社会に加わる絶好の機会であり、毛主席がそれを指導して下さるであろう」
この演説に拍手喝采したのはラサの三大僧院長たちであった。僧院の既得権が中共によって守られるなら、後のことなど大したことではない。・・この態度は民衆にも伝わっていた」(参考文献1;p.85-86)。

そしてダライ・ラマ14世と「聖職者並びに一般国民と共にチベット地方政府はこの十七箇条協定を全員一致で承認」した(同p.86)。これは”強制”とは言えないだろう。次のように述べた本も有る。

「コミュニストのやり方は巧妙だ。・・
もっと巧妙だったのは、彼らが戦時俘虜の問題を解決したあざやかさだ。(チャムド近くの山中の寺で包囲され・降伏した東部チベット軍主力5千人の)捕虜はただ一列に並ばせて、通行証とお金(中国政府支出)を渡して、妻子を連れてラサに帰るように言っただけである。このシーンも映画に収められたが、今度は、、笑顔を命令する必要もなかった。もちろん、中国人の親切さをふれ回るようになどと、言うまでもなかったのである」(参考文献2;p.199)。

そこで次のようなことが生じた。

「人民解放軍はアペイ・アワンジンメイ(訳し方の違いにより、「アボ・ジグメ」とも言うし、「ヌガボ・シャペ」とも言う。ラル・シャペの後を引き継ぎ、当時の東チベット総督)を鄭重に扱い、中国共産党と毛沢東主席の民族政策を懇切に説明した。アペイは四〇〇〇平方キロの土地と二五〇〇人の農奴をもつ大貴族であり、チベット地方政府を構成する六人のガロン(大臣)の一人であった。かれは、人民解放軍に遭遇していらいの自身の体験を通じて、針一本・糸一本とることなく、規律正しく、民衆を大切にし、俘虜を人道的に扱う人民解放軍と中国共産党の政策に深く感動し、信頼した。かれは決意して、ダライ一四世宛てに中央政府との和平交渉に応ずるよう心をこめて手紙を書いた」。

「当時のラサ当局の状態はどうであったか。一九五〇年暮れから五一年の当初にかけてのダライ集団の動揺から決断までのいきさつをのべよう。これは「日本と中国」紙代表団が一九七七年四月、ラサにおいて会談したトテンタンタ氏(元ダライ一四世秘書長、和平交渉代表団五人の一人)から取材したものである。
アペイ・アワンジンメイの手紙を二人の使者がラサにもたらしたのは、一九五〇年の一一月だった。そのころのラサには、チャムド一帯で国民党の敗残分子が流したデマ「中国共産党は人間を食う野蛮人だ」といううわさがひろがっていた。アペイの手紙は、これを真っ向から打ち消すもので、中国共産党は立派で、チベット民衆を援助するものだ。代表を北京に送って談判することが、チベット上層集団にとっても利益になることだということが、懇々と説かれていた」。

「ダライ集団はこの手紙を信ずることができなかった。・・ラサ駐在のR・フォックスなどのイギリス人が、「北京に代表を送ったらおしまいだ」という警告をくりかえしたからである。また、ダライ集団のまわりには、イギリスが長年かかって養成した手先がいた。その一人シャラバという男が、インドからダライ一四世に手紙を送って、チベットにいると危ないからインドに逃げてこい、イギリス政府に交渉して了解も得ている。イギリス当局は、ラサに空港をつくれば、迎えの飛行機を送るとまでいってくれていると書いてよこした。ダライ一四世は一一月八日、ラサを出発してインドに向かった。また、おびただしい財宝をシッキムに送らせた。ダライ一四世は、ヤトンにつくと、インドとイギリスに亡命方の連絡をとった。返事はシャラバがいってよこしたような甘いものではなかった。アメリカ・イギリスが欲したのは、チベットにあってその絶対的支配権を行使して祖国からの分離を宣言するダライであって、一亡命者としてのダライではなかった。返事は一流浪者としてインドに亡命するならうけ入れようというものでしかなかった。ダライ一四世は失望し悩んだ。そこへ、アペイ・アワンジンメイからの二度目の使者が手紙をもってきた。アペイはくりかえし「外国人のデマを信じてはいけない。北京に使者を送って和平談判することがチベットの活路だ。心配はいらない。チャムドにいる四〇人のチベット軍将校が、こぞって中国共産党が信頼するに足る相手であることを保証する。アペイ自身が、代表の一人になって北京に行ってもよい」と書いていた」。

「年は明けて一九五一年になっていた。・・ダライ一四世の最初の重要な仕事は、インドに行って一流浪者になるのか、それとも交渉代表を北京に送り、祖国の懐にかえる道を求めるかを決断することであった。かれは、アペイの提案をうけ入れ交渉代表を任命した。アペイ・アワンジンメイを首席代表とし、地方政府代表と高級ラマ代表など五人を決定した。高級ラマ代表として代表の一人になった(このインタビューの相手である)トテンタンタ氏(元ダライ一四世秘書長)は、当時の感想を次のように述べている。
「私はチベット以外の地に行ったことがないので、北京に行ってよく調べてみる。もし中国共産党が悪いものであれば、取り決めに反対だという手紙をあなた(ダライ一四世)に出す。良いものと分かれば、あなたに代わってサインしてくると、ダライ一四世にいいました。また、行って良いか、悪いか、うらないもしてみましたが、良いと出たので、出発したのです」」(以上、参考文献3;p.80-82)。

参考文献:
1.「中国はいかにチベットを侵略したか」(M・ダナム/2006/講談社インターナショナル)
2.「赤いチベット」(R・フォード/1970/芙蓉書房)
3.「チベット−その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)

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