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=建武新政関連2=
○後醍醐天皇の中宮(正室)禧子について。
「君恩葉よりも薄かりしかば、一生空しく玉顔に近づかせたまわず」
(参考文献1)。

○「また(阿野)廉子の悪女ぶりは、倒幕の立役者護良親王の追い落としにもうかがえる。『太平記』によれば、建武新政が始まると、護良と足利尊氏の関係は険悪さを増し、護良はひそかに尊氏を討伐しようとして令旨を下し、兵を募ったという。一方、尊氏は「護良親王が帝位を奪おうとしている」と廉子に讒言し、廉子がそれを後醍醐天皇に密告したため、天皇は激怒して護良を捕らえさせ・・たと伝えている。廉子と尊氏の関係は、廉子所生の次子成良親王の養い親を尊氏がつとめていたことによるものであろう。
この護良親王の追い落としは、廉子にしてみれば、わが子を皇位につけたいため、将来、障害となるであろう護良を排除しようと考えてのことであり、同様にライバルである護良を排除しようとする尊氏と利害が一致してのこととみられる。罪のない護良は、稀代の悪女といわれる廉子により・・」(参考文献2;p.132-133)。

○「そこで、高野山や根来山(真言宗の別派)においては、自衛上、僧兵を養うのやむなきにいたつたのである。・・その勢いの趣くところ、いつの間には、暴力をも敢えてするにいたり、四隣を攻略し、多量を掠奪し、一時根来山は七十万石、高野山は百万石を領するにいたったのである」(参考文献3;p.154-155)。

○「この秘儀の奥旨を師資面授するための、真言密教独自の儀式が伝法灌頂にして・・。
・・いまなお、昔のままに行われている伝法灌頂において、阿闍梨自らの付属物として、この五股金剛杵を受者にさずけ、「これはこれ、一切如来の大智の金剛である。これはこれ諸仏の体性である。大日如来これを金剛薩タにさずけ、薩タこれを龍智にさずけ、かくの如く相承していまに絶えない。堅く三昧耶(即ち本誓)を護りて、常にまさに、これを受持せよ」等と教戒するのである」
(参考文献4;p.47-51)。

○「平安後期の院政時代に、後白河法皇によって編纂された今様歌集の『梁塵秘抄』・・に、
三会の暁待つ人は 所を占めてぞ
おわします
鶏足山には摩訶迦葉や 高野の山に
は大師とか
という歌がある。その意味するところは、古代インドの仏跡である鶏足山という岩窟には釈迦の弟子の迦葉尊者が、(56億7千万年後の)三会の暁と別称される弥勒仏の出現を待って、いまも入定している。それと同じように、わが国の高野山・・でも弥勒出現のときを待って、弘法大師・・が入定している、というものである。
この歌には、これから説明していこうとする日本における弥勒信仰と弘法大師の入定信仰が凝集してうたい込められている。
入定とは、坐禅によって精神を統一させ、生死を超越した不滅の修業の状態をいう。迦葉尊者と弘法大師は、それぞれにこの状態で弥勒仏の出現を待っている。・・
・・高野山では、真言宗の開祖である空海が、高野山を弥勒下生の浄土としてその奥之院に入定した、という入定伝説が成立している」(参考文献5;p.128-131)。

このように、信者の中では弘法大師は今も高野山の寺の奥の「奥之院」に生きたまま坐禅を組んでいるとされているが、高野山の正式見解では、大師は天の高いところで弥勒菩薩のもとで現在も坐禅を続けていることになっている。だが体はミイラ化したまま現在も寺に在るともいわれている(火葬説もあり)。「今昔物語集」にも弘法大師伝説が登場し、ミイラ化したまま髭や髪の毛を伸ばすので弟子が定期的に剃ることになっている。また廟に参拝者があると、古木戸が自然に開いたり、時には誰も居ないはずなのに鉦を鳴らす音が聞こえたりするとある。

参考文献:
1.「太平記」(作者・成立時期不詳)
2.「後醍醐天皇のすべて」(佐藤和彦・樋口州男編/2004/新人物往来社 )
3.「真言宗読本 宗史篇」(栂尾祥雲/1977/高野山真言宗教学部)
4.「真言宗読本 実修篇」(栂尾祥雲/1977/高野山真言宗教学部)
5.「曼荼羅の宇宙」(金岡秀友・山折哲雄他/1988/集英社)
6.「今昔物語集」(作者・成立時期不明)

<空海のタントラ「仏教」とチベット>シリーズURL
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/folder/1040433.html

=建武新政関連1=
1.現在、当HPにて
「空海のタントラ『仏教』とチベット」シリーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/39672281.html
を掲載している。

その記事に関連するデータをこちらの「歴史」分野に今後時々掲載することがあるので宜しくお願いしたい。

1.早速だが、いくつかのデータを以下に載せる。

○「ところで、尊治(たかはる;後醍醐天皇のこと)の場合、影響を及ぼしたのは儒教よりも仏教ではなかったかと思う。それも新興の禅宗よりも、天台・真言宗の密教とのかかわりあいのほうがずっと深かった」(参考文献p.40)。

○「即位したとき、後醍醐は、すでに三十一歳の壮年に達していた。・・
もっともスタートのときは、確かに清新な政治だった。それについては、名残を惜しみながら帝位を去った持明院系の花園上皇さえ、「現今の政治はいい。聖王の政治だ」とほめているくらいだ。この花園上皇は、後醍醐にひけをとらない学者天皇だが、まったくタイプを異にする教養派で・・後醍醐にはない冷静かつ公平にものを見る目をもっていたことは確かである。
もっとも、やがて後醍醐は、この花園を怒らせるようなことをやってのける。持明院系の領有する荘園の人事に介入したり、勝手に自分の親しい人間に荘園内の権利を与えたりしたのだ。・・これは・・両統間の大問題となった。
こんなとき、後醍醐はまず理論(当時中国から入ってきた朱子学)を振りかざす。「天皇の命令である綸旨は、院宣に優先する。なぜなら現在の最高権力者は天皇であるはずだから・・」というふうに」(同p.41-42)。

○楠木正成の出自について面白いことが分かってきた。
「和泉国若松荘というのは、もと臨川寺という寺のものだったが、これを一時、後醍醐が、道祐という僧正に与えたことがあった。これに臨川寺が文句をつけたので、後醍醐はあらためてここを臨川寺のものとしたが、悪党楠木兵衛尉がここに押し入って不法占拠して、云々・・」(同p.51)という古文書が発見されたのである(上の文章は永井路子氏によるまとめ)。
つまり、タントラ立川流の総裁である文観の弟子の道祐の部下が楠木正成だったのだ。
「つまり、正成は臨川寺側からみて「悪党」だったのである。このころの文書を見ると、自分に都合の悪い人間のことは、すぐ「悪党」よばわりするのが例だから、これもそのひとつ・・。
文観はふつう後醍醐を猥褻な妖術でたぶらかした悪僧のようにみられているが、決してそんな安っぽい男ではない。豊富な財力と巨大な組織網を駆使して・・今後の争乱の企画・演出・・プロデュースいっさいをとりしきった黒幕なのである」(同p.51-52)。

○「後醍醐親政のなかで、最初におきた血なまぐさい事件は、護良親王の失脚事件だ。彼は後醍醐が隠岐へ配流されている間も、勇敢にゲリラ的抵抗をつづけた。その意味では、楠木正成と比肩すべき功労者なのだが・・。逆に尊氏の密告によって、謀反の疑いがあるという名のもとに捕らえられ、鎌倉へ送られ、非業の最期を遂げる。・・
ひとつ考えられるのは、後醍醐の最愛の妃阿野廉子の差し金だ。護良は廉子の子ではない。・・尊氏が密告した直接の相手が廉子だという・・」(同p.61)。

○「さらにもうひとつ、後醍醐天皇については言っておかなければならないことがある。というのは、その生きた時代よりも、後に、特に明治以後、にわかにクローズ=アップされたことについてである。
それ以前の後醍醐に対する評価は、必ずしも高くはなかった。南朝贔屓(びいき)と思われる『太平記』もじつは後半になると、手きびしく後醍醐を批判している。「徳がない」「その器でなかったものが帝位についたので、失敗するのはあたりまえだ」等々・・。・・それが『大日本史』を編纂した徳川光圀が南朝を正統としたことからしだいに脚光を浴びてきた。これは光圀の大義名分論からくるのだが、明治以後はそれにもうひとつの要素が加わった。すなわち、維新後の天皇制国家が、天皇親政の原理を後醍醐に求め、いやがうえにも建武政治は理想化され、後醍醐像がクローズ=アップされたのだ。・・醒めてみれば、彼は狂信的な権力愛好者、変動期に咲いた保守反動の徒花にすぎない」(同p.75)。

お知らせ:
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参考文献:
「人物日本の歴史7」(永井路子他/1976/小学館)

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