ここから本文です
当HPは今年終了します。→https://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/48230188.html

書庫言語

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]

日本語ではなく英語を公用語とせよ!190830
1.さて私がこのブログで書けるのも明日までである。それ以降も今年か来年のある時期(ヤフー社からの通知が来るまで)はツイッターで書けるため、以後はツイッターを見ていただきたい。

1.さて、現在我が国においては、英語教育の強化の必要が認識され、文科省などが推進しているのであるが、これに対する抵抗が強まっている。

1.たとえば、今年1/30に産経の正論欄に投稿された施光恒九州大学准教授の
「英語偏重教育は国益にかなわぬ」
という記事
(これが最近の抵抗運動の典型例なため、これを叩き台にしたい)
においては、次のように主張される:

〇国民の分断化が進み、「アジアやアフリカの旧植民地国同様、日本でも国民が「英語階級」と「日本語階級」に分断されてしまう恐れがある」。
〇日本語と英語のあぶはち取らずに終わり、「基礎学力の低下」が起きる。日本語も英語も出来なくなり、さらにすべての学科で学力低下が起きる。
〇今後の世界は「脱グローバル化」「国民国家への回帰」が主流になる可能性が小さくない。つまり現在のグローバル化は終わるから、英語偏重教育は不要である。

1.以上のように言われている。確かに善意の意見ではあるが、最近主張されている反英語論に共通してみられるのであるが、結局のところ、現在のほとんどの人が英語ができない現状をどう変えて全ての人が英語をマスターしていく道は何かという対案が全くないのである。

つまりこの方だけではないが、英語は一部の人だけが出来るようになればいいという考えなのである。

しかし、我々国民は中学生時代の3年間、義務教育として英語を教えられるのである。
そしてまさにほとんどの人にとって英語教育は無駄であったという結果になっている。

これはあまりにも悲惨なことではないだろうか。

なぜ一部の人が英語ができるようになるために、ほとんどの人が無駄な時間を過ごさなければならないのか。
人生の大切な時間を無駄にされてきたのである。不幸な体験をしたのである。
それを良しとする思想は独裁者の思想そのものではないだろうか。

1.本当に一部の人だけ英語ができればいいのであるならば、英語は義務教育から外すべきである。
否、高校・大学でも教える必要はないであろう。
一部の人だけが専門学校で学べばよい。

本当に一部の人だけでも英語が必要であるならば、企業などはそういう人を優遇して採用するであろうから、需要と供給の関係において程よいバランスが保たれるはずである。

1.さて、この方はグローバル時代は長く続かないと言われる。そうであろうか?
確かに間違ったグローバル化は続かないが、やはり正しいグローバル化の時代こそが求められ、それが実現していくはずである。つまり地球は1つになっていく。

そういう中において、我々全員は英語ができるようになった方がいいのである。

しかし教授は言われる。英語の教育をやると日本語も出来なくなるし、全ての学科において学力低下が起きると。

1.私は残念ながら、今のままでいくと確かにそうなる可能性があると考える。
しかし、英語教育と国語教育、さらにすべての学科の教育はそもそも両立できないものなのであろうか?

例えばスイスにおいては、公用語はドイツ語・イタリア語・フランス語の3つあり、全ての国民はマスターしているのである。学力低下も起きていない。

つまりやり方の問題なのであり、本来的に英語教育の強化とほかの学科が両立できないということはない。
むしろ、英語と日本語の2つを教えることで、その違いが注目され、なぜこのような違いが発生するかに疑問を持って考える子供が増え、ボサッと生きてちこちゃんに叱られる子供が減るであろう。
つまり英語と日本語を教えることは相乗効果があるはずなのである。

1.しかし残念ながら現在の文科省のやり方では、施准教授の予測が当たり、全部の学科が全滅する可能性はある。

だったら、本当に英語と日本語が両立できないならば、英語を優先すべきではないだろうか。

そうすれば中途半端にならず、英語をマスターできる。故に全部の学科もマスターできていくのである。

1.しかしそのようにするならば、施准教授の恐れるとおり、国民の分断化が進み、「アジアやアフリカの旧植民地国同様、日本でも国民が「英語階級」と「日本語階級」に分断されてしまう」ことはないだろうか?

この点を今回記事で集中的に考えてみたい。

1.施准教授は次のように言われる:

「小学校で英語が正式教科となれば、私立や国立の中学校入試で「英語」が必須科目となる。文法や読解よりもコミュニケーション重視というのが昨今の流れであるから、中学入試に英語の面接やリスニングが導入される。その対策として教育熱心で経済的に豊かな家庭では、小学生の頃から子供を米国や英国、フィリピンなどに語学留学させることがはやるはずだ。「教育移住」を選択する家庭も増えるだろう。当然ながら、この流れについていけるのは富裕層だけである。

第2に、国民の連帯意識が損なわれる恐れもある。特に懸念すべきは「エリート」層の変質である。語学留学や教育移住を経験し、英語はそこそこできるが、日本語は怪しく、日本の文化や常識をあまり身に付けていない者たちが今後の日本のエリートとなる。
新しいエリートたちが一般の日本人に対して連帯意識を抱くかどうか疑わしい。アジアやアフリカの旧植民地国同様、日本でも国民が「英語階級」と「日本語階級」に分断されてしまう恐れがある」。

1.私は、日本の富裕層において子供時代からの語学留学が一般的になった場合、心配すべき点は次の点だと考える。

第1に、これまでに蓄積された文学をはじめとする文化遺産の継承が困難になるか。
第2に、日本文化の優れた点、例えば集団結束力=チーム力や、見えないところも丁寧に作る職人文化や礼儀正しさ、国のため身を犠牲に出来る武士道精神などが失われないか。
その他。

1.さて、大坂なおみ選手は小学校時代から米国にテニス留学し、日本語はあまり出来ないが、極めて日本文化の良いところを継承している選手だと言われている。
またカズオ・イシグロ氏も英国国籍を取得され、ほとんど日本語は出来ないのであるが、日本文化の優れたところを継承されている作家だと言われている。

以上のように、三つ子の魂百までと言われており、語学留学を行ったからと言って日本文化の継承が出来ないということは全くないのである。
むしろそれが出来ないという見方は、バイリンガルの人に対する一種のヘイトか差別ではないだろうか。

我が国の伝統とは、積極的に外国の優れた文化を受け入れてきたことである。
飛鳥時代以前から、我々の先祖たちは果敢に朝鮮・中国の進んだ文化を取り入れるため、命がけで航海を行った。

それによって日本文化はより豊かにされたのであり、失ったものなどない。

また例えば印度は英国に支配され、今日英語が公用語となっているが、果たして印度文化はなくなったであろうか?むしろ極めて根強く残っていることが問題にされているほどである。

また、インドネシアはオランダに支配され、その後米国に事実上支配され、英語の盛んな国になったが、やはり印度と同じことが言える。

またフィリピンもスペインに支配され、その後米国に支配され、英語国になったが、フィリピン人の魂は全く消滅していない。

1.つまり、言語とか宗教とかは、ある民族が別のものを借用することがあるが、それによって本来的な魂が滅びるということはめったにないことなのである。だが滅びる事例もあるため、あとで説明する。

例えば、仏教が日本に伝わり、今日日本を仏教国と考える人が多いのであるが、実は今日においてもほとんどの人は実は神道信者なのである。
そのことは、悪いことはささっと水に流す安直さ。人が死ねば仏になるという考え方(このような考え方は仏教にはない;死ねば神になるという神道の考え方が形を変えたもの)。産湯を神道で上げ、結婚式はキリスト教、葬式は仏教という多神教ぶり。普段は神様のことを全く忘れており、極限状況になったときにのみ思い出して神頼みする(人間のため神を利用する)という人間中心主義。これらにはっきりと表れている。

日本に仏教は伝わったが、信仰内容は何も変わらなかった。

同じことは諸外国にも言え、インドネシアでは原始時代の多神教の上にバラモン教が重なり、更にイスラム教が重なったが、信仰の本質は変わっていない。

イランにイスラム教は伝わったが、快楽主義のゾロアスター教とあまり変わらないシーア派の教義になってしまった。

欧州においては、北欧ではもっとも勇敢に戦って死んだ戦士をワルキューレという一種の天使が天国に運び、天国で永久に戦士は戦争が出来る(死んでも翌日生き返る)という身分を与えられるというゲルマン神話が信仰され、南欧では罪を犯した時は酒を飲んで牛を生贄にして焼いて食べ、焼いたおいしいにおいで神々を買収すれば罪は全部消えるという安楽なギリシャ神話が信仰された。

その上にキリスト教がかぶさってきたのだが、北欧人と南欧人の魂は変わることがなく、結局南欧のカトリックと北欧のプロテスタントに分裂した。

1.以上のように、宗教や言語とは、手段とか外見の要素が強く、ある民族が別の言語を用いることがあっても本質が変わることはほとんどない(例外は後で考える)。

たとえば、日本語とはもともとはアイヌ語であったと考えられる
(抱合語:主語-目的語-動詞・形容詞-名詞の語順)。

そこへ数千年前、中国揚子江付近から東南アジア語系の種族が移住し、大規模米作農業と弥生式文明を始めた。これが私は今日の天皇家の祖と考えている
(言語は孤立語:主語-動詞-目的語・名刺-形容詞の語順)。

更に倭国や邪馬台国は盛んに朝鮮に侵略し、大量の朝鮮人を奴隷として拉致し、連れ帰った。
これは進んだ文明を取り入れるためには人間を誘拐することが早いと考えたためである。
こうしてDNA的には日本人の主流は朝鮮系になり、言語も文法上は韓国語になった
(膠着語:主語-目的語-動詞・形容詞-名詞の語順)。
ただし文法は韓国語になったが、単語自体は東南アジア系やアイヌ語系が大量に残った。

このように様々な言語は上にかぶさってきたのだが、それによって古い文化が死ぬことはなく、より良い方向へと融合されたのである。

1.つまり言語とは手段としての面が強い。確かに言語自体にその民族の知恵が埋め込まれている場合もある。
たとえば日本語では、1(HITOTU)と2(HUTATU)、3(MITTU)と6(MUTTU)、4(YOTTU)と8(YATTU)が関連付けられている。
このように「×2」で関連付けられる言語は珍しく、多くの場合は
英語の2(two)と3(three)、4(four)と5(five)、6(six)と7(seven)のように、「+1」の考え方で成り立っている。

また日本語は発音はクリアで、50音が明確に分けられる。
ここが英語のように「ア」の発音だけでも5種類くらいある言語と違う。

つまり日本語の場合は文明が進むことで社会の単語の数が増えると、同音異義語をなくすために単語の長さが長くなる。
一方で英語の場合は、文明が進んで単語の数が増えると、母音や子音の数が増える。
つまり単語の長さが大きくなることを防ぎ、コミュニケーションに失敗するリスクを冒してもスピードを重視する。

また日本語は諸言語に比べ単語の数が多く、わずかなニュアンスの違いも単語の数を増やすことで対応する。
一方で英語は単語の数が極めて少ない。
したがって意味の違いは単語の違いではなく、語順によって表現される。
日本語では語順の違いによって意味が変わることはない。

このことが英語国民の場合は、文の意味を知るためには文の構造に注意する必要を作り出し、全体に対する注意が個々の単語に対する注意よりも深くなる。

したがって英語国民の場合は戦略性が増し、日本国民の場合は戦術性が高くなる。

このことが文学でも、構造的な全体小説を生み出し、日本の長編小説はまるで短編小説の集合にすぎないと言われるゆえんである。

またチェスは戦いの初期において戦略段階で勝負が決まる。したがって後半の戦いは退屈になる。
ところが将棋の場合は、終盤になるほどスリリングになる。
それは取った駒を使うことが出来るためである。
取った駒を使えるため、取った駒が増えることで、戦術の可能性・多様性が、終盤になるほど爆発的に増えるという逆説が起き、つまり最後まで逆転の可能性が残ることでゲームは面白くなる。

ここに日本人職人が最後まで手を抜かない秘密がありそうである。

1.しかしこれらの民族性の原因が、100%日本語から出てきているということは言うことが出来ず、民族性は言語を作るが、逆に言語が民族性を作るということは数%でしかないであろう。
それは言語を他のものと交換した民族において民族性が何も変わらないことで明らかである。

1.またこの際、PTを作り、これまでのわが国の民族遺産、例えば古典的なすべての文学作品などを英語に翻訳しておくのである。
そうすれば、英語だけ出来る人々が、日本文化を継承できないということはなくなるはずだ。

1.以上から言えることは、日本の言語が英語に切り変わったとしても、これまでに蓄積された文学をはじめとする文化遺産の継承が困難になるとか、、日本文化の優れた点、例えば集団結束力=チーム力や、見えないところも丁寧に作る職人文化や礼儀正しさ、国のため身を犠牲に出来る武士道精神などが失われることはないということである。

1.しかし、世界の歴史において、確かに言語が変化することで従来の文化が死に、従来の魂が死んでしまった事例が存在するのである。そうした事例を研究することで、逆に日本ではそうはならないことが明らかになる。

では具体的にはどういう事例があるのであろうか?

第1の有名な事例は、スペインが中南米を侵略した時起きた。
このとき中南米印度人は、従来の文明に比べスペインの文明が格段に進んでいることを知り、そこへの憧れを持った。

また中南米をスペイン人が支配することにより、印度人はスペイン人に迎合しなければ出世できないことを知ったのである。

ここから彼らは必死でスペイン語を習得しようとした。また習得したのである。

ところで、スペイン人は侵略のため来ていたのであり、男性が多く、ほとんど女性はいなかった。このため印度人奴隷の女性に手を出し、混血児が大量に生まれた。
また混血児はスペイン人に現地人よりも信用され、重用された。

1.そこで現地人は、スペイン人の居住地にやってきたとき、自分の先祖はスペイン人だと名乗ったのである。混血児を偽装した。
しかも戸籍が整備されていないため、ウソを見抜くことは出来なかった。

そのうちには、全く純粋なスペイン人も少なくなり、日に焼けて色も黒くなった。そこで印度人は初めから自分は混血ではなくスペイン人だと名乗り始めた。

1.このようにして自分はスペイン人だと偽装した印度人は、必死で過去を忘れ、スペイン文化を身に付けることに励まざるを得なかったのである。

1.ところでこういうことが可能になるためには、新たな外来文明が優秀であると理解できるまでに現地の文明が発達していなければならない。つまりインカ文明とかマヤ文明はそういう段階に達していたのである。
一方で北米印度人はそういう段階まで達していなかったため、武力抵抗だけに走ることで滅びたのである。

また単に現地文明がある程度発達する必要があるだけでなく、戸籍制度が完備されるまでに発達していてはまずい。インカ・マヤ文明はまさにこのベストな段階に合致したのだ。

また、現地人と外来人が外見上にている必要もある。つまりアフリカ黒人が白人を偽装することは不可能であった。

1.もう1つ、先祖の偽装が成功した事例を紹介する。それはペルシャ人がトルコ人を偽装し、さらに蒙古人を偽装し、さらに印度人を偽装した事例である。

ペルシャ人は太古、今日のイラン高原だけでなく、中央アジアを広く根拠としていた。そればかりでなく、考古学の教えるところによると、原始時代にはシベリアのほとんどもペルシャ人の勢力圏であった
(そういう寒いところに住んでいたため白人になったのである)。

ところが原始時代のある時期にシベリアは黄色人種の本拠に変わった。

さらに紀元前2世紀、ペルシャ人の「月氏国」はトルコ人の一派「匈奴」の老上単于配下の右賢王の征討に遭い、月氏王が殺され、その頭蓋骨は盃(髑髏杯)にされた。
こうして月氏は西に追いやられ、匈奴と漢の戦いが始まった。

漢の武帝の征伐によって匈奴は西に追われ、中央アジアはトルコ人の天下となった。

ここからペルシャ人のトルコ人への偽装が始まる。実は今日のトルコ人は完全に黄色人種から白人化しており、東中央アジアのトルコ人とはすべてペルシャ人の偽装である
(一方、西中央アジアのトルコ人とは、小アジア半島のトルコ人も含め、すべてロシア人の偽装である)。

1.このようにして先祖を偽装するということを行った事例においては、従来の魂は全て死滅している。
しかし先祖の偽装ということは不可能であるケースも多い。

ところで、我が国においても実は大量の先祖の偽装は行われている。それは故意によるケースと故意ではないケースがある。

まず故意ではない有名な事例では、「漢」(あや)氏、「呉」(くれ)氏、「秦」(はた)氏がある。
これらは全て先祖は朝鮮人と考えられる。
ではなぜ中国の地名が付いたのか?

それは、「秦」(はた)氏とは「はたおり」の専門集団だったと考えられる。そして日本の歴史のいずれかの段階においては、織物が最も豪華で立派だったのが、秦時代のものだったのではないか。
このために織物を意味する日本語の「はた」を漢字にする場合、「秦」を当てはめたと考えられる。

また「漢」(あや)氏とは、中国語の通訳とか、文献の翻訳の専門集団だったと考えられる。
そして日本の歴史のある段階において、翻訳・通訳の最大の相手が漢帝国だったのではないか。
このため(言葉の)「あや」の漢字として「漢」を当てはめたのではないか。
最新の研究ではそのように考えられている
(今思い出した。この説は金廷鶴氏「日本の歴史別巻1 任那と日本」小学館/1977に述べられている)。

ところが時代が進むとこのような事情は忘れられるに至った。このため、漢氏から派生した坂上田村麻呂(第2代目征夷大将軍;初代は大伴弟麻呂)は、自分の祖先は朝鮮人ではなく中国人だと思っていた。

1.上で私は大量の朝鮮人が倭国によって誘拐されたと述べた。
これらの朝鮮人を祖先とする人々は、もともと日本人だと「偽装」を行った。
その際、主人の家を名乗ることが多かった。

つまり当時の日本では、主人の家と奴隷の家は一つだという考え方が強く、同じ姓を名乗ったのである。

このことは邪馬台国時代だけでなく、ごく近年になるまで続いたことである。
つまり日本では、殿様に同じ姓を与えられるとか(徳川家も松平家の量産を行った)、全く血がつながっていなくとも、一家に何らかの原因で一緒に住むことになった場合、同じ姓を名乗ることが多かったのである。

我が国において戸籍制度は存在しなかったこともあり、或いは戸籍制度の中断の歴史もあった。
そういう場合に、そこをついて、もともとの姓だと身分をくらますケースは非常に多くあった。
そのような場合は、必死で元の家系の記録や記憶を抹殺し、姓にふさわしいことを行おうとするため、逆に日本の伝統の継承は盛んにおこなわれたともいえる。

1.つまり言語の借用によって元の文化が死ぬことはある。だがそういうことは日本の文化には当てはまらず、逆に日本の文化がより大きく継承される方向へと、そう言う場合でも働くのである。

1.ここで、国民の分断化が進み、「アジアやアフリカの旧植民地国同様、日本でも国民が「英語階級」と「日本語階級」に分断されてしまう恐れがある」の点について考えてみよう。

そういうことが発生するためには、日本文化に比べ英語文明が格段に優れていなければ不可能なことが分かるであろう。

中南米印度人がスペイン人を偽装して従来の魂を殺した時、そう言うことが必要条件だったのである。

「アジアやアフリカの旧植民地国同様、日本でも国民が「英語階級」と「日本語階級」に分断」されるためには、やはりそういうことが不可欠の条件である。

なぜなら我が国は民主主義国であり、仮に「英語階級」が「日本語階級」を不当に支配しようとすれば、そう言う人たちは選挙でえらばれるであろうか?簡単に落選することは明らかではないか。

仮に日本語を話す日本人が過半数を占めているならば、立候補者は必至で日本語を勉強するはずだ。

つまりそういうことを心配するよりも、米国と日本との二重国籍を禁じたり、中国国籍との二重国籍や、全ての二重国籍を政治家・官僚において禁じることの方が喫緊の課題なのである。

=より良い英語教育のための提案(またはエッセー)=
1.英語は読み聞き書き話すの4技能が総合的に習得されていかなければならない。
たとえば、英語の発音に全く無関心な人は、読む力もあまりないであろう。
つまり正しく読む習慣をつけることで、なぜこの単語はこういうつづりでこういう形をしているのかが自然に理解していけるのである。

不自然な発音をしている人は、なぜこの単語はこういう形をしてるかの理解が浅くなる。つまり丸暗記をそれだけ多く行わなければならない。

だが4技能を総合的に進めながら、一番重要なことは読む力である。読めるということは英語で考えられるということである。それは外国人と話す以上に重要なことである。

つまり読めるということは、例えば日本にやって来た外国人に親切にガイドをしてあげた話せたという以上に重要なことであり、例えばリンカーンと肝胆相照らす仲になれるということなのである。

従って話す力を重視するあまり、これまでの英語教師が培ってきた読む力の育成を壊しては何にもならないであろう。
また読めない人は簡単な日常会話以上に話すことも聞くこともできないはずである。今我が国に必要とされるものは、読む力を前提とした話す力である。

1.したがって文法は極めて重視されなければならない。
赤ん坊は文法なしでも日本語を覚えていく。しかし小学校以上において、全く文法なしで英語を教えても、なぜそうなのかが分からないから、考えない子供を作るだけだ。
当然小学校では簡単な読み聞き書き話す力を育成すべきであり、教える文法も簡単でなければならないだろう。

1.英語学習の動機付けの点で、英国人や米国人と触れる機会は重要であろう。
また、英語でTVを視聴できる機会も重要である。
このことこそが英語教育を成功させるもっとも重要な点だと私は考えている。
インターネット経由で、米英で作成されたドラマやニュース番組がすでに視聴できるのであるが、是非政府はこういう機会を増やすことに努力していただきたい。

ここが重要なのは次の点である。
英語が読める人は基本的に英語を話すことが出来る。たどたどしい英語かもしれないが、深い内容を話すことは出来る。これこそ相手が求めるものである。
だが読むだけでは相手の言うことを聞きとることが出来ない。ここがTVの英語放送などで補えると思える。

私は書くことや話すことはそれほど難しいことではないと考える。話すことは、瞬間的に英文が頭に浮かぶようにすることは私の体験では数週間の訓練で可能だった。
したがって重要なことは読むことと聞くことであると考える。

しかし次のような意見もある。話すことが最も重要であると。ただし正しく話すことが重要であると。

つまり正しく発音して話すならば、自分の話す英語が正しく聞き取れる。

自分が正しく発音していないから相手の正しい英語が聞き取れないのだという。
したがって正しく発音して話していれば、自分の発音で耳が鍛えられるから必ず相手の発音が聞き取れるのだと。

これも正しい意見と思える。

従って4技能の全部を総合的に習得することが重要である。


「令和」について190417

「令和」について190417
1.私はそもそも「元号」に反対である。また「令和」と言う元号も好きではない。

1.令和の令は「令嬢」とか「令息」の令であり、「令和」と言う言葉はきれいではある。
しかしこのような元号は我が国の現状にふさわしいであろうか?
そうではなく、付けるならば「天下布武」とか「一億赤心」などのダサい、泥臭く努力と戦いを喚起するようなものであるべきであろう。

1.また西暦がすでにあるのに、更に和暦を持つ必要があるであろうか?そういうことは贅沢である。ぜいたくは敵だ。無駄なきれいなものを余計に持っている人間は弱い。無駄なものを切り捨ててこそ人間は強くなれるのである。

1.元号に反対する意見の中に次のようなものがあった。
元号とはもともと中国で作られたものであり、その目的は皇帝が国土だけでなく時間も支配する為であった。したがって天皇が時間を支配するためのものだった元号を使うことは民主主義に反するのであると。

1.しかしこのような意見は論理の飛躍がある。
そもそも元号が作られる以前から、中国では時間は王によって管理されていた。
つまり正しい農業に適した暦(こよみ)を作る必要があり、そうした作業は統一王朝以外で作成することは不可能だった。

こうして中国では、中央の作ったこよみが一斉に降ろされて、それに基づいて農作業を行うことが必然的に行われたのである。これはどこの農業国も同じだったと考えられる。

1.このような元々時間とは国王や皇帝が支配・管理すべきと言う考え方があり、また古代においてはそれ以外に不可能であった。したがって元号は事新しく時間を支配するためではなく、もともと王が時間を管理するのであり、そこを前提としたうえで、さらに時間にニックネームを付けることで様々な政策目的に活用されたのである。

その目的の大半は、豊作を願うためとか、疫病を追い払うためであった。

1.そういう中において、天皇の支配を強めるため元号が利用されたこともあったであろう。明治維新以降は確かにそういう目的で元号を利用しなければならないのだという確信が、薩長政府にはあったように思われる
(果たしてどこまで効果を上げたかは別として)。

1.しかし戦後以降の元号は全く意味が異なるのである。天皇のために元号があると考えているものは一人もいないであろう。

なぜ現在我が国に元号があるのか?それは、元号があるということが世界で日本にだけあり、これが世界に誇るべきことだと考える人がおり、それがよき風習であると考える非常に多くの人々がおり、それが無くては何となく寂しいと考える多くの人がいる。

いわばこうした人々を対象とした選挙目当てのサービスにすぎないのだ。

つまり今現在元号が存在するのは、天皇のためでも政府のためでもなく、国民がそれを望むからのサービスなのである。100%民主的なことと言うべきであろう。

1.同様のことが西暦にも言える。西暦を使うのは我々がキリスト教徒だからではない。
単に先進国の多くがキリスト教であるためそれを使っているから利便性のため使うに過ぎないのである。

将来、仮に先進国の多くがイスラム教になるならば、我々はイスラム歴を採用すればいいだけだ。

1.以上から明らかなとおり、もともとこの暦は何に由来しているからどうのこうのと理屈をつけることは全くナンセンスなことなのである。

我々は元号を使っても天皇に支配されることはない。西暦を使ってもキリスト教に洗脳されることもない。全く無関係なことである。

一体どういう仕組みでメカニズムで、元号を使えば天皇に影響され、西暦を使えばキリスト教に影響されるのであろうか?およそ科学と論理を超えた話ではないか?

1.そこで元号を続けるべきか否かに戻る。なぜ一々換算を行わなければ文書が書けないとか話が通じないという不便をこらえる必要があるのか?

したがって一刻も早く行うべきことは、役所の文書を西暦に統一し、元号は使いたい人だけが使うようにすることである。
そのようにするならば、あと3-4回元号を続けるだけで、この風習はほぼ消滅できると考える。

要は先進国のより多くの人口が我が国の和暦を使ってくれるか、それとも西暦を使うかなのである。

独りよがりになるのではなく、多くの人が使うやり方で統一すべきなのである。

たとえば言葉とはあくまでも共通語こそが正しいのであり、方言とは使いたい人だけが使えばよく、何れは滅んでいくべきものなのである。

また我が国は日本語と共にいずれは英語を公式語とすべきである。言葉とはあくまでも多数に合わせることが正しい。それが利便性を生み、社会を発展させるのである。

西洋では長く知識人は無駄にラテン語を学習することを続けた。しかし今日そういうことはすたれ、もっと自然科学とかの肝心なことを学習するようになった。

無駄なことを行っている人間は肝心のことが出来なくなる。それは世界の中で日本人が落伍し、我が国が滅亡することにつながるのである。
TOEICなどの民間テストの導入による英語の大学入試改革について180403
1.私はこのような改革が行われることは何も問題はないと考える。

1.今回の改革について次のような反対意見がある。
第1に、公平でないという。なぜなら、英米などからの帰国子女が絶対有利になるからと。
第2に、民間試験は都会で実施されることが多く、地方の人間は不利である。
第3に、TOEFLは欧米の大学留学を目指す生徒の力を、TOEICはビジネスに使える英語力の判定をする。異なる試験を1つの基準に当てはめて、1点差で合否が決まる大学入試で受験生の力を公平に比較できるのかどうか。
第4に、学習指導要領との整合性がとれない。TOEFLやTOEICとは目的も内容も違うからである。

1.しかし第1の公平でないと言う意見を考えよう。それを言うなら、岸信介氏の孫だった安倍晋三氏は、政治学に関しては非常に有利だったことになる。八百屋の息子は経済学に関しては非常に有利と言うことになろう。医者の息子は生物学に関し有利かもしれない。

さらに言えば、DNA的に相撲取りの子供は相撲取りになることに関し有利である可能性が高いし、天才的数学者の家系から連続して数代にわたり優れた数学者が輩出された記録もある。

そういう不公平性をどう是正するというのか?

帰国子女は確かに普通に考えると英語がペラペラと言うことはありうるであろう。彼らがさらにほかの科目でも頑張っていれば、確かに大学入試でいい成績を取れるであろう。

だがこれからの大学入試の目的とは、そのような我が国にとって役立つ人材をより多く選択していくということではないのだろうか?

だがそれでは不公平だという。この考え方は共産主義以外の何物でもない。不公平だから是正しなければならないと。

それは結局、優れた人材にハンデを負わせ、劣った人間に下駄をはかせるというアファーマテブ・アクションに帰着するであろう。

そういうことを行った結果、米国は大幅な貿易赤字に陥っている。
欧州の多くの国々も同様であり、さらに欧米はCDSの9千兆円と言われる隠れ借金を負っているのである。

我が国も欧米の真似をして、それで今後の日本経済が大丈夫だというならば私は何も反対はしない。
だがこういうことに大きな危惧を持つがために、優れた人々の足を引っ張るのではなく、彼らを大いに働かせることで稼いでもらうことにより、日本全体が幸福になる道を選択すべきであると考える。

1.第2も同じ愚論であろう。
日本は国土が狭いと言われる。多くの途上国では、数の限られた国立大学に受けるため、徒歩で何日も歩きながら入試にやってくる。日本人は恵まれているのである。
こういうことにぜいたくを言っていては、どれほど我が国が今後進歩したとしても、必ず何らかの「不公平」をほじくり出して「発見」することは可能であろう。
こういうことを言う人間は頭がおかしいとしか言いようがない。

1.次に飛ばして第4について考えよう。
英語の基礎的な学力は中学において養成される。
と言うことは、話す事や聞くことに関し、一体高校では、TOEFLの「欧米の大学留学を目指す生徒の力」やTOEICの「ビジネスに使える英語力」以外の何をやっているのであろうか?

したがってもしここに不整合性があるのであれば、高校の学習指導要領を改定してTOEFLやTOEICに合わせればいいだけだ。

勿論書くことと読むことに関しては高校でこれ以外にもさらに基礎的な学力を育成しなければならないであろうが、民間で伝統のある何年にもわたり成功しているこのような試験に合わせることこそ、聞く力・話す力に関しては学習指導要領は全面的にこれに従うべきである。

1.<第3に、TOEFLは欧米の大学留学を目指す生徒の力を、TOEICはビジネスに使える英語力の判定をする。異なる試験を一つの基準に当てはめて、1点差で合否が決まる大学入試で受験生の力を公平に比較できるのかどうか。>

このような意見が出るということは、全ての生徒が同じ民間試験を受けるのではなく、ある人はTOEFLを受け、またある別の人はTOEICなどを受けるという違いがあるためと思われる。

しかしそれを言うなら、現在の大学入試においても、私は現在の入試の仕組みを正確にかつ全面的にわかっている自信はないが、第1次試験として全国共通の何らかのテストがあり、第2次試験として各大学の独自の入試があると思う。

したがって、ある人がより難しいA大学を受けていれば合格できたであろうに、たまたまより易しいB大学を受けたがために落ちたというような不公平もありうることである。
だがどこの大学を受けるかと言うことは本人が決めることなのである。

同じように、受験生がどこの民間試験を受けるかは本人が決めることであるから不公平はない。

1.結局のところ、このような反対意見とは、改革が行われることでの努力を惜しむ日教組などの守旧派の抵抗が根底にあると考えられるのである。
要するに生徒のためではなく、労働組合の自己権力や既得権益を守りたいがためのこじつけである。

様々な口実はつけたが結局我が国教育界は英語が我が国の第2公用語と言えるようにまですることに成功できていない。

私は我が国の語学力は高いと思う。
多くの欧米の優れた書物や情報は既に日本語に翻訳されている。

読む力こそ最も重要であり、文法も実は最も重要なことである。

多くの途上国で英語を話すことや聞くことが日本人よりも優れているのであるが、しかし読む力や書く力は大きく劣っている。そういう状態よりも日本の状態は格段に優れているのである。

だが今後のわが国は英語を話す力や聞く力がなければ生きていくことは出来ない。
その事にどう成功できるか?
しかも今までの成果(文法など)を失うことなく、さらなる高みに到達しなければならない。

1.そして現実問題、多くの途上国で英語の話す力・聞く力の養成に我が国以上にしかも簡単に成功できている現実があるのだ。

たとえば中国では、別に英米に留学したことがなくとも、英米人と1回も会ったことさえなくとも、我が国以上に多くの人々が英語を話すことが出来ている。

それは本気で必要だと考え、本気でこのことの練習に取り組んだ成果ではないだろうか?
特に教科書の音読が有効だと言われている。

ああだこうだと言って時間を空費している間に、我が国はさらに遅れを取り、世界中で我々はこの面では負けていくのである。

1.しかも民間試験の点数をどう成績評価に組み込むかは各大学に任されているのである。
さらに考えなければならないことは、これから文部省などでだれもが納得できる英語試験の方法を考えるということは、時間だけでなく、多くの金がかかるということである。

我が国は1千兆円の借金を追っているのである。

そういう中でどうお金と時間を節約していくかと言う視点がもろもろの反対論者の視点には欠けているのである。

まさに今回改革の優れている最大の点は、この時間と金を大きく節約できるという点にある。

TOEFLやTOEICなどは今までの経験によって試され済みの優れた存在と言えるであろう。
こういうものには多少の問題はあろうと、大いに取り入れていくことが必要である。
そうしてこそ、我が国はこれからさらに制度をより良くしていくなどと言う莫大な金がかかることを節約し、すばやく成果をあげていくことが出来るのである。

1.さらに記事を追加する。

1.前回記事で次のような疑問をもたれた方もおられるであろう。
すなわち、「将棋」のような単語は全く形式的に定義することは出来ず、何らかの意味で実質的意味を含むであろう。

しかし「わたし」とか「あなた」、「かれ」「かのじょ」、「これ」「それ」「あれ」、「ここ」「そこ」「あそこ」のような単語は、全く実質的意味を含まず形式的に定義できるのではないだろうか。
従ってそのような場合は、重ねことばを含まない文も可能なのではないかと。

今回はこれについて考える。

1.さて仮にこのような考えが正しいとしても、このような単語は全体の単語の中できわめて限られたものであるから、ほとんどの場合の文とは重ねことばになっているということがやはり成立することになり前回記事はやはり根幹部分において正しいことになる。

1.又私は、「わたし」とか「これ」「それ」「あれ」だけを例外的に全く形式的な例外的単語だとする考え方も、それなりに矛盾を含まず、そういう仮定の下で論理を組み立てても非常に広い有効性を持つ点から見て、完全に否定する必要性はないと見る。

故に私自身、ある場合にはこう言う考え方を使って論理を展開することも将来あるかもしれない。

1.ただ問題は、こう言う考え方があくまでも一定の仮定に基づく仮説に過ぎないと言う点である。基礎がしっかりしたものではないのだ。

つまり、「わたし」をでは一体どういう風に完全に形式的に「定義」すると言うのか。

そこで国語辞典を見てみよう。

「わたし【私】
[代]一人称の人代名詞。「わたくし」のくだけた言い方。現代では自分のことをさす最も一般的な語で、男女とも用いる。近世では主に女性が用いた」(GOO国語辞典)。

つまり「わたし」とは「一人称の代名詞」であり「自分のこと」を意味するという。つまり単に同じことを述べているに過ぎぬ。

要するにでは「一人称」とは何のことであるか、「自分」とは何のことであるかを引けば「私」のことであると出てくるであろう。無限に繰り返すだけだ。

1.これはトートロジー(同語反復)であり、すなわち「命題論理で、要素となる命題の真偽がいかなるものであっても、常に真となるような論理式。恒真式」(GOO国語辞典)以外の何物でもない。定義ではない。

つまり「わたし」を形式的に定義すると言いながら何ら定義できていないのだ。

1.しかし次のような考え方もあるかもしれない。
それは「私」とは誰もが良く知っていることばだから「定義」する必要がないのだと。
定義できないのではなく必要がないのだと。

そうだろうか。

私はこれまで多くの言語学者を訪ねこの問題をただした。誰一人「私」を形式的に定義できる人はいなかったのである。

必要がないのではない。出来ないのである。

ところが実質的に「私」を定義することは出来る。
つまり発言者にとってはこの世界に一人しかいない発言者のことであり、そこには例えば国籍や性別、これまでの経歴も全部意味として含まれている。

又聞き手にとっては発言している人の外見などの既に得ている情報の全てである。

このように実質的に「私」を定義することは可能だ。だが形式的に定義することは誰も成功していないのだ。

1.だが次のような考え方もあろう。
確かに今のところ「私」を形式的に定義することは成功していない。
又若しかしたらこれは原理的に不可能なことかもしれない。

だが、われわれはみな直観的に「私」とは何かの形式的意味を理解しているのである、だからこの問題はそれでいいのだと。

1.つまりこういうことだ。話者が自分自身のことを形式的に「私」と呼び、その私は全ての人間がやはり自分自身をさして使えることばである。
容れ物でありそれ以外を意味しない。
こう全ての人間が理解しているのであると。
これを誰もが直観的に知っているのであると。

ここでも「自分」と言う言葉が使われ同義反復が行われている点に注意されたい。

1.つまり「私」とは「自分」であり、それは全く形式的である。それをわれわれは直観的に理解していると。

こう言う考え方を直感主義と言い、これでは証明が行われていないのだからやはりこういう考え方は今のところ仮説と言うべきだろう。

又本当にわれわれは「私」を同じ意味で理解しているのであろうか?

例えば「赤」と「緑」を逆に感じている人間が存在したとしても、それが何らかの社会的混乱を発生させると言うことは原理的にありえない。

そのような人は自分の感じる赤を緑だと教えられる。だからそう信じるし、そう発言する。

赤信号では止まらないといけないと教えられる。
だから自分の感じる緑で(つまり他人の感じる赤で)信号待ちする。どこにも破綻が生じないのだ。

「私」の場合も同じことが起きる可能性があるのだ。

1.つまりこの問題に関しては私の主張のほうが有力なのである。
私の考え方はどこにも矛盾はないし将来にわたり有効である。

一方「私」などの単語を完全に形式的なものと考える考え方は現在のところ仮説であるし、その正しさが証明されたところで私の考え方の正しさを否定できたことにならないのである。

しかもそのような形式的定義が可能なことばが仮に存在したとしてもそのような言葉は圧倒的に少ない。ほとんどの場合文とは繰り返しことばであるとの結論を動かすことは出来ない。
結論は出た(以上)。

1.さて当ブログでは「言語」の問題に力を入れている。
これこそが全ての基礎であり国家の命運を握るからである。
この「重ね言葉」については先月も記事を書いたが今回はその続編である。

1.さて前回は、そもそも「重ね言葉」と言うものは存在しないのだと言う観点から「重ね言葉否定論」を批判した。
だが今回は、そもそも言葉とは、「重ね言葉以外存在しないのだ」と言う観点から「重ね言葉否定論」を論破する。

1.さて今回記事はきわめて理屈っぽい。おそらくゆっくりと1つ1つ理解されてから次に進まなければ理解していただけない可能性もある。
又感情論で物事を理解される方は「屁理屈だ」と感じられるかもしれない。

だが私は今回記事でそもそも「言語」とは何かの本質を語るつもりでいる。

1.さてここでもう1度「重ね言葉」とは何だったかの定義を紹介しよう。

「馬から落ちて落馬する」のように、同じ意味の語を重ねた言葉と言うのが定義である。

さてでは「馬から落馬する」はどうであろうか?これも一般に重ね言葉とされている。又先ほどの定義に確かに当てはまるのである。

このように同じ意味が繰り返されるだけでなく、一部の意味が繰り返されることも重ね言葉とされている。

一部の意味が繰り返されることも重ね言葉なのだから全部の意味が繰り返されることも当然に重ね言葉と言うことになる。

つまり「お金を入金する」や「○○感を感じる」も重ね言葉と言うことになる。

1.つまり前回記事では厳密な意味で重ね言葉は存在しないのだと証明したわけであるが、これらは完全な重ね言葉ではないが、完全に重ね言葉でないわけでもない。多少は重なっている部分もある。

1.さらに例を挙げれば、「返事を返す」、「後で後悔する」、「射程距離(射程の「程」は距離の意味)」、「呪いの呪文」、「思いがけないハプニング」、「甘いスイーツ」、「昼食のランチ」なども重ね言葉とされている
(以上、’Wikipedia’より引用)。

これらも100%重ね言葉なのではないが100%重ね言葉でないわけでもない。

1.又注意していただきたいことは、「重ね言葉」における「言葉」とはどういう意味か。

単なる単語である場合もある(例:「射程距離」・「排気ガス」)。

だが文になっていることが多い
(例:「馬から落馬する」、「お金を入金する」、「後で後悔する」)。

つまり「名詞」+「後置詞」+「動詞」になっている。

また「形容詞」+「名詞」の場合も多い
(例:「呪いの呪文」、「思いがけないハプニング」、「甘いスイーツ」)。

1.では「私は日本人です」はどうだろうか?
これは「名詞」+「後置詞」+「動詞」の文になっている。

ところで「私」とは世界に1つしかない存在である。そして「私」の中に既に「日本人」の意味は含まれているのである。又私が男性であり60代の人間であり、頭がぼけかかっていることも全部含まれているのである。

1.となるとこれは重ね言葉ではないのか?

これをおそらく否定される方が多いであろう。

そこでこれが重ね言葉であるか否かの判断は後で下すことにする。今は問題提起のみとする。

1.では「日本人とは日本の国籍をもつ人のことである」の文はどうだろうか?これは重ね言葉であろうか?

この文は「名詞」+「後置詞」+「動詞」の型のものである。
そして確かに意味の重複を持つのではないだろうか?
これは否定できないであろう。
つまりこれは重ね言葉なのだ。

こういうものは「同じ意味の言葉を重ねても全く無駄であり、無駄な言葉が加わることでいたずらに意味の判読に時間がかかることで混乱と意思疎通の失敗が発生し、不正確且つあいまいな言語に日本語がおとしめられる」故に正しくないのだ、良くないことなのだとされたのであった。

しかしこの文はよくない文なのであろうか?

実はこの文は、「日本人」と言う単語をGOO国語辞典で検索しヒットした意味である「日本の国籍をもつ人」と言う言葉と合体することで作った文である。

だからこの文がいけない文だとしたら、ことばの意味の説明は全ていけないことだと言うことになるのである。

もしもことばの意味の説明がいけないのだとしたら、国語辞典そのものの存在も無意味と言うことになり許されなくなるだろう。

1.以上から、重ねことばの全部がいけないのではなく、いけない重ねことばもあればいい重ね言葉も存在することになると証明されたと考える。

だが許される重ねことばはこれだけであろうか?
重ねことばとは全部の意味が重ならなくとも、1%でも重なれば立派な重ねことばである。

となると次の例はどうだろうか?
「将棋に強くなるためには、基本的な王の囲い方や、手筋をまずしっかり覚えることが大切である」(中原誠第○○世名人)。

ところが「将棋に強くなる」ということは「基本的な王の囲い方を覚える」や「手筋をまずしっかり覚える」などは全部その中に含んでいるのである。

となるとこれも重ねことばと言うことになる。
もしもこれが重ねことばであるとすれば、ほとんどの文は何らかの意味で重ねことばと言うことになろう。

1.そこで本当に「将棋に強くなる」ということは、意味として「基本的な王の囲い方を覚える」や「手筋をまずしっかり覚える」をその中に含んでいるのであるかどうかが問題になる。

つまり「将棋に強くなる」ということの真の意味は何か?これを知るためにはそもそも将棋とは何かが真に理解されていなければならない。
真に理解されるならば、やはり「将棋に強くなる」ということの真の意味は「基本的な王の囲い方を覚える」や「手筋をまずしっかり覚える」をその中に含んでいると考えざるを得ないのである。

1.ここで「真に理解する」の部分が問題だと考える方もおろう。
又一般に「将棋に強くなる」ということの意味とは、そこまでのことではなく、「将棋」を形式上「意味」を把握し、次に形式上の「強くなる」の意味を把握し、その2つを合体すればそれでいいのだという考えもあろう。

その場合には、まず「将棋」を国語辞典で引くのである。

【将棋】=「室内遊戯の一。縦横各9列の盤上に各20枚の駒を並べて二人が相対し、互いに一手ずつ動かして相手の王将を詰めたほうを勝ちとするもの。攻め取った相手の駒は自分のものとして使用できる」。

「強くなる」=「上達する」。

すなわち「将棋に強くなる」とは、「縦横各9列の盤上に各20枚の駒を並べて二人が相対し、互いに一手ずつ動かして相手の王将を詰めたほうを勝ちとし、攻め取った相手の駒は自分のものとして使用できる室内遊戯において上達する」の意味であることになる。

そのことが分かれば将棋を全く見たことがない人間もこれの意味を把握できたことになる。

そのことと「基本的な王の囲い方を覚える」や「手筋をまずしっかり覚える」は重ならない。
故にこれは重ねことばではないことになる。

1.そうであろうか?
では「縦横各9列の盤上に各20枚の駒を並べて二人が相対」するとはどういう意味か?「互いに一手ずつ動かして」とはどういう意味か?「相手の王将を詰め」るとはどういう意味か?「攻め取った相手の駒は自分のものとして使用できる」とはどういう意味か?

これらをさらに国語辞典で引かなければ「意味の把握」は出来ないのではないだろうか。
又おそらくそういうことを繰り返しても、全く将棋を見たこともなく、触ったこともなく、ゲームの様子を見たこともなければいくら国語辞典を繰り返し引いてもやはり意味の理解は出来ないと思う。

そればかりか、そもそも「室内遊戯」と言うものを生まれてから一度もやったことがない人間がいたとすれば、「室内遊戯」と言うことばを理解することさえ難しいであろう。

1.となるとことばの意味の理解とは何なのだろうか?
全く自分で言っていることが分かっていなくとも、コンピュータは「将棋に強くなる」とは、「縦横各9列の盤上に各20枚の駒を並べて二人が相対し、互いに一手ずつ動かして相手の王将を詰めたほうを勝ちとし、攻め取った相手の駒は自分のものとして使用できる室内遊戯において上達する」の意味であるとすらすらと答えることができるであろう。

これがことばの意味だとすれば、「将棋に強くなるためには、基本的な王の囲い方や、手筋をまずしっかり覚えることが大切である」の文は最初の部分と後の部分が意味の重なりはないことになり重ねことばでないことになる。

だがそこに少しでも人間味が加わるならば明らかに重ねことばであることになるのだ。

1.もう一度問題の文を持ってくる。
「将棋に強くなるためには、基本的な王の囲い方や、手筋をまずしっかり覚えることが大切である」(中原誠第○○世名人)。

ところで「王の囲い方」や「手筋」とはもちろん将棋の「王の囲い方」であり将棋の「手筋」ではないだろうか?

とするとこれもやはり意味の重なりがあることになる。

つまり生きた人間である国王の囲い方(守り方)や碁の「手筋」をいくら覚えても将棋は強くなれない。

だがコンピュータはそういうことには全くお構いなしだからやはりこれも重ねことばではないと主張されうるのである。

1.つまり発言者にとっては「将棋に強くなる」ということは「基本的な王の囲い方を覚える」や「手筋をまずしっかり覚える」などは全部その中に含んでいる。又聞き手の多くも何らかの意味で意味の重なりに気付くであろう。

だがまったく将棋を見たことも触ったこともなく、やったこともない聞いたことさえ無い人間には意味の重なりに気付けない。

だから重ね言葉でないと主張される。
だがそういう人にはそもそもこの中原第○○世名人のことばは聞かせる意味もないし、全く無意味なのだ。

1.今考えているのは、重ねことばとは意味の重なりのあることばだというが、そもそもその場合の「意味」とは何かと言うことである。

全く「意味」とは形式的でなければならないという。
その場合にだけ先の中原第○○世名人のことばは重ね言葉でないことになる。

ところで先のGOO国語辞典をもう一度見てみよう。

【将棋】=「室内遊戯の一。縦横各9列の盤上に各20枚の駒を並べて二人が相対し、互いに一手ずつ動かして相手の王将を詰めたほうを勝ちとするもの。攻め取った相手の駒は自分のものとして使用できる」。

ここにある恣意性が含まれていないであろうか?

つまり
【将棋】=「室内遊戯の一。基本的な王の囲い方や、手筋をまずしっかり覚えることが強くなる上で大切である日本で盛んであるゲーム」
と定義したらどうだろうか?

碁やカルタやマージャンに「王の囲い方」と言ったものは存在しない。
又「日本で盛ん」の部分によってチェスは排除される。

だからこれは立派な将棋の定義になっているわけだ。

その場合には完全な重ねことばと言うことになる。

またGOO辞典のように定義するならば、
「将棋に強くなるためには、互いに一手ずつ動かして攻め取った相手の駒は自分のものとして使用し相手の王将を詰めることが大切である」の文は重ねことばと言うことになる。

つまりいかなる「将棋に強くなるためには」の文を作ろうと重ねことばになってしまうのである。

1.また「将棋に強くなるためには、まず縦横各9列の盤上に各20枚の駒を買ってこなければならない」の文も重ねことばになろう。

だがこう言う文もわれわれは相当使っているのではないか。

「そもそも」と言う言葉で始まる文にはこう言うものが圧倒的に多いのではないだろうか。
これも無駄でいけない文なのだろうか?

1.では将棋の完全な形式的定義とは何なのだろうか?

「縦横各9列の盤」とか「各20枚の駒」、「二人が相対」、「互いに一手ずつ動かす」、「相手の王将を詰める」などのことばは一切使えないことになる。

だがそれではコンピュータだって理解することは出来ないだろう。

つまり「将棋」の完全な形式的定義などありえないのである。
そのことはあらゆることばにおいて「形式的」定義など存在せず、何らかの意味において実質的意味を含むことを意味するのである。

1.ここで「私は日本人です」に戻ってみよう。
言葉の形式的定義が存在しないとすればこれもいくらかは意味の重なりがあることになり重ねことばである。

これが重ねことばだとすれば「これはペンです」はいうまでもなくあらゆる文は重ねことばになろう。

本当にことばの形式的意味とは存在しないものかどうかをもう一度考えていただきたい。

だが「将棋」の定義はどうだったか?そこから「縦横各9列の盤」とか「各20枚の駒」、「二人が相対」、「互いに一手ずつ動かす」、「相手の王将を詰める」などの内容を排除したとき形式的にでも何か「意味」が残っただろうか?

ことばとは全く形式的なものではなく多少はそこに実質的内容が伴っている。
「私」と言う単語も実質的意味が伴っており、私が日本人であることも含まれているのである。

1.以上でことばとはすべて重ねことばであることは証明された。
と言うよりもことばとは重ねことばでなければ意味がないのだ。

文とは主語と動詞によって成る。もっと正確に言えば主語と述語によって成る。さらに正確に言えば主語と述部によって成る。

「これはペンです」も「これはペンではありません」(=「これは非ペンです」)も、主語と述部が関係付けられている。

全く関係ないものは関係付けることが出来ない。
文とは現実に関係あるものが主語と述部が関係付けられることで文として構成されるのである。

だから文とは本質的に重ねことばでなければならない。

1.では文とは無意味なものなのであろうか?
そうではない。

発言者にとっては主語と述部が完全に重なっているのに、聞き手にとっては完全には重なっていないから意味があるのだ。

つまり「将棋に強くなるためには、基本的な王の囲い方や、手筋をまずしっかり覚えることが大切である」と中原誠第○○世名人は発言される。

これによってなるほどと聞き手の中で重ねことばが完成されるから意味がある。

もっと別のことばで言えば、多くの場合主語とは聞き手が既に知っていることである。
述部において新たな情報がもたらされるのである(逆の場合もある)。

つまり「私は日本人です」「これはペンです」として、既に知っていることに新たな情報が付け加えられる。

つまり話とは、まず導入部分があり、テーマが設定される。それが主語である。その後新情報が加えられていくのだ。

1.ここで先ほどの重ねことばを思い出そう。

「馬から落馬する」、「お金を入金する」、「返事を返す」、「後で後悔する」。

これらはすべて「馬から」「お金を」「返事を」「後で」のように導入部分があり話が唐突でないように設定される。
つまりテーマが設定されたのである。

そこで聞き手の聞く態勢が整う。
「お金を」と聞けば「お金をどうしたのか」と思う。興味・関心が引き出される。
そこで入金したと言えば、お金を盗まれたのでも拾ったのでもなく入金したのかと分かる。

こうして新情報が加えられるのである。スムーズである。

「お金を入金する」と言う言い方は普通であるが、「入金を金で行う」と言う言い方は普通ではない。「落馬を馬からする」と言う言い方も普通ない。

これらは意味の重なりがあるだけで文法的に何らの誤りがないにもかかわらず普通こう言う言い方をわれわれはしない。する必要がないのだ。

なぜならコミュニケーションとは普通テーマの設定→聞き手の聞く態勢を整える→新情報の追加の順に進んでいくからである。

「呪いの呪文」、「思いがけないハプニング」、「甘いスイーツ」も全部一緒だ。これらはコミュニケーションに成功しており立派な日本語なのである。

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]

oyo*y*ka*03
oyo*y*ka*03
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン

みんなの更新記事