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書庫資料:空海とチベッ

この分野は元々は「歴史」の分野名でしたが、表題通り変えます(110817)。
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*以下の目次は当HPの「目次類」分野に掲載されているものと同一のものでありますが、便利さを高めるためこちらの「資料:空海とチベッ 」分野にも掲載することにいたしました。
------------------------------------------------
1.この資料シリーズは当HP
「空海のタントラ『仏教』とチベット」シリーズ
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/39672281.html
の資料です。目次は次のとおり:

「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(A)」
=建武新政関連1=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/37849665.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(B)」
=建武新政関連2=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/37851227.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(C)」
=河口慧海和尚の「チベット旅行記」紹介=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/37898581.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(D)」
=建武新政関連3=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/37931011.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(E)」
=米国史関連=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38049885.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(F)」
=2008年チベット暴動関連=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38084353.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(G)」
=2008年北京五輪関連=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38093175.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(H)」
=2008年北京五輪関連2=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38093566.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(I)」
=ダライ・ラマ14世時代のチベット=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38093718.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(J)」
=チベット密教の実態1=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38096847.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(K)」
=ダライ派のデマを斬る1=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38184777.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(L)」
=小室信介関連=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38209215.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(M)」
=ダライ・ラマ14世時代のチベット2=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38241138.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(N)」
=チベット密教史関連1=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38335922.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(O)」
=チベット密教史関連2=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38336812.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(P)」
=チベット密教史関連3=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38398324.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(Q)」
=R・フォード問題(1)=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38403624.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(R)」
=R・フォード問題(2)=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38404439.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(S)」
=R・フォード問題(3)=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38406495.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(T)」
=ダライ派のデマを斬る2=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38428345.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(U)」
=ダライ派のデマを斬る3=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38433345.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(V)」
=ダライ派のデマを斬る4=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38434892.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット(W)」
=ダライ派のデマを斬る5=
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38435113.html
 

この記事に

=ダライ派のデマを斬る5=
○英国のチベット支配の実態(続):
英国のチベット植民地化の歴史については参考文献1.が簡単にまとめてくれている。
当HPグループ過去記事
「空海のタントラ「仏教」とチベット(23)090406」
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38533233.html
でも述べたが、簡単に振り返っておこう:

「ダライ・ラマ9世の時、英国は既に印度を植民地にし、チベットを侵略しはじめた。1811年、印度総督はマンニンという人物をチベットに送り、活動させ、これ以降絶えずイギリス人はチベットの国境で活動するようになった。

1879年、ダライ・ラマ13世の時、英国は青海からチベットを調査した。チベットの僧俗は絶対的にこれを反対した。これに対し、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマは連署して次の願書を清の駐蔵大臣に提出した。

「…思うに洋人の性、実に善良にあらず、仏教を侮滅し、嘘言もて人を欺き、人を愚弄す。断じて事をともにしがたし。ここにチベットの全僧俗はともに誓詞をたて、かれらの入蔵をゆるさず。もし来るものあれば、各路に兵を派してこれを阻止し、善言もて勧阻し、事なきに相安んぜん。もしあるいは強を逞うせば命を賭して相敵せん…」(参考文1;p.62)。

遂に英国は1904年、ヤングハズバンド大佐(1863-1942)を隊長とする遠征軍を送り、ラサへの進撃を開始した。「途中グルの近辺でチベット軍は渓谷に防壁を構築し、迎撃態勢をとっていたが、イギリス軍の敵ではなく、この戦いで六〇〇人以上のチベット人が死亡または重傷を負い、二〇〇人あまりが捕虜になった。一方、イギリス軍側の損害は負傷数名、死者皆無であった。・・八月三日、イギリス軍はついにこの禁制の都ラサに入城し、長年懸案の交渉に入った」(参考文献2;p.784)。

だが、こういうあからさまな侵略をすれば、反発を食い、目的をスムーズに達せられないことを英国は知っていた。そこで、はじめは大臣が遠征を支持するといいながら、後ではヤングハズバンド大佐は非難された。このずる賢さが成功した。甘い言葉でチベット人をたらし込み、遂にチベットを自分の半従属国とすることに成功したのだ。

然し、日本が朝鮮を清から「独立」させるといって自分の植民地にし、満州を中華民国から「独立」させるといって自分の植民地にしたのと同じことを英国はやったわけだが、日本は第2次大戦で負けたため同じことをやっても悪者にされ、英国は戦勝国だったために同じことをやっても責任は未だに曖昧にされている。

しかも英国は、日本より頭が良く、阿片戦争で中国に勝ったとは言え、未だ未だ中国に底力が有ることを知っていた。だから1914年の「シムラ会議」では”チベットを中国から取り上げて名目上「独立」させ、実は英国が支配する”と主張することがいえず、”「独立」ではなく・「自治」を与えて英国が支配する”とまでしか言えなかったのだ」(過去記事要約)。

○今回記事で明らかにしたいことは、チベットを自己の植民地にすることにより、英国は具体的にどのような経済的利益を受けたかである。参考文献1.によると、次のようなことが書かれている:

英国は阿片戦争後着々と中国に対する圧力を強め、
「一八八六年、イギリスは北京で英清条約を結び、イギリス商人は、チベットのヤトンとその付近での無税の取引権を獲得している。一八九〇年、イギリスは清朝にシッキム(*1)の保護権を承認させて、カルカッタでシッキム-チベット条約・・を結ばせた。さらに翌九三年、イギリスはカルカッタで、シッキム-チベット条約付属章程に調印させ、イギリス人のチベットにおける事実上の治外法権を取得した。
・・・
・・(1904年のヤングハズバンドの侵攻の後)清朝政府はラサ条約(*2)を結んで、ヤトン・キャンツェ・ガルトクをはじめとして、イギリス人はチベットの必要な地で自由に取引できる権利を獲得した。・・
・・・
・・(1908年)イギリスは英清カルカッタ通商協定を結び、イギリス人はチベットで土地を借り、家を建て、取引範囲を拡大し、通商代表部に護衛兵力をおく権利を獲得した。
・・・
・・(1913年)当時チベットにおけるイギリスの貿易高は一九世紀に比して倍加しており、チベットと中国内地との貿易は逆に減少していた。
ダライ(13世)はイギリスにそそのかされて、「大チベット」の幻想にとりつかれ、一九一八年、チベット軍をチャムドはじめ西康省西部に出し、(中国の)地方軍閥と争った。一九二二年、北京駐在イギリス大使は、中国政府にたいし、チベットの「自治権」を承認せよと内政干渉する一方で、ダライ(13世)と「英蔵軍事援助協定」なるものを結んだ。また、インド、チベット間にイギリス政府の管理する電信線を架設した。・・
・・一九二八年、南チベットに大規模な農奴蜂起があり、徴税吏の取立てを拒否し、広大な地区を解放したが、鎮圧された。
このころ、不平等条約や協定に援護されたイギリス商社や英印合弁会社のヤトン・キャンツェなどの市場への進出はめざましく、略奪的な価格で買い取った英印向羊毛輸出は年二〇〇〇トンに達した。
一九三〇年一月、イギリスはネパール軍を挑発して、チベットに侵入させた。ダライ(13世)は(中国)中央政府の援助を求め、ラサで国民党の役人と会談し・・チベットが中国の領土であり、中国の一構成部であることをみとめた。
・・・
一九三六年、イギリスは強引に同国の常設政治代表部をラサに設立し、初代の政治代表にヒュー・リチャードソンをおいた。また、ラサに無線電信局を開設した。・・
・・・
一九四九年・・アメリカのラジオ解説者トーマス一行は、チベットの売国派と、アメリカ駐印大使館の手引きでチベットを旅行し、帰国してトルーマン米大統領に、チベット売国派に近代兵器を供与するよう進言した」(参考文献1;p.62-71)。

○「赤いチベット」の著者とされるR・フォード氏も次のように言っている。

「ラサに戻った(イギリスへの留学生)は・・水力発電所を建て、これが今でもラサの町とダライ・ラマ(14世)の夏宮に、電力を送っている。その建設材料はすべて・・ヒマラヤを越えて(印度から)運ばれたのである」(参考文献3;p.139)。

○こういうことが続いていくと結局どうなるだろうか?江戸時代、大名や武士たちは商人への借金で首が回らない状態だった。ダライをはじめチベットの支配者たちもそうなるだろう。だが彼らには英国に対する借金を「徳政令」若しくは商人への「お取り潰し」でチャラにする力はない。だから最後は国内から膨大な税金を取り、農牧民の苦しみは悲惨になっただろう。ダライ派は新たな時代を切り開く力は結局なかった。

(*シッキム:
もともとチベット人の住む国で、紅教徒(チベット密教ニンマ派)により建国された。チベットの属国であった。1890年、英国の保護国となる。印度独立後は印度の一部とされ、一方中国は中国の一部とした。長く紛争が続いたが、実際問題として元来のチベット系住民の比率が急落しているため、2005年、中国はシッキムが印度の一部であることを認め、同時に印度はチベットが中国の一部であることを認めた。
*ラサ条約:
これにより、「チベットは、イギリスがインドから持込む品目に対する諸関税を全廃すること」が決まった。−参考文献2;p.784より)。

参考文献:
1.「チベット−その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)
2.「ブリタニカ国際大百科事典12」(F・B・ギブニー編/1993/TBSブリタニカ)
3.「赤いチベット」(R・フォード/1970/芙蓉書房)

この記事に

=ダライ派のデマを斬る4=
○英国のチベット支配の実態:
今回記事で取り上げる点は、ダライ派は英国のチベット植民地支配の実態を極端に過小評価・もしくは美化している点についてである(なお、もう終わった問題であるから、今更英国を批判することが重要な問題と当HPが考えている訳ではない。ダライ派がこの問題を利用している点を「斬る」ことが眼目だ)。

たとえば、ペマ・ギャルポ氏と言えば忠実なダライ・ラマ14世の部下であるが、次のように述べている。

「一九四九年一〇月、中国本土を掌握した中国共産党は、中華人民共和国を樹立すると同時に、北京放送を通じて、チベットは中華人民共和国の一部にほかならず、人民解放軍はチベット人民を外国の帝国主義の手から解放するために、チベットに進駐する、と宣言した。この宣言にたいして・・チベット政府は、中国政府にたいして・・「・・チベットを支配する外国勢力などは存在せず、したがって解放される必要はまったくない」という趣旨の声明を発表した。・・
また中国がいうようにチベットは「帝国主義者」から軍事援助を受けるどころか、当時、チベットにいた西欧人は、六人でうち三人が英国人で、その一人が宣教師、二人が無線技師であった。・・実際、「帝国主義者の圧制」など何もなかった」(参考文献1;p.117-120)。

ところが、この2人の「無線技師」の内1人が英国スパイ(もう1人にも重大な疑惑有り)であることを明らかにするためだけでも、次の4本の記事を書く必要があった。

「空海のタントラ「仏教」とチベット(24)090406」
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38533246.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット (Q)090430」
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38403624.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット (R)090430」
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38404439.html
「(資料)空海のタントラ「仏教」とチベット (S)090430」
http://blogs.yahoo.co.jp/oyosyoka803/38406495.html

このようにダライ派のデマは何処までも手が込んでおり、真相を明らかにすることは非常に手間がかかる。このため、良心的学者の中にもダライ派のデマに影響され、英国のチベット支配の実態があいまいなままの方も相当に多い。

そこで言うならば、チベットに多人数の英国人が存在することは必ずしもチベット支配に不可欠なことではないということである。息の吹きかかった印度人を使えばよい。あるいはチベット人を使えばよい。ダライ・ラマ政権そのものが英国の傀儡政権であった。

○そこで、1つ1つデマをつぶしていく必要があるが、元英国スパイ=R・フォード氏の本も相当な”トンでも本”、”偽書”の類であることを明らかにする必要がある。もちろん、かれが「赤いチベット」で述べているように、真実を述べなければ自分は真実を述べていると他人を信用させることはできない。だから中国尋問官をだますため、「わたしがいつも真実を述べているという印象を与えるため」(参考文献2;p.236)供述に真実をまぶしたと述べているが、この本自体がそのような嘘と真実を混ぜ合わせた本であるということである。

たとえば、フォード氏はこの本の中で次のように書いている。
ケンチ・ダワラは東部チベットの中心地チャムドの老僧(70才以上)で、総督に次ぐNo.2の役人でもあった。青年期に中国軍と勇敢に戦ったことで名高い人であった。チャムドに中国軍が迫る中で、フォード氏に国外に逃げることを強く勧める。

「「あなたがたが戦いを続けるかぎり、チベットを離れません」
「いや、すぐお発ちなさい。そして世界の人々に、わたしたちはシナ人ではなくて、独立の国家であることを知らせて下さい。わたしたちが自由と独立を保とうとしていることを。・・
わたしたちは必ず、ふたたび自由になります。・・どうか全世界に知らせてください」
わたしはそうしようとやくそくした。・・だからいま、わたしは、あの時の約束を果たしているのである」(参考文献2;p.178-179)。

この話は本当のことなのだろうか?本当にケンチ・ダワラはこのようなことを語ったのだろうか?私は極めてインチキ臭いと考えている。何故なら、

「この地方の重要な問題はすべて、総督一人が決定を下すのであって、彼の顧問たちは、その命令を実行するだけの存在だった。彼の地位があまりにも高いために、彼は他の役人に相談をかけることはできず、他の役人たちも、特に求められることがないかぎり、意見を具申することはできなかった。率直に彼と意見を述べあって、しかも彼の威厳を損なわないことができるのは、わたしだけだった」(同p.109-110)。

「総督の意志は絶対であり、彼(ラル)の命令はただちに実行に移された」(同p.70)。

つまり、No.2のケンチ・ダワラと言えども、完全なロボットに過ぎなかったのである。この何処が「自由」だろうか?しかも、

「チベット仏教の・・特長は、「ラマ教」という俗称が示すように、教えを伝えるラマ(師僧)に絶対的信仰を寄せることである。
・・有力な氏族は権力、財力に恵まれた活仏の位をねらってそれを子弟に独占させ、教団の利権にむらがった。一方、庶民は教団の内外でいかなる機会にも恩典にもあずからず、わずかの資力を投出して、ひたすらラマの加護を頼み、むなしく来世を期待させられ、教団を安泰ならしめる「善行」に追い立てられた」(参考文献3;p.792)。

また、1950年当時のダライ・ラマ14世時代のチベットとは、

「政府の反動法令・・第四条では、農奴が農奴主にそむけば、眼玉をえぐり、足を斬り手を斬り、舌を切り、高い岸壁からつき落として殺すとある。人間の皮を剥ぎ心臓をえぐる刑罰さえある」(参考文献4;p.90)。

この何処が「自由」なのか?

「チベットの役人は、政府から俸給を受けるのではなく、そのかわり租税収入のなかから、できるだけの利益をしぼり出すことを許されている。
税の徴収法は・・まずカムの総督が、全カム地方から徴収すべき税額を、政府から通達される。彼はこの額に、適当と思うだけ自分の配分金をつけ加えて、その全額を各地方の長官に割当てる。長官はまた、適当な配分金を加えた上で、下僚にそれぞれの責任額を言い渡す。下僚は、人民からしぼれるだけの金を取り上げて、余分は自分の懐に入れるのである。これが全チベットにわたって行なわれる普通のシステムであり、本当の意味で政府から俸給を受けている役人は、フォックスとわたしだけだ」(参考文献2;p.66)。

この何処が「自由」なのか?だから、ケンチ・ダワラの発言は事実そのままではないだろう。このフォード氏の本は、果たして彼の書いたものか分からないが、チベットの風景の描写やチベット人の人相の描写はほとんど皆無で、逆に演説は見事に描いている。ケンチ・ダワラの演説(同p.178-179)・中国軍政治委員の演説(同p.198-199)・王将軍の演説(同p.200-201)・尋問官フスの告白(同p.223-224)がそれだ。

だが普通演説とは、ヒトラーの演説を聞いても今となってはそれが何故大きく歴史を動かしたかは一見して明らかではない。演説は歴史を動かす。だがある演説が何故歴史を動かしたかは、後になると解説があってはじめて理解できる。ところが古代アテネの歴史家ツキジデスの「戦史」は、演説が見事に描かれており、重要部分はほとんど演説だけで構成されており、演説部分だけを読んでいっても当時のギリシャ史を理解できる。だからこれは事実そのままを書いた歴史書ではなく、ツキジデスがうまく構成した文学作品だということが現在では明らかになっている。「赤いチベット」も同じ気があると見た方が良いだろう。しかもツキジデスは実際の歴史の真実を記録するため、あえて一定のデフォルメを加えたのだが、フォード氏の本はすでに当HPで何度も明らかにしたとおり、とんでもない嘘本なのだから騙されない注意が肝心だ。ともかくチベットは、「自由」の国ではなかった(つづく)。

参考文献:
1.「改訂新版 チベット入門」(ペマ・ギャルポ/1998/日中出版)
2.「赤いチベット」(R・フォード/1970/芙蓉書房)
3.「ブリタニカ国際大百科事典12」(F・B・ギブニー編/1993/TBSブリタニカ)
4.「チベット−その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)

この記事に

=ダライ派のデマを斬る3=
○1951年5月23日、北京にてチベットの中国への合流を定めた「17条協約」が結ばれた。その5ヵ月後、ダライ・ラマ14世は毛沢東に手紙を送り、

「聖職者並びに一般国民と共にチベット地方政府はこの十七箇条協定を全員一致で承認し、チベットにおける人民解放軍を積極的に支持、共に帝国主義勢力をチベットから駆逐し、祖国の統一と主権を守るでありましょう」(参考文献1;p.86)

と述べた。

ところがその後ダライ派は、「17条協約」でチベット代表が押したハンコは本物ではなく、中国側の用意した偽物であったから無効であると言い出した。

「協定書の署名に当たって、中共側は代表に捺印を求めた。・・代表団が国璽も各自の印も持参していないというと・・中共側は直ちに偽の国璽と印を作って署名させた」(参考文献1;p.81)。

ところが、参考文献2の解説(木村肥佐生氏による)で紹介されているがダライ・ラマ14世の姉婿であるプンツォク・タクラ氏(当時の代表団の1人)は次のように言う。

「我々は・・チベット政府の印鑑を持参していないのでラサから取り寄せる間待って欲しいと中共当局に言った。・・中共側は「その必要はない、印鑑は当方で用意するから・・」と言った・・」(参考文献2;p.349)。

つまり中国側はことさらに偽物のハンコを押させたのではなく、親切心からハンコを用意したに過ぎないのである。

また、協定に無理やり署名させられたと言うのも事実と違うであろう。ダライ派は次のように言う。

「代表の前には・・”十七箇条協定書”が置かれていた。彼らは否応なくその文書に署名させられた。・・会談とは名ばかりで、脅迫や、がんがんテーブルをたたく罵声など、話し合いの雰囲気など微塵もなかった」(参考文献1;p.80)。

処が同じ本で次のように語られる。

「九月終わり、十七箇条を承認するのかどうかを討議するため議会が召集された。議場には・・(17か条に署名したチベット代表団団長の)アボも出席していた。彼は壇上に進み出、開口一番、自分は一銭たりとも買収されてなどいないといった。ついで滔々と述べ立てた。
「ダライ・ラマの地位、権力は十七箇条によっていささかも変わることはない。チベットの宗教、政治制度にも変更はない。議会はいささかヒステリックになってはいないだろうか?毛主席のおかげで享受することになる様々な恩恵が少しも分かっていないのではないか。僧院への寄進はこれまでにないものになろう。近代的設備を整えた立派な病院ができ、すべての子供たちは学校に通える。市内には舗装道路が完備し電気が通る。毛主席の厚意を受け入れないとは何という悲劇だ。今こそチベットが近代社会に加わる絶好の機会であり、毛主席がそれを指導して下さるであろう」
この演説に拍手喝采したのはラサの三大僧院長たちであった。僧院の既得権が中共によって守られるなら、後のことなど大したことではない。・・この態度は民衆にも伝わっていた」(参考文献1;p.85-86)。

そしてダライ・ラマ14世と「聖職者並びに一般国民と共にチベット地方政府はこの十七箇条協定を全員一致で承認」した(同p.86)。これは”強制”とは言えないだろう。次のように述べた本も有る。

「コミュニストのやり方は巧妙だ。・・
もっと巧妙だったのは、彼らが戦時俘虜の問題を解決したあざやかさだ。(チャムド近くの山中の寺で包囲され・降伏した東部チベット軍主力5千人の)捕虜はただ一列に並ばせて、通行証とお金(中国政府支出)を渡して、妻子を連れてラサに帰るように言っただけである。このシーンも映画に収められたが、今度は、、笑顔を命令する必要もなかった。もちろん、中国人の親切さをふれ回るようになどと、言うまでもなかったのである」(参考文献2;p.199)。

そこで次のようなことが生じた。

「人民解放軍はアペイ・アワンジンメイ(訳し方の違いにより、「アボ・ジグメ」とも言うし、「ヌガボ・シャペ」とも言う。ラル・シャペの後を引き継ぎ、当時の東チベット総督)を鄭重に扱い、中国共産党と毛沢東主席の民族政策を懇切に説明した。アペイは四〇〇〇平方キロの土地と二五〇〇人の農奴をもつ大貴族であり、チベット地方政府を構成する六人のガロン(大臣)の一人であった。かれは、人民解放軍に遭遇していらいの自身の体験を通じて、針一本・糸一本とることなく、規律正しく、民衆を大切にし、俘虜を人道的に扱う人民解放軍と中国共産党の政策に深く感動し、信頼した。かれは決意して、ダライ一四世宛てに中央政府との和平交渉に応ずるよう心をこめて手紙を書いた」。

「当時のラサ当局の状態はどうであったか。一九五〇年暮れから五一年の当初にかけてのダライ集団の動揺から決断までのいきさつをのべよう。これは「日本と中国」紙代表団が一九七七年四月、ラサにおいて会談したトテンタンタ氏(元ダライ一四世秘書長、和平交渉代表団五人の一人)から取材したものである。
アペイ・アワンジンメイの手紙を二人の使者がラサにもたらしたのは、一九五〇年の一一月だった。そのころのラサには、チャムド一帯で国民党の敗残分子が流したデマ「中国共産党は人間を食う野蛮人だ」といううわさがひろがっていた。アペイの手紙は、これを真っ向から打ち消すもので、中国共産党は立派で、チベット民衆を援助するものだ。代表を北京に送って談判することが、チベット上層集団にとっても利益になることだということが、懇々と説かれていた」。

「ダライ集団はこの手紙を信ずることができなかった。・・ラサ駐在のR・フォックスなどのイギリス人が、「北京に代表を送ったらおしまいだ」という警告をくりかえしたからである。また、ダライ集団のまわりには、イギリスが長年かかって養成した手先がいた。その一人シャラバという男が、インドからダライ一四世に手紙を送って、チベットにいると危ないからインドに逃げてこい、イギリス政府に交渉して了解も得ている。イギリス当局は、ラサに空港をつくれば、迎えの飛行機を送るとまでいってくれていると書いてよこした。ダライ一四世は一一月八日、ラサを出発してインドに向かった。また、おびただしい財宝をシッキムに送らせた。ダライ一四世は、ヤトンにつくと、インドとイギリスに亡命方の連絡をとった。返事はシャラバがいってよこしたような甘いものではなかった。アメリカ・イギリスが欲したのは、チベットにあってその絶対的支配権を行使して祖国からの分離を宣言するダライであって、一亡命者としてのダライではなかった。返事は一流浪者としてインドに亡命するならうけ入れようというものでしかなかった。ダライ一四世は失望し悩んだ。そこへ、アペイ・アワンジンメイからの二度目の使者が手紙をもってきた。アペイはくりかえし「外国人のデマを信じてはいけない。北京に使者を送って和平談判することがチベットの活路だ。心配はいらない。チャムドにいる四〇人のチベット軍将校が、こぞって中国共産党が信頼するに足る相手であることを保証する。アペイ自身が、代表の一人になって北京に行ってもよい」と書いていた」。

「年は明けて一九五一年になっていた。・・ダライ一四世の最初の重要な仕事は、インドに行って一流浪者になるのか、それとも交渉代表を北京に送り、祖国の懐にかえる道を求めるかを決断することであった。かれは、アペイの提案をうけ入れ交渉代表を任命した。アペイ・アワンジンメイを首席代表とし、地方政府代表と高級ラマ代表など五人を決定した。高級ラマ代表として代表の一人になった(このインタビューの相手である)トテンタンタ氏(元ダライ一四世秘書長)は、当時の感想を次のように述べている。
「私はチベット以外の地に行ったことがないので、北京に行ってよく調べてみる。もし中国共産党が悪いものであれば、取り決めに反対だという手紙をあなた(ダライ一四世)に出す。良いものと分かれば、あなたに代わってサインしてくると、ダライ一四世にいいました。また、行って良いか、悪いか、うらないもしてみましたが、良いと出たので、出発したのです」」(以上、参考文献3;p.80-82)。

参考文献:
1.「中国はいかにチベットを侵略したか」(M・ダナム/2006/講談社インターナショナル)
2.「赤いチベット」(R・フォード/1970/芙蓉書房)
3.「チベット−その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)

この記事に

=ダライ派のデマを斬る2=
○ダライ派の流している話のひとつに、1959年のダライ派の反乱は、1950年の中共軍のチベット進駐により、チベットが食料不足に陥ったことが遠因だというものがある。

「中国本土からの物資輸送道路がまだ完成していなかったので、中共軍の負担はラサ市民の肩にずっしりとのしかかってきたのです。この頃こんな歌が巷で流行りました。”奴らは箸と空の茶碗だけを持ってやってきた”」(リタンの見習い僧アタの証言;参考文献1;p.92)

これは成る程と思わせる説であり、中国側は、

「人民解放軍は、チベットにはいって以来、一粒の糧食もチベット人民に負担をかけなかった。自分たちの手で生産できるまで、内地から空輸で供給をうけた。と同時に、一八軍長張国華自ら先頭に立って、カシャ政府から買いとった荒地に鍬を入れ、糧食と野菜の自給へ踏みだした」(参考文献2;p.119)

と述べるが、正直に言って果たして数万の兵隊を食わせるだけの空輸の力が当時の中国にあったのか、私は大いに疑問を持っていた。

処が、1950年の中国軍のチベット進駐の際スパイ罪・殺人罪で逮捕された英国人R・フォードの本を読んだ処、確かに中国兵は各自が1週間分の食料をかついでやって来たし、成都からチベットに食糧を運ぶ飛行機が飛んでいたとあるのだ。

「コミュニストのやり方は巧妙だ。過去において、中国がチベットで犯した過ちをふたたび犯さないように、細心の注意を払っている。
今度は、僧院の掠奪などは起こらない。それどころか、誰に対しても、うっかり感情を損ねないように気を配っている。やがて僧侶たちは、彼らの解放を神に感謝するまでになった。中国人は、チベットの宗教に対してなんの悪意も持たないことを、はっきり示して見せたのである。チベットの民衆に対しても同様だ。彼らがひどい扱いを受けなかっただけではない。糧食の補給が困難をきわめているにもかかわらず、中国軍は現地での補給を行なおうとしない。兵士たちは、めいめい、一週間分の予備食糧を持っている。ソーセージ型のゴム袋につめられた米と肉だ」(参考文献3;p.199)。

「成都・・飛行場からは、カンツェに米を運ぶ飛行機が飛び立っている。ここはチベットへの食糧補給の最前線なのだ」(同p.230)。

このことから、100%中国軍の補給は現地からの徴発によらなかったとの結論はまだ出せないが、”奴らは箸と空の茶碗だけを持ってやってきた”と言うのは完全に嘘である。

○同じくダライ派の流している話のひとつに、中国軍によるチベットの寺への弾圧・寺の宝の略奪ということもよく耳にする。

実は、寺の宝(寺宝)とは、武器のことなのだ。チベット密教では武器を寺の宝として代々蓄えているのである。また、寺こそが武力反乱の最大の拠点となっており、僧兵は一般民兵より強力だと言う。ダライ・ラマ14世も序文を寄せている親ダライ・反中国の本の中でM・ダナム氏は書く:

「僧院も明らかに独立の流れに加わりつつあった。ミマンが次々に発行する文書、パンフレット類は僧院の印刷所で作成されたのである。印刷設備のある場所は僧院以外に存在しないのだ。
(1954年)・・正月祝い・・中に民衆の放棄は始まった。”ドップ・ドップ(僧院の警護をする戦士僧)”の自発的デモがラサ市内を練り歩き、寺院の財宝を盗み出すのを止めろと叫んだ。しかしこの”財宝”の中には僧院の蔵に仕舞ってある武器弾薬も含まれるのを知らぬ者はなかった」(参考文献1;p.110)。

「信仰を守るために戦う僧ほど強力な兵士はいない。ローウェル・トーマスはこういっている。非常に厳しく律した僧は、質素な食事に耐え、・・筋力を養い、驚くべきスタミナを発揮する。・・普通のラマ僧であっても一般市民よりずっと明確に敵の力と情勢を見通し、有効な作戦を立てることができる。良かれ悪しかれ僧院は常に潜在的軍隊なのだ」(同p.113)。

「ダライ・ラマ十三世の死後・・各僧院は二派に別れて深刻な内部抗争の泥沼・・僧同士の殺し合いがはじまり、政府の機能は麻痺・・少年ダライ・ラマ法王には何が何やらさっぱり分からず、手の出しようがなかった」(同p.49)。

何故殺人が正当化されるのか。
「文殊菩薩は片手に経典、片手に燃える剣を持っている」。
「一人の命を奪うことが何百人もの命を救い、非道の・・者を殺すことが他の生類を救うのであれば、カルマの裁量があって然るべきなのでは−。・・
チベットの歴史には、仏教が危機に瀕した時に武器を持って立ち上がった僧の例は枚挙のいとまがない」(同p.112-113)。

ダライ・ラマ14世の忠実な部下であるペマ・ギャルポ氏も次のように書いている:

「チベットには約四五〇〇の寺院があるが、デプン寺、セラ寺、ガンデン寺、タシルンポ寺が、ゲルク派の四大本山である。・・セラ寺は一四一九年ツォンカパの高弟ジャムチェン・チュージェが開いた。僧数は一般に五五〇〇人といわれているが七〇〇〇人近くいたという。一九〇四年の英国との戦闘や一九〇九年の清国との戦闘のさい、戦った僧兵はセラ寺所属の僧であった」(参考文献4;p.78)。

参考文献:
1.「中国はいかにチベットを侵略したか」(M・ダナム/2006/講談社インターナショナル)
2.「チベット−その歴史と現代」(島田政雄/1978/三省堂)
3.「赤いチベット」(R・フォード/1970/芙蓉書房)
4.「改訂新版 チベット入門」(ペマ・ギャルポ/1998/日中出版)

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